goo blog サービス終了のお知らせ 

春庭にほんごノート      

日本語概論・言語学概論・日本語教育
日本語言語文化

「こと」と「事」-ひらがなと漢字の使い分け・ぽかぽか春庭ニッポニアニッポンゴ講座表記編

2015-02-19 | 日本語
漢字表記についての質問 事とコト
2005/12/16 金

 k****さんは、40歳以上年下の中国から来日した奥様と、自船での沖釣りを愛する、悠々自適の太公望。奥様の日本語上達のために、日本語学校への送迎と、日本語学習への援助を続ける愛妻家です。

 k****さんからの質問。
お早う御座います!チョッとお尋ね致します。

漢字の事ですが、こと・を漢字では「事」と書きますね。
今は漢字の「事」を使用しないで「こと」と書くのですか?

嫁さんの日本語学校では「事」と書くとバツなのです。今は、ひらがなで「こと」と書かなければならないそうです。
先生、この事はどうなのでしょう。教えて下さい。 (2005 12/12 9:19)
===============

返信)漢字の基準
 現在の文部科学省国語審議会による「表記基準」や新聞社表記基準によると、名詞としての実体を有している単語は漢字で表記するが、文のなかで、単語としての独自性を持たない(自立語ではない)語については、ひらがな表記をする、という方向がしめされています。
原則>自立語は漢字で、文中の機能を担う助詞、助動詞、補助動詞などはひらがなで。

 たとえば、「いる」という動詞。「昨日、寒かったので、ずっと家に居た」という場合、「居る」は、動詞としての実体を有しているから、漢字で書いてよい。
 しかし、「一日中、遊んでいるばかりで、仕事をしていない」というとき、「遊んで居る」と書かない。この場合の「いる」は補助動詞(アスペクト継続相をあらわす)であって、本動詞の働きとは異なるから。

 名詞も同じ。「事を荒立てる」などは名詞としての実体があり「事件」「ことがら」という意味があるので、漢字で書くのはOK。
 しかし、「中国へ行ったことがあります」の「こと」は、「行く」を名詞化するための、補助的な用法であり、「中国へ行くのは来年です」の中の「の」と同じです。この場合の「こと」は、「形式名詞」であり、補助的な働きをしています。
 「の」をひらがなで書くように、補助的な「こと」は、ひらがなで書く方がのぞましいとされています。

 ただし、表記は、あくまでもひとつの指針であり、個々の表現者が「これは漢字で表記したいと思ったとき、「遊んで居る」と書いても「行く事」と書いても、間違いとは言えないのです。表現は自由。

 日本語学校の先生は、原則を原則通りに杓子定規にバツをつけているのだと思いますが、テストの場合、基準を設けて採点しなければならないので、原則優先にしているのでしょう。

 日常の手紙などでの漢字表記は、ひらがなでも漢字でも、自由に書いてよいと思います。(2005-12-12 11:10:45)

 明治時代の文章などでは、漢文脈の文章では特にそうだが、今ではひらがなで書くような語も、できる限り漢字で表記しようとしている。
 漢字とかなの混ぜ具合に心をくだいた文章家もいるほどで、どの語を漢字で書き、どの部分をひらがなで書くかは、書き手の文体意識に左右される。

 また、「カナモジ会」運動をすすめた人々のように、漢字で書かないと意味が区別できない同音語以外は、できるかぎり平仮名で書こうとする人もいる。
 
 原則はあるが、ある語を漢字で書くかどうかは、表現者それぞれに任されている。以下、ABC,お好みで。

A: 分かち書きで表記しない場合、漢字は単語と単語を区別する、目で見る「単語」区別の役割も担っている。
B: わかちがきで表記しないばあい、漢字はたんごとたんごをくべつする、目でみる「たんご」くべつのやくわりもになっている。
C:わかちがきでひょうきしないばあい、かんじはたんごとたんごをくべつする、めでみる「たんご」くべつのやくわりもになっている。」
<日本語相談つづく>
00:24 |


2006/01/17 水  

漢字の使い分け(作る・造る・創る)

 a*****さんからいただいたコメントへの返信。「つくる」の使い分けの、より詳しい解説です。

 「造る」と「作る」の 使い分けについて。a*****さんの質問。
 「錠前を作るの「作る」ですけど、時々出てきては、迷うことがありました。手で動かせる比較的小さな物は作る、車や船など大きな物は造るという区分で大体納得していますが、それでも固形の物と量的なもの、無形のもので、違ってきそうで釈然としないこともあります。稲作、作曲/刺身のお造り、木目の浮造り(うづくり)、酒・味噌の醸造・・・・・製作と製造は、慣用的多数派で決まるのでしょうか。 」

 多くの辞書では、つくる対象のものの大きさ、加工の度合いによっての使い分けを解説しています。
 大修館「現代漢和」の使い分けを中心として、解説すると。

作る=偏は「人」。旁(つくり)の「乍」は、木の小枝をナタで切りのぞいて形づくる、の意。人がナタをふるって枝の形を整え、道具として使えるように作ることが基本の語義。
 主として規模の小さいものや抽象的なもの、無形のものをつくるときに用いる。
例)米を作る、規則を作る、小説を作る
  稲作、豊作、秀作、佳作、作詩、作者、作品、作法

造る=繞(にょう)は「進んでいく」の意。旁は告。つげる。屋内で供物をそなえ、祈るさまから、「いたす、すすめる」の意となり、さらに「人工のものが目的の形にいたる」の意味から「つくる」を意味するようになった。
例)船を造る、庭園を造る、酒を造る、
  造船、造園、酒造、醸造、偽造、造花、造詣、造語、造作、造反

創る=旁の「リ(りっとう)」は、刀の意。扁の「倉」は、「傷を受ける、きずつく」刀を入れ、はじめに切り込むことから「工作のはじめ」「新しくものをつくりはじめる」の意となった。今までなかったものを、はじめて創り出す。
例)神が天地を創る、会社を新しく創る、(一般的には作るでもよい)
 新しくつくるの意味で 創案、創意、創刊、創作、創設、創立、独創
 傷の意味で 銃創、創痍(満身創痍など)

 「作る」が一番幅広く使うことができ、創る、造るの意味もカバーする。
 「造る」は、人工的につくり出す、という意味が大きく、造船、造園など規模が大きい場合につかう。
 また、自然にないものを人工的につくり出すとき、小規模なものであっても、造るを使う。「作り花」はあっても、熟語としては「作花」ではなく、「造花」になる。

 「造る」は、人工的に「改変する」という意味が大きく、もとの材料から大きく変化した場合に使用される。

 稲をつくるに当たっては、種籾から稲穂まで自然の推移に従ってつくられるので、大規模農業であっても、「稲を作る」。
 一方、酒は、稲籾から大きな変化をたどって、もとの形とはまったく異なるものに出来上がるので、小規模な家内作業で行うとしても、酒造、「酒造り」のほうが、酒作りよりふさわしく感じられる。

 製作と製造の違いも、人工的な変化の度合いが大きい場合や規模が大きいほうを製造とすることで、よいのではないでしょうか。

 さしみを「お造り」と言うのも、元の魚から見た目に大きく変化した形となり、人の手が入ったことがはっきり感じられることから、「造」を用いる、作詩作曲は、抽象的なものをつくる、という解釈でよいと思います。

<おわり>
00:13 |


2005/12/19(月)

新聞の漢字表記とふりがな

 12/15、漢字で書くか、ひらがなで書くかの使い分けについての相談に対してお答えしました。つづきです。
 「どの単語を漢字で書くか」について、個人的な日記や手紙では自由に表現してよい。新聞や雑誌などでは、内閣告示による「常用漢字表」と「送りがなの付け方」に準拠し、メデイアごとに基準が設定されている。

 私のパソコン上に置いてある『朝日新聞の漢字用語辞典』は、朝日新聞からもらったのではなく、朝日生命が保険加入者へのサービスとして配ったもの。夫の友人が勧誘員であったころ、つきあいで保険に入ったときにもらった。保険料払う金もないので、とっくに解約してしまったが、辞典は残った。

 新聞社などでは、どの語を漢字で表記するか平仮名にするか基準がある。
 植字工が活字を拾って並べた組版によって新聞印刷を行っていた当時、常用漢字以外の漢字を紙面に載せるのは、さまざまな制約があり、漢字表記は重要な問題だった。
 しかし、現在はコンピュータで紙面を編集し、漢字の使用に関しても、技術的な制約がなくなった。使用できる常用漢字人名漢字の種類も増え、ルビ付き(ふりがな)の紙面も簡単に作れるので、漢字表記は多くなっている。

 2005年12月18日の朝日新聞で、ふりがな付きで表記されている漢字を拾ってみよう。記事の文中から人名地名以外の漢字を抜き出す。
 新聞は「義務教育修了の人が読める内容であることが望ましい」とされているので、フリガナがついている漢字は、義務教育では習わなかった読み方や、読むことが難しいと新聞社が判断した漢字であろう。

 新聞社内部の記者が書いたと思われる記事には、ほとんどフリガナはない。社内の漢字基準に従っているのだろう。しかし、外部からの寄稿記事などでは、執筆者の記述をそのまま表記するようにしているらしく、フリガナ付きが多くなる。

1面 槻(つき)=けやきの異名 総苞(そうほう)=花全体を包み込む部分  2面 完璧(かんぺき) 真摯(しんし) 7面 焙煎(ばいせん) 橋梁(きょうりょう) 8面 愕然(がくぜん) 謳う(うたう=紙上では言偏に区) 11面 躾(しつけ) 蒙古斑(もうこはん) 捉える(とらえる) 曖昧(あいまい) 均霑(きんてん) 拡がる(ひろがる) 12面 煌めく(きらめく) 微かに(かすかに) 痕(あと) 掌(てのひら) 真鍮製(しんちゅうせい) 覗く(のぞく)貼る (はる) 椅子(いす) 燭台(しょくだい) 旅行潭(りょこうたん) 爪(つめ) 精緻(せいち) 拮抗(きっこう) 壷(つぼ) 叱る(しかる) 咳(せき) 嚔(くさめ) 蠢く(うごめく) 急遽(きゅうきょ) 臆病(おくびょう) 13面 驚愕(きょうがく) 瞠目(どうもく) 噛む(かむ) 轢かれる(ひかれる) 止む(やむ) 捧げる(ささげる) 推戴(すいたい) 籠める(こめる) 籠る(こもる) 侮蔑(ぶべつ) 具わる(そなわる) 剃髪(ていはつ) 波瀾(はらん) 拠る(よる) 正鵠(せいこく) 14面 辿る(たどる) 審らか(つまびらか) 恣意(しい) 囚われる(とらわれる) 所詮(しょせん) 俺(おれ) 笊(ざる) 失踪(しっそう) 形而上(けいじじょう) 舌鋒(ぜっぽう) 15面 荒唐無稽(こうとうむけい) 山姥(やまんば) 棺桶(かんおけ) 渡守(わたしもり) 27面 戌(いぬ) 32面 明瞭(めいりょう) 嬉しい(うれしい) 傾げる(かしげる) 訛(なまり) 弾ける(はじける) 労る(いたわる) 頷く(うなずく) 37面 忸怩(じくじ) 潮騒(しおさい)

 いかがでしょうか。「カナがふってなくても読めるわい」と思う漢字、「え、これって漢字ではこう書くんだったのか」と思う字、「私はこの場合、漢字は使わない」という字、それぞれにあるでしょう。<つづく>
00:26 | コメント (5) | 編集 | ページのトップへ

2005/12/19(月)

漢字表記現在の基準

 「12月18日新聞、紙上の漢字フリガナを読む」
 w*******さん の感想「 均霑、忸怩、は読めないし、書けませんし使えません。」(2005 12/19 9:44)
 私も同じようなもんです。フリガナがなかったら読めなかっただろうと思うのは、「均霑」「審らか」の2字でした。

 「つまびらかにする」を漢字で書くとしたら、私は「詳らか」の方を使い、「審らか」を書くことはない。「審議する」など音読み熟語は読み書きするけれど、訓読みの「審らか」を読み書きしたことはなかった。

 均霑(きんてん)の「霑」っていう漢字、はじめて見た。「均霑=平等に利益をえること」という意味。執筆者が社会経済学者であることから、おそらく経済学では、ふつうに使われていることばなのだろう。
 これは「霑」という字が常用漢字外なので、雑誌新聞などにこの語が載るときは、ずっと「均てん」と記述されていたのだろうと思う。経済にうとい私は、「均霑」に初めて出会った。

 この語を私も使うけれど、漢字では書かない、というのは、「所詮→しょせん」。
 副詞、接続詞、感嘆詞はできるだけ平仮名で書く。「而るに→しかるに」「寧ろ→むしろ」「嗚呼→ああ」など、私は漢字で書かないようにしている。連体詞も、「所謂→いわゆる」と、ひらがなで表記する。

 また、訓読みの動詞は、できるだけ平仮名で書くのが私の好み。「労る→いたわる」「頷く→うなずく」「弾ける→はじける」「捧げる→ささげる」
 「蠢く→うごめく」は、平仮名で書くこともあるけれど、虫がぞろぞろ動いている感覚を出したいときのみ漢字で「蠢く」

A:たとえば、せつぞくしやふくしなどは、ひらがなでかくほうがおおい
B:たとえば、接続詞や副詞などは、ひらがなで書くほうが多い。
C:例えば、接続詞や副詞等は、平仮名で書く方が多い。

 Aは、分かち書きしないと、読みにくい。ひらがなだけで表現する場合、分節ごとに区切って表記する。
 漢字を習う前の、ひらがなだけで表記してある日本語教科書は、この分かち書き方式。
 視覚障害者用点字も、この方式。
 たとえば せつぞくしや ふくしなどは ひらがなで かくほうが おおい。

 単語を知らない日本語学習者にとって、ならんでいる単語を区切ることはたいへん難しい。「区切ることはたいへん難しい」というこの一文を学習者に読ませてみると、クラスにひとりは「くぎること はたい へん むずかしい」と読む学生が出てくる。そして「ハタイ」を辞書でひいても、意味がでてこない、と悩むのだ。

 Bにするか、Cにするかは、各個人の好みになるだろう。
 何度も書いていることだが、個人の日記や手紙、個人の思想の表現や、小説詩などの創作において、どのような表現をするかは自由であり、漢字の使用も自由でいいのだ。

 現在、新聞社でサイト編集をしているまっき~さんからのコメント。
「 編集やって気付いたのが、「子供」「子ども」「捏造」「ねつ造」とか、使い分けが多いですね。」 (2005 12/19 9:21)

 「子供」の「供」。「供」の、もともとの意味は「寄り添う者、つき従う者、ともだち」の意味である。「部長のお供をして接待へ」など。
 しかし、「子供」という語のばあい、「供」は、「ども」の当て字。「ども」は、名詞につけて複数を表わす非自立語である。非自立語であるので「どもが歩いている」などとは表現できない。

 非自立語は、単独で使うことができず、必ず何らかの自立語に附属して用いられる。
 「ども」は、「私ども」「手前ども」「あそこらにいるガキども」など、他の名詞に附属して用いる。

 そこで、「非自立語はひらがなでかく」という原則に従えば「子ども」になる。しかし、長年の表記慣用から、「子供」と書きたい人も多い。書き手によって、また、表現媒体によって、「子供」と書くか「子ども」と書くか、別れるだろう。

 「捏造」の「捏」は、常用漢字表に入っておらず、「他の漢字による表記さしかえ」もなかったので、長年「ねつ造」と、「ひらがな漢字交ぜ書き熟語」になっていた。
 しかし、近年「捏造」という語を雑誌新聞で使用する頻度が高くなり(「旧石器出土の捏造」など)、「捏造」と、漢字を書いてふりがなをつけることが多くなった。

 「捏造」にするか「ねつ造」にするかも、個人の表現はどちらでも自由。
 ただ、公共の場での公文書やマスコミの文章には、基準があったほうが便利、というだけ。

 何度も書くが、「正しい日本語」とか「美しい日本語」などに、決まりもなにもない。個人にとって「美しい」と感じる表現があれば、それが美しい日本語なのだ。
 社会においては「相手を不愉快にさせない表現」によって「的確に自分の思うところを伝達、表現」できればそれでいいのであって、「正しい漢字表記」などというのも、「現在のところ、決まりに従っている方が便利」というだけである。
 「正しい敬語の使い方」やらも「大多数に不愉快な感じを与えない」ために便利、ということにすぎない。敬語をつかわなくても、みんなが平気になれば、敬語もすたれる。

 これまた何度も登場するが、今から千年前、「枕草子」の中で清少納言は「近頃は言葉遣いが乱れていて嘆かわしい」と書いており、清少納言が聞いたら、今の「正しいとされている日本語」など、世も末の末、とても日本語とは言えないしろもの。
 でも、清少納言がどう嘆こうと、私たちは現代日本語を駆使して表現するしかない。

 漢字ひらがな表記も、今の基準が変わっていくことはありうる。
 敗戦直後のように「漢字も仮名もやめて、ローマ字一本にしよう」というのやら、「日本語は非論理的な言語だから、日本語を廃止してフランス語を国語にしよう」だのという論が出てくることはもはやないだろうが、表記の基準など、今後どんどんかわっていくだろう。

 私は、「どんどん変わる日本語」のウォッチングを続けるのをおもしろがっている一派である。世につれことばも変わっていくのは当然のことなのだ。
 どんどん変わるからこそ、「規範を設けたい」ということにもなるのだけれど。<つづく>
00:28 |

005/12/21(水)

明治の随筆における漢字とひらがな

 12/20に解説した「子ども」の表記について、付け加え。
 「ども」は名詞について複数を表わす、と書いたが、「ども」は、自分より目下の存在を複数にする場合と、自称を謙遜卑下して複数する場合に用いる。

 「私ども」「近所のガキども」「幕府の犬ども」は、よいが、「先生ども」「お母さんども」などの場合、先生やお母さんを低くみておとしめるという語感になったしまう。
 耐震強度偽装の建築屋ども、歳費お手盛りで税値上げに賛成する議員ども、など、意図的に「ども」を使うことはあり得るが、一般の名詞には使わない。
 一般の名詞を複数にするときは、「たち」を使う。「学生たち」「お母さんたち」など。
 
 同じ複数でも、「私たち」と「私ども」は、語感がちがう。「私ども」は、謙遜意識を含む。また、「たち」と「ども」は共起しない。(一つの語のなか、文のなかでいっしょに用いられることを共起するという)
 「私どもたち」とは言えない。

 しかし、「子ども」に関しては「子どもたち」と言える。これは、「子ども」の「ども」が「複数をあらわす接尾辞」から「子ども」というひとつの単語の一部に昇格し、「こども」は、ふたつに分けられないひとまとまりの単語と見なされるようになったからである。
 「子+ども」から、「こども」という一単語になり、それに、さらに複数の「たち」がついて「子どもたち」となっている。
 「子ども」をひとつの単語と見なした場合「子供」という表記でよいことになる。

 そのため、「子ども」「子供」両方の表記が混ざって使われているのだ。「朝日新聞用語辞典」では「こども」の表記は「子供」と出ているが、2005/12/20夕刊一面のコラム「ニッポン人脈記」の中では「子ども」と表記されている。

 このように、漢字とひらがなの表記も「ゆれ」があり、変化がある。
 日本語の文法や発音も大きく変化してきた。文章史においても、古事記の文章から現代の文章まで、さまざまな表現があり、表記があり、変化しつつ現在の文体になっている。

 古事記からの文体変遷史となるとさても壮大なことになるので、近代文体史のなかの、漢字ひらがな表記の問題にかぎって、表記の変遷をほんのさわりだけ、見ていこう。
 近代日本語史の流れからいくと、確実にひらがなカタカナ表記が増えていく傾向にある。
 漢字と仮名の割合。時代を追って見ていこう。
 
 幸田露伴が明治時代に書いた「碁」についてのエッセイ。(原文の旧字旧仮名遣いを新字新仮名で表記)
 読まずに、字面だけ眺めてください。エッセイといっても、漢字が多いことがわかる。

 「 棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといい、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教え、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といえるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず、猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりというが如し、此を古伝説と云う可きのみ。」

 エッセイといっても、難しいですね。こういうエッセイを楽しんで読む読者層も、漢文の素養がたっぷりの人達だったのでしょう。<つづく>
10:29 |


2005/12/22(木)

明治大正昭和の文の漢字ひらがな

 ろくじょうさんが紹介してくれた、明治時代の手紙文。
 「お目にかかってお礼を申し上げるべきなのに、熱がでちゃったんで、ゆるしてね」という内容だと思うのだけど、まあ、難しいこと。

 「 小生義 以テ拝趨鳴謝可仕筈之処、先日来 間歇熱状ニテ平臥罷在暫時不敬可 御海恕奉願候 」
 仮名書きは「以テ」の「て」と「熱状ニテ」の「にて」二ヶ所のみ。

 大正7年に、群馬県の蚕種業者である田島信が書いた「欧米旅行日誌」の冒頭。(原文旧字カタカナ書き旧仮名遣いを新字新かなで表記)
 寺や漢学塾で基礎的な教育を受けただけの農民出身の商人であるが、明治時代に書き留めた旅行記に、大正時代になって、序文を書いた。
現在ではカタカナで書く国名地名も、伊太利亜国(イタリア国)未蘭府(おそらくミラノ市)と、できるかぎり漢字で表記していたほか、文全体に漢字が多い。

 大正期になっていても、一般の人は文章を書くとなると、まだまだかしこまって一筆啓上していた。

 「 伊太利亜古国未蘭府於て蚕種売捌の紙数代価及び買人姓名日々明細筆記、明治三十一年水害の節日記浸水汚染す、文字誤謬多く慚愧を忍で書 」

 明治期の言文一致運動を経て、明治後半から大正にかけて、夏目漱石らによって、日本語の書き言葉、文章の規範が確立した。文章史において、漱石以後は、現在の文章とかわらない表現になってきているのである。

 漱石は、漢詩漢文によって教養の基本を築いた人。漢文素養にプラスして英文学研究者として研鑽をつみ、さらに、江戸期の随筆や俳句俳文、円朝らの落語速記録を重ね、近代文体の確立に苦心した。
 これらを総合して現在の「現代文」が成立していった。

 1909(明治42)年の漱石の文章『永日小品』より。
 高浜虚子らとの交友記、正月の一日を闊達に描写している。現在の文章を読むのと、かわりなく読める。

 「 雑煮を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やあと云った。
 フロックは白い手巾(ハンケチ)を出して、用もない顔を拭いた。そうして、しきりに屠蘇を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突ついている。ところへ虚子が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付を着て、極めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。」
 (引用者注:メルトン(melton) 肉厚ののケバ立った紡毛地。平織りの生地をフェルト状に仕上げたもので、防寒用のコ-トやブレザ-に用いられる。)

 昭和期の文章のなかで、漢字が多そうな文を選んでみる。
 中島敦も漢文の素養があり、中国の歴史などに取材した小説を執筆した。
1942(昭和17)年、中島敦「盈虚(えいきょ)」より

 「衛の霊公の三十九年と云う年の秋に、太子が父の命を受けて斉に使したことがある。途に宋の国を過ぎた時、畑に耕す農夫共が妙な唄を歌うのを聞いた。
既定爾婁豬 盍帰吾艾(牝豚はたしかに遣った故 早く牡豚を返すべし)
 衛の太子は之を聞くと顔色を変えた。思い当ることがあったのである。
 父・霊公の夫人(といっても太子の母ではない)南子は宋の国から来ている。容色よりも寧ろ其の才気で以てすっかり霊公をまるめ込んでいるのだが、此の夫人が最近霊公に勧め、宋から公子朝という者を呼んで衛の大夫に任じさせた。宋朝は有名な美男である。衛に嫁ぐ以前の南子と醜関係があったことは、霊公以外の誰一人として知らぬ者は無い。」

 昭和になると、中島のように漢文の素養が豊かな作家でも、だいぶ漢字の使用はすくなくなっていることがわかる。
 「寧ろ→むしろ」「其の→その」「此の→この」など、現代ではひらがなで書かれるほうが多い単語も漢字で書かれているが、読みにくくはない。
<つづく>
00:08 |

2005/12/23(金) 

2005年末の雑誌エッセイにおける漢字ひらがな比率

 ごく最近の文章をみてみよう。2005年12月9~15日の「R25」
 「R25」は、25歳前後の男性勤労者を対象としたフリーマガジン。私、25歳でも、男性でもないけれど、無料大好きなので愛読中です。
 巻末に連載されていた、石田衣良のエッセイ。 若者向けのエッセイなので、ひらがな、カタカナがぐんと多くなる。

 「このコラムを読んでいるそこのあなた、つぎの日曜日に簡単な料理をはじめてみませんか。最初はオムレツとか野菜炒めなんかでいいと思う。オムレツなら好きなチーズでもいれてみる。野菜炒めなら肉にちゃんと下味をつける。それくらいでぐんとおいしさがアップする。どちらの料理も火加減が肝心なので、よくフライパンを焼いておくこと。失敗しても自分でつくった料理はいとしいもの。ファッションなんかより、料理のできる男のほうが、ずっと合コンでのポイントも高いのだ。 みんな、がんばれ!」

 カナモジ会の主張ほどカナが多くはないが、一般的には漢字で書かれる「始めて→はじめて」「作った→つくった」など、仮名書きが多いことがわかる。
 近頃のカタカナ外来語の多さ、漢字表記の少なさをお嘆きの方のためにこのエッセイを「できるだけ漢字で」「外来語なしで」表記するなら、

 「 此の囲み記事を読んで居る其処の貴男、次の日曜日に簡単な料理を始めて見ませんか。最初は洋風卵焼きとか野菜炒め等で良いと思う。洋風卵焼きなら、好きな酪酥醍醐も入れて見る。野菜炒めなら肉にちゃんと下味を付ける。其れ位で群と美味しさが上昇する。どちらの料理も火加減が肝心なので、良く揚げ物用平鍋を焼いて置く事。失敗為ても自分で作った料理は愛しい物。流行衣服等依り、料理の出来る男の方がずっと男女合同懇親会での点数も高いのだ。皆、頑張れ 」

 内容は同じこと書いてあるのに、印象がまったく変わってしまうことがわかる。
 この漢字表記だと、おそらく「R25」の読者は、ページをひらいても、読まないだろう。紙面の字面がたいへん重苦しく、おいしいオムレツもお腹にもたれる感じがしてしまう。

 私は、石田衣良の「ひらがな多めエッセイ」の表記法、読みやすいと感じた。
 ただし、子どもや学生が漢字を覚えなくてよい、という意味ではない。

 漢字教育をおろそかにすることには、反対。
 漢字語彙は、日本言語文化の根幹ともいうべき財産である。漢字語彙、漢字文化を学び取ったのちに、自分の文章をひらがなで開いていくことは、かまわないが、最初から漢字を知らないのでは、2000年間に培われた知的財産を放棄することになる。
 (「培われた」を「つちかわれた」と、ひらがなにするか、迷ったけど、漢字覚えろという部分なので、一応漢字表記)
 漢字教育とはすなわち語彙教育であって、漢字を知らないと日本語の語彙の重要部分を担う漢字熟語を使いこなせないことになる。

 ろくじょうさんから「渙発」という熟語についてコメントをいただいた。ろくじょうさんの母上から戦地の父上にあてた手紙の中にあった言葉。
 「大詔渙発」という言葉について、戦後生まれは見たこと使ったことなく、知らないままでした。和語でいうと「すめらみこと、みことのりをのたまふ」でもって、取り消しはきかないよ、っていう意味。

 コメントへの返信。
「大詔が渙発されました」の「渙発」、ろくじょうさんの日記ではじめて見ました。
「綸言汗のごとし」は知っていたけど、「渙汗」は知らなかった。ほんと、勉強になります。

 才気煥発の「煥」も、「渙」も常用漢字表からもれて、使われなくなった。それでも才気煥発のほうは、四字熟語の本などに載ることがあったので、忘れられなかったけれど、「大詔渙発」のほうは、歴史を勉強していない私には「死語の世界」でした。
==============
 大詔渙発の渙、才気煥発の煥、常用漢字からはずれた→学校で教えず、印刷物に載ることがなくなる→読める人がいなくなる→死語の世界へ

 私は高校時代、古文は好きだったが、返り点レ点一二点上下点というのが面倒で漢文はさぼった。だから、漢文脈の文体を駆使できる人、すごいなあとその文体に見とれてしまう。
 大学入試から漢文必修がなくなって、今や漢文読解は、高校国語教育においても風前の灯火。
 若い方々、どうぞ、漢字漢文をケギライしないでくださいネー。(自分は棚に上げていう)

<つづく>

コメントを投稿