goo blog サービス終了のお知らせ 

春庭にほんごノート      

日本語概論・言語学概論・日本語教育
日本語言語文化

熟女も夜露死苦熟字訓・ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座表記編

2014-04-09 | 日本語
2005/12/15(金)

熟女も夜露死苦熟字訓

 『夜露死苦現代詩』という本、現代の世相に鋭く切り込んできた都築響一の著作です。
 「夜露死苦」とは、暴走族などが着る「特攻服」の背中に刺繍文字でつづられていたり、ガードしたのスプレー落書き文字で見かける、ヤンキー漢字表現のひとつ。

 都築は、「夜露死苦」を「なんてシャープな四文字言葉なんだろう。過去数十年の日本現代詩の中で、夜露死苦を超えるリアルなフレーズを、ひとりでも書けた詩人がいたんだろうか」と評している。同感。

 この「夜露死苦」という当て字の方法は、「万葉仮名」方式とでもいいましょうか。日本語の音節のひとつに漢字をひとつ当てていく方法です。 
 日本語に漢字をあてはめるとき、万葉集・古事記の時代からさまざまな工夫がなされてきました。

 『古事記』は、劫初の日本国土を「くらげなす漂へる」と表現しました。
 この「クラゲ」を表現するのに、当てられた漢字は、「く→久」「ら→羅」「げ→下」です。
 「久羅下」のように、日本語の音節ひとつに、同じ発音の漢字ひとつを当てています。

 平仮名がまだなかったころの表記ですから、中国渡来の漢字で書くしかなかったのです。

『万葉集』『古事記』の時代から百年を経て、漢字の草書くずし字からひらがなが、漢字の一部分省略したものからカタカナが成立していきます。

 クラゲは、現代仮名遣い表記法では「動植物のなまえは、カナで書く」という基本に従って、「クラゲ」「くらげ」と書けばいいのですが、漢字で書きたい場合、「久羅下」という古事記方式ではなく、「海月」「水母」と書きます。当て字です。

 このような当て字で、辞書にのっているものを「熟字訓」と言います。「音読み」でも「訓読み」でもない「当て字読み」のことです。

 当て字がすっかり世の中に定着し、読み方が普及して辞書にも搭載されるようになると、「当て字」から「熟字訓」に昇格します。
 「夜露死苦」も、みながこう書くようになれば、辞書に搭載され、「熟字訓」に昇格できる。たぶん昇格しないと思うけれど。

 文部科学省の常用漢字表(約2000字)に付表として、熟字訓の表がのっています。
 学校教育で教える熟字訓です。

 小豆(あずき)海女(あま)土産(みやげ)雪崩(なだれ)木綿(もめん)玄人(くろうと)大和(やまと)日和(ひより)などが、常用漢字表の付表に載っています。これらは、新聞や雑誌で「フリガナがなくても一般の読者に読める」とされています。

 この「義務教育終了時には読めるようにしておきたい熟字訓」のほか、熟字訓は多数あります。動植物名はことに多い。 
 ちょっと、おためし。読んでみましょう。
馬酔木、合歓木、雲雀、百舌鳥、木菟、、、

 日本で当て字が作られたもののほかに、中国語で同じ動植物をどのように書いているのかを漢詩文などから知り、中国の漢字をあてはめる場合があります。

 たとえば、日本で「ゆり」と呼ばれていた植物の漢字をどう書くのか。
 中国語では「百合baihe」と書くことを知って、「百合」という漢字を書いて「ゆり」と読ませる、これが中国語由来の熟字訓。
 「百」の字に「ゆ」、「合」の字に「り」という読み方は、音読みでも訓読みでもしないのに、ふたつ合わせたときは「ゆり」と読みます。

 銀杏・公孫樹も、中国語由来の熟字訓です。中国語でもイチョウは「銀杏」「公孫樹」と書きます。

<つづく> 00:04

2006/12/16 土  

いちょうひまわり伝来記

 中国語の漢字をそのまま当てる熟字訓。ものとことばがいっしょに入ってきたものと、べつべつのものがあります。

 夏休みに「伊藤若冲と江戸絵画展」をみたとき、江戸の絵師たちが、象、駱駝やひまわりなど、新渡来品として江戸の日本にもたらされた動植物を盛んに絵の題材にして、すぐれた作品を描き上げているのをみました。

 象や駱駝は、見せ物の興業記録が残っていて、いつ、どこから日本に入ってきたか、はっきりわかっているものが多いのに、植物については、よくわからないものもあります。

 ひまわりは、いったいいつ日本に伝来したのでしょうか。
 しらべてみると。
 アメリカ大陸原産の「ひまわり」が、ヨーロッパ経由中国まわりで17世紀の江戸に伝えられました。
 ひまわり、中国語では「向日葵=xiang ri kui シャンリークイ」といいます。

 日本に伝来して、若い茎が太陽の方向へ首を向ける、ということから「日まわり草」「日向草ひむきくさ」などと各地に呼び方ができ、中国語の「向日葵」の漢字を「ひまわり」と読むことにしました。

 いちょうはどうでしょうか。
 最初、中国でのいちょうの名前は、「鴨脚」だったそうです。水鳥の脚の水かきに葉っぱの形が似ているからです。でも、実を食用にすることが普及すると、実は「銀杏inxing」とよばれ、樹木も「銀杏」と書くようになりました。

 日本に入ってきたのは、さまざまな文献による調査で、おそらく室町時代半ばだということです。中国科学史の研究者、茨城大学の真柳誠教授の説です。

 真柳先生のサイトに、イチョウ伝来史がまとめられています。未完成の論文であり、引用禁止とのことなので、直接見てください。
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper02/ityo.htm

 鎌倉鶴岡八幡宮石段わきの大イチョウ。大イチョウには、由来がかかれていました。
 鎌倉幕府第二代将軍源頼家は、暗殺され無惨な最後となりました。頼家の息子公暁は、叔父の第三代将軍実朝を親の敵と思いこんで、暗殺しようとします。

 八幡宮に参拝する実朝を、石段のイチョウの陰にかくれて待っていた、という伝説。わたしなど、その話をすっかり信じていました。

 しかし、真柳教授の「イチョウは、室町以後に中国から伝来した」という説には説得力があります。
 植物動物が伝来したとき、その事実が中国側にも日本にも、文献が残されていない、ということは確率としてとても低い。

 中国と日本の文化状況を考えると、動植物に関してなんらかの言及がおこなわれることが普通であり、イチョウに関してだけなんの文献にもふれられていないとは、考えにくい。

 万葉集などの詩歌集のなかにも、イチョウやその異名に関する記述はまったくない。
 真柳先生が、数多くの文献を精査しても、室町以前の文献の中にイチョウに関する記録は見つからないのだそうです。

 そうなると、公暁はイチョウの陰にかくれることはできません。鎌倉時代初期に、体がかくれるくらいの幹になるためには、平安時代半ばにはイチョウが日本にきた計算になります。

 各地の巨樹には、たいてい伝説がつきものです。「弘法大師お手植え」なんて話ができあがると、それから逆算して樹齢何百年なんてことになる。ほとんどの伝説は伝説であって、史実とはちがいます。

 根拠がなくても、もっともらしい話を信じこむのは、人間の常。でも、きちんと事実を調べれば、確かなことがわかってくる。
 風説やアジテーションに巻き込まれることなく、きちんと事実を学ぶことから歴史も私たちの未来を豊かにしてくれることでしょう。

 「ことば」に関しても、調べてみると面白い事実がいろいろわかってきます。
 熟字訓の公孫樹・銀杏を調べてみたら、意外な事実に出会いました。調べてみるもんです。

 アジサイを紫陽花と書くようになったいきさつについては、
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0407a.htm
にまとめました。ごらんください。

<つづく> 01:27

2005/12/17(日) 

ご注文は、木耳大蒜虎魚に柳葉魚

 最近は、テレビドラマなどでも時代考証がきちんとなされるようになりましたが、私が子供の頃のテレビ時代劇、侍のうしろにコスモスが咲いていたりすることも平気でやっていました。

 コスモスが日本に入ってきたのは、明治20年代だそうです。当初はオオハルシャギクという和名がつけられましたが、秋の桜、「秋桜あきざくら」と呼ばれることもあり、漢字は「秋桜」
 しかし、学名のCosmos bipinnatus Cav. の最初をとった「コスモス」として普及するようになると、コスモスという呼び方にそのまま、秋桜をあて、熟字訓として定着しました。

 中国語の漢字をあてはめる熟字訓、中国語「大蒜dasuan」は「にんにく」。中国語「木耳muer」は、きくらげ。

 中国語とは関わりなく、日本で漢字を当てはめた熟字訓もあります。
 「万年青=おもと」や「翌檜=あすなろ」「落葉松=からまつ」「海老=えび」「百足=むかで」などは、動植物の特徴をとらえて漢字をあてはめたもの。
 海老(蝦)は中国語では「虫ヘンに下 虫下xia」、百足は中国語では「蜈蚣wugong」ですから、中国の漢字とは関わりなく、日本語独自に漢字が当てられたことがわかります。

 私はこの年になるまで、「飛蝗」「柳葉魚」「虎魚」「針魚」の読み方知りませんでした。常用漢字表外ですから、読めなくてもいいんですけどね。
 ばった、ししゃも、おこぜ、さより。
 ワープロ「一太郎」にはちゃんと搭載されていて、「ししゃも」と書いて漢字変換キーをおせば、一発で「柳葉魚」と出てくるのに、これまで使ったことがなかった。

 「老舗=しにせ」というのも、熟字訓のひとつ。
 今時、そんな店は少なくなったと思うけれど、老舗飲食店のメニュー。やたら達筆の筆書きでお品書きを出すような店もあったみたい。
 そういうときは、堂々と、板さんにでも仲居さんにでも、「すみません、メニュー、読んでください」と、言いましょう。私は、そういう店には行かないからいいんだけど。

 メイン料理に「海鞘」「公魚」「海胆」「海鼠」「栄螺」、デザートに「朱欒」「無花果」「柘榴」と書いてあり、ふりがなが無かったとします。さあ、どれを注文しましょうか。
 板さんに読み方たずねる前に、下記ページでお確かめを。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kanji1118a.htm

 上記ページの熟字訓テスト、百点満点の方、いらっしたら、「熟字訓名人」の称号をさしあげます。

 上記メニュー熟字訓・解答
 ほや わかさぎ うに なまこ さざえ (デザート)ざぼん いちじく ざくろ

 おためし熟字訓テスト

A)レベル1 (文部科学省常用漢字表付表にある熟字訓) 

ことばの分類は便宜的なものです。たとえば、雑魚は動物にいれてありますが、人にも他のものにも「小物」「卑小な存在」として使う。

1)(人): 海女 乳母 叔父 伯父 叔母 伯母 乙女 お巡りさん 玄人 素人 仲人 息子 稚児 迷子 猛者 若人

2)(動物):雑魚
3)(植物):

4)(飲食物):小豆 お神酒 果物 

5)(物・所):田舎 母屋 河岸 蚊帳 桟敷 竹刀 三味線 数珠 数寄屋 草履 山車 太刀 足袋 伝馬船 波止場 部屋 土産 眼鏡 木綿 浴衣 寄席

6)(時節):今日 明日 師走 七夕 梅雨
 
7)(自然):硫黄 海原 景色 五月晴れ 早苗 五月雨 時雨 砂利 築山 雪崩 野良 日和 吹雪 紅葉
 
8)(人為・活動):意気地 浮気 笑顔 神楽 為替 相撲 立ち退く 投網 読経 祝詞 八百長

9)(他):息吹 風邪 仮名 心地 白髪 十重二十重 凸凹 最寄り 
 
(こたえ)
1)あま うば おじ おじ おば おば おとめ おまわりさん くろうと しろうと なこうど むすこ ちご まいご もさ わこうど

2)ざこ
3)
4)あずき おみき くだもの

5)いなか おもや かし かや さじき しない しゃみせん じゅず すきや ぞうり だし たち たび てんません はとば へや みやげ めがね もめん ゆかた よせ

6)きょう あす(あした) しわす たなばた つゆ

7)いおう うなばら けしき さつきばれ さなえ さみだれ しぐれ じゃり つきやま なだれ のら ひより ふぶき もみじ

8)いくじ うわき えがお かぐら かわせ すもう たちのく とあみ どきょう のりと やおちょう

9)いぶき かぜ かな ここち しらが とえはたえ でこぼこ もより

B)レベル2(常用漢字付表にない熟字訓)読めなくてもよい。動植物はカタカナで表記するのが一般的。

1)(人)1女将 2博士 3女形 4下戸

2)(動物)5海老 6海月 7烏賊 8河豚 9海豚 10海馬 11海象 12家鴨 13信天翁 14金糸雀 15雲雀 16百舌鳥、17木菟

3)(植物)18木瓜 19土筆 20女郎花 21銀杏 22団栗 23蒲公英 24向日葵 25罌粟 26仙人掌 27金雀児 28馬酔木 29合歓木

4)(飲食物)30心太 31茄子 32胡瓜 33独活 34南瓜 35山葵 36若布
  
5)(物・所)37猪口 38束子 39団扇 40提灯 41松明 42暖簾 43雪洞

6)(時節)44昨日 45十六夜 46如月 47弥生 48 水無月 49神無月

7)(自然)50雪崩 51五月雨 52陽炎 53東雲 54不知火

8)(人為・活動)55贔屓 56科白 57台詞 58欠伸

1)(人)1おかみ 2はかせ(はくし)3おやま 4げこ

2)(動物) 5エビ 6クラゲ 7イカ 8フグ 9イルカ 10トド 11セイウチ 12アヒル 13アホウドリ 14カナリア 15ヒバリ 16モズ 17ミミズク

3)(植物) 18ボケ 19ツクシ 20オミナエシ 21イチョウ(ギンナン) 22ドングリ 23タンポポ 24ヒマワリ 25ケシ 26サボテン 27エニシダ 28アシビ(アセビ) 29ネムノキ

4)(飲食物) 30トコロテン 31ナス 32キュウリ 33ウド 34カボチャ 35ワサビ 36ワカメ
 
5)(物・所)37ちょこ 38たわし 39うちわ 40ちょうちん 41たいまつ 42のれん 43ぼんぼり

6)(時節)44きのう 45いざよい 46きさらぎ 47やよい 48さつき 49かんなづき

7)(自然)50なだれ 51さみだれ 52かげろう 53しののめ 54しらぬい

8)55ひいき 56せりふ 57せりふ 58あくび

<おわり>

つねならむ・ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座発音と表記編

2013-07-31 | 日本語
つ:綱(つな)と絆(きずな)=四つ仮名問題 

2008/06/14
つ:綱(つな)と絆(きずな)・四つ仮名問題

 手綱は、「綱」という語が意識され、「手(た)プラス綱」という意識が残っているから「たづな」と書く。
 しかし、絆は「きずな」。

 きずな(絆)の元の語は、「きプラス綱」です。
 しかし、現代人にとって「気+綱」という語構成の意識がなくて、一語のまとまった単語であると、みなされているから「きずな」になる。

 「高坏たかつき」は、清音のまま「つ」と書きます。しかし、杯は、「酒+ツキ」であるにもかかわらず、「さかずき」になるのは矛盾しているように、私は思います。
 「杯」は「ひとつのまとまった語であって、分解する意識が現代人にない」と見なされ、「さかずき」になりました。う~ん、どうだろう?

 現代仮名遣いを決めた人たちにとって、「現代人には酒+ツキとは意識されていない」と判断できるものであったのでしょうが、私は、「語源を残す」という意味で「さかづき」「いなづま」のほうがいいと思います。
 許容範囲として、「きづな、さかづき」も、認められてはいますが。

 「じめん」は「地ち」の「面」であるが、現代語では「じめん」の一語で理解されているから「じめん」と書く。こちらははっきりと「ぢめんは誤記」とされ、「ぢめん」は、許容範囲にも入っていません。

 語頭の表記として「ぢ」と「ず」は出来る限りさける、という表記基準により、「ぢめん」がさけられた。

 「陣屋」も「ぢん」+「や」であるのに、「ぢんや」と表記できません。「じんや」です。
 「頭づ」+「痛」も、「ずつう」ですし、図画も「づが」だと、漢字表記されません。「ずが」になります。
 現代語で「ヅ」を語頭に表記するのは「ヅラ(かつら)の略語」くらいでしょう。

 「おお」と書く「おの長音」は、少ないですから、覚えてしまいましょう。
 日本語初級で扱う語は、「大おお」がつくことばのほかは、「狼、氷、通り、多い」。中級から扱う語「公、覆う、仰せ」。上級から扱う語「概ね(おおむね)、大凡(おおよそ)」これくらいのものです。




ね:熱烈歓迎!漢字伝来 
2008/06/21

 古代中国『後漢書』に記された倭国。

 紀元後57年、光武帝は、倭国からの使者に金印を授けた。金印には「漢委奴国王」と、刻まれていた。金印を授与されたということは、光武帝から「オマエの国を、漢の支配下に入ったと認めてやろう」という意味。

 奴国の大王は、周辺の国に対してこの漢字の入った金印を掲げることで、文明国漢の勢力を誇示することができました。

 8世紀後半に成立した日本最古の歴史書である『日本書紀』は、漢文で書かれています。
 応神記には、

    十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直岐。(中略)阿直岐亦能讀經典。
    即太子 菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰、「如勝汝博士亦有耶。」
    對曰、「有王仁者、 是秀也。」(中略)
    十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。
    習諸典籍 於王仁。莫不通達。
現代語訳
    (応神天皇)15年(西暦284年)の8月6日、百済王が阿直岐を(倭国へ)遣わした。(中略)
    阿直岐は(儒教の)経典も読むことができた。
    そこで、皇太子である菟道稚郎子 の先生にした。
    ここにおいて、天皇は阿直岐に「お前に勝るような博士はまだい るか」と訊ねた。
    (阿直岐は)「王仁という者がいます。この者は秀でています」 と答えた。(中略)
   (応神天皇)16年(西暦285年)の2月、王仁が来た。
    ただちに王仁を皇太子 である菟道稚郎子の先生にした。
   (皇太子は)諸々の典籍を王仁に習い、理解し ないものはなかった。

 この『日本書紀』の記述は、歴史的に証明された記述ではありません。しかし、3~7世紀の倭国に、どのように漢字が入ってきたかを示唆しています。
 多様な技術をもった渡来人が、漢字文書とともに大陸や半島から島国倭国にやってきたことは事実でしょう。

 3~7世紀、倭国の人々は、熱烈歓迎で漢字を迎え入れました。
 漢文を習い、しだいに「訓読」の方法を身につけていきました。




な:ナムアミダブツでナニハツの歌・ひらがな創案
2008/06/19

 日本語は、ひらがなの創案、そして「いろは歌」の普及で、一般庶民でも文字が手軽に読み書きできるようになりました。
 ひらがな、カタカナの成立について復習しておきましょう。

 今から1300年前、文字を持たなかった祖先は、漢字を知ったあと、母語に適した表記システムを改良しました。ひらがなカタカナの成立は、日本語と日本文化にとって最大の出来事でした。

 8世紀の日本。太安万侶らは、苦心して「万葉仮名」を利用した日本語表記のシステムを考案しました。
 もともと、中国に、発音を漢字で説明する方法がありました。
 サンスクリット語(梵語)から漢語への翻訳のさいに方法化されていたシステムです。
 それを手本に、漢字を発音記号として日本語の音節を表せるようになったのです。

 サンスクリット語で、「ナーム」というのは、名詞では「名前」という意味であり、動詞では「名を呼ぶ、名を唱える」という意味です。
 サンスクリット語のナームは、同じ印欧語族の英語では「nameネィム」です。日本語外来語としてはネームです。

 漢語に翻訳すれば「名を唱える」は、「称名」です。
 でも、翻訳せずに、音訳(音をそのまま漢字に当てはめる)すれば、「南無ナム」です。

 サンスクリット語の「アミータ」は、aが否定辞。英語に当てはめれば、「un」です。mitaは、「量る」です。「アミータ=量れない」という意味。
 サンスクリット語mitaを英語にあてはめるとmeter。日本語外来語ではメーターです。
 漢語に翻訳すれば「無量」。音訳なら「阿弥陀」です。

 サンスクリット語のbuddha(ブッダ)、意味は「目覚めた人」「悟った人」。
 漢字音訳では「仏陀」。意訳は「覚醒者」

 サンスクリット語の「ナームアミータブッダ」
 漢字音訳すれば、「南無阿弥陀仏」
 漢語意訳すれば「称名無量仏」となります。

 日本語では「ナムアミダブツ=阿弥陀仏のお名前を唱えたてまつる」略して早く言うと「ナンマンダブ」
 「ナンマンダブ」と、死ぬ前にひとことつぶやけば、極楽往生。量り知れない慈悲心を持つ阿弥陀様は、衆生をお救いくださるのです。
 日本仏教、コンビニエント便利至極ですね!

 さて、ナンマンダブの御利益、「発音記号としての漢字」が、日本語ひらがなに応用されました。

 日本語の漢字利用は、3つの方法がとられました。古代中国語の発音をそのまま取り入れる「音読み」と、日本語の意味にあてはめて、漢字を日本語通りに読む「訓読み」。
 それから、日本語の音節ひとつに漢字をひとつ当てる「万葉仮名」の方法。

 1)万葉仮名の方法。
 古代中国の仏典翻訳で、サンスクリット語の「ナーム」の「ナー」の発音に漢字の「南」を当て字し、「ム」の発音に「無」の字をあてる、という方法で、「音訳」をおこなった方法が、日本語にも応用されました。

 日本語の「は」という音節に中国語の漢字の音にあてはめて「波」、「な」を「奈」と表記しました。

 万葉仮名は、「な」という発音に対し、「奈」「那」「難」「南」「名」「菜」などの漢字のあてて表記しています。これらの漢字を崩した草書文字「崩し字」の表記は、「変体仮名」として、江戸時代まで使われていました。

 文字を知らなかった日本語が、「はな」という発音を「波奈」と書けるようになったのです。

 日本語音節ひとつに漢字ひとつをあてはめる万葉仮名が成立したあと、草書体の「くずした形」の書き方がひろまり、「草仮名」と呼ばれました。
 草仮名から「ひらがな」が形成されます。

 2)音読みの方法
 「花」は、現代中国語での発音は[hua(-)]です。
 古代中国語(中国南部地方)では[khua]という発音だったと思われます。四声はわかりません。(おそらく1声)

 古代中国語の「花」、有気音(息を強く出す音)で、「クファ」と聞こえたでしょう。
 日本語では、古代中国語の発音をまねて「カ」と発音しました。音読みで漢字を輸入したのです。
 
 3)また、「花」は、日本語の「はな」と同じものを指し示しているから、「花」を「はな」と読むことにしました。漢字訓読み(翻訳読み)の成立です。

 「海」は現代中国語では[hai(v)]です。古代中国語では[khai]。日本語では「カイ」という発音として取り入れました。
 日本語の「うみ」と中国語の「海」は同じものを指し示しているから「海」を翻訳して「ウミ」と読むことにしました。

 「万葉集」は、このような漢字の音読みと訓読み、万葉仮名を混ぜ合わせて、工夫した表記がなされています。 

 万葉集の冒頭。(万葉集成立は7世紀末~8世紀初)
 雄略天皇の御製とされる万葉集冒頭の歌は、大君が求婚するときの伝承歌だったと推測されます。

 万葉仮名とひらがなを対照してみてください。 

籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 
此岳爾 菜採須児 家吉閑 名告紗根
虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曾居
師吉名倍手 吾己曾座
我許背歯告目 家呼毛名雄母

こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち
このおかに なつますこ いえきかな なのらさね
そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ
しきなべて われこそませ
われこそは のらめ いえをも なをも

 (万葉集冒頭部分の春庭現代語)
   かご、美しい籠を持って、土を掘り起こす串、美しい串を持って
   この岡に 菜を摘んでいる乙女よ   家を聞こう 名を告げてください
   そらみつ 大和の国は おしなべて わたしのもとにある
   ひろく敷き渡ってわたしが支配している
   わたしこそは あなたに告げよう 家をも名をも

 求婚の意志を示すために自分の名を告げ相手の名を聞いています。
 自分の名前は、親と配偶者以外に知られてはならない大切なものでした。本名を告げることは、本名に伴う自分自身のすべてを相手にゆだねることになります。

 日本語音節発音に一字をあてている表記。籠毛与の「毛与」は、現代ひらがなにすると「もよ」です。
 日本語の発音、音節ひとつに漢字ひとつがあてられています。これが万葉仮名です。

 また、「籠こ」「岳おか」「家いへ」「吾われ」「山やま」などの名詞、持(もつ)告(のる)など、動詞に、同じ意味の漢字をあてて「訓読み」がなされている部分もあります。

 現在残されているもっとも古い写本でも、「万葉集写本」は1000年代以後のものです。
 このころの写本だと、日本語の文法構造がきちんと意識されていることがわかります。

 すなわち、名詞や動詞など、意味概念を表す語と、助詞などの文法機能を表す部分が区別されて表記されているのです。

 万葉集が編纂された当時の書き方はどうであったのか、推察の手がかりが発掘されました。
 先月、5月22日に発表された「万葉の和歌木簡」は、日本語言語文化にとって、大変重要なものです。

 聖武天皇の都跡といわれる紫香楽宮(しがらきのみや)から出土した木簡に、二首の歌が記されていました。

 この木簡の年代は、他の木簡に記されていた年代から740年前後のものと推測されます。
 万葉集16巻の成立年代は、750年前後(編者大友家持は785年没)。最終成立時期は800年前後)

 木簡に記された2首の歌は、紀貫之が書いた古今和歌集の仮名序(905年)に、初心者が最初に習う「歌の父母」である、と紹介した歌そのものです。
 貫之が、和歌を習うにも、お習字するにも手本とすべき「歌の父母」としたのは、次の二首。

「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」
「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」

 奈良時代、下級官吏が筆を手に「手習い」をして、懸命に文字の習得につとめているようすがわかる木簡も出土しており、この時代、人々にとって文字を読み書きすることは、「人生」がかかった大切なことだったことがわかっています。

 徳島県の観音寺遺跡から、7世紀のもの(689年以前と推察できる)と思われる習書木簡(お習字のための木簡)が出土しています。万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈なにはつにさくやこのはな」と記されていました。

 紀貫之が古今集仮名序に「歌の父母」として示した二首の和歌を、人々は口にだしてそらんじ、文字を習ったことでしょう。

 聖武天皇の紫香楽宮(しがらきのみや)跡から発掘された木簡。
 日本語の音節ひとつに漢字1字あてる万葉仮名で「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」という文字が、木簡に書かれていました。
 古今和歌集仮名序に、紀貫之が引用した「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられます。

 この歌の作者とされているのは、日本に漢字を伝えたという伝承がある王仁。
 大雀命(おほささきのみかど・後世につけられた名は仁徳天皇)が即位したとき、治世の繁栄を願った祝いの歌。

 冬ごもりをおえて咲き誇る花。年ごとに咲く花に、大王の繁栄を重ねた歌なので、王仁個人の歌というよりも、「おほささきのみかどをそへたてまつれるうた」として、伝承されてきた和歌なのだと思います。

 もう一首。
 木簡の裏側には、「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれていました。万葉集16巻に載っている、「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」という歌が読みとれます。

 大和の国から九州へ東北へと勢力を広げたヤマトの大王。大王から陸奥国に派遣された葛城王をもてなす宴会で、采女(うねめ)として大和朝廷に仕えていた女性が詠んだとされている歌です。

 地方の首長たちは、自分の娘や姉妹をヤマトの大王のもとに采女(うねめ=宮廷の女官)として差し出すことになっていました。采女のつとめを終えてふるさと陸奥の国へ戻っていた女性が、葛城王の前に召し出されて、歌を詠んだ。

 アサカヤ(マ)という日本語発音に「阿佐可夜(?)」という漢字が一字一音であてられています。万葉集成立以前に、広く「万葉仮名」が使われていたことがわかる、貴重な木簡です。

 万葉仮名の表記方法で記載されているもうひとつの書。
 古事記(成立712年)の冒頭。
「天地初發之時於高天原成神名天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】次高御産巣日神次神産巣日神 此三柱神者並獨神成坐而隱身也次國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流 ...」
と、太安万侶らは、記しました。

 「くらげ」ということばには、音節ひとつに漢字ひとつを「当て字」して「久羅下」と書き表し、「くらげなすただよへる=久羅下那洲多陀用幣流」と、音節文字の原型があらわれています。

 古事記本文は、漢字だけを用いて「変体漢文(日本風漢文)」で書かれていますが、古語や固有名詞のように漢文では表記できない部分は、一字一音表記で記す、すなわち音節文字の万葉仮名で記録するという表記スタイルを取っています。
 「花」は万葉仮名で書くと「波奈」,「クラゲ」は「久羅下」と書き表したのです。

 この表記方法を読み解いたのが、本居宣長です。(宣長の息子、本居春庭も国学者です。春庭が名前を借りています)

 この古事記万葉集の万葉仮名から200年ちょっとたったとき。紀貫之がひらがなの文章として、土佐日記を書きました。(成立935年)
 当時、男は漢字を書き、ひらがなは「女手」と呼ばれました。

 それで、紀貫之は「ひらがな表記」をするにあたって、わざわざ「男も書くという日記というものを、女も書いてみます」と、冒頭に記しました。

 万葉仮名の表記方法で古事記や万葉集が記録されて以来、草仮名(ひらがな)が改良され、ひらがなの普及が、土佐日記を生み、源氏物語を生み枕草子を生んだのです。ひらがなは、漢字と組み合わせると自在に日本語を書き表せるからです。

 音節文字ひらがなができ、さらに「いろは歌」の普及によって一般庶民の間にも文字が使われるようになり、中世近世の高い識字率を生みました。世界中で、近代教育普及以前に、日本ほど一般庶民が高い識字率を示していた国は、ほかにありません。

 漢字にもアルファベットにもできなかったことを、ひらがなが成し遂げたのです。
 これは、日本文化のおおいに誇るべき点です。日本日本文化の根幹に「仮名文字」があります。



ら:ら、ラ、良、良いかな、仮名文字、良、ら、ラ
2008/06/14

 漢字をくずした形のひらがなができあがったこと。もとの漢字、全部わかって、いますか。日本語学習者、漢字を覚えた後、ひらがなの元の漢字について質問してくる人がいますよ。

 クイズをしてみましょう。

 クイズ(1)「あ」の元になった漢字は「安」です。
 では、「え」の元の漢字は何でしょうか。
 え た は に も み な し ら む の元の漢字を推測してください。

 クイズ(2)「世」は、ひらがなの「せ」の元字です。
 では、 以 寸 不 仁 也 尤 奴 遠 部 与 ひらがなの何の元字?

 クイズ(3)カタカナは漢字の一部分をとって作られています。次の漢字は、どのカタカナの元字でしょうか。
 畿 散 川 奴 八 女 礼 乎 三 己

 さて、15点満点。何点でしたか。

 クイズの答えは、以下のひらがなカタカナの元漢字表を見て、みつけてください。

ひらがなの元漢字表(漢字の草書体から)
安 以 宇 衣 於 あいうえお
加 畿 久 計 己 かきくけこ
左 之 寸 世 曽 さしすせそ
太 知 川 天 止 たちつてと
奈 仁 奴 称 乃 なにぬねの
波 比 不 部 保 はひふへほ
末 美 武 女 毛 まみむめも
也・・由・・与 や ゆ よ
良 利 留 礼 呂 らりるれろ
和 為・・恵 遠 わゐ ゑを

ウィキペディア ひらがな表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Hiragana_origin.svg

カタカナの元漢字表(漢字の一部分をつかう)
阿 伊 宇 江 於 アイウエオ
加 畿 久 ケ 己 カキクケコ
散 之 須 世 曽 サシスセソ
多 千 川 天 止 タチツテト
奈 二 奴 称 乃 ナニヌネノ
八 比 不 部 保 ハヒフヘホ
末 三 牟 女 毛 マミムメモ
也・・由・・与 ヤ ユ ヨ
良 利 流 礼 呂 ラリルレロ
和 井・・恵 乎 ワヰウヱオ
(ウィキペディア カタカナ表)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A




む:むすめ、生娘、芝生で生ビール・訓読みの話
2008/06/24

 音節文字は、ひとまとまりの発音「子音と母音の組み合わせ」を含んでいるでいること。
 ひらがなひとつで、日本語音節ひとつの発音を表していること。(だだし、後世に記述するようになった拗音は、音節ひとつをひらがなふたつで表す。きゃ、きゅ、きょ、など)
 漢字から新しい文字が作られたこと。

 以上、日本語のひらがなカタカナについて確認しました。

 漢字ならお得意だろうと思われる中国語話者にとっても、日本の表記システムにむずかしい点があります。音読みも訓読みも覚えなければならないので。

 中国語標準語(北京官話=マンダリン)の漢字の読みは、原則ひとつの漢字に読み方(発音)はひとつだけです。
 「行」の発音は[xing(/)]だけ。

 日本語の漢字は、ひとつの漢字に読み方は音読みが最大3種類。
 漢字輸入時期の違いによります。奈良時代以前の発音=呉音。奈良時代以後の発音=漢音。鎌倉室町時代以後の発音=唐宋音。
行の読みは
呉音ギョウ「一行」「修行」、
漢音コウ「一行」「旅行」、
唐音アン「行灯」「行脚」

 「一行」でも、文脈により、「上からいちぎょう目」「芭蕉師弟いっこうは、宿に着いた」など、読み分けなければなりません。

 日本の漢字の訓読みは、ひとつの漢字に最大10種類。
 クイズです。
 「生」のよみかた、12通り。音読みの2種類はだいじょうぶでしょう。
 さて、10通りの読み方がある訓読みは?
 「生」の訓読み、全部言えますか。辞書を見ないで、幾つ思い出せるかな?

音読みは2種類
A)呉音読みの「ショウ」一生、生涯、生滅、生国、生者必滅、生姜(ショウガ)
B)漢音読みの「セイ」 学生、先生、生活、生殺与奪

 訓読みの確認。(覚え方:言う翁、なりわい生麩あいさんさん)
1)い 生きる、生かす、生ける
2)う 生まれる、生む
3)お 生う、生い立ち
4)き 生娘、生一本、生粋、生地、生真面目、生絹(きぎぬ/すずし)
5)な 生る 生り物、生り年、
6)なり 生業(なりわい)
7)なま 生ビール、生足、生兵法、生返事、生半可
8)ふ 芝生
9)あい 生憎(あいにく)
10)常用漢字表外の特殊な読み方 生飯(さば/さんぱん) (生方=うぶかた、その他、人名訓よみはさまざま)

 同級生に生方さんがいたから「うぶかた」は、知っていましたが、「生飯」を「さんぱん」と読むとは、私も知りませんでした。「生飯」は「さば」という読みもあります。

 「さんぱん」は、常用漢字としての読み方ではないし、散飯という書き方もあるので、覚えなくてもかまいません。
 でも、「生ビール」はナマだけれど「生娘」を「ナマ娘」と読んではいけない、ということは、留学生も覚えなければなりません。

 ナマ娘だと、なんだか生々しい。
 靴下やストッキングを履いていない足を「ナマ足」と呼ぶようになって以来、ナマ娘は、下着も上着も身につけていない、すなわち「スッポンポン」で人前にでているって気がしてなりません。

 リスは、「リス」「りす」「栗鼠」と、三種類の文字で書くことができ、どれをつかっても理解してもらえる。現代仮名遣いでは動植物は原則としてカタカナで書くことになっていますけど。

 あら、栗鼠が読めなかったの?
 現代中国語(北京語)ではリスは「松鼠son(-)shu(v)」です。現代中国語で「栗の実」は「栗子lizi」です。

 古代中国語南部地方では、リスは、栗の実を食べる動物、「栗鼠lishu」という語だったのだと推測されます。日本語の和語にはラリルレロを語頭にする語はなかったから、栗鼠は中国語から入った語と推測できます。

 古代日本語では、狩りをして肉として食べられる動物は全部「しし」でした。中国語漢字が入ってから「鹿」や「猪」「獣」などの文字を使うようになりましたが、発音は全部「しし」でした。最初はね。
 肉を利用しない栗鼠の場合、中国語の「リス」という読み方がそのまま動物名になりました。

 一方、ニスは、ふつうはカタカナで書き、ひらがなや漢字の表記は使いません。外来語という意識があるからです。ニスの語源はオランダ語のvernis(英語のvarnishにあたる)だとお話しましたね。

 でも、ニスという語を耳で聞いたときに、それが外来語なのかどうか、どうやって区別しますか?私たちは、カタカナで書いているから外来語だと思っているだけです。
 留学生にとって、カタカナのことばの表記を覚えるのは、なかなかたいへんです。

 英語圏の学生は、英語由来の語だと、どうしても英語の発音通りに書こうとしてしまうし、英語圏以外の留学生にとっては、どれがカタカナで書けばいいのかわからないから、一語一語、書いて覚えます。

<続く>

わかよたれそ・ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座発音と表記編

2013-07-24 | 日本語


わ:『ワ』がありません!ハングル練習 
2008/08/16 

 日本語学習者にとって、ひらがなカタカナを覚えるのもたいへんなんですよ、ということを、日本語教師志望者に身にしみさせ、日本語との発音対照を考えるために、前期は「ハングル文字で自分の名前を書こう」後期は「タイ文字で自分の名前を書こう」という演習を行っています。

 ハングルは、韓国語朝鮮語の発音に適した、たいへんすぐれた表音文字です。音素文字を組み合わせて語を表記します。「k」は「フ」です。 「a」は「ト」です。

 子音と母音を組み合わせれば「ka」=「フト」です。音素文字を、二つ、三つ、四つまで組み合わせることができます。

 今年、現代日本語論の授業には、日本語教師志望者の日本人学生に混じって、韓国からの留学生も出席しています。イさんがハングル表記の先生です。
 日本人学生たち、ハングル表をみて、自分の名前を書いてみる。
 すんなり表記できる学生もいるし、「ない、ない、みつからない」と、言う学生もでてくる。

 渡辺さんは「ワとベがありません」と、困っている。
 黒木さんは「クが2種類あります、どっちがいいんですか」と、悩んでいる。
 厚木さんは、「アはみつかったけど、ツがありません。ギもありません。ぜんぜん書けません」と、大弱り。

 「はい、どう書いたらいいか、わからない人、イさんに相談してね。書けた人は、それで正しいかどうか、イ先生に○をもらって」

ハングル表の一例
http://denchina.hp.infoseek.co.jp/hankiri.htm

 この練習は、ハングル文字を覚えるためにしているのではありません。
 他の母語の学習者の発音と日本語の発音を比べて、どこが間違いやすいか意識するために行うのです。

 「ツ」や「ワ」にあたる発音と文字は、ハングルにはありません。
 名前の文字をさがす日本人学生たち、土屋さんは、ハングル表には「チュ」はあるけれど、「ツ」がないことに気づきます。
 すると、母語に「ツ」がない韓国の留学生にとって、「ツミキ」「ツクダニ」は、言いにくいことがわかります。

 「th」という発音がない日本語母語話者にとって、thank youがsank youになってしまうのと同じで、zaという発音を持たないタイの日本語学習者は「おはようごじゃいます」と、なりがちです。

 もちろん練習すればできるようになります。
 でも、意識しないとついつい私たちのサンキューがthankでなくsankとなるように、おはようごじゃいます、になるのです。

 ハングル練習をして、隣の国の言語でも、日本語と比較するといろんな違いがあることに、気づきます。
 日本語母語話者にとって「ツ」は特別むずかしい発音に思えないとしても、この発音が母語になければ、なかなか習得できない人もいる、ということが、わかってきます。

 日本語のタ行の音は、3種類の発音が入り交じってできています。
ta ti tu te to タ・ティ・トゥ・テ・ト、
cha chi chu che cho チャ・チ・チュ・チェ・チョ、
tsa tsi tsu tse tso  ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ

 「ツ音」の行、「つ」以外は、日本語でも外来語にしか用いない発音です。
 日本人にとって「ツァ」「ツェ」などが発音しにくいのと同じように、日本語学習者のなかで、「ツ」を苦手にしている人、多いです。

 タイ語母語話者などが、「お疲れさま」を「おちゅかれさま」と、言うときがあります。バイトを終えて、疲れたときなど、ついつい日本語の発音に気が回らなくなって、お国なまりがでちゃうんですね。

 「韓国語母語話者の発音誤用の特徴は~」「タイ人の学習者はここをよく間違える」「中国語母語話者は~」と、教師が箇条書きにして示してやるほうが、手っ取り早いのかもしれません。
 でも、私は「自分で気づく」ことを優先するために、時間をかけてハングル表記練習をさせています。

 自分や友達の名前の表記文字が、ハングルにないことに気づけば、韓国では自分の名前の発音をどうやって声に出し、文字にしていくのか、知りたくなるからです。

 韓国からの留学生イさんは、「つ」の発音もじょうずでした。
 ハングルの名前の書き方を、イさんはていねいに指導していました。


 


か:かっか、くっく、野口さんはシインで笑う・有声音と無声音の話
2008/06/02

 日本語母語話者は、口音濁音の「が」と、鼻濁音「が」の音にちがいがあることを知っています。でも、「ががく が」と、助詞の「が」に鼻濁音を使っても、使わなくても「雅楽が」という意味は変わりません。異音ですから。

 異音は、発音が異なっていても、ことばの意味を区別くない音のセットです。
 日本語では「la」と「ra」は異音だから、英語のlightとrightは、同じライトになって、同音異義語になってしまう、とお話しましたね。

 しかし最初の「が」を「か」に変えると、意味が変わってしまいます。
 「かがく が」と、濁音と清音を変えると「化学が/科学が」へと、意味が変わります。清音の「か」と濁音の「が」は、日本語では「ことばの意味を区別する音」だからです。

 ハングルでは、濁音と清音は異音です。語頭には清音を使います。語中には、濁音をつかいます。ハングルの「フト」は、「カ」「ガ」どちらにも読めるのです。
 韓国語朝鮮語話者は、異音の濁音「ガ」と清音「カ」を無意識に使い分けています。

 ハングル表ととひらがな表を比べて、韓国語にとって「カ」と「ガ」が異音であることを知ると、日本語の語頭の濁音は、韓国の学生にとって、間違いやすいことがわかります。学生は「カクセイ」となることもあるし、「赤い」は「あがい」になってしまうこともある。他の濁音も同じ。

 ハングル文字で「か」と書いてみましょう。もう書けますね。「フト」でした。この書き方、似ているのがありますね。二つの文字、子音と母音を組み合わせる方法。

 「か」をローマ字で書いてみましょう。そう、「ka」ですね。ではkaのなかの「a」だけ発音してみて。

 学生たち「アー」
 はい、よくできました。
 のどに手をあててください。「あ~」と言って。はい、いまのどがビリビリとふるえました。声帯を震わせたからです。この声帯がふるえる音を有声音といいます。

では次に「k」。aなしに、これだけ発音しましょう。
 学生を指名すると。
 「ケイ」
 そうね、アルファベットの「文字の名前」はケイです。でも、ここでは、文字の名前を言うのではなくて、kaという発音のなかの前半分のkだけ発音してほしいのです。

 「k」の発音をしてくださいと言って、学生何名かに発音させると「ku」と言う。つぎつぎにあてていく。「ku」、「ku」、「 ku」、、、、、中に「k」と発音できた学生がいると、拍手拍手。よくできました。

 他の学生にもこの「k」だけの発音を伝授します。
 「ちびまるこのクラスメート、のぐちさんを知ってますか」
 学生たち、ちびまるこのアニメを見て育った世代なので、みな、のぐちさんをよく知っている。

 はい、のぐちさんが笑います。kっkっkっ。これがkの発音です。はい、みなさんも、のぐちさんになってください。
 k、k、k、、、、、

 では、のどに手をあてて、もう一度「のぐちさん笑い」をします。「kっkっkっ」
 こんどは、のどがふるえなかったでしょ?声帯をつかっていないからです。これを無声音といいます。

 あら、「くっ」で、ふるえたの?それは「ku」です。[u]をつけちゃったから、声帯がふるえた。[u]は、母音で、有声音ですから。

 普段、私たちはkaの音のkだけを分解して発音することがないので、kの音を発音しようとしても、どうしてもkuになります。
 日本語母語話者がbook storeを発音すると bukku sutoa、ブックストアとなります。bookの[k]だけを発音することはむずかしい。

 日本語ではkだけを音のまとまりとして使うことがないのです。アイウエオの音がkに組合わさった、ka、ki、ku、ke、koを、ことばを表現する最小単位として使っています。
 この「ことばを組み立てている音の、ひとまとまりのくぎり」を音節といいます。





よ:よっ!ギョエテさんはボイン好きだが、ウォタナベさんは半ボイン、特殊拍の話

2008/06/06

 渡辺さんの「ワ」は、ハングルにはないので、ウォァoaで代用するしかないみたい。
 ハングル文字表記では渡辺さんは「ウォアタナヘ」になる。
 土田さんは「チュチタ」になる。

 イギリスやアメリカのスミスさん。綴りはsmithさんです。最後のthは、日本語音節にはない音ですから、suで代用し、日本語発音ではsumisuスミスさんと呼ぶしかありません。
 sumithさんをスミスさんと呼んでいるのですから、渡辺さんもウォアタナベさんで我慢してもらうよりほかありません。
 
 名前の発音、他言語で表記するのはとてもむずかしい。
 ドイツの文豪ゲーテ (Goethe) の日本語表記は、ゲーテのほか、「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」などが、ありました。苦心の表記だったのでしょうね。

 ハングルで、ウォァと書いて「ワ」の代用にしてみると、日本語の「ワ」も、ウァまたはオァという半母音であることがわかってきます。

 日本語の半母音は、「ワ行」と「ヤ行」です。
 「や」はイァ、「ヨ」はイォという半母音です。

 さて、母音、子音、半母音と並べてきましたが、ここで、日本語の音節(ことばを組み立てているひとまとまりの音)は、いくつ有るか、数えて見ましょう。

 母音とは、のどから外まで息がどこにもじゃまされないで出てくる音をいいます。じゃまされなかった音が口から出ていくときと、鼻から出ていくときがあります。フランス語や東北弁では、鼻に息が抜けていく鼻母音が多用されます。

 子音とは、歯や舌、唇などで音がいったんじゃまされてから外に出てくる音です。
 [b]という音を出してみましょう。唇で息が止まり、唇の隙間から音が出ていくことがわかります。同じように唇で音をふさぎ、鼻から息をだしてやると[m]の音が出せます。

 音節とは、母音と子音を組み合わせて、ひとまとまりの音となったものをいいます。
 「子音+母音」の組み合わせを「開音節」といいます。
 「子音+母音+子音」または、「母音+子音」

 開音節と閉音節については、また、のちほど詳しく話します。
 日本語は開音節を組み合わせてコトバを組み立てている、ということだけ覚えておいてください。




た:タタタン、タンゴと音節の話
2008/06/08

 「か(蚊)」は一音節の語です。「かめ(亀)」は二音節の語です。「カメラ」は、三音節の語です。「カメラ屋」は、四音節の語です。
 これらの音節はすべて「母音+子音」でできています。
 音節をつないで「単語」ができあがっています。

 音節を「モーラ=拍」ということもあります。ことばを区別するひとまとまりの音を、音の長さからみたときの言い方を拍と呼びます。「おじさん」は4拍です。「おじいさん」は5拍です。「おじさん」と「おじいさん」の区別ができない人に、拍手しながら、おジさんは4つ手をうつ、おじいさんは5つ手をうつ、と教えて、拍手させながら発音させると、区別できるようになりますよ。

 「タン、タン、タン、タン」と手を4つたたく。「お、じ、さ、ん」
 「タン、タン、タン、タン、タン」と、手を5つたたく「お、じ、い、さ、ん」

 また、「来て」と「切って」の区別ができない人はもっと多くいます。日本語は、母音が短いか長いか(長母音・短母音)、詰まる音(促音)をことばの意味を区別する音の単位として用いていますが、そうでない母語の人にとっては、「おじさん」「おじいさん」のちがいがよくわかりませんし、「まち」と「マッチ」の違いもわかりません。

 そういうとき、拍感覚、手を三つ手をたたくのか、四つ手をたたくのか、という長さの単位を教えてやると区別がしやすくなります。
 「タン、タン」と手をたたきながら「ま、ち」
 「タン、タン、タン」と手を3つたたいて「マッチ」
 
 日本語には、「母音だけ」「母音+子音」の音節のほかに「子音」だけの音節があります。「撥音ん=[n]」です。また、長音、促音、の区別も重要です。
 子音だけの撥音、長音、促音の三つの音節を特殊拍と呼びます。

 日本語のことばの意味を区別するひとまとまりの音=音節。
 母音、母音+子音。
 特殊拍=撥音(子音[n]だけ)、促音、長音。
 この音節を組み合わせていけば、単語が作れます。

 これらの音節の数が、日本語にいくつあるか、かぞえてください。
 ヒントにはなりませんが、参考までに。中国語の音節数は、400~500。英語の音節数は6000以上(学者によって数え方がことなるのですが)

 日本語の音節はいくつあるか、という問題。考えた?これは、日本語の表記方法と密接な関係があります。

 音節数と同時に、日本語の表音文字、ひらがなカタカナについて確認しておきましょう。

 日本語のひらがなとカタカナは、音節ひとつにひとつの文字をあてはめています。音節文字といいます。

 このような音節文字は、現在使用されている世界の文字の中では、少数派。
 日本語のひらがなは、最初から母音と子音を含んだ文字になっています。
 「かka」「さsa」と、ひとつの文字で、「母音+子音」を表しています。

 このような音節文字によって表記している民族、多くありません。
 大地震があった四川省に住む少数民族、イ族の「彝語」を表記する文字が、「音節文字」です。

 「涼山規範彝文」は、声調も含めた異なる音節を、各々別の文字で表しています。
 「彝文の文字」は、日本語のひらがなと同じく真正の音節文字。
 文字の数は800あまり。つまり、音節が800あります。

 イ族の800の文字、覚えるのがちょっとたいへんかもしれません。
 でも、覚えてしまえば、イ族の人たち、自分たちの母語を、そのままに記録できます。
 漢族の子供たちが覚えなければならない漢字の6千よりは文字数が少ない。

 イ族の文字は、こんな字です。ウィキペディア画像より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Yiwen.jpg

 「日本語の音節はいくつ」クイズ、答え合わせをしましょう。
 ことばに用いる発音のひとまとまりが音節でした。
 日本語のことばの発音の種類=音節がいくつあるかという答えは、音節文字の数を考えてみてね。
 
 イ族の文字が800あり、音節文字が800あるっていうのが、ヒントです。
 はい、いくつ?
 日本語母語話者にとって、答えはかんたん。ひらがな表の数を思い出して。(五十音図を見せる)はい、これ、50音図です。

あいうえお
かきくけこ
さしすせそ
たちつてと
なにぬねの
はひふへほ
まみむめも
や ゆ よ
らりるれろ
わ   を

 「わかった、音節は50ある」と、学生の声。
 え?音節の数、50だけ?
 これは清音の表です。文字は50だけれど、発音は清音だけ?

 そう、濁音もありますね。「は行」には半濁音(P音)もあるし、拗音もあります。拗音は、ひらがなを二つ組み合わせてひとつの音節を表しています。「きゃ、きゅ、きょ」のように、小さい「ゃ、ゅ、ょ」を組み合わせる音。

がぎぐげご きゃきゅきょ ぎゃぎゅぎょ
ざじずぜぞ しゃしゅしょ じゃじゅじょ
だぢづでど ちゃちゅちょ ぢゃぢゅぢょ
      にゃにゅにょ
ばびぶべぼ ひゃひゅひょ ぴゃぴゅぴょ
ぱぴぷぺぽ ぴゃぴゅぴょ
      みゃみゅみょ
      りゃりゅりょ

 清音濁音拗音を全部たします。
 はい、これにプラス、カタカナの外来語の音があります。




れ:レディとフィルム・片仮名で書く音節 
2008/06/08

外来語に使うカタカナ表記の音。
 たとえば、オフィスレディとかディナーっていうときの「ディ」、ひらがなの詞には、「でぃ」と表記する語はありません。

 ツィゴイネルワイゼンのツィとか、レッドツェッペリンなどのツェ。「トゥルー・ラブ」なんてときの「トゥ」とか、」
 さて、合計いくつになったかな?

 若い人は新しい外来語の音、発音できますよね。
 若い人が写真のフィルムという時の「フィ」もカタカナだけでつかう。お年寄りはこの音をつかいません。フイルムといいます。
 「あ、そうそう、うちのおばあちゃん、フイルムって言うよ」と、平成生まれの日本人学生。
 
 そういうのを全部加えると。はい、そうです。百前後。
 115あります。音声学者によって、数え方はまちまちですが、ま、115前後と思ってください。

 まちまちというわけは。学者によって「どの音を日本語の音韻として認めるか」という基準が異なるからです。
 大多数の日本語母語話者が生まれたときからこの音を不自由なく使いこなせる、という基準にゆれがあります。

 たとえば「ウィ」という音。機転機知などの「wit」
 ウィットと発音する人とウイットと発音する人がいます。

 この場合、「ウィ」を日本語の「標準的な音」と認めるかどうか、判断が分かれます。日本語母語話者大多数が「ウィ」という音を生まれたときから習得していれば、「日本語の音」と認めることができるのですが。

 「ウェ」という音。まだ、日本語の音としては「ウエ」の発音が多数です。
 結婚「wedding」を、ウエディングと発音する日本語母語話者が多い。ウエディングケーキ、ウエディングリングなど。

 この場合、「ディ」という音は、おおかたの人が使っているけれど、「ウェディング」という人は少ない。「ウェ」という音は、標準的な発音になっていない。

 イァ イェ イゥ イォ
 ウァ ウィ ウェ ウォ
 クヮ クィ クェ グェ グィ グェ
 スァ スィ スェ スォ ズァ ズィ ズェ ズォ
    ティ トゥ    ディ ドゥ   
 ツァ ツィ ツェ ツォ ヅァ ヅィ ヅェ ヅォ 
 ファ フィ フェ フォ ヴァ ヴィ ヴ ヴェ ヴォ

 これらの「片仮名表記外来語」にだけ用いる音節も含めると、115前後という音節の数が数え上げられます。
 
 イ族の文字が800あり、音節文字が800あるというのから見ると、音節が115で音節文字の種類が50個というのは、少ないですよね。
 音の種類の少なさからいうと、太平洋のハワイ諸島の現地語ハワイ語の次に、音の種類が少ない。
   
 発音の種類が少ないからと言って、単語の数が少ないってことはありません。
 この115の音節だけで森羅万象のことばを表現できます。同音異義語が多いことに関しては、漢字表記の説明のときにします。

 世界中のことばの発音のなかで、日本語の発音の種類は少ない、ということを確認しました。たった50個の文字で、スペリングなど習わなくても、ある程度書けます。発音通りに書いていけばいいのですから。

 ある程度というのは。
 長音の書き方の規則がちょっと面倒。
 「時計 とけえ」「お姉さん おねいさん」「大きい おうきい」などのひらがな表記の間違いは、日本語学習者だけでなく、日本語母語話者である日本人の子供にも、よく見る間違いです。

 長音の書き方さえマスターすれば、あとは、だいたい問題ありません。

 有声音(濁音)と無声音(清音)はセットで同じ文字を使います。
 有声音(濁音)には、「清音」に「点々」を加える表記体系なので、文字数は50種類ほどです。50音と呼ばれています。

 中世近世の日本の一般庶民は、識字率が世界で一番高かった。これは、最低限の50個さえ覚えれば、母語を話すとおりに記録でき、読むことができたからです。
 音節文字の仮名は、たいへん簡単ですぐれた表記方法なのです。

 世界の主流派表記システムでは、アルファベットやハングルのように、音素/単音文字がほとんどです。母音の文字と子音を組み合わせながら表記します。文字の数が少なくてすみます。

 英語の文字。アルファベットは27個で少ないですが、この27個を覚えただけでは読み書きできません。
 スペリングをおそわらない限り、英語圏の子供は、「ライト」という単語をlightとはつづれない。
 「知ってるよ、それ、ライトだよ」と書きたくても、スペリングを教わっていなければ、「I know it.It's light.」とは書けません。「I no it. It's liat」と書くと、「何、それ?」と言われてしまいます。

 日本のこどもは、頭で考えたとおりに「ですのーとのらいと?ぼく、しらない」とそのまま書けばいいのです。 




そ:そのまま発音通りに書くとはいえ、「おうじは おおじをゆく」
2008/06/06

 発音通りに書くのが現代仮名遣いの原則、とはいえ、日本語にも例外が三つだけあります。さて、発音と文字が一対一対応でないのは、何と何?

 「は」と「へ」の文字は、ひとつの文字が2種類の発音を担っている。
 この2種類の発音のちがいは、日本語母語話者も意識しています。小学生のとき、「わたしわ がっこうえ いきました」と、発音通りに書くと、先生に赤ペンで添削されたから。

 「は」。
 意味内容を担う「語/詞」に用いるときは「ha」と発音する。「はな」「はつおん」など。助詞として用いるとき「は=wa」と発音する。
 「へ」。「へや」「へいわ」などのときは「he」と発音する。助詞のときは「へ=e」と発音する。

 三つ目の例外は「ん」。
 日本語母語話者は、「ん」はひとつの発音だと思っていますが、音声学からいうと、[n][m][ng]の三つの発音があります。

 この三つの音は、異音(発音はちがっても、同じ音に聞こえる)ですから、その違いは、母語話者には意識されていません。
 「ん」の発音については、春庭カフェコラム2007/10/05~10/07をご覧ください。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200710A

 話した通りにかけばよい日本語も、いくつか「覚えないと書けない」ことがあります。「じ/ぢ」「ず/づ」のかき分けと長音表記です。ちょっと、ややこしい点があります。

 学習者が表記にとまどっているとき、「どうしてお姉さんをおねいさん、って、書くのよ」「大きいbigは、おうきいじゃなくて、おおきいって書くと教えたでしょ」と思わずに、ああ、私もりんごをappuruと書いたことがあったなあ、と自分自身の失敗を思い出すことにしています。

 ひらがなひとつでも、学習者の疑問質問と、とまどい間違いを大切にしてくださいね。
 ひらがなカタカナの教えかた、大切ですよ。

 はい、ここでスペリングコンテストを行います。英語じゃありません。日本語の表記テスト。

正しい表記、aまたはbを選んでください。
A:
1)小遣いaこづかい・bこずかい 
2)稲妻aいなずま・bいなづま 
3)鼻血aはなぢ・bはなじ 
4)地面aじめん・bぢめん
5)aこぢんまり・bこじんまり 
B:
6)狼aおおかみbおうかみ 
7)大凡aおおよそ・bおうよそ 
8)公aおおやけ・bおうやけ 
9)仰せaおおせ・bおうせ 
10)氷aこおり・bこうり

 簡単でしたか。「日本語なら、お手のものだ」ですよね。
 10点満点。合格点に達したかな?

 日本語学習者は、一生懸命この表記を勉強するんですよ。
 以上のクイズは、日本語教師をめざす人のための「日本語教育能力検定試験」の過去問と、日本語学習者のための「日本語能力試験」の過去問からえらびました。

 クイズの正解。全部「a」

 日本語学習者が、「オの長音long vowelはウと書きます。王子はおうじ。でも、大路はおおじです。なぜですか」と質問してきたとします。あなたには、どう解説していいかわかりません。どうしますか。

 そのときは、「では、来週答えます」と言っていいですから、翌週、説明してやってください。
 答えは、日本語現代仮名遣いの本に載っていますよ。
 現代仮名遣いは1946年制定、1986年に改定されました。

 「お」の長音表記について。
 王は、オーと長音long vowelで発音します。「お」の長音は「う」とかきます。「おうじ」です。
 「おとおさん」ではなくて「おとうさん」、「とおだい灯台」ではなく「とうだい」

 古代日本語の発音では、大きいは「おほきい」でした。千年の間に、発音が変化して、「おほきい→ オーキー」と発音するようになりました。
 60年ほど前までの、日本語の書き方では。
 大きい=おほきい、大路=おほじ、と書きました。古代の発音通りに書いていたのです。
 現代仮名遣いでは「ほ→お」と書くのが決まりです。ライティングルールです。

 「大おお」がつくことばは、おお~と書いてください。だから「大路」は「おおじ」です。「王子おうじ」も「大路おおじ」も発音は「オージ」ですが、書き方はちがいます。

 春庭の「ひらがな長音表記の主張」をもう一度。
 カタカナと同じように、長音記号「ー」をつかって、おかーさん、おとーさん、おばーさん、おーじ」と、書けばよい。

 ひらがな表記の例外。
 稲妻は、もともとの意味は「稲の妻」。稲を育てる水をもたらす稲光=稲妻いなづま、でした。しかし、現代人の意識には「妻」という意識がなく、「いなずま」として一語に理解されているから「いなずま」と書く。(ただし、許容範囲として、いなづまでもOK」

 ややこしい例外表記について、解説。
 じめん、きずな、さかずき、など、私には納得できないカナ表記がいろいろあります。

 「ぢ・じ」「ず・づ」のかき分け。
 原則、元の語の通りに書く。三日月は、「月つき」の濁音だから「三日月みかづき」と書く。元の語が「血ち」だから、「鼻血」は、「はなぢ」

 日本語学習者が「ぢとじは同じ発音ですね」「ぢかん、どうしてダメですか」「みかずきはいいですか」と質問してきたとき、どうしますか。

 「時間はじかん、三日月はみかづき。なんでもいいから、覚えろ」という人もいます。それもひとつの教授法だといえます。理屈よりとにかく暗記。
 でも、理屈で納得できないと先に進めない学生もいるんですよ。

ちりぬるを・ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座発音編

2013-07-17 | 日本語
ち:ちがいがわかる文字と発音チリとトリ=音韻の話

2008/06/01
ち:違いがわかる文字と発音チリとトリ=音韻の話

 世界各国から日本の大学大学院にくる留学生に日本語を教える仕事とともに、
 大学の副専攻として設置されている日本語教師養成講座で日本語教師志望者たちに、日本語学、日本語教育学を教えることが、私の仕事のひとつです。

 日本語教師の卵たちが、うまく孵化し鳥になって世界に羽ばたいていくのを見るのは、教師の喜びのひとつ。
 孵化しないで、「塵」となって散り散りになる学生も、いますけれど。

 「ちり」ときこえたときと、「とり」と聞こえたとき、同じ音、同じことばを聞いたと思いますか。
 違いますよね。「チリ」は、「塵」かもしれないし「散り」かもしれないけれど、「トリ」とは異なります。トリは「鳥」か「取り」かわかりませんが、チリとは異なります。

 日本語では「と」と「ち」は、別の音です。このようなことばの意味を区別する音のセットを「音韻」と呼びます。
 人が発音できる音はさまざまにあるけれど、ことばに必要な音は、それぞれの言語によって違っています。

ことばを組み立てるために使われる音を「音韻」、たとえば、英語では、右は、「right」です。灯りは「light」です。
 英語では「la」と「ra」の音の違いを、ことばの意味の区別に利用しているのです。つまり英語の「la」「ra」は、別々の音韻です。

 でも、生まれたときから日本語を話して生活している人にとっては、rightも、lightも、どちらも「ライト」と聞こえます。
 日本語では、ことばを音で表すとき、「la」「ra」は、別の音とは思われず、同じ音として扱われています。このような、「同じ音」に分類される音を「異音」と言います。

 異音とは、「音声的には異なる発音をしているけれど、ことばを組み立てる音としては、同じとみなすセットの音」です。
 言語によって、さまざまな異音のセットがあります。

 日本語では[su][th]の区別はしないから、sank you と発音しても、thank youと発音しても「サンキュー」と聞こえます。
 日本語では、[v][b]の区別はしないから、「love」と言っても、「rub」と言っても、ラブと聞こえます。

 どの発音をことばの区別に利用するか、それぞれの母語によって異なります。
 日本人にとっては、「thank you」と言っても、「sank you」と言っても、同じサンキューに聞こえます。他の言語の人にとって「おじさん」と「おじいさん」は、同じに聞こえます。「来て」と「切って」は、同じ音に聞こえ、区別ができません。

 音声的には異なる音であっても、ことばの組み立ての上では「同じ音」と認識するある二つの音を、音韻論では「異音イオン」と言うと紹介しました。代表的な日本語の異音として、日本語標準語の、濁音の「が」と鼻濁音の「ガ」の異音のセットがあります。

 ひらがな表記では同じ「が」ですが、口から息を出す口音・有声音「が」と、鼻から息を出す鼻濁音(鼻音・有声音)「が」のふたつがあります。
 語頭の「が」は口音、語中の「が」は鼻濁音を使う、というのが標準語の「が」の発音でした。

 「私は雅楽の楽譜が読めない」というとき、雅楽(ががく)の最初の「が」や「楽譜が」の最初の「が」は、口音です。「楽譜が」の二番目の助詞「が」は鼻濁音。
 このふたつの異音を無意識に使い分けていたのです。
 異音は、同じ音と見なされますから、「ががくが」「がくふが」を、全部口音で発音しても、意味はまったく変わりません。

 かって、NHKのアナウンサーは、このふたつの音を使い分けられないとニュースを読ませてもらえない、と言われましたが、今はどうでしょう。
 現在、若い世代のなかには、鼻濁音「が」を使わない人が増えています。全部、口へ息を出す濁音の「が」です。

 それで、日本語の異音の話をするとき、「が」の例を使っても、わかってもらえなくなりました。



2008/06/04

り: リスとニス、ノーサイ研究・異音の話

 もうひとつ、日本語のわかりやすい異音のセット、「ん」の発音があります。
 「ん」の異音については、春庭カフェコラム2007年/10/05~10/07をご参照ください。
 
 nとrが同じ音に聞こえるという人もいる。
 中国南部の出身者にとっては、「栗鼠リス」も「ニス」も同じ音に聞こえます。[n][r]が異音だからです。

 塗料のニスの語源はオランダ語vernisです。英語だとvarnishですが、これは語彙論のところで「外来語のはなし」で詳しく教えます。今は、リスとニスの発音のはなし。

 日本語では、リスとニス、動物のリスと塗料のニスは違うことばですよね。なんで違うことばなのに、区別できないんだ、と思ってはいけません。
 日本語を生まれたときから話している人には、thankと sank の区別ができませんし、lice とriceの聞き取り区別ができないのですから。シラミもご飯も同じ「ライス」です。

 日本語母語話者にとって、「l」と「r」は同じ音に聞こえる「異音」です。中国南部出身者にとって、「n」「r」は、同じ音に聞こえる異音です。

 母語によって、どの音声をことばを区別する音に採用しているかが異なります。この違いをまず知ること。

 先月末、ある日の講師室での雑談。
 ある先生が、授業中の学生発言の報告をしてくれました。

 「中国の学生が、日本のノーサイ・システムについて研究したい、と言うのよ。農祭かしら、納采かな、と質問してみたけれど、なんだか話がかみ合わない。よくよく聞いたら、労災システムの研究をしたいということでした。中国では、まだ会社の労災などが整備されていないんだって。
 でもどうしてローサイがノーサイになっちゃうんでしょう?」

 日本語学の立派な著書をお持ちの先生ですが、それでも、中国語方言発音の異音までは、気にしていなかったようです。
 かく言う私も、中国南部出身者を教えるようになるまでは、その地方では、[n][r]が異音であることなど知りませんでした。


 

2008/06/05

ぬ:ぬ:直しつつ日本語修行・日本語教師は毎日が勉強

 日本語教師、すべての日本語学言語学すべての知識を頭に入れてから授業をしようと思ったら、100年かかります。
 本から得た知識、基礎を知っておくことは大切ですが、授業をしながら、学生の質問に答えながら、知識を増やしていけばよいのです。
 「習うより慣れろ」
 ある程度の基礎知識を得たら、実際に現場にでて教えてみるといい。学生の間違い方のパターンを知ることで、日本語文法の知識を増やすことができるし、学生発音のまちがい方を知れば、音声学の知識が必要なことがわかる。

 「いろんな失敗をしながら体験的に日本語学を学ぶほうが、しっかり身につきますよ。知らないことだらけで、恥をかくのも勉強のうち」
と、日本語教師志望者には言っています。

 日本語教師1年2年やったくらいで、一人前にお給料もらえると思いなさんな。
 日本語教師になって3年間は、「研修中」と考えて、お給料をいただきながら教育実習をさせてもらっている、と考えなさい。

 だいたい、日本語教師20年やっている私が、薄給をかまんできるのも、「教えながら学べることが、なんと多いことか」と思っていられるからです。
 毎日ちがう色合いで新しい知識を身につけ、昨日の私にひとまわり違う色を塗り直し、塗り直ししていける仕事が日本語教師です。


2008/06/05

る: ルリもハリも磨けば光る、あなたのボインも磨けば光る・母音と子音の話


 最初はただの石ころでも、毎日塗り直し毎日磨いていけば、かならずよい日本語教師になれますよ、と、日本語教師志望者に話します。
 ただし、「自分は日本人で、日本語を生まれたときから話しているから日本語を教えられるだろう」などと、安易に考えて日本語教師になろうとしても、そうはいきません。

 瑠璃も玻璃も磨けば光る。でも磨かなければ、曇りっぱなし。あら、「瑠璃ってなんだか知らないの?ああ、玻璃も何のことだかわからない」
 では、辞書を引いてください。日本語教師、辞書をひくのは、基本中の基本。

 語彙を増やすこと、漢字の復習、文法の確認、音声の復習。日本語教師に必要な基礎事項はさまざまにあります。
 今回は、「文字と発音」について、復習します。

 さて、日本語の音の単位は「音節」だと言いました。
 「ルリ」と「ハリ」は、別の語とみなされています。その違いは、「ル」「ハ」の音の違いが認識されているから。

 日本語母語話者は、「課はどこだ?」とか「蚊に刺された」という発言をして、「か」と発音したとき、自分は「か」というひとまとまりの音を発音したとおもっています。
「か」が分解できるとおもっていません。
 「ひとまとまりの音」と聞こえる最小単位の音を「音節」といいます。

 日本語母語話者にとって、分解できない単位と思われる「か」も、ローマ字表記すると、「ka」。
 分解できますね。「k」「a」のふたつの文字を使います。この[k]また[a]、ひとつひとつを、「単音」「音素」といいます。

 [a]、[i]のような音を「母音ボイン」といいます。日本語だと母音は、「あいうえお」の5つです。
 母音5つの日本語に対して、スペイン語イタリア語など同じく母音5つの言語は発音しやすい。
 とくに、イタリア語は発音しやすい。なぜかというと。ことばの音作りの基礎が同じしくみだから。

 [r][h]のような音を「子音シイン」といいます。
 日本語は、[ru]や[ha]のように、いつも、子音と母音がふたつ組合わさった音によって単語ができあがっています。これは、日本語の発音の大きな特徴です。

 イタリア語も、だいたいこの母音と子音を組み合わせた発音なので、日本語母語話者にとって、発音しやすいのです。スワヒリ語も日本語と音の組み立て方が同じです。発音しやすい。

 スワヒリ語やイタリア語は、カタカナ書きをして、その通りに読んでいけば、ほぼ、現地の発音と同じに聞こえます。
 イタリアへ行ったら「Ti amo.ティアモ 」と、言いましょう。ケニアへ行ったら「Nakupendaナクペンダ」と言いましょう。このとおりにカタカナで読めば、「愛しています」と表現できます。

 一方英語は日本語と発音の仕組みがちがうし、英語の母音は、少なく数える学者の数だと16、多く数える学者だと20以上あると言います。日本語母語話者にとって、英語は実に習いにくい、発音のやっかいな言語です。

 英語をカタカナ書きして「アイラブユー」と言うと、「私はあなたをこすります」になることもあるから、お気をつけください。

 さて、日本語の音節と文字のお話のうち、母音の文字は「あいうえお」です。
 でも、「オ」という発音を表記するために、ふたつの文字を使い分けていること、学習者が質問することがあります。
 「どうして、『りんご お たべました』と、書くといけないのですか」

 「発音は同じですが、助詞は『を』と表記します。日本語の決まりです」という説明で、かまいません。それ以上複雑なことを言っても、初級学習者には理解できませんから。

 でも、日本語教師、「を」と「お」のちがいについて、「助詞には『を』をつかう」以上のことを日本語言語文化として知っておきましょう。



2006/02/02

を: をとめと女と姥 五十音図の発音

 現代日本語では、「お」と「を」は同じ音ですね。

 今日の課題:「をんな」と「おんな」つきあうなら、どっち?娘と乙女、恋人にするならどちら?

 日本語ゼロスタートの留学生クラス。
 学生達は、「おはよう」「ありがとう」などの数語をガイドブックなどで仕入れた程度で教室へやってきます。

 教室の教材教具で最初に活躍するのが五十音表。日本語の音節の発音、文字の練習に使われます。
 五十音表は平安初期に成立し、五音図、反音図などと呼ばれていました。

 ひらがな成立のころから、一般の手習いには、五十音ではなく「手習い歌」が使われました。
 漢字から作られた仮名文字が整備され、手習いのための「平仮名セット」のうたがあったのです。平安初期に成立したのが「あめつちのことば」、平安後期には「いろは歌」が成立しました。

 「あめつちの歌」は、日本語の無声音(清音)の音節47を重複することなく網羅して、これさえ覚えれば、日本語の音節を表記できるのです。
 濁音の表記はまだありませんし、「ん」の文字も成立していません。
 「え」が2回でてくるので48字あります。

 「あめ(天)、つち(地)、ほし(星)、そら(空)、やま(山)、かは(河)、みね(峰)、たに(谷)、くも(雲)、きり(霧)、むろ(室)、こけ(苔)、ひと(人)、いぬ(犬)、うへ(上)、すゑ(末)、ゆわ(硫黄)、さる(猿)、おふせよ(生ふせよ)、えのえを(榎の枝を)、なれゐて(馴れ居て)」。

 「えのえを」と、「え」が二度出てきます。ア行のエ(e)とヤ行の(ye)が区別されていた時代を反映しています。平安初期以前には、ヤ行は「ya i yu ye yo」の発音が区別できていました。万葉仮名ではヤ行「ye」とア行「e」が区別されています。
 もっと前は「ya yi yu ye yo」だったと考えられます。

 平安後期に成立した「いろは歌」になると、「え」は一度だけですから、平安後期には、ヤ行「ye」の発音はア行の「え」と同じになってしまったことがわかります。
 ア行の発音は江戸時代まで「a i u ye wo」でした。江戸時代には現代と同じ「a i u e o」の発音になりました。

 では、「あめつちのうた」「いろは歌」47文字の平仮名のなかで、現在はつかわれていない仮名文字「ゐ・ゑ」は、どんな発音だったのでしょう。

 「わゐうゑを」は、wa wi wu we wo という半母音であったものと思われます。「あめつち」や「いろは歌」が成立するころには、wuは「う」と同じになっていて、wuに相当する仮名文字はありませんでした。
 wiゐ、weゑの発音はア行の「い」「え」と別の発音でした。「woを」と「oお」も別々の発音。

 古代語で「おんな」は年をとった女性、「をんな」は若い女性をさし、異なる発音で区別していました。しかし、現代では、「お」と「を」の発音が同じになり、「おんな」は、若くても年寄りでも同じ「女」です。
 現在、「を」の文字は、助詞の「を」にのみ使用されていますが、「お」と「を」の発音は同じ。訓令式ローマ字表記ではどちらも「o」です。

 文字による日本語の記録が始まった飛鳥奈良時代以前に、「男」「乙女」が日本語単語として存在していました。
 「をとこ」は、「若い」という意味の「をと」プラス、「子」です。この「をと」に人をつけると、をと人→をとうと(弟)。
 「をと」プラス「女」(め)で、「乙女」(をとめ)。

 奈良時代に「小さいという意味の「を」と女性をあらわす「み」、人をあらわす「な」をもとに「をみな」が成立。平安時代に「をみな」の「み」が撥音便化し、「女」(をんな)に変化しました。「をんな」は、若くて小さい女性。

 「をのこ」「を人=をひと→をっと」の「を」は、若い牡。

 「大きい」という意味の「お」をもとに「おみな」が成立。撥音便によって「おんな」となる。「おんな」は、大きい女、年取った女。
 のちに、「み」がウ音便化して、「嫗(おうな)」も成立。

 古語で「み」(女を表す)に対応する言葉は、「き」(男を表す)です。イザナキは男の神、イザナミは女の神。
 ここから、「おんな」の対義語「翁」(おきな)が成立。中世になると、翁の対義語として「姥(うば)」も出現してきました。

「をとこ」「をのこ」vs「をとめ」「をんな」
「おとこ」「おきな」vs「おんな」「おうな」「うば」

 花の「をとめ」の時代は短し。あっという間に蕾みも満開、を!という間にをとめも散りぬる。
えっという間に女盛りもゆきすぎて、おお、たちまちにして姥となる。

 一方、「産」(むす)と「子」(こ)から「息子」、「産」(むす)と「女」(め)から「娘」(むすめ)という言葉ができた。現在「娘」は、一般の若い女性をさすが、もともとは、親からみて、自分が産んだ「め」のこと。

 さて、「をんな」と「おんな」、おつきあい願うなら、どちらでしたか?
 春庭は「女」ですが、ひらがなだと、さて、どちらやら。現代かなづかいでは、若くても古びていても「おんな」でいいんですもんね。

 あ、「姥だろう」って言った人、怒りますよ!、、、、、正解ですが。

いろはうた春庭ニッポニアニッポン語講座いろはのイから

2013-07-17 | 日本語
春庭ニッポニアニッポン語講座
いろはうた・いろはのイから

2006/01/05)

い いろは48手
3-1-1 「日本語言語文化論」色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time いろは歌」

いろは48手で書ける豊かなる日本語の語彙
新年は、宝船で初めました」って何をはじめた?あのね、宝船は、相手の足を抱えつつ、、、、

 新年、めでたく明けました。
 おせち料理、「よろこぶ」の昆布、「めでたい」の鯛、「まめ に暮らす」の黒豆など、祝いの膳をかこんだでしょうか。
 おせち料理の語呂合わせ、ダジャレって言えばダジャレだけど、ここはひとつ、言霊って言ってください。
 めでたいことを口に出していえば、めでたくなるもんなんです。

 初夢、縁起良い夢を見ることができましたか。一富士二鷹三なすび、というのは、徳川時代に「大御所おわす駿河名物」であったので、縁起良いとされたとか。また、めでたい「宝船」や「七福神」なども、縁起の良さを感じさせます。

 「初夢、そりゃ、うふふ、姫始めは宝船でしたから、宝船の夢を、、、、」あら、それは縁起のよいことで。
 って、宝船で何をしたって?「宝船で、お姫様金銀財宝運んだの?」「いや、そりゃ、その四十八手のひとつでして、その、、、」

 平仮名、いろは48文字。この48文字は、さまざまな分野に利用されています。
 たとえば、うちの近所の「藍屋」という和食屋さん、入り口で履き物を下駄箱に入れてから食事の席へあがります。 この下駄箱に木の下足札が鍵としてついています。これが「い」から「す」までのイロハ順。」
 昔通った銭湯の下足もこのイロハ順でした。

 江戸時代、ものを順序だてて表示するときは、「いろは順」で順序をつけました。大岡忠相が定めた町火消しも「い組」「ろ組」という順で48組に分けられ、江戸の防火消火をまかされていました。

 ちかごろの子どもは、「あいうえお、かきくけこ」のアイウエオ順は言えるけれど、「イロハ」を言えない子も増えた。言える子でも、せいぜい「イロハニホヘトチリヌルオワカ」まで。
 イロハ順に下足札が並んでいる下駄箱や、歌舞伎座のように、前列からイロハ順に座席が並んでいる劇場へ行ったら、おじいちゃんおばあちゃん、孫に「いろは」から「ゑひもせす」まで、教えてやってくださいね。

 さて、「いろは48」です。
 前回の「ン」についてのお話で、日本語が開音節であり、音節のうちの、ひとつの清音(無声音)音節にひとつの文字が対応し、濁音(有声音)音節には、清音の音節文字(ひらがな、カタカナ)に「点々」または「まる」をつけて表示することを、述べました。

 いろはの「い」から「す」まで、手習いをすれば、日本語を文字にでき、この音節文字48の表記のおかげで、江戸時代の日本の識字率(文字を読み書きする能力=リテラシー)は、世界最高水準に達していました。かな文字のおかげです。
 「いろは48」とは、「ことばで表現できるすべて」の意味にもなりました。

 相撲の「四十八手」の48は、「48のきまり手がある」ではなくて、「数多くの」決まり手、という意味を48という仮名文字の数であらわしている。相撲協会は現在、押し出し、寄り切りなど、82手を正式なきまり手として採用しています。

 この「相撲四十八手」のきまり手から発展したのが、「色事四十八手」
 48の裏表で96種あるともいうが、世に伝わる名称はもっとたくさんあり、さまざまなバリエーションセットがある。セットごちゃまぜイロハ順にならべてみれば、

イ)岩清水 ロ)櫓立ち ハ)花菱 ニ)虹の架け橋  ホ)帆かけ茶臼 へ) ト)とびかへし チ)千鳥 リ)理非知らず ヌ) ル) ヲ) ワ) カ)雁が首 ヨ) 横笛 タ)宝船 レ) ソ)反りたわ木 ツ)つばめ返し ネ)ねごし ナ)鳴門 ラ) ム)椋鳥 ウ)鶯の谷渡り ヰ)居茶臼 ノ)のぼりかけ オ)押し車 ク)首引き恋慕 ヤ)八重椿 マ)松葉崩し ケ)  フ)二つ巴 コ)こたつ隠れ エ) テ)手懸け ア)揚羽本手 サ)キ)菊一文字 ユ)タ立ち松葉 メ)  ミ)乱れ牡丹 シ)しがらみ ヱ) ヒ)鵯越え(ひよどりごえ)モ)   セ)鶺鴒本手(せきれいほんで) ス)巣ごもり

 名前をきいただけで、絵が頭に思い浮かぶ人、日本のことばと文化に造詣深くていらっしゃる。私は、ほとんどわかりません。
 ちなみに、めでたい「宝船」は「相手の片脚を抱え込んで腰を下ろす」のだそうですが。私には何のことやらさっぱり、、、、
 松葉崩し?しのび居茶臼?イミワカンネーって、嘘ですけど。

 かように、日本語は語彙豊かな言語であります。
 語彙教育は、日本語教育のひとつの柱です。留学生が豊かな語彙を獲得していくために、さまざまな工夫をしながら、一語一語、たいせつに教えていきます。

 野鳥の研究をめざす留学生には「千鳥、鶺鴒(せきれい)、つばめ、鶯 椋鳥」などの語彙を教えるし、江戸時代の遊廓史や遊里文化を調べる研究者には、「鶺鴒本手(せきれいほんで)」「燕返し」「逆さ椋鳥」「鶯の谷渡り」「鵯(ひよどり)ごえ」「鶴の羽交い締め」「鷺の求返し」も、教えます。

 めでたい正月、松の内。子どもと「いろは歌留多」をして遊んだ人、「いろはにほへとちりぬるを」と、仮名文字手本で書き初めをした人、「いろは四十八手のうち、たから船」にて姫始の方、どちら様もことし一年おすこやかにお過ごしください。


(2006/02/11)

ろ ろ組の火消し
3-1-2  「日本語言語文化論」色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time いろは歌」

いろはにほへと、最後の「せす(ん)」まで全部言える?

 「宝船」の項で、イロハニホヘト~は、順番を表わすときにも使われ、江戸町火消しの組番号い組ろ組などから、歌舞伎座の座席番号、下足札の番号まで使われてきた、とお話しました。

 「いろはにほへと~」と、この順で手習いをし、生涯の一番最初に「いろは」を覚えるので、ほかの何の順より、順序として頭の中に刻み込まれていたのです。

 順番を示すのに、数字を直接つかうのが好まれなかったのは、10以上のものがある場合、若い番号を取りたがる人が多いし、四番だと「死番」を連想させ、九番だと「苦番」を連想させるので、いやだという人もいたからです。
 現代でも、病院の4階は事務棟などにあてて病室にしないところが多いですし、入院病室として、4号室や9号室をつくらない病院が多いようです。言霊、ことだま。

 漢数字の「四」「九」は、死と苦に繋がるけれど、ひらがなの「し」「く」ならOKなのは、何故か。
 ひらがなの「し」は漢字で書けば「之」で、「く」は「久」ですから、死や苦とは関係ないとみなす、言霊ルールです。(って、ようは、気分の持ちようです)

 江戸町火消しでは、「へ」は屁を、「ら」は羅を、ひは「火」を連想させるからと、へ組→百組、ら組→千組 ひ組→万組、のちに付け加えられた「ん」→本組となりました。
(羅は、男性の大事なところ「魔羅」を火事の危険にさらさないために忌避されたらしい)

 今は、ABC順やアイウエオ順のほうがよく使われています。いろは順で言っても、順序がわからない人が多くなったからです。
 「か」と「ぬ」どっちが先だか、すぐピンときますか?「いろは」では、「ぬ」が先です。「ちりぬるをわか」


は 花の色は匂えど

 いろは歌、復習しておきましょう。「いろは」、から「せす(ん)」まで、全部言えますか。
 「日本語教育研究」を受講する日本人学生のうち、「いろは歌」を、そらで全部言えると答えた学生、40名のクラスの中で数人でした。
 「いろは」も絶滅危惧種、瀕死語、やがては死語の仲間入りでしょうか?
 「いろは歌」は、「百人一首」「源氏物語」などと並んで、日本の言語文化の中枢を担ってきた、大切な日本語文化です。死語にはしたくありません。

 唯一、「源氏物語」を漫画で表現した、大和和紀『あさききゆめみし』が、いろは歌から引用された語句の中では、今時の大学生になじみがあるものになっていました。が、漫画の光源氏すら知らない学生が増えてきた昨今であります。

色は匂えど 散りぬるを (いろはにほへと ちりぬるを)
我が世誰ぞ 常ならむ  (わかよたれそ つねならむ )
有為の奥山今日越えて  (うゐのおくやま けふこえて)
浅き夢見し酔ひもせず  (あさきゆめみし ゑひもせす)

「色は美しく匂い立っているけれど、散っていってしまう。我々の世の中で、いったい誰が変化しないでいようか。因と縁によって生じる有為の世に、今日、奥深い山を越えて、浅い眠りの中に夢をみたことよ。酔いもしないで」

 「し」に濁点がつき否定形となる「浅き夢見じ(浅い夢をみない)」か「し」を清音ととって「浅き夢見し(浅き夢をみたことよなあ)」と取るか、の論争があり、文法上では「見じ(みない)」と受け取るのが正解なのだが、ここでは清音「し」(過去回想の助動詞「き」の連体形から終止形への転用)と解釈。
<つづく>


2006/02/14

に ニ短調もイロハ順
 いろは歌、江戸時代の寺子屋では必ず習いました。
 明治以後の小学校では、「あいうえお」の五十音表が利用されるようになったけれど、それでも、「いろは順」が、学校内で利用されてきました。

 たとえば、音階の名前。
 ドレミファソラシの音階を「唱歌」の授業に導入するにあたって、「ドレミ」では、日本の子どもが覚えられないからと、「イロハニホヘト」が採用されました。
 今でも「ハ長調」とか「ニ短調」などいうときの、諧調名にこのイロハ音階が残っています。ラ=イ シ=ロ ド=ハ レ=ニ ミ=ホ ファ=ヘ ソ=ト、でした。
 
 私の時代には、とっくに「ドレミ」音階になっていましたが、調の名は、イロハ。
 音楽部で暗記させられた呪文。「へろほいにとは」。もうひとつは、「とにいほろへは」。
 「へろほい~」は、五線譜に♭(フラット)がつく数。♭ひとつは、ヘ調、2つはロ調。「とにいほ~」は、♯(シャープ)ひとつがト調、2つはニ調でした。
 今はCメジャーとか、Gマイナーと言うほうが多いのでしょうか。


ほ 本懐を遂げ咎なくて死す 
3-1-3「日本語言語文化論」色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time いろは歌」

今日の課題:いろは歌に隠された秘密、知ってる?人麻呂や忠臣蔵の無実の死を訴えて、、、、

 「いろは歌」は、11世紀平安中期以後に成立しました。47のひらがなを一度だけ用いて、諸行無常といわれる仏教思想を表わした歌といわれています。
 文献上の初出は1079年。
 平安初期に弘法大師がつくったという伝説は、国語学日本語学の研究では否定されていますが、仏教の深い哲理を含む歌なので、作者を大仏教者「空海」に擬する気持ちもわかります。

 もうひとり、作者に擬せられたのは、柿本人麻呂です。それは、この「いろは歌」に、無実で死なねばならない人の無念の思いが隠されている、という話が伝えられてきたからです。

この歌を7文字ずつ並べると、

いろはにほへと
ちりぬるおわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

と、なる。

 7文字ずつ並べた「いろは歌」行の最後の文字を続けて読むと、「とかなくてしす」となります。これを「咎無くて死す」と、読み替えると、「とが(罪)がないのに、死ぬ」という意味になる。無罪なのに、罪を負って死んだ、ということです。

 飛鳥奈良時代の人麻呂が作ったのなら、その時代の発音を反映しているはずなので、日本語史からみて「人麻呂説」は、うち消されていますが、柿本人麻呂が無罪の死を賜ったことを惜しんだ後世の歌人が、歌聖人麻呂を偲んで詠んだ歌だ、という説もあります。

 赤穂浪士の仇討ち物語を歌舞伎にした「仮名手本忠臣蔵」。
 「仮名手本」というのは、この「いろは歌」で手習いをするときの手本にする「手本帖」のこと。

 だれもが「いろは歌」を知っており、7文字ずつ並べたときに読みとれる「咎なくて死す」を皆が知っているから、「彼らは仇討ちの本懐をとげた義士であって、罪なくして死ぬのである」という作者のメッセージ、表だって言わなくても、見る人に伝えることができたのです。
 「仮名手本」といえば、忠臣蔵、江戸時代も今も、歌舞伎の演目中、一番人気の外題になっています。

<つづく>

(2006/02/14)



へ 兵士も机も散りぢりに
3-1-4 「日本語言語文化論」色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time いろは歌」

今日の課題:「いろはにほへと」に続く「ちり」ですが、どんなものが散ってきた? 花?城?子供?

 「いろは順」は、学級の名にも使われました。
 現在では1年1組とか、3年2組など、数字による学級名が主流派。
 しかし、昔は、1年イ組、ロ組、ハ組など、いろは順で学級名を呼ぶ地域も多く、イロハ順の学級名を聞くと、子ども時代を思い出す、というお年寄りもたくさんいます。

 久保田万太郎代表作の俳句。「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」
 この句には、本歌があります。最近新聞でも紹介されたので、ご存知の方も多いかと思いますが。
 日国NET(小学館日本国語大辞典公式サイト)から、引用すると。

 「 この万太郎の句は、太田道灌が武蔵国小机の戦でつくった『手習ひはまづ小机が初めなりいろはにほへとちりぢりにせん』というのが本歌だろう。また明治年間に広瀬中佐がつくった軍歌「今なるぞ節」に『いろはにほへとちりぢりに打破らむは今なるぞ』という一節もある。」

 道灌の和歌も、広瀬中佐の軍歌も「散りぢりにうち砕くぞ」というときの「ちり」を引き出すための枕詞として「いろはにほへと」が使われている。

 日国ネット「よもやま句歌栞草」田中裕氏による万太郎の句、説明。
「 竹馬は、二本の竹や木の適当なところに足掛かりをつくり、これに乗って遊ぶもので、広く世界に見られる子供の遊び。竹馬に興じていた子供たちが日が傾くとともに一人去り二人去りして、ちりぢりになってしまったというのが万太郎の句意。」

 田中氏は、万太郎の「いろはにほへと」も「ちり」を引き出すための「枕詞」のように考えているようです。
 「 いろは歌は直接、句意とは関係はないのだが、まことにうまくその雰囲気を伝える。」と、一句を評しています。
 
 しかし、万太郎の句の「いろはにほへと」は、単に「序詞」や「枕詞」(一つの語を導き出すための修飾語)ではないと、私は考えます。
 「直接句意に関係ない」どころか、この句の勘所が「いろはにほへと」と思うのです。
 「いろは歌は直接、句意とは関係ない」とは、逆の考えになりますが「いろはにほへと」こそ、この句の深い味わいを引き出しているとと思います。

 万太郎が「竹馬に乗って遊んでいた子どもたちがちりぢりになる」と描き出したのは、は、夕暮れの子どもたちの光景を表現していると同時に、学校仲間として、いっしょに「手習い」をした子どもたちがちりぢりになることも表現しています。
 なぜ、そう思うかという根拠のひとつ。「竹馬」は冬の季語だからです。独楽回し、たこ揚げなどは、新年の遊びとして新春の季語ですが、竹馬は冬の季語。

 冬の遊びとして竹馬で遊んだ仲間達も、冬が終わると卒業シーズンを迎える。昔は、12歳でほとんどの子供が学業を終えました。冬がすぎ春が近づくと、卒業と同時に、仲間達は散りぢりになっていくのです。
 この「いろはにほへと」から連想されるのは、「手習いをいっしょにした学校仲間の思い出すべて」

 「いろは48手」といえば、ことばで表せるものや技のすべてを表わしたように、「い組、ろ組、は組~」というクラス名で学んだ、戦前の学級ですごしたことのすべてを思い出させることばになっているのです。

 「いろはにほへと 散りぬるを」、もとのいろは歌では、花が散る光景が思い浮かびます。太田道灌の和歌では、散るのは「小机」という名の砦城。万太郎の俳句では、「花が散る」のも「小机が散る」のも含めた「学校生活の思い出、子供時代の思い出すべて」これらが重層的に散っていきます。
 ことばのイメージ、先行文学や前代までのことばにさまざまな新しい意味を付け加えながら、変化していき、新しいことばの命を育てていきます。

「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」
 「イ組の竹ちゃんも、ロ組の松やんも、ハ組の梅子も、みんなちりぢりになって、それぞれの人生をすごしているなあ」という述懐も含みます。イ組ロ組、それぞれの教室の窓、黒板、机と椅子、学校の中がすべて連想されるのです。

 学校に小机をならべて、いっしょに「いろはにほへと」と習字をした仲間たちが、いつしか竹馬にのって遊ぶ子ども時代をすぎて、ちりぢりの人生の中へと散っていった、そんな郷愁をも含んでいるのであって、単に目の前の子どもたちが、竹馬遊びをやめてそれぞれの家に帰宅する光景を句にした以上の感慨があると思えます。
 道灌本歌の「小机」が散りぢりにされる、ということも連想されるので、「大人への成長をとげるために、並べあってきた小机が散りぢりにされる」ということばの重層的な連想があるのです。

 現在は、学級をイロハ順に呼ぶことも、最初に平仮名を教えるときに、「いろはにほへと」から始めることもなくなりました。
 「いろは歌が、さまざまな連想を引き出し、引用されている」ということも、説明を加えなければ、現代の日本人大学生には、わからなくなっています。
<つづく>
(2006/02/18)



と どち

3-1-5 「日本語言語文化論」色葉字類抄待夢I・Ro・Ha Jirui show time いろは歌」

今日の課題:「日本語は うれしやいろはにほへとち」どんな意味に解釈しますか?

 俳人・阿部青鞋(あべせいあい 1914(大正3)~1989(平成元)年)の句を引用して、「いろは歌」のシメとしましょう。
 (この句、俳句データベースなどを見てもでていません。青鞋の全句集をあたるヒマがなかったので、原本で確認できないままの孫引きです。出典は先にあげた田中裕氏解説の「よもやま句歌栞草」)

「日本語はうれしやいろはにほへとち(阿部青鞋)」

 俳句や短歌は、掛詞や縁語などの修辞のためにひらがなで書かれていることが多いが、私は「日本語は 嬉しや 色葉 匂え どち 」と、解釈したい。
 「色葉」は、「いろはの仮名文字によって表わすことのできる言葉すべて」。「どち」は、親しい仲間、同類の人、の意。

 「見渡せば末の末(うれ)ごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる(土佐日記1月9日より)」

 「日本語で表現できること、日本語の言語表現を味わえること、うれしいなあ。いろは47文字で書き表される日本語よ、匂い立つようにあらわれよ。日本語を喜びとしていきましょうよ、同輩たち!」
 日本語をつかって表現することを喜びとする人々への、青鞋からの、共感の挨拶と受け取りました。

 日本語、おもしろいです。うれしいです。ことばひとつひとつが、匂うがごとく今さかりなり。

<いろは歌おわり> 

ぽかぽか春庭「世界のことばへようこそ」

2013-07-10 | 日本語
2006/03/02

ことばの世界へようこそ
各国語版、ことばの世界へ「ようこそ!」

 留学生たちに日本語を教えるようになって18年。日本語学校で6年、大学の外国語学部、留学生センター、国際教育センターなどで教えるようになって12年になります。
 世界中、百カ国以上の国からやってきた留学生たちに、日本語を教えるうち、留学生からもたくさんのことを教わりました。留学生から学んだことばや世界の文化について、忘れないうちにメモしておきましょう。

 まずは、「ことばの世界へようこそ」という気持ちをこめて、「ようこそ」のあいさつを各国語でお知らせします。
 ラテン文字(ローマ字)で表記できるものは、ラテンアルファベットで、ロシア語とモンゴル語はロシアンアルファベット(キリル文字)で、あとは、残念ながら、カタカナ表記。カナカナ表記だけの言語は、独自の文字を持っている言語です。


言語アイウエオ順   ようこそ アルファベット表記  文字
アラビア語 アルハバン ・ アラビア文字
イタリア語 ベンベヌート Benvenuto ・
インドネシア語 スラマッ(ト)ダタン Selamat Datang ・
ウルドゥー語 クシュ アーマーディード ・ ウルドゥ文字
英語 ウェルカム Welcome ・
韓国・朝鮮語 オソオセヨ ・ ハングル文字
カンボジア語 ソームスヴァーコム ・ カンボジア文字
スペイン語 ビエンベニードス vienvenidos ・
スワヒリ語 カリブ Karibu ・
タイ語 インディートンラップ ・ タイ文字
チェコ語 ビーターメ バース vitame Vas ・
中国語 ホゥアン イン ホゥアン イン ・ 歓迎(又欠 迎)
ドイツ語 ヘルツリッシェンヴィルコーメン Herzlichen Willkommen ・
トルコ語 ホシェ ゲルディニズ Hos geldiniz ・
にほん語 ようこそ ・ ・
ビルマ語 ライライレーレーチョーソーバーデー ・ ビルマ文字
ヒンディ語 アーイエー ・ ヒンディ文字
フランス語 ビアンヴニュ Vienvenue ・
フィリピン語 マブーハイ Mabuhay ・
ベトナム語 ノンニエット ドン チャオ Nog nhiet don chao ・
ポーランド語 ヴィタイ Witaj ・
ポルトガル語 セージャ ベン ヴィンド Seja bem-vindo ・
モンゴル語 タフタエトリルノー Tabtaй topилho yy モンゴル文字キリル文字

ラオス語 ニンディートーンハップ ・ ラオス文字
ロシア語 ス プリィエズダム C приеэдом ・

 私が世界中のことばに通じているわけじゃありません。ひさしぶりに訪問した母校の文化祭で買った冊子の中のコピーです。上記の言語のうち24のことばを教える専攻があるのです。
 スワヒリ語は、母校の専攻学科にもありません。25年前にわたしが習って覚えたケニアの公用語です。

 ケニアにいたころ、知り合いの家を訪問して「カリブカリブ(ようこそ、どうぞお近くに)」と、招き入れられると、とてもうれしかった。わたしにとっては思い出ふかい挨拶のことばです。
 「ことばの世界へようこそ、カリブー!」


2006/02/27

世界一周ことばの旅

 世界に言語がいくつあるか、知ってます?
 母語としてその言語を話す人がいて、生活と社会を支える言語として存在する言語が地球上にいくつくらいあると思いますか。
 答え、「わかりません」
 または、「おおよそ1500から15000の間」あれま、なんておおざっぱなんでしょう。

 言語学者によって、数え方がちがうので、「いくつある」と言えない。たとえば、『恋のマイラヒ』の紹介で記したモルドバ語。モルドバとルーマニアは別々の国家なので、ルーマニア語と別の言語と考えれば、モルドバ語とルーマニア語で二カ国語、言語はふたつになります。

 しかし、このふたつの言語の差が大阪弁と京都弁のちがいくらいしかない、と知ると、それじゃ一方は一方の方言と言ってもいいんじゃないか、ということになる。
 でもね。モルドバ人は「ルーマニア語はモルドバ語の方言」というし、ルーマニア人は「モルドバ語はルーマニア語の方言」というので、ひとつの語として、まとめて数えることも難しい。

同じファミリーのより近いふたつの言語を方言とみなすか、ふたつの国の別々の言語とみなすか、むずかしいところです。

 ポルトガル語で話している人とスペイン語で話している人は、互いに相手の話している内容が分かるといいます。
 しかし、スペイン語とポルトガル語、国が違い、歴史的な経緯もあり、やはり別々の言語と数えることになるでしょう。

 中国語は、文字に書くとひとつのまとまった言語であるとわかりますが、耳で聞いただけでは、南方の広東語・福建語などと北京語のあいだには、スペイン語ポルトガル語のあいだ以上の差が存在しています。それでも、上海語や福建語を中国語のなかに含めない、ということはできない。広東語も上海語も中国語に含めて数えます。

 ポルトガル語とスペイン語をふたつの言語として分けて数える基準でいけば、中国のなかにはたくさんの言語が存在することになりますが、中国政府は「断固、わが国の言語は中国語である」と言うでしょう。

 日本語でもそう。
 琉球語を一つの独立した言語とみる学者もいるし、日本語の一方言である沖縄方言とみなす言語学者もいる。
 
 地球上に、かって存在した言語(死語)と、現在生きて使われている言語をあわせて、学者によって1500くらいと数え、学者によっては15000くらい、と数える。
 一般的に言って、おおよそ3000種前後ある、という程度のおおざっぱな数え方しかできません。

 3000くらいある世界の言語の中の、80言語を集めた『世界一周ことばの旅』は、堅苦しい言語学の学術的な言語コレクションではありません。
 数の数え方、挨拶の仕方を基本として、詩の朗読、自国の概要の解説、ふたりの話し手による対話、など、さまざまな言語文化を2枚のCDにまとめてあります。

 言語学を教えていただいた千野栄一先生は多方面の活躍をなさった方です。チェコ語を中心にスラブ語研究の第一人者であったほか、言語学の楽しいエッセイをたくさん書き、ユーモアたっぷりに言語学のエッセンスを伝えてくれました。

 千野先生の仕事のひとつ、CD『世界一周ことばの旅』の監修。世界中の言語のコレクション。
 録音に参加したのは、各国からの留学生、大使館員、大学語学教師などさまざまな人々。それぞれの人の部屋で個人的に録音したテープなどもまじっていて、ことばの録音の後方に犬の鳴き声が入っていたり、車の発進音が入っていたり、それがとてもおもしろかったりします。

 『世界一周ことばの旅』のCDには、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアなどのさまざまな言語が集められています。
 残念なのは、南北アメリカ大陸のネイティブの人の言語がないこと。ネイティブアメリカン(インディアン)のことば、南アメリカの少数民族のことばなどは録音されていません。
 東京近辺に在住している留学生を中心に録音されたので、偏りがあります。

 それでも、録音された80の言語を聞いていると、世界のさまざまなことばの表現に、心豊かな思いがこみあげてきます。

 千野先生の解説もついています。ぜひ一度聞いてみて。CDを貸出している図書館であれば、このCDを置いてあるところもありますので。

 『世界一周ことばの旅』に出てくるアフリカのコイサン族(日本では映画のタイトルからブッシュマン、コイサンマンなどと呼ばれてきた)のコサ語、この言葉を聞くことができる音源は、今のところこのCD以外には見つけにくいだろうと思います。

  コサ語、独得の発音があります。
 吸い込む息を使った言語音があるのです。吸い込む音を使う言語、他に知りません。
 それから、舌を上あごにくっつけてから、はじいて鳴らす音。
 コサ語のクリック音(吸着音)を含むおしゃべり、楽しい響きです。
 
 他の言語は、吐き出す息を利用し、のどや歯舌唇口腔などで音を加工して、さまざまな音声を作り出します。
 日本語では、吸い込む息のとき作られる音は「言語音」として使われていません。

 吸着音を私たちが使うのは、失敗したときや困ったときに舌を前歯の裏にあてて「チッ」「チェッ」「ツェ」と表現するときの舌打ち音のみ。
 「不同意の感情表現」「失意の感歎表現」だけに用いられます。

 私が「失敗しちゃったなあ、チェッ、残念」と思っていることがあります。クリック音で、チェッ!チェッ!
 1988年以来この仕事を続けてきて、やれなかったこと。

 日本語教師をしてきて、これまでに80ヵ国以上の国の留学生と出会ってきました。
 でも、日本語を教えることに精一杯で、留学生の母語について、録音をとってこなかったことです。

 教室内で、自国のことばや文化についてクラスメートに発表する機会をつくるようにしていますが、日本語での発表を重視してきたので、それぞれの母語で話しているところを録音してきませんでした。

 ひとりひとりの母語を録音しておいたら、個人的な80言語のコレクションができあがったのに。
 いや、80以上になったことでしょう。私が出会ってきた留学生は、たいてい、家庭のなかで話している母語と、社会生活で話す公用語と、大学や大学院での教育と研究に必要な英語、最低3つの言語は読み書きできる人が多かった。
 
 今期、私が受け持ってきた学生。
 パキスタンのフミ、母語のバンジャビ語と公用語のウルドゥ語と英語を話す。フィリピンのジョセは、母語はセブ島のことば。公用語であるフィリピノ語(タガログ語)と、学校教育での英語を話す。
 
 スエーデンのヤン、スエーデン語ノルエー語英語を話す。
 ネパールのギア、ネパール語ヒンディ語英語。マレーシアのアリ、タミル語マレー語英語。

 私がかって滞在した国でも、そうでした。ケニアでホームステイしたキクユ族の家庭では、家の中ではキクユ語、町の市場にいけばスワヒリ語、かって先生をしていたご主人は英語も話す。それも私のブロークンイングリッシュとは大違いのクイーンズイングリッシュ。

 中国長春市に滞在したときも、朝鮮族の人は、家庭では朝鮮語、社会生活では中国語、内蒙古の人は、モンゴル語と中国語。ほとんどの人がバイリンガルなのでした。バイリンガルを「特別な人」としてありがたがるのは、日本くらいです。

 世界の多くの地域の人々は、生活上ふたつみっつの言語をあやつらなければ、暮らしていけない。
 英語しか話せないアメリカ人と、日本語しか話せない日本人、このふたつの国の人は、語学音痴。

 日本語だけで生活でき、大学院までの教育を受けられる私たちは、便利といえば便利だけれど、あまりにも「他の文化や言語に理解がない」とも言える。他の言語を知ることは、そのことばの背景に広がる文化を知ることです。

 留学生との18年間のおつきあいのなかで、楽しく学んできた世界のことばについて、メモをしておきたいと思います。

 日本で学ぶためにやってきて、日本で暮らしている留学生たち。「日本の生活」と各国語で書いてみましょう。
 アルクが出している「JーLife 日本に暮らす外国人向けのフリーペーパー」の表紙に出ている各国語での「日本に暮らす」の訳語をコピーしてみます。

 日本に暮らす/在日本生活/イルボネ ソ サンダ/Living in Japan / Nakatira sa Bansang Hapones / Vivir en Japon / Morau no Japao / Vivre au Japon / Hidup di Jepang / Song o Nhat / Das Leben Japan / Vivere in Giappone / Traiesc in Japonia / Me te Japan / Japonya'da Yasamak / ЖИЗНЬ В Ялонии / Ялонд амЬдрах 



(2006/07/31)

チャイとヘルバタ

留学生の作文から教わった、ポーランド語の「お茶」をめぐって。

 ある日本語教科書(中級読解)に、世界のことばの比較が載っています。
 世界中にある5000の言語がそれぞれのことばをそれぞれに用いているなかで、おどろくほど似ていることばが、各国語の中にある、という話題です。
 
 それは、「お茶」を表す単語。

 現在の植物学研究では、お茶の木の源流は中国の雲南省の山岳地帯に自生していたものだろうと言われています。世界中のお茶は、中国から海やシルクロードをたどり、世界各地へと広まっていきました。

おおざっぱに分類すると、摘み取った茶葉を蒸して発酵を止め、煎じて飲むのが日本茶。茶葉を発酵(酸化)させたものが紅茶。半発酵にとどめたのが烏龍茶。

 中国語は方言差が大きいことは、再三述べてきました。
 「お茶」を意味する中国語、地方によってちがいます。
「お茶」を意味する語は、福建語(フーチェン語)では「テ(te)」、広東語(カントン語)では「チャcha」です。

 日本語の「ちゃ」は、お茶を日本にもたらした中国語からきています。
 日本語の「ちゃ」は、広東語と共通する「チャ」が源流にあります。
 奈良時代以前、中国南方から伝わった語が日本語に入ってきました。この時代に伝えられた語には、広東語や上海語と共通している発音のものがあります。

 北京語でも「チャー」、朝鮮韓国語「チャー」、モンゴル語「チャイ」、チベット語「ヂャ」ベンガル語「チャー」、ヒンディー語「チャーヤ」、トルコ語「チャイ」ギリシャ語「チャイ」、アルバニア語「チャイ」、アラビア語「シャーイ」、ロシア語「チャイ」ポルトガル語「チャ」
 これらは、広東語から伝わっていったものと考えられています。

 一方の福建語の「テ」から伝播した系統。
 マレー語「テー」、スリランカ(セイロン)「テー」、南インド「ティ」、オランダ語「テーthee)」、英語「ティtea」、ドイツ語、「テー(Tee)」、フランス語「テthe」、イタリア語「テ」、スペイン語「テte)」、チェコ(チェック語)「テ」、ハンガリー語「テア」、デンマーク語「テ」、ノルウェー語「テ」、フィンランド語「テー」

 この「お茶」の伝播は、ものが交易を通じて広まると同時に、それを指し示す「ことば」がいっしょに世界中に広まっていったようすを示していて、とても興味深いです。

世界で「茶」を意味する語のうち、ポルトガル語では、広東語系のチャであるのに、ポルトガルのお隣スペインでは福建語系のテです。

 これは、ポルトガルが広東省マカオからお茶を輸入したのに対して、スペインは、福建省アモイから輸入したオランダを通して、福建語(ミン南語)の「テ」「テイ」の系統が伝わったからです。

 日本語の茶の発音。
 呉音(奈良時代以前に伝わった漢字発音)で「茶」の発音は「ダ」です。
 日本語では、「ダ」という発音がお茶を意味することはないので、奈良時代以前には、まだ、お茶を飲む習慣が定着しなかったことがわかります。

 奈良時代に「薬湯」としてお茶が中国から伝わっていたらしいですが、一般にはひろまりませんでした。

 「茶」の漢音(中国唐時代長安の発音)では、「タ」です。遣唐使の時代にお茶を飲む習慣が広まったなら、日本語でのお茶も「タ」と発音していたことでしょう。

 「お茶」「茶の湯」などの「チャ」という発音は、漢音と唐音の中間の時期に広東語系の「チャ」が、茶の葉とともに伝わったと考えられます。

 鎌倉時代以後、栄西ら禅宗の僧たちが喫茶習慣を伝えてから、人々が「薬湯」ではなく、日常の飲み物としてお茶を飲むようになったと言われています。
 「喫茶店」「茶道」などというときの、「サ」という字音は唐音(鎌倉室町以後に伝わった漢字発音)です。

 広東語チャ系統の語を持つ言語は、昨日記載した言語のほか、「チャ」:ベトナム語、タイ語、タガログ語、ネパール語、ペルシア語
 「チャイ/シャイ」ブルガリア語、ルーマニア語、セルビア語、セルビア・クロアチア語、スロバキア語、ウクライナ語

 福建語テー系統の語を持つ言語は、昨日記載した言語のほか、
 「テー/ティ」イディッシュ語、ヘブライ語、ラテン語、スウェーデン語、フィンランド語、エストニア語、ラトビア語、アイスランド語、アルメニア語、インドネシア語、タミル語

 中級日本語教科書に掲載されていた「お茶」という語をめぐる文章、放送大学教材に記載されていたものからの、抜粋引用です。(小林彰夫・宮崎基嘉『食物と人間』より)

 さて、留学生から教えられた言葉。ポーランド語の「お茶」について。
この教科書の記述に対して、ポーランド語母語話者の留学生から異議申し立てがありました。

 日本語教科書の各国語版「お茶」の単語表をみて、ポーランドのアンナが「先生、これはちがいます。ポーランドでは、お茶をこう言いません」と主張したのです。
 教科書に載っていたポーランド語の「お茶」は、広東語系の「チャイ」です。

 アンナの説明によると。
 「ポーランドは歴史的にロシアとの関わりが強かったので、ポーランド語にロシア語からたくさんの語彙が入ってきました。
 この、教科書に載っている、ポーランド語のチャイ(tsai)ということばも、もとはロシア語のシャイ・チャイ(czay)からきています。

 ポーランドの人々は、チャイということばを聞けば、それが「お茶」を意味する語だと、皆わかります。わかりますが、それは自分たちの日常生活でのことばではありません。
ポーランドの人は、日常生活で、お茶を飲むときは「ヘルバタherbataを飲む」と言います。

 ヘルバタのヘルバは、英語のハーブherbと同じ。語源は「葉」を意味する。「タ」は、英語のティteaと同じです。
 英語のハーブティはお茶の葉ではない植物を用いたカモミール・ティなどをさしますが、ポーランド語では、お茶の葉を用いた飲み物がヘルバタです。
 日常飲む「お茶」にあたるのは、こちらのヘルバタです。」

 以上が、ポーランド語母語話者アンナの説明でした。
 な~るほど!

 ポーランド語について知っている日本人はそう多くはないから、放送大学教科書に「ポーランド語ではお茶をチャイという」という記述があれば、そう信じてしまいます。

 確かに、ロシア語の影響が強い公式文書などでは、お茶を「チャイ」と書いたものがあるのかもしれません。でも、それは、ポーランドの日常生活での「お茶を飲む」とは異なる、とアンナは言うのです。

 外交などの公式な場での「チャイ」と、日常生活での「ヘルバタ」。ことばの微妙なちがいを、アンナに教えられました。



(2006/02/06)

ギリシャ文字 ξ グザイ

ギリシャ文字(1)ぐざいとシグマ

 ワープロソフトを利用していて、思いも寄らない文字に変換されるときがあります。

 春庭bbsに正月に食べたものの話を書いていたときのこと。
===========================
Re:美味しかったよ~ by haruniwa
うちでは、おせち料理、一日目二日目は和風ですが、3日目は「おせち、そろそろ飽きたね」ってことで、洋風&エスニックデーになりました。

 今年は、主菜がチーズフォンデュ、具材は、フランスパン、ブロッコリー、ジャガイモ、アスパラガスなどでした。
 副菜はメキシコ風トルティーヤ。薄いお好み焼き(クレープみたいな)の中に、トマト、レタス、ローストビーフ、スモークサーモンを包んで食べる。
どちらも、おいしかったです。
2006-01-22 10:23:35
==============================

 という、他愛ない話だったのですが、びっくりしたのは、チーズフォンデュの「ぐざい」と入力したら、いきなり「ξ」が出てきたこと。

 見慣れない文字。キリル文字(ロシア文字)とはちがうな、たぶんギリシャ文字と推理して、確かめると、はたして、ギリシャ文字のひとつでした。

 何種類かのアルファベットの中でも、ラテン文字(ローマ字)は日本語にも利用されています。
 アルファベットの語源は、ギリシャ文字の「アルファ」+「ベータ」→アルファベータ→アルファベット。

 アルファベットには、さまざまな種類があります。源流はシナイ半島で書かれはじめた文字。
 原始シナイ文字→フェニキア文字→ギリシャ文字→ラテン文字(ローマ字)、キリル文字など。

 日本人は、ラテン文字(ローマ字)だけをアルファベットと思っていますが、ロシア語のキリル文字も、ギリシア文字も、全部アルファベットです。

 仮名文字に平仮名とカタカナがあるのと同じように、アルファベットにも、ラテン文字やキリル文字がある。
 仮名文字がどちらも漢字をもとにして作られたように、アルファベットの各種は、どれも原始シナイ文字、フェニキア文字を元にして作られました。

 ラテン文字のアルファベットは、日本語のローマ字表記で使うし、中学校で英語を習うと、英語の文字として、義務教育で読み書きします。
 しかし、ギリシャ文字は、いくつかは日常生活でお目にかかるものの、グザイ「ξ」は、ぜんぜん知りませんでした。

 ギリシャ文字のアルファαは、「プラスアルファ」という外来語として日本語語彙のひとつになっている。ベータβは「ベータカロチン」などでなじみがあります。
 そのほか、私がなじんだギリシャ文字は、以下の程度です。

 「ガンマ=γ」、電磁波のひとつ。癌コバルト照射治療ガンマ線でなじみ。医療関係者だけでなく、一般の人も「ガンマ線」と聞くと、なんだかすごい治療をしているんだな、と思う。

 地図で見る河口三角州を、デルタ地帯と呼ぶのは、ギリシャ文字デルタの大文字が「デルタ=Δ」だから。小文字は「δ」。

 電気でなじみのオーム「Ω」。オームの法則ってならったなあ。カンペキ忘れました。

 ギリシャ文字のP・ρの読み方は「ロー」であって、「ピー」はΠ・πなので、ややこしい。
 円周率のパイ「π」は、ギリシャ文字「ピー」の別名「パイ」だ。

 円周率の3・14をいちいち計算しなくてよい「π」と書いておけばよいと言われたときは、面倒な計算が減ってうれしかったが、高校数学で「シグマ=Σ」が出てきてから、私の頭にとって数学は宇宙語になった。理解できる方々、尊敬しています。

ギリシャ文字(2)パイとファイ

 日本製のロケットの名前。「カッパ=κ・Κ」「ミュー=μ・Μ」「ラムダ=λ・Λ」
 パナソニック製のデジタルハイビジョンテレビの製品名は「タウ=T」これも、ギリシャ文字の読み方から。日常生活で見かけたギリシャ文字、もうこれくらいかな。

ギリシャ文字の読み方、4種類あります。古代ギリシャ語読み、現代ギリシャ語読み、英語読み、日本語慣用読み。
 日本語慣用読みは、ギリシャ語読みを取り入れる文字と英語読みを取り入れる文字が混じりあっています。

 「α・Α」は、古代ギリシャ語読みではアルパ。現代ギリシャ語読みだとアルファ。「δ・Δ」は、現代ギリシャ語読みだと、ゼルタだが、日本語慣用読みは、古代ギリシャ語読みと英語読みのデルタ。

 「ι・Ι」は、英語読みアイオタ、現代ギリシャ語読みはヨタだが、日本慣用読みは、古代ギリシャ式のイオータ。「π・Π」は、ギリシャ式はピーだが、日本語慣用読みは、英語式のパイを採用。
 「ξ・Ξ」は、ギリシャ語読みと日本語慣用読みはクシー、英語読みだとグザイ。
 
 ギリシャ文字Ωは、日本語慣用読みは英語式で「オメガ」。現代ギリシャ語読みだとオーメガ。
 昨日紹介した電気抵抗の「オーム」とは、Ωの文字の読み方ではなくて、人名です。
 オームの法則を発見したドイツの物理学者ゲオルク・ジーモン・オーム(Ohm)にちなみます。

 電気抵抗単位としてオームの名を採用するにあたって、頭文字「O」は、数字の「ゼロ」と紛らわしく、単位記号なのか数字なのか、区別するために、ギリシャ文字Ω(オメガ)をオームと呼ぶことにしたのです。

 a******さんからのコメント、ありがとうございます。
 「 時計のオメガ Ω とオーム Ωと一緒ですね。・ω・
シグマは、○菱自動車のΣ がありましたね。
仕事で使う円の直径はパイというのにファイφを使うのが解せません。
投稿者:a***** (2006 2/6 17:31) 」

 ファイΦ・φは、見たことあったけれど、なんだったっけかな、そうだ、音声学でいう両唇摩擦音の国際音声記号だっ。思い出せてうれしい日本語教師。
 日本語だと「ふ / f / 」の発音だと思い出したが、確認のためにチェックすると。日本語慣用読みは、英語式ファイ。ギリシャ語読みフィーの「φ」、さまざまな記号として利用されている。

・音声記号として、「φ」は「無声両唇摩擦音」をあらわす。
 「そう、そう、やっぱりねっ。りょうしんまさつおん!」

・建築では、管の直径をあらわす。200φ=直径200mm「にひゃくぱい」と発音される。
 「へぇ!そうなんだあ。建築関係のお仕事をなさっているa*****さんも、直径200mmを200パイと呼んでいるんですね。」

 数学でπ(パイ)とは3. 1415926535 8979323846 2643383279 ..........のことだから、もし「200パイ」が「200π」のことなら、200×3.14のことになってしまい、直径200mmのことじゃ、なくなってしまいます。
 「φ」は、「直径」を意味する記号です。

 昔の人は「ファイ」という発音が難しかった。「フィルム」と発音できないから、「フイルム」と発音したように、直径をあらわす記号「ファイ」を「パイ」と発音し、それが現代まで慣用読みとして引きつがれているのだと思います。
 建築用語の「200パイ」は、「直径200」という意味です

ファイとぐざい

・φは、アスキーアート顔文字で、筆記具を持った手を表現するのに用いられる(例:φ(..))
 「ふ~ん、使ってみよっかな。私、毎日φ(..)しています」

・数学で空集合を表わす「 Oに斜め線」の文字の活字がない場合に、φを代用記号として使用することがある。又、しばしば黄金比の記号としても用いられる。
 「空集合って何?黄金比って、聞いたことあったなあ、3:2?4:3?8:5?16:10?あれ、いくつだったっけ」

・電磁気学で、φは磁束密度を表す。
 「磁束密度?なんじゃそりゃ」

小文字のφは、
・素粒子物理学で、ストレンジクォークとその反クォークからなる中間子 (ss 二つ目のsの上に-がある)を表す。
 「? ??」

・量子力学では ψ とともに波動関数を表す。
 「うわぁ、すごいことになってきた。ストレンジクォーク?波動関数?、、、、ううっ、わからん。」

 φだけでも、なかなか頭に入りません。
 さて、「ξ=グザイ」ですが、ギリシャ読みは、クシー。
 数学や物理学をやっている人には、なじみの文字らしいのですが、私には見たことも聞いたこともない文字でした。

 数学と物理は、私にとってもっとも縁遠い存在です。
 チーズフォンデュの具材について書いたおかげで、「ξ」とめぐり会いました。

 チーズフォンデュの具材、パンも野菜もいけますよ。食わずぎらいはいけませんね。って、これからも物理学を食う気はなし。

 世界の文字、現在日常生活に使われている文字は28種類。
 漢字ひらがなカタカナ、ラテン文字(ローマ字)のほか私が習ったことがある文字は、韓国朝鮮語のハングル文字、タイ文字、アラビア文字の3種類のみ。

 書くところを目にした文字は、たくさんあります。私の知らない文字や忘れた文字を使う言語の留学生が自己紹介するとき、黒板に名前を自分の文字で書いてもらうことにしているからです。皆、誇らしげに自分の文字を書きます。

 パキスタン留学生のウルドゥ文字、カンボジア留学生のクメール文字、ラオス留学生のラオ文字、ミャンマー留学生のビルマ文字、モンゴル留学生のモンゴル文字。モンゴルでは普段はロシア文字をつかっていて、モンゴル文字で書けるのは自分のなまえだけだったが、、、、、

 ギリシャ文字を書くギリシャ留学生に出会ったのは、これまでにひとりだけでした。たしか、名前の文字に「ξ・クシー(グザイ)」は含まれていなかった。

 ヘブライ文字を書くイスラエル留学生、ふたり。
 ギリシャ文字、ヘブライ文字、そして、イスラエル国籍のパスポートを持って入国したパレスチナ人留学生が書いたアラビア文字、それぞれの文字に自分たちの母語と言語文化への誇りがあふれていました。
 
 t*********さんからのコメント、ありがとうございます。
 『 ギリシャ文字の読み、「アルファ、ベーター、ガンマ、デルタ・・・」の起源はヘブライ語で、「アレフ、ベツ、ギメル、ダレツ・・・」から借りた物です。
投稿者:t********* (2006 2/6 20:34) 』

 ことばと文字は、文化にとって大切な宝物。どの言語も、どの文字も大切にしていきたいです。
 世界の文字については、 http://www.nacos.com/moji/  のサイト、充実しています。

 じゃ、明日もせっせとφ(..) しますね。

ぽかぽか春庭「社会とことば」

2013-07-03 | 日本語
2008/03/05
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>社会とことば(1)フラガール語

 春庭、国立大学では留学生の日本語教育を担当し、私立大学では、学部日本人学生の日本語学、社会言語学、日本語教育学の授業を受け持っています。

 2006年4月に、社会言語学の授業を始めるときはドキドキでした。
 私は「日本語学・現代日本語統語論」で修士論文を執筆し、社会言語学はシロートなのです。
 「日本語教育」に必要な社会言語学を勉強しただけであり、社会言語学の専門家ではありません。

 しかし、「一般学生教養科目と、日本語教師養成コースの学生の必修科目、ふたつの共通科目として設置されているので、日本語教育からみた社会言語学を講義することでかまわない。科目名は社会言語学ではなく、社会言語論になっていますから」という講義目的をお聞きして、自分なりに「社会とことば」ということを考えてみるチャンスだと思いました。

 社会言語「学」ではなく、「社会と言語」論でよい、ということだったので、にわか勉強をかさね、私なりに「日本語と日本語を用いる社会と文化」について、学生に興味をもってもらえる授業を工夫してきました。

 15回の授業の前半は「地域言語(方言)の豊かさ」を中心に話します。後半は、「社会位相と言語、待遇表現(敬語)」「社会における言語と文化」を中心に話しします。「社会階層と言語」「文化と言語イメージ」などが、授業の中心です。

 言語政策、ネーミング、言語教育、などについて触れるのは、ごくわずかな時間配分になってしまい、学問としての社会言語学にふれられるのは、ごく一部です。
 しかし、受講生のほとんどは「一般科目」として授業を受ける学生なので、学問としての社会言語「学」らしい講義よりも、「卒業して一般社会のなかで十分に活用できる日本語能力、運用力、日本語の言語文化を享受できる能力」の養成を第一にしています。

 2007年のある日の授業。
 最初に、映画『フラガール』の冒頭シーンを学生にみせます。
 二人のかわいらしい女子高生が、ボタ山で自分たちの未来について話し合っています。蒼井優ちゃんが福島浜通り方言(いわき弁)で「フラダンス、やってみっぺ」と決意する会話を聞かせました。

 教師からの指示。
 「ふたりの会話を聞いて、自分たちのふだんの会話とちがう感じがするところを聞き取りましょう」という課題を出しました。
 学生たち、耳をこらし「~してくんちぇ」という依頼表現などを聞き取って発表します。

 「話し方の、なんていうか、リズムっつうか、なんかオレらのと違う」と、うまく言い表せないけれど、「なんとなく違うところがある」ということを聞き取る学生もいます。

<つづく>
 
2008/01/14
高低アクセントと無アクセント

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン教師日誌>社会とことば(2)高低アクセントと無アクセント

 フラガールたちの会話は、福島県浜通り地方のことばです。
 日本語地域言語の発音アクセントにおいて、フラガールの舞台になっている福島の一部、そして栃木茨城の一部は、「無アクセント地帯」として、特徴的な地域です。

 日本語標準語および、多くの地域言語(方言)では、単語と分節が「高低アクセント」を持っています。文にはイントネーションがあります。
 しかし、無アクセント地帯では、このような高低アクセントがなく、文の最後が尻上がりになっておわるイントネーションを持つ点で特徴的です。

 学生には、フラガールたちが、このような「無アクセント」で会話していることに注意をむけさせ、次に、「雨」「飴」「箸橋端」など、アクセントの高低によって単語の意味が変わるペア単語を探させます。

 「蒼井優ちゃん、かわいいですね。優ちゃんの話し方もチョーかわいい。いい響きですね。このような、語尾までずっと平らなままことばを続けて、最後に尻上がりになる話し方、無アクセントといいます」
 「フラガールアクセント」を褒めちぎり、この地方のことばの特徴をいくつか取り出します。

 日本語は、高低アクセントを用いる言語であるけれど、地域によっては、フラガールの地元のように、そうではない方言もあり、日本語の多様さを確認させます。

 フラガールの映画の次に、斎藤孝編集のCD『声に出して読みたい方言』から、いくつかの地方の方言を聞かせます。
 私が強調するのは、これらの方言は日本の言語文化の宝物だ、ということです。

 今、各地の方言が消えつつあります。テレビマスコミの発達によって、地方の若い人にも、お年寄りの話す方言を理解できなくなっていたりします。
 「新方言」と呼ばれる「標準語」とのミックス方言を話す若者もいますが、純粋方言が話せるのはお年寄りに限られてきつつあります。

 ことばは生まれ変わるのが常なので、「新方言」が旧来の方言を駆逐するのは、歴史の必然でもあるのだけれど、歴史の中に生き残ってきた方言がまったく消え去ってしまうのだとすると、さびしくもあります。

 岩手県気仙地方の方言を集大成した「ケセン語」辞書の編纂など、方言の文化を残そうとする試みも続いています。

 大道芸の保存収集を続けていた小沢昭一は「保存会ってのができたら、もうその芸能はおしまいなんだよ。地元で生きた生活文化としての芸能は死んで、干物になった保存用の芸能が残る」という意味の発言をしています。

 同じように、保存会ができて記録されていく方言は、地方の生活のなかでは「生きていることば」ではなくなっています。

<つづく>
 

2008/01/15

バイリンガル

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン教師日誌>社会とことば(3)バイリンガル

 春庭の「社会言語論」の授業、各地の方言の次には、『アイヌ語』のCDで、アイヌユーカラやアイヌの歌を聞かせます。

 アイヌ語は、日本語とは別系統の言語ですが、母語話者が消えてしまった「話者滅亡言語」です。

 近年、アイヌ語を学習している人が増えてはいるけれど、母語として、家庭の中で日常語として使用する人は、現代の日本にはいなくなっています。
 ひとつの家の中で、家族全員が日常の生活語として話す人がいなくなってしまったのは、残念なことです。

 アイヌ語が、すばらしい響きと豊かな言語文化の歴史を持っていることを学生に伝えて、「アイヌ語はすばらしい言語文化なので、ぜひ残していきたいと私は思うけれど、言語は社会の中で使われてこそ生きた言語なのであり、一度ほろんだ言語を社会の中で復活させるのはとてもむずかしい」ということを話します。

 「日本語の中でも、各地の方言を大切にしてほしい。自分が現在方言を話せないとしても、田舎のおじいちゃんおばあちゃんが方言を話せる人だったら、ぜひ夏休みでも冬休みでも、方言を習っておいてね。」と、学生に言っています。
 しかし、学生は「え~、方言わざわざ習うの?」と、あまり乗り気でないようす。

 そこで「じゃ、この中で、自分がバイリンガルだったらよかったのに、って思っている人、どのくらいいる?」と、聞いてみる。

 「英語と日本語バイリンガル」とか、「フランス語と中国語バイリンガル」なんて友達をみて、「ふたつのことばを両方つかいこなせたらいいなあ」と、うらやましく思ってきた学生も多い。
 「じゃ、これから私がみなさんをバイリンガルにしてあげます。よく聞いていてね」

 「みんなは、ノルウェー語とデンマーク語の両方を話せる人がいたら、その人はバイリンガルだと思うんじゃないかな。ふたつの国のことばだから。
 マレーシアのことばと、インドネシアのコトバだったらどうですか。バイリンガルと思う?
 学生たち、「うん、うん」と、うなずいている。

 でもね。
 ノルウェー語とデンマーク語は、近い親戚同士のことばで、名古屋弁と博多弁の違いくらいしか違いがありません。スペイン語とポルトガル語だって、青森弁と薩摩弁のちがいくらい。マレーシアのマレー語とインドネシア語など、京都弁と大阪弁のちがいくらいです。

<つづく>

 

2008/01/16

マイアヒ語

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン教師日誌>社会とことば(4)マイアヒ語

 バイリンガルの話のついでに。
 「モルドバ語って聞いたことある人、手をあげて」と学生にたずねる。
 だれも手をあげません。

 「モルドバって国、どこにあるか、知っている人、いる?」
 だれも答えません。
 独立して17年のまだ知名度が低い。東欧のルーマニアとウクライナに挟まれた、旧ソ連から独立した国家。

 「じゃ、次にかける曲を聴いたことある人は手をあげてね」
YouTubeより www.youtube.com/watch?v=jJALPCK0T7Q

 「空耳フラッシュ」として「のまネコ」のフラッシュアニメで有名になったオゾンの『恋のマイアヒ』という曲を聞かせます。
 教師、のってくると、曲にあわせてパラパラ風ダンスを踊るので、学生、唖然。スマスマで♪マイアヒー♪と踊っていたパラパラ風ダンス)

 2004年のヒット曲、学生たちも中学校小学校時代に大流行だったので、よく覚えています。

 曲をききながら、「この曲を歌っているオゾンというグループは、モルドバという国の出身です。でも、ミュージシャンとして成功するために、モルドバからまずルーマニアに進出しました。なぜルーマニアへ行ったか。ルーマニアはモルドバの隣の国です。
 
 モルドバ語とルーマニア語は、ほとんど同じ。大阪弁と船場言葉のちがいくらいです。
 でも、モルドバの人たちは、「自分たちのことばはルーマニア語である」とは、決して言わない。「モルドバ語だ」という。

 だから、ルーマニア語とモルドバ語というのは、二カ国語ではあるけれど、ほとんど差はない。同じひとつの言語といっていい。

 つまり、二カ国語が話せる、といっても、その二ヶ国語とは方言のちがいにすぎないことも多い。国がちがってもことばは同じ、という例のひとつ。
 また、ひとつの国のなかでも、インドのように系統のちがう言語が地方ごとに話されている国家もあって、隣町の人とは、通訳がいないと話しが通じない、という場合もある。

 「方言と標準語の両方が話せたら、自分はバイリンガルだと言って、誇っていいですよ」と学生にいい、方言習得のススメを強調しておきます。

<つづく>
 

2008/01/17

パル、パナ、わゐうゑを

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(5)パル、パナ、わゐうゑを(方言周圏論)

 授業コメントを学生に書いてもらったとき、こんなメッセージがありました。

 「 自分は埼玉で、親といっしょに住んでいます。小さいときから自分は標準語を話してきました。父は埼玉出身ですが、母親は青森の出身です。普段は、母も標準語を話しているのですが、ナマリがきつくて、友達が家に遊びに来ても、母親の話し方が恥ずかしくてならなかった。

 でも、先生の授業をきいて、方言は誇りにしていい言語文化なのだとわかりました。母親の発音を恥じていた自分こそ恥ずかしいです。これからは、母に青森方言を習おうと思います。 」

 私が意図している授業の目的のひとつを、きちんと受け止めてくれる学生のメッセージ、うれしく読みました。

 方言について話すとき、方言周圏論についても触れます。
 柳田国男が提唱した社会言語の理論です。異論もあるなか、現在、検証がなされ、定説として認められています。

 「中央の発音や文法が他の新来のものに変わってしまったあとも、地方に古来の発音や文法が残存する。中世までは京都、近世以後は江戸東京を中心にした円周を描いて、言語の移り変わりを図に表示できる」というのが、方言周圏論の骨子。

 柳田国男は「かたつむり・でんでんむし・まいまい・なめくじ」という語が、ひとつのものを指し示しながら多様な表現で各地に現れることに注目し、京都を中心に円周上に古い言い方がならんでいることに着目しました。

 現代のラジオ放送番組が調査した「全国アホバカ調査」では、アホ、バカ、ダラなど、誹謗中傷語を投書によって集め、方言周圏論の説どおりに、円周上に「悪口ことば」が並んでいることを証明しました。

 また現代語のハヒフヘホの発音が、奈良以前の古代語では「パピプペポ」であったということも、この方言周圏論によって説明できます。
 「花、春」を、沖縄八重山地方では「パナ・パル」と発音しているからです。

 現代語では「ワ行」の発音のうち「いうえお」は「ア行」の発音と同じになっているけれど、平安期までは「わゐうゑを」は、「wa wi u we wo」でした。最後までア行とは異なる発音を保っていた「をwo」も、室町期から江戸初期にはア行の「お」の発音と同じになりました。

 しかし、地方には「を」と「お」の発音区別が残っているのです。

<つづく>
 

2008/01/18

ガリレオ先生のwo

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(6)ガリレオ先生のwo(
助詞の「を」)

 2007年10月の「目黒のさんま」で、日本語発音のうち、昔と現在では発音が変わってきていることをお話しました。
 10/14~17日には、ワ行ヤ行の発音について書きました。

 現在の発音では「わいうえを」の発音は「wa i u e o 」であり、「ワwa」以外の発音は「ア行」の「いうえお」の発音と同じです。しかし、平安期には「わゐうゑを」というひらがな表記と「あいうえお」というひらがな表記があり、表記通りに別々の発音をしていました。

 ワ行の発音は、「ワwa ウィwi ウゥwu ウェwe ウォwo」という発音だった。しかし、平安初期以前にすでに「ウゥwu」の発音はア行の「ウu」と同じ発音になってしまい、その後、しだいに「ウィwi ゐ ウェweゑ ウォwoを」の発音も、ア行の「い、え、お」と同じになっていきました。

 同じように、ヤ行の現在の発音は、「ya i yu e yo」であるけれど、昔むかしは「ya yi yu ye yo」であったろう、ということが、残された文献から推測されます。

 ワ行、ヤ行の発音変化について、以上のことを述べたら、コメントをいただきました。

 謡曲のお稽古をつづけていらっしゃるrokujyouさんからいただいたコメント

 『 「お」と「を(ウオ)」は、謡曲では使い分けています。耳を澄ませて油断無く聞き分ける習慣をつけることにします  投稿者:rokujyou (2007 10/14 14:5) 』

 また、長崎出身のphilatelyjp さんからは、下記のようなコメントをいただきました。

 『 長崎県出身の長春在住者です。助詞の「を」は九州では今でも「wo」と発音します。年配者だけかも知れないと思っていたら高校生もそうでした。長崎出身の福山雅治の歌を聞いてみてください。 投稿者:philatelyjp (2007 10/20 22:24 ) 』

 検証!!
 福山雅治の歌をきいてみました。
 2007年10~12月には、テレビドラマ『ガリレオ』を楽しみに見ていたのですが、福山雅治の「をwo」について特別気にせずに見てしまいました。

 娘が「第1話第2話は同じドラマティストだけれど、3話はドラマのティストがちょっとちがう」というので、月刊誌『ドラマ』でシナリオ『ガリレオ1~3話』を読みました。
 たしかに、1話2話の脚本は福田靖で、第3話は古家和尚。脚本家が異なっていました。

 娘の「ドラマ鑑賞」の鋭い感覚に感心しましたが、わたしは、この「ティスト」のちがいも、福山の「をwo」も、ぜんぜん気づきませんでした。ただ、ぼうっと、「福山ガリレオセンセ、かっこいい」と思ってみていました。

<つづく>
 

2008/01/19

福山雅治のセーラー服と機関銃

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(6)福山雅治のセーラー服と機関銃(日本語の発音変化と地域位相)

 ユーチューブを聞いて確認。
 福山雅治『セーラー服と機関銃』YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eal.Y_QMyTz0

 『ミルクティ』の中で♪愛される明日を夢みる~、『桜坂』♪恋をしている~、などでも「をwo」が聞き取れますが、『セーラー服と機関銃』を聞くと、いちばんはっきり分かります。

 長崎出身の方は、高校生など若者も、助詞の「を」の発音は「wo」なのだそうですが、福山の「を」は、実にはっきりと「ウォwo」になっています。

♪愛した男たちwo~ ♪タダこのまま冷たい頬woあたためたいけど~ ♪いつの日にか僕のことwo 思い出すがいい~ ♪希望という名の重い荷wo~

 長崎地方の助詞の「を」は、古来の日本語発音が残り、「ウォwo」であることが検証できました。

 顔見知りの人、とくに日本語教育関係の方には秘密にしている春庭のカフェコラム「いろいろあらーな」
 秘密の理由は「プライベートの趣味と仕事をかっちりと分ける」ということで、とくに、直接、仕事をごいっしょにしている方には、URLを教えたことありませんでした。
 顔を知っていた方からのコメントをもらえるとびっくり!です。

 長崎地方の「を」と「お」について、また福山雅治の発音についてコメントをくださったphilatelyjp さん、知りあいだった人とわかってびっくり仰天。

 philatelyjpさんは、2007年に私が赴任していた中国の大学の、他学部にいた先生。長崎から県の派遣で赴任していた方でした。

 キャンパスが別なので仕事での交流はなかったのですが、宿舎は同じ場所。
 philatelyjp 先生は旧館1号館で、私は2号館でした。

 私の同僚のひとりがphilatelyjp先生と最初に顔見知りになり、私たちにも紹介してくださるというのでいっしょに「北国の春」という名の和食屋さんでお食事をしました。
 そのあと、カラオケにいきました。
 philatelyjp先生は、福山雅治の『桜坂』や中島みゆき『地上の星』を熱唱なさっていました。

 そのおり、長崎のご出身だとうかがっていたし、郵便切手コレクターとしては日本有数の方なのだと聞かされていたのに、10月15日付けの春庭コラムにコメントを寄せてくださったハンドルネーム、philatelyjp(郵便切手愛好家日本)に、何も思い当たることがなかった。

<つづく>


2008/01/20

セーラー服と機関銃カラオケ余話

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(7)セーラー服と機関銃カラオケ余話

 おおみそかに、これまでコメントをくださった方へ、ごあいさつ足跡をつけていたとき、突然気づきました。

 「長崎出身、切手愛好家、長春在中」という三つのキーワードで、「あれ、このphilatelyjp さんは、旧館1号館にいらっしたI先生だ」と。

 リンクをたどると、philatelyjp本館HP掲示板には、私が書き込んだ「カラオケ、楽しかった」という書き込みが残っていました。

 philatelyjp 先生、コメントをありがとうございました。
 春庭が「日本語教師・某」であること、まだ秘密にしておいてくださいね。
 日記中には、いろいろ「ヒ・ミ・ツ」の話も書いてあるので、、、、、、私のダイエット2007年も不可で、いまだ体重増量中であるとか、夫は、「年中トーサンは倒産」のハナシ夫であることとか、、、、、、
 
 ちなみに、『石狩挽歌』『氷雨』『六本木ララバイ』『中島みゆきメドレー』などとならんで『セーラー服と機関銃』も、春庭のカラオケ持ち歌です。

 philatelyjp 先生たちとごいっしょに桂林路のカラオケ店へ行ったとき、私は半分眠りながら『六本木ララバイ』を歌いました。

 ハカセ3班の学生のクラスパーティに呼ばれて、ダンチョー先生といっしょにカラオケへいったときは『セーラー服と機関銃』をソロで、ダンチョー先生といっしょに『北国の春』を、トウ先生といっしょにテレサテンの『つぐない』を歌いました。
 日本語で歌える歌がその3曲しかなかった。

 というわけで、社会のなかでことばをつかって暮らしていれば、さまざまなコミュニケーションが蜘蛛の網目のように絡まり合い、人と人をつないでいきます。
 philatelyjp 先生との思いがけない邂逅も、社会のなかで生きて、ことばを交わしあっていればこその、蜘蛛の網目(Web)が絡み合ってのつながりでした。

 「社会言語論」受講の学生たちと、今年はどんな出会いがあるでしょうか。

<おわり> 

ぽかぽか春庭「問題な日本語とかぶった」

2013-06-26 | 日本語
ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語講座『問題な日本語』と、かぶった①
2005/02/08(火)
「ニッポニアニッポン語>『問題な日本語』と、かぶった①」

 正月に問いかけを受けた、日本語教師として「あけおめ」をどう思うか、という質問に答えるつもりで「ドーモの変遷」から書き起こしてきた。
 コメントをいただいた中からまた話がふくらんで「ニッポニアニッポン語」が続いている。挨拶ことば、動詞形容詞の変化、誤読から慣用読みへ、などを気ままに書き散らしている。

まるで『トリビアの泉』のよう☆「へ~!」を連発してます・・・ 投稿者:c********* (2005 1/27 17:0)
 なんて言われると、知ったかぶり大好きの春庭、ついつい余計な話もしてしまいます。
 もっと続けようとして、ちょっと待て。

 去年、上級クラスの作文の時間に、いつもの調子で日本語の話をしていたら、留学生から「あ、それ先週トリビアの泉できいた!」と、うれしそうに言われてしまった。
 なんてこった。先々週の授業で話しておけば、「すご~い!先生が話してくれたこと、トリビアでもやっていた」と、予言者のごとく学生のソンケーのまなざしを集められたのに、テレビが先にやってしまったのなら、まるで「テレビで見たことをそのまましゃべっている二番煎じのアホ教師」に見えるではないか。

 「まるで『トリビアの泉』のよう☆」というコメントを読んで、こりゃしまった、読まずにすませようと思ったベストセラー『問題な日本語』を読んだ方がいい、と思うようになった。
 話がかぶったら、「『問題な日本語』に書いてあったことを、春庭が二番煎じで書いているよ、ばかみたい」と思われるは必定。

 翌日1/28の仕事帰りに本屋へよって、買ってきました『問題な日本語』
 ふぅ、ベストセラーになってしまったあと買うのは、ちょっと気恥ずかしい。『日本語練習帳』も、買おうと思ってもたもたしていたらベストセラーになってしまったので、結局読んだのは、売れてから数年後になった。

 日本語に関する本は毎年たくさん出版される。2003年に出版された野口恵子『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)は、日本語教師の著作なので、出版されてすぐに購入した。

 しかし、読み出して、私の言語感覚とかなり違うと感じ、途中で読むのをやめ、ツン読にしてしまった。今回「問題な日本語」と比較しながら読むという方法をとって読むと、とても面白く読めた。

 著者野口さんは、私と同じ世代。大学で「留学生への日本語教育」「日本人学生への日本語教育論」を担当しているということも、私と同じ。学生ことば用例や留学生の誤用などに共通する経験がある。 

 ただし、野口先生は「このようなまちがった日本語は困る」という意見が多く、全体として「学生に正しい日本語を教えたい」という意欲が強い。
 「変化し続け、変化の末に定着したものが、その時その時代の日本語」という「流れモノ主義」の私に対して、野口先生は「正統派日本語教師」の方なのだ。

 出版以来、「問題な日本語」ほどのヒット作にはならなかったのは、「規範日本語」への意識のちがいのように感じた。<続く>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊
(き)北原保雄 「問題な日本語」

09:48 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『問題な日本語』と、かぶった②
2005/02/09(水)
「ニッポニアニッポン語>『問題な日本語』と、かぶった②」

 『問題な日本語』のほうは、「いまどきの日本語」が、なぜこのような言い方になるのか解説したあと、それを誤用とするか、「まあ許容範囲とするか」で、これまで出版された類書とずいぶん温度差がある。
 従来の「『正しい日本語』本」業界のなかで、『問題な日本語』は、もっとも「許容範囲が広い」のだ。たぶん、だからこそベストセラーになっただろう。

 「こんにちわ」については、私も、『問題な日本語』も、ほぼ同意見。
 といっても、説明の部分は『問題な日本語』の解説も私の解説も、日本語史や文法に沿った部分は同じになってしまうのは、当然のこと。
 「今日は」という挨拶が「こんにちはお日よりもよく~うんぬん」という長い挨拶の冒頭の部分だけが「あいさつ語」として定着した、という日本語史の事実の部分は、だれが書いても大きく異なることはない。

 『問題な~』と、意見が少々異なる部分。
 私は「現在の表記基準では『こんにちは』が規範的な書き方だが、留学生が『こんにちわ』と書くことを認めている。すでに『は』に助詞の機能がないから」と書いた。(2005/01/19)

 『問題な日本語』も、「は→わ」について、
  『今はまだ誤用とされるが、「こんちわ」「ちわ」では「わ」が一般的になっており「こんにちわ」が正しいと認められる日は近い』
と、述べている。

 現代仮名遣いの「こんにちは」を規範としつつ、「こんにちわ」容認の日近しとみなしているのだ。
 「規範の仮名遣い遵守」から、「こんにちは」の「は」に、助詞の機能はない、という現実の言語意識追認へ、一歩近づいてきている。

 「違う」の形容詞化についても、『問題な日本語』と意見一致。「ちがくない、ちがくて」の出現に対して、「違う」が形容詞的な内容をもつ状態動詞だから、と考える点では同様だ。
 しかし、「形容詞型終止形:ちがい」がまだ出現していないから、現段階では、「違い」を形容詞とは認めない、というのが『問題な日本語』の結論。

 「その答えは、ちがいます」「その答えは、間違いです」と平行して「その答えは、ちがぃいです」という言い方は、まだ出現していない。
 それでも、私は、「ちがくない」「ちがくて」のほうは、「動詞の誤用」ではなく、「すでに形容詞化している」とみなす。形容詞「ちがい」「ちがぃい」は、潜在していると、考えている。

 そして現在、「同じだ」というナ形容詞(国文法の形容動詞)が、「おなじい」というイ形容詞優勢になっていくだろうという点については、「問題な~」は、
  『現在は「おなじい」が使われるのはまれ』
 と述べるにとどまり、これからの使用については言及していない。

 私は、終止形もイ形容詞「おなじい」が使用されるようになるだろうと予測している。いったんは「ナ形容詞(形容動詞)同じだ」に圧倒された形容詞「おなじい」が復活するのだ。
 連用中止形。形容詞型「Aと同じく、Bは~」形容動詞型「Aと同じで、Bは~」が、平行して使われてきた
 終止形は「AはBと同じだ」という形容動詞型が現代では多く使われており、「AはBと同じい」という言い方は、古めかしい文章の中でしか見ない。

 「おなじくない、おなじいです おなじければ」と「おなじじゃない おなじです おなじならば」が、平行して使用される時期を経て、これからは、イ形容詞「おなじい」が優勢になっていくだろうという予想をしている。

 「きれぇくない きれぃいです きれぇければ」という「きれいだ→きれぃい」という「きれい」のイ形容詞化は、進行中。

 「ほとんどのナ形容詞(形容動詞)が、しだいにイ形容詞化していく」という予想は、近未来予測ではあたらないかもしれないが、日本語変化の来し方行く末を見続けた場合、長期的予想においては的中すると思うのだが。
 
 ファッションでも、ものの考え方でも、時代の半歩先を歩くことが「ウレセン」のコツ。二、三歩前へ出てしまうと、出る杭が打たれるだけで、おしまい。
 「ちがくて」も「おなじい」も「こんにちわ」もオールOKだと、ちょっと先走りすぎ、ヒンシュク買うだけで、売れはしない。<つづく>
08:00 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『問題な日本語』と、かぶった③
2005/02/10(木)
「ニッポニアニッポン語>『問題な日本語』と、かぶった③」

 「名誉挽回」は、一度失われた名誉を挽回するのだから正しいが、「汚名挽回」は、汚れた名前を再び挽回して取り戻すことになり、よけい汚れてしまうから、間違い、という「正しい日本語」説について。

 『問題な日本語』のコラムでは「挽回」は、巻返しを図るという意味もあるから、「衰勢挽回」「劣勢挽回」「不名誉を挽回する」も、みな正しい。従って「汚名挽回」だって、「正しい日本語」として認める、という判断。

 『問題な日本語』の編集責任者である北原保雄が「判定者」として出演したクイズ形式のテレビバラエティ「みんなのモンダイ!日本人は日本語を知らない」(TBS 2005/01/29)の冒頭、北原が登場する前の「事前の練習問題」に出題されたのは、この「汚名挽回」だった。

 番組ではこれを「名誉挽回は○だが、汚名挽回は×。汚名返上が正しい」という、一般の「正しい日本語」説を採用していた。

 北原保雄が番組全体を監修したのではないから仕方がないとはいえ、『問題な日本語』に書かれたことを否定している部分が放映されたあと、北原先生が登場したことになる。

 北原先生を番組に呼ぶなら、制作スタッフは、『問題な日本語』を全編読み通して、書かれていることを理解した上で内容構成をしたらいいのに、と思うけれど、テレビ制作って関連本読むヒマなんかないくらい忙しい仕事なんでしょうね。

 『問題な日本語』は、全体としてこれまでの「正しい日本語」本に比べて、「いまどきの日本語」に理解を示す度合いが強い。
 ただし、どれを許容と認めるか、という判断について、『問題な日本語』は、「過去に用例があるかどうか」が、基準になっていることが多い。
 たとえば、「全然いい」という言い方が、許容範囲かどうか。

 「全然」は否定語と結ぶ副詞であって、書き言葉では「ぜんぜんダメでした」はよいが「ぜんぜんうまいですよ」は、俗な用法である。というのが、従来の「規範日本語」の考え方。

 しかし、『問題な日本語』は、明治時代以降、肯定文にも全然が使われている例として漱石や芥川の小説を例示する。漱石芥川など、著名な作家、学者の文章に用例があればOK。「すごいおいしい」のたぐいも、漱石、鏡花、曾野綾子に用例があるからよしとする、というのが『問題な日本語』の判定。

 大家の用例がないと、
  『「っていうか」は子どもっぽい、教養がない、という印象を聞き手に与えるおそれがあります。』
と、容赦がない。

 私の世代では、庄司薫、橋本治、村上龍などが積極的に口語を文体にとりいれてきたし、最近の若い書き手は、若者言葉、俗語表現をどんどん「地の文」に採用している。

 「問題な日本語」のように、「評価が定まった著名な文学作品に用例があるかどうか」を基準にするのなら、町田康、舞城王太郎ら、口語体小説の評価がさだまれば、現在使われている俗語表現は、ほとんどが許容範囲に入るだろう。

 チョーすげぇおもろい日本語、じゃんじゃん使ってもオニ平チャラっつうか、全然いい、みたいな。
 きしょいヒョーゲンだろうと、いっこ上のセンパイがなにげに話してるのを聞いてれば、ワタシ的にはマジOK。オヤとかに「このにほんごチガくて」なんて、ウザイこと言われたくないしい。
 でもさあ、こないだ、2こ下のやつにタメグチきかれて、これってドーヨ。こうゆーのは、怒らさせていただきます。
 未来ニホンゴについて、以上のほうでよろしかったでしょうか。オゆっくりお読みになられてくださいネー。

 と、私は言えませんけど、『枕草子』の中でことばの乱れをなげいている清少納言からみたら、現在の私の言葉遣いは、上の「チョ~すげぇ」より、すごいことになっているんでしょうね。
 ですから、お宅さまも、「チョーすげぇ日本語」に出会っても、お嘆きあるな。

「お宅さま」と入れ替えてお好みの言い方を入れてください。
「そちら様、あなた(貴方、彼方、貴女)、あんた、きみ、おまえ、貴様、お(ん)どれ、おぬし、ユー、わい、そち、そなた、そこもと、そのほう、うぬ、なんじ(汝)、なれ(汝)、ネーカノジョォ(カレシィ)、(お)てまえさま、わりゃー、ジブン、そっち」
<『問題な日本語』とかぶった おわり>
08:13 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ



ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語『かなり気がかりな日本語』と、かぶった
2005/02/11(金)
「ニッポニアニッポン語>「かなり気がかりな日本語」と、かぶった

 今週は「『問題な日本語』と、かぶった」部分について、ツッコミいれてみた。

 『かなり気がかりな日本語』の著者は、「かぶる」はテレビ業界などでつかわれた業界用語であるとして、学生が「かぶる」という語を使用するのは好ましくない、と憤慨している。
 学生が、芸能界の業界用語などを無批判にまねて使用する、悪い見本の例としてあげている語のひとつが「かぶる」なのだ。

 「かぶる」は①上から覆って、重なるようにする②液状粉状のものを上から浴びる③我が身に引き受ける
 などが本義であって、①の「覆って重なる」から、④「先行のものと同じになって重なる」が派生し、テレビ業界などで、企画や発言が先行のものと重複した場合をいうようになった。

 『かなり気がかり~』の著者は、このような用語を学生がとりいれて、授業発表のさいに「前の人と、発表内容がかぶっちゃうんですけど、私の意見では~」などと発言することに、不快感をしめしている。

 誤読も言葉の意味の新用法も、「不快だ」と思う方は、自分では使わないのは当然のこととして、若者世代同士の会議などで「前の人とかぶるんですがあ」と耳にした場合、どうするか。
 「許容する」「黙って眉をひそめる」「そんな日本語は正しくないと表明する」どれにするのか。あなたの考え次第。お気持ちしだい。
 「私はそういう言い方は、好みませんで」と、言うのも、「先行世代」の特権。

 許容範囲が広すぎて顰蹙を買うこともある私は、「かぶるOK!」
 「前の人と発言がかさなるんですけれど」と言い出した人の気持ちと、「前の人とかぶるんですけど」と言う人の気持ちはちがうからだ。

 「重なる」には、前後の部分の評価に差はない。「前の人と発言が重なる」と発言した場合、単純に同じ意見を出していることの断りを言っている。
 「かぶる」は、オリジナリティ、独自性を高く評価することが重要な局面、たとえば、テレビ番組の企画や、バラエティ番組トーク番組の発言などで、使われだした。
 「先行のものに対して後発のものが重なる場合、オリジナリティがないとみなされ、評価が低くなる」という意識が強い。

 学生が「前の人とかぶる」と、発言した場合「先行の発言と同内容のことを発表する」ということに対するエクスキューズが含まれている。
 前の人と同じ内容を言うことになって、自分自身のオリジナリティが減少したことを認めた発言なのだ。

 単に「重複する」「重なる」と、いうのと、異なる使い方をしているのだから、学生をはじめとする若い世代がこの語を使うことには、それなりの言語意識が含まれている。

 「かぶる」が、「業界用語」から普及した語であるとしても、「業界用語を無批判にまねする」と非難するより、新しい表現の語として認めたいと感じるのだが。<『かなり気がかりな日本語』と、かぶった 終わり>
10:45 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊
野口恵子『かなり気がかりな日本語』

ぽかぽか春庭「挨拶語も変わる①」

2013-06-19 | 日本語
ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語講座「挨拶言葉も変わる①」
2005/01/18(火)
「ニッポニアニッポン語>挨拶言葉も変わる①どうも」

 「挨拶(あいさつ)」という語は、もともと仏教用語。指導的立場にある僧と門下の僧とが、教えについて問答を取り交わすことをさした。
 それが「人が他の人と会った際に取り交わす儀礼的な動作、言葉」さらに「儀礼の場などで発する言葉」も意味するようになり、現在は「単なる応対、返事」もいうようになった。

 「残業もそのくらいにしてもう帰ろう、と声かけたのに、なんの挨拶もない」と、先輩が憤慨するのは、返事が返らないことを怒っているのであって、仏教問答をしているのではない。

 「挨拶」という語自体の意味も、時代によって変化している。なんといって挨拶をするのか、取り交わされる挨拶のことばも変化する。

 いしいひさいちによる新聞連載のヨンコマ漫画、『ののちゃん』。『となりの山田君』のタイトルのときから愛読している。
 ののちゃんは、小学生。とても元気な女の子で、言葉遣いが「超現代っ子」。同級生たちもののちゃん同様、少々荒っぽいことばを使う。

 2005年1月17日の漫画「ののちゃん」。「3組3バカトリオ」と呼ばれるクラスの人気者たちが、先生に「オハゴザー」と挨拶し、注意されると「ドモスミ」と謝っている。
 私も、学生たちから「今出来の日本語」を聞く機会が多いが、「ドモスミ」はまだ聞いたことがない。

 先週の「時代によって動詞の用法や活用も変化する」に続き、今週は挨拶語の変化について。
 「どうも」「こんにちは」「あけおめ、ことよろ」この3つをとりあげてみます。

2005/01/18 08:09 t***** どもどもです^^ オハヨウ御座います^^
という足跡をいただく。朝のご挨拶、うれしく拝見。

 でも、人によっては「どもども、なんて挨拶はいや」という人もいるだろうし、「どうも、と挨拶されると不愉快」と感じる方もいる。でも、「どうも」という挨拶はこの30年ほどで、確実に増えた。

 私も、ちょっとした挨拶を交わさなければならないとき、「すみません」と言ったらいいのか、「お世話になりました」でもないし、どうしようと、迷ったとき「どうも、、、、」と、口の中でもごもご言って終わりにしてしまうことがある。
 
『挨拶から謝辞陳謝の他、何でも言い切ることをせずに事足らしてしまう言葉「どうも」の一言は、便利ではあるけれど、天邪鬼の私は、「どうも、何でしょうか・・・?」と、言いたくなるし・・・、』
 というご意見を読み、自分の貧弱な言語生活に恐縮してしまう。「どうもすみません」

 NHKアナウンサーが「どうもどうも高橋圭三です」と言ってテレビ画面に登場した頃から「どうも」が「単独の挨拶語」として広まった。

 当時から「『どうもどうも』は、日本語の挨拶として不愉快」という反対派と、「お堅いNHKに、気軽で身近な雰囲気をもたらした」という賛成派、賛否両論があった。

 「どうも」は、元々は「どうも覚えられない」「どうも怪しい」「どうも気に入らない」など、「どうしても~できない、だめだ」というような、否定的なニュアンスを含む副詞、また、「どうも出かけるようだ」「どうも事実らしい」というような熟考を経た推量のニュアンスを含むことばだった。

 それが「どうもご苦労様」「どうもありがとう」という使われ方をするようになり、その当時の年輩者は「『どうも』は、どうもよろしくないって場合につかうのであって、『ありがとう』といっしょに使うなんて言語道断」と、思ったという。

 しかし「どうもありがとう」の言い方は定着し、いまでは「ありがとう」より丁寧な挨拶として受け止められている。「正統派『どうも』の使い方」を主張する人が「どうもありがとう」という感謝の挨拶を聞いたら、大いに嘆くだろう。

 「どうもどうも」「どうも」「どもども」が、挨拶の言葉として「省略されている」と感じる人がいるのは、「どうも」が「単独の挨拶語」としてまだ定着の過渡期にあるからだ。

 「どうもよろしくない」という使い方から「どうもありがとう」が派生し、「どうも」が否定や推量のニュアンスから抜け出す変化がおきた。私たちの世代にとっては、変化が完了したあとなので違和感なく受け入れ、日常的に「どうもありがとう」を使っている。

 自分が生まれる前の変化は受け入れ、自分が母語を獲得したあとの変化は受け入れにくいというは、当然のことなのだ。人は自分自身の感覚で語感をみがき、自分の受け入れられる語を用いていけばよい。

 自分の好みの言葉を使用し、自分の世代のことばで生きていけばよいのだが、他の人が「どうも」と言ったときに「どうも、という挨拶では中途半端に感じる」という点については、「これは世代のちがい、好みの違い、言語感覚の相違で、しょうがない」と思ってもらうしかない。
 「どうも」をあいさつに使うことを否定するなら、「どうもありがとう」という言い方も否定しなければ、すじが通らないからだ。

 「挨拶」という語が仏教語としての用法のみに留まらず、「応対、返事」の意味まで拡大して使われるようになったのと同じく、「どうも」の用法も変化していく。
 「どうも」も、他の語と同じく、変化の流れの中で生きてゆく言葉なのだ。

 「どうも」が単独の挨拶語として定着していったあとに生まれる世代の人にとっては、「どうも」「どもども」と挨拶を交わすことに違和感を持たなくなるだろう。
 さらには、「どうもすみません」のかわりに「ドモスミ」が広まっていくのかもしれない。

 次は「こんにちは」も省略された挨拶ことばだった、という話。
10:54 | コメント (6) | 編集 | ページのトップへ



2005/01/19(水)
「ニッポニアニッポン語>挨拶言葉も変わる②こんにちは」

 「省略表現」「縮約形ことば」は、若い世代に好まれる。
 縮約形。たとえば「~してしまう」→「~しちゃう」、「~しなければならない」→「~しなきゃなんない」口語ではすでに定着している。

 若者はあいさつも、短く簡単にすませたい。「オはようございまス」の最初と最後だけくっつけて「オッス!」など。
 「オッス」は、女性に広まらなかったせいか、一般の挨拶用語としては「男性が親しい相手にいう挨拶」という位置から変化せず、「丁寧ではない挨拶語」から「一般的な挨拶語」へと上昇しなかった。
 「おはよう」「こんにちは」という挨拶言葉も、もともとは、省略したもの。こちらは、世代、男女をとわず、だれでも使う挨拶になった。

 「こんにちは」は、「今日(こんにち)はお日柄もよく、まことに上々吉。御当家の皆々様も、ご健勝にておすごしと承り、恐悦至極に存じます。さて、本日まかりこしましたのは、うんぬんかんぬん」とか、「こんにちはよいお天気になり、けっこうなことで。つきましては、先日お申し越しの件でございますが、、、」などというあいさつの、出だしの「こんにちは」だけが残り、あとは省略したものなのだ。

 「おはよう」も「お早いお目覚めでまことにけっこうにございます。旦那様におかれましては、ご機嫌もうるわしゅう、お喜び申し上げます」「おはようおこしいただきまして、ありがとう存じます」とかなんとかという、長々しい朝の挨拶の最初のところ「おはよう」だけ残して、あとは省略した。

 昔々の人に「こんにちは」と声かけたとしたら、「こんにちは、だなんて、省略した短いことばで挨拶するなんて、なんという不見識。きちんとした挨拶もできないなんて、しょうもない人ですね」と、怒られたかもしれない。
 現代では、省略語の「こんにちは」が標準的な挨拶のことばとして定着している。
 「こんにちは」さらには「こんちわ」「こんち」「ちわっ」と言う人もいる。

 省略したという意識もなくなって、今では「こんにちわ」と書くことも許容範囲。
 「今日は」の助詞「は」は、もはや助詞として機能していない。『助詞を示す「WA」を「は」と表記する』という表記法の決まりに従う意味がない。
 私は挨拶の語としてひらがなで書く場合、留学生の作文では「こんにちわ」を認めている。ただし、自分で書くときは「こんにちは」と書く方が多く、「表記のゆれ」の過渡期。

 「さようなら」は、「これこれ、しかじか~」と、話し合った最後に「左様の(そのような)次第にて話がまとまりましたならば、けっこうなことと存じますので、これにて失礼いたします」「左様なら、これにて」「さようなら」と、短くなった。
 「さらば」も「左(さ)に、あるなれば、これにて失礼つかまつる」「さ、あらば、これにて失礼」「さらば」
 「じゃ、また」も、同じこと。「では、またお会いしましょう」「じゃ、また」「じゃぁね」

 省略語も、人々が受け入れれば定着するし、一時期流行しても、たちまち飽きられて使われなくなる言葉もある。「超ベリーバッド」の省略として一時のはやり言葉になった「チョベリバ」など、たちまち死語となった。

 子どもたちの間で人気となった朝の挨拶「おっはぁ!」
 テレビ東京の朝の子ども番組から発生した挨拶語が、バラエティ番組の「しんごママ」の挨拶語として広まった。一時期の大流行に比べると、子どもたちの間から聞くことが少なくなった気がするが、はたして「おっはぁ!」の命運やいかに。定着か死語か。
 「おっは」が友達へのあいさつ「おはござ」が目上への挨拶、となる日も近いのか。

 次は「あけおめ、ことよろ」について。
12:49 | コメント (9) | 編集 | ページのトップへ




ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「挨拶ことばも変わる③あけおめ」
2005/01/20(木)
「ニッポニアニッポン語>挨拶ことばも変わる③あけおめ」

 今年の正月に、大阪で編集をなさっている方からのおたずねコメントを読んだ。「あけおめことよろ、という表現を日本語教師としてどう思うか」という内容。

 「あけおめ」も、使いたいと思う人は使えばよろしい。学生へは「友人にはメリクリでもアケオメでも自由にどうぞ。ただし自分の親世代より年輩の人に使ったら、いやがる人もいるよ」と注意はする。

 メール時代。クリスマスカードや年賀状を送るよりメールであいさつをかわす若者が多くなった。クリスマスのメール挨拶として「メリクリ」、新年の賀詞として「あけおめ、ことよろ(あけましておめでとう、ことしもよろしく)」

 会話、チャットがわりにメールでやりとりするのが、日常生活に定着している10代20代前半の人には「あけおめ ことよろ」のやりとりも、「おはよう」と同様に使う。
 私たちが「こんにちわ」や「おはよう」を、省略語などという意識を持たずに普通の挨拶語として使っているの同様、「メール世代」の「フツーの挨拶語」になっている。

 メールというコミュニケーション手段を取り入れたのが、母語形成過程と同時進行だった人にとっては、「あけおめ」も、違和感がない。逆に、母語形成を完成し、「社会生活にふさわしい言葉遣い」なんてものを身につけてしまったあとで「あけおめ」を聞いた人にとっては、「違和感」「拒否感」が全身をおおう。

 挨拶語の省略シリーズ、「どうも」「こんにちは」の次は「あけおめことよろ」と、予告したら、さっそくコメントをいただいた。

 30代の方からのコメント。
「あけおめ」はわかったけれど、「ことよろ」って何? としばし熟考。あぁ、「今年もよろしく…」ってこと?本当にわかりませんでした。私にとってはもはや暗号です。気になる言葉。「いくらなんでもそりゃああんまりです」…この言葉もそうとう省略されていそうですね☆ 投稿者:h*** (2005 1/20 0:22)

 春庭から>優しい人柄あふれる言葉で児童文学の紹介HPを続けているh***さんにとっては、かなり違和感のある挨拶のようですね。「いくらなんでもそりゃああんまりです」と、感じる世代が使う必要はありません。でも、20代10代の人がメールでやりとりするのは、もはや止められません。

 40代(たぶん)の方からのコメント。
 「あけおめ ことよろ」は大嫌いです。メール代金くらい気にせず、きちんと書きます。というより、新年の挨拶はメールではしませんね。ましてやそのまま口に出すなんて、とんでもないです。 投稿者:m******* (2005 1/19 23:10)

 春庭から>若い人たちはパケット料金で、文字の長さがメール代金と関わりない人でも「あけおめ」を使っています。
 「こんにちわ」「こんばんわ」は、メール代金を気にしなくてもいい昔の人が口語として省略したのであって、挨拶語の変化は何時の時代でもおこること。

 m********さんはメールで新年の挨拶はせず、年賀状をきちんと出す方、ご自分の言語生活のポリシーを守っていらっしゃる方と推察します。どうぞ、ご自分のスタンスでことばを大切になさってくださいね。

 しかし、言葉の変化は止められません。
 10代20代の若者で、今年年賀状を出した人は確実に減少しています。元日に友達と待ち合わせした友達同士では顔をあわせて「あけおめっ!」と口に出している。30代以上の方、自分が使わなければいいのであって、若者が使うことには、目をつぶってください。

 50代の方からのコメント。
 実は私も「アケオメ」メールを新年早々賀状代わりに送ってしまいました。後輩だからまーいいか?投稿者:s********* (2005 1/19 20:29)

 春庭から>わぁ、若い!「アケオメ」を若者言葉として容認派の春庭も、自分では使えません。後輩の方、何歳でしょうか。「あけおめことよろ」を違和感なく受け止めるメール世代の人あての挨拶だったのでしょうね。

 50代の方からのコメント。
 あけおめって年賀状貰った時は驚いた(^^)オイオイ!正月からなんじゃ~
意味聞いてからホット胸撫ぜ下ろしましたけど・・ 投稿者:t***** (2005 1/19 15:9)

 春庭から>「あけおめことよろ」を「開けおめこ」「とよろ」と区切って読んで、「姫始めの挨拶」かと、びっくりぎょうてん!だったのかしら。フフフ。
 (プロフィールでは年代が分かりませんでしたが、2004/12/16カフェ日記に「50の声聞くまでは、風邪なんか引いた事無いのに」とあるので、50代の方と推察)

 「あけおめ」を「いやだ」と感じる年代の方、自分で使わないことは自由。省略した賀詞を受け取ることが不愉快であることに、共感してくれる世代の人と、おつきあいしていけばいいのです。
 しかし、20代10代の人が「あけおめ」とメールを送りあったり、対面して「あけおめ!」と声をかけ合うことは、彼らにまかせておきましょう。「気にしないでほっておいて」と、申し上げるしかない。<あけおめ続く>
11:18 | コメント (9) | 編集 | ページのトップへ


2005/01/21(金)
「ニッポニアニッポン語>挨拶ことばも変わる④あけおめ」

 40代の方からのコメント
 あ、そうそう「あけおめ ことよろ」は見る側、受ける側からすると短すぎてぞんざいに感じてます。市民権を得るまでには至らないのではないかと思っています。投稿者:a***** (2005 1/20 1:13)

春庭から>「受ける側からするとぞんざいに感じる」というのは、母語形成過程に「あけおめ」を聞かなかったからぞんざいに感じるのです。「こんにちわ」をぞんざいに感じないのは、この省略化が完了してから生まれたから。

 私も「あけおめ」はこれ以上定着しないと考えていますが、それは「ぞんざいだから市民権を得るに至らない」のではありません。「正月」「新年」に対する意識が、若い人の間で、確実に変化しているからです。

 「あけおめ」が若い人々の間で、新年の挨拶として定着するかどうか。
 たぶん、しない。
 「あけおめ」という挨拶語を言わないというのではなく、新年に「新しい年がはじまった」という挨拶を交わす習慣そのものが、なくなっていくような気がする。

 「新年だからといって、特別なことは何もない。昨日のつづきが今日であるのと変わらず、2004年12月31日のつづきが2005年1月1日であるだけ」と、感じている若い世代の日記を、いくつかのサイトで見た。「カレンダーをとりかえるだけ」
 紙のカレンダーを壁にぶら下げる習慣がなくなり、多目的モニターに、時間もカレンダーも環境音楽環境映像も全部映し出す時代になれば、カレンダーの取り替えもなくなるし。

 郵便局が時代の変化に応じたつもりでパソコンプリント仕様の葉書を売り出してみたものの、年賀葉書の売り上げはジリ貧だという。紅白歌合戦の視聴率低下と、年賀状交換習慣の廃れ方は、連動しているのかもしれない。

 「あけおめ、ことよろ」が生き残るとしたら、「簡略賀詞でもいいから、正月には挨拶を交わし合いたい」という意識が若い世代に引き継がれていく場合のみ。

 大晦日を一年終わりの特別な日、元旦を一年はじめの特別な日、と感じる人が少なくなれば、「一家そろって一年振り返りながら歌番組を見る」という習慣も「新年おめでとう」の挨拶もなくなっていく。
 「明けましておめでとうございます」も、テレビバラエティ番組専用のことばになっていく。<あけおめ続く>
07:44 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/01/22(土)
「ニッポニアニッポン語>挨拶ことばも変わる⑤あけおめ」

 「あけおめ」にたくさんの方からのご意見コメントありがとうございます。ことばについてあれこれ考えるのが仕事の一部でもあり趣味である春庭にとって、さまざまなご意見をお寄せいただくことは励みとなり、また自分の考えの足りない部分をさらに深めていくための契機でもあります。
 さて、「あけおめ」という省略賀詞がこれから先も生き残るかどうか、ということについて、さらに続けます。

 年がひとまわりし、切り替わる正月は、「時間のリセット」であり、「魂の新生の契機」として機能してきた。リセットによってすべてが新しくなり、この先1年間生き続ける活力を得たのだ。新しい太陽、初日が上るのを見、新しい水、若水をくみ上げる。一年最初に言葉を交わしあい、ともに酒を飲む。
 時間がリセットされることにより、新たな生成が準備される。ことに農耕社会にとっては、土地と時間の新生は、新たな生産のために重要なことだった。土地と時間の新生は「めでたし(メデ(愛で)イタシ(甚し)」と感じられる出来事だった。

 今は満年齢で年をいうが、「数え年」のころは正月にいっせいに年を加えた。時間のリセットによって、自分の年齢も切り替えた。年齢がふえるということは、一歩死に近づいた、ということになる。
 「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌(伝承では一休禅師作だが、確かではない)は、正月という時間を意識するふたつの面をうまく表わしている。

 人の一生の中で、特記すべき通過儀礼(イニシエーション)は、誕生、命名、成人、結婚、葬儀などであり、世界各地にさまざまな儀礼が存在する。成人の儀礼では、人は「子ども」の自分をリセットして「大人」へ生まれ変わる。葬儀では「生身の人」から「ホトケ、カミ、タマシイ、ゴセンゾ」などと呼ばれる存在にリセットされる。自分のいるステージがリセット変更されるのだ。

 一生の時間のステージリセットと、毎年の生命力のリセット新生が組合わさって、ひとりの人間のすごす一生の時間が進んでいく。これにより「新年おめでとう」なのだ。
 
 これらの「リセット新生」を感じない人が育っていき、新年がめでたいものでなくなれば、「あけましておめでとう」のあいさつは形骸化し、やがて消えていくのもしかたがない。「あけおめ」という簡略賀詞が生き残る確立も低い。
 「今年もよろしく」と、賀詞を言い合うことにより、これから先1年の交流継続を確認する意味が薄れれば、きのうの続きとして今日もなかよくすればいいだけで、ことさら新年用のあいさつを交わさなくても、友達づきあい商売づきあいができるのだ。

 昔は、取引先や上司の家への年始まわりが正月の大切な行事だった。江戸時代には、正月松の内に60軒や70軒の年始にまわりは当然というところもあったとか。

 しかし、昨今では「年始回り」も「親の顔を見に行くだけ」という人も増えた。今年、年始挨拶のために松の内に何軒のお宅を訪問しましたか?ほら、50軒まわったなんて人、いないでしょ。昔だったら、そんな不義理をしたら非難囂々だったかも。

 年始回りの習慣がこれまでの100年で消えたように、年始回りの代用として機能していた年賀葉書交換も、50年後には廃れているかもしれない。
 友人知り合いと新年の賀詞を言い合う習慣が意味をもたなくなれば、「新年おめでとう」も「あけおめ」も、消えていく。

 50年後100年後に、「新年が来たことを寿ぎ、あいさつをかわす」という習慣が残るのか、先細りになった末に消えるのか。これから生まれてきて、50年後100年後に日本語を社会の中で使う人たちが、それを決めるだろう。

 「明けましておめでとう、新年おめでとう、のあいさつを大切にしましょう」と、声高に主張する必要はない。変わる必要がある言葉は変わり、残る言葉は残る。

 新年あいさつのことばが残るかどうかは、これから生まれる世代の人たちがどのような社会のなかで、どのような生活をしていくのかによる。
 その社会を用意し、作り上げるのは今の10代以下の人々であり、今の20代10代を育てたのは、私たち親世代なんだけど。

<あけおめ終わり>

ぽかぽか春庭「動詞の用法も変わる①」

2013-06-12 | 日本語
ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語講座「動詞の用法も変わる①」
2005/01/11(火)
「ニッポニアニッポン語>動詞の用法も変わる①」

 昨年暮れのこと。商店街の屋台で焼き鳥を買った。
 客はそれぞれ「うち、レバーとハツ5本ずつ」などと注文して、寒風ふきぬける通りで焼き上がるのを待っている。焼き鳥屋のおばちゃんは、待ち時間サービスのつもりか、愛想良くおしゃべりを続ける。

 「いやぁ、うちにもついに来たんよ。ほら、あのオレオレっての。娘が交通事故を起こしたって、男が電話してきてね。娘、電話で泣いてんのよ。うひゃぁ、って、おろおろしてたらさ、そこに娘が帰ってきたの。
 あ、オレオレじゃなくて、振り込みって名前になったの?え、振り込め詐欺?なんだかわかんないけど、とにかく娘がちょうどよく帰ってこなかったら、ひっかかってたよ」

 実害がなかったせいか、「流行におくれることなく、世間の話題に入れた」というノリで、おばちゃんは「振り込め詐欺未遂事件」を語る。
 「オレオレ詐欺」から「振り込め詐欺」に名称変更して、ますます手口は巧妙になっているらしい。正式な裁判所の小額訴訟制度を堂々と利用した新手の手法も出てきた。お気をつけください。
   
 手口が巧妙化するテンポにあわせて「振り込め詐欺」という名称も一般に浸透してきたようだ。しかし、詐欺には引っかからなくても、この名称に引っかかった人もいる。
 私も最初耳にしたとき「おっ!」と思った。人目をひく、新しい語法だったから。
 何が新しかったかというと。

 詐欺を修飾する「振り込め」は「振り込む」という動詞の命令形(仮定形も同形)だ。詐欺犯が振り込み先の銀行通帳を指定する。「どこそこ支店の何番へ振り込め」と命じて、まんまと振り込ませる。
 この詐欺のやり方がぴったり表現されていたせいか、新しい語法が耳目を集めたせいか、新名称の浸透速度は速い。

 他の語を修飾するために動詞が用いられるとき、もっとも一般的な活用形は連用形(日本語教育では「マス形masu-form」として扱う)がくる。
 動詞の連用形(マス形)は、「行き帰り」「ブラブラ歩き」など、そのままの形で名詞として用いられる(連用形名詞)。修飾語としても連用形名詞が使われる。

 新年に提出した動詞「走る」「笑う」「書く」を例に挙げれば。
 「幅跳び」をするとき、助走をつけて走って跳躍するのは「走り幅跳び」。「走る幅跳び」「走れ幅跳び」とは言わない。
 簡単な使われ仕事に走り回ることやそれを行う人は「走り使い」。笑いだしたら止まらない人を「笑い上戸」。面白い話は「笑い話」。新年に初めて筆を用いるのは「書き初め」漢字を書く順番は「書き順」。「この順番通りに書け」と、漢字を教える先生が命令しても「書け順」とは言わない。

 今回の詐欺事件。「オエオレ!オレだよ」と、家族知人になりすます手口が巧妙化した。最終的に、犯人は「○○銀行に振り込め!」と命じる。そこで「振り込め詐欺」と命名された。
 以下、この「振り込め詐欺」という名称についての賛否両論を解説し、日本語教師春庭はこの造語法に反対はしないことを述べる。<つづく>
09:51 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語「動詞の用法も変わる②」
2005/01/12(水)
「ニッポニアニッポン語>動詞の用法も変わる②」

 湯を飲むための茶碗は「湯飲み茶碗」。人が飲む水は「飲み水」といい、「飲む~」という表現は「赤ちゃんが飲む水」「毎晩飲むビール」などの形で用いられていた。
 液状の水剤も固形の錠剤やカプセル粉薬も、口から飲む薬は「飲み薬」。「飲む薬」ではなかった。

 広告などでは、いつも人目をひく新鮮な語が次々を登場する。
 固形ヨーグルトに対して液体ヨーグルトが発売されたとき「飲みヨーグルト」ではなく「飲むヨーグルト」として発売され、今では「液状ヨーグルト」などと言う人はあまりいない。「飲むヨーグルトが好き」など、一般的な表現になっている。 
 ヨーグルトに関しては固形ヨーグルトに対して、液状ヨーグルトは「飲みヨーグルト」ではなく、「飲むヨーグルトが好き」という表現が選ばれた。

 働きつづける蜂は「働き蜂」。その造語法でいくと、自動的に動き続けて、歩行者が歩かなくてもよい舗道は「動き舗道」となるはずだが、広まったのは「動く舗道」。「東京駅で京葉線に乗り換えるとき、動く舗道を使った」などという。

 動詞を修飾語として用いるのに、「飲み水」「振り込み先」など「マス形動詞+名詞」が一番多く、人目を引く表現として基本形(注1)を修飾語にした「飲むヨーグルト」「動く舗道」がある。

 さらに、今回、新表現として「振り込め詐欺」が出てきた。動詞命令形を修飾語にした名詞。
 なじみのない表現が出てくれば、必ず「こんな言い方は日本語にはない。この表現は日本語を破壊するものだ」という意見が出される。2005/01/05の朝日新聞投書欄にさっそく掲載されていた。

 「取り込み詐欺」という名詞はOK。連用形+名詞だから。投書氏は「なりすまし詐欺」がよかったと、広島県警の造語例に賛成する。しかし、「なりすまし詐欺」では、従来の「有栖川宮になりすました祝儀金詐取事件」とか、「エリザベス女王のいとこになりすました結婚詐欺」などとの違いがわかりにくい。 

 投書氏は「動詞の命令形と名詞の組み合わせで複合語ができるなどという前例を作らないでもらいたい」と、日本語破壊をなげく。

 しかし、言語表現というのは、常に破壊と変化が作り上げるものなのだ。清少納言が枕草子の中で「近頃のことばづかいの乱れはひどい」と嘆き、古代バビロニアの粘土板に「最近のワカイモンの言葉はなっていない」と憤慨した文章があるように、太古の昔から、「この新しい表現は、私が知っている正統な言葉からみると、乱れている」という年長者のなげきに出会わない言語はないのだ。<つづく>
===========
もんじゃ(文蛇)の足跡
 古典日本語文法の上二段下二段活用カ変サ変の動詞。「終止形」「連体形」は、別々の形だった。(例: 水、器に溢(あふ)る。溢(あふ)るる水。人、老ゆ。老ゆる人。)五段、一段動詞の連体終止形は古典日本語でも同形。

 しかし、現代日本語ではこのふたつの形に区別はないので、日本語教育では終止形連体形ふたつをいっしょにして「基本形」または「辞書形」として扱う。
08:48 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「動詞も変わる③」
2005/01/12(水)
「ニッポニアニッポン語>動詞も変わる③」

 可能動詞の変化について、2004年に書いたけれど再度確認。

 1月7日の仕事はじめ。初級クラスで、最初に冬休みの報告を聞く。
 「長野へ行ってスキーをしました」と、ウーさん。「新幹線を乗って仙台へいきました」「スーさん、新幹線に乗ったのね、すご~い。バスに乗る、電車に乗る、でしたよ。スーさんは新幹線に乗りました」「はい、しんかんせんにのりました」「いいね!」
 「友達の車で日光へ」などの旅行報告のほか、「近所のスーパーでアルバイト」など。
 「友達とお酒を飲んでテレビを見ました」「何を見ましたか」「あ~」と言葉につまり黒板に「赤白 歌」と書く学生。「ああ、紅白歌合戦みたんですね」
 半月間の冬休みの間に忘れていた日本語を思い出し思い出し、間違いながらも報告をする。次に12月に学習したことの復習。冬休みにすっかり忘れてしまったこともある。

 まず、12月の最後の週にやった可能動詞の復習。
 冬休み報告をつかって、「エドさんは、車で日光へいきました。日光まで、友達がひとりで運転しましたか?エドさんは車の運転ができますか」「いいえ、できません」などの問答をして、「運転する」の可能表現「運転できる」を思い出させ、「する→できる」のほか、可能表現を復習。

 「スーさんは一人で新幹線に乗りました。 新幹線に乗る → 一人で新幹線に乗れる」「ショウさんは紅白歌合戦を見て、いっしょに日本の歌を歌いました → 歌を歌う → 日本の歌をうたえる」など、基本形から可能形への変形練習。
 否定の形も復習「サリさんはイスラム教ですから、お酒を飲みません。お酒を飲まない → お酒が飲めない」
 忘れていた可能動詞の形を思い出した。

 さて、「酒が飲める」という可能動詞の表現。
 江戸時代までは「酒が飲まれる」というのが、一般的な五段動詞の可能表現だった。
 可能動詞が成立定着したあと、現在は「漢字が読まれる → 漢字が読める」「ひとりで行かれる → ひとりで行ける」と言うようになった。

 すなわち、「歩ける」「動ける」など、五段活用の動詞(日本語教育では第1グループ動詞)の可能形が成立したのは、長い日本語の歴史のなかではつい最近と言ってよい。
 今でも、地方によってはふたつの表現を併用し、使い分けるところもある。自分の能力としてできるかできないかを表現するとき「年をとったので、よう歩けん」自分の能力にかかわらず、事実として述べるとき「台風で木が倒れたので、この道は歩かれん」
 ただし、逆の地方もあるというので、ややこしい。

 この変化については、「ラ抜きことば」の解説のときに述べたことがある。
 「見られる → みれる」「食べられる → 食べれる」などの「ら抜き」は、すでに辞書搭載され、市民権を得てきている。
 一段活用動詞(日本語教育では第2グループ動詞)に、新しい可能の形が成立し、受身形「見られる」と可能動詞「見れる」の区別がつくようになったのだ。<つづく>
10:31 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「動詞も変わる④」
2005/01/14(金)
「ニッポニアニッポン語>動詞の用法も変わる④」

 ことばに変化があり、それを大半の人が受け入れるなら、新語法として定着する。変化の流れは、その語を使用する人々の意識によって決まる。
 「ラ抜きなんて正しい日本語じゃない」と、いくら正統日本語を主張する人がいようと、流れは止められなかった。受身形と可能形を区別できたほうが、便利だったから。
 「ラ抜き可能形」の発生と定着は、まさに現在自分が生きて生活している間の変化。目の前で起こり、進行していった動詞の形の変化だった。このような言語変化を観察できて、「ありがたい」こと。

 「動詞命令形+名詞」という複合語について「これは正統な複合語じゃない」と、いくら糾弾しても、使う人々が「あ、この表現はぴったりだな」と感じれば、定着する。「押しつけられても、こんな表現は使いたくない」と、大多数の人が感じたのなら、別のことばに置きかわる。
 「外来語を減らしましょう」の指導のもと、「日帰り介護」と言い換えられたデイケア。
 今、街のなかに「デイケアセンター」は見かけるが、「日帰り介護中心」という看板を掲げた施設を、私は見たことがない。

 「命令形動詞+名詞」複合語がさらにふえるのかどうかは、今の段階ではわからないけれど、人々が「この表現はうまいこと言葉の中身を表わしていて、ぴったりだ」と感じれば、さらなる変化が起こるににちがいない。
 禁煙用タバコ「ヤメロたばこ」とか、学校の読書指導で無理矢理読まされる「読め本」など、ありえる?それともアリエネー?

  「振り込め詐欺」は「まあ、これでいいんじゃない」と感じる人が多ければ定着する。この語を使いたくない人は「最初はオレオレ詐欺と呼ばれていた、被害者にお金を振り込ませる手口の詐欺」と言えばすむ。ちょっと長いけど。
12:56 | コメント (1) | 編集 | ページのトップへ




ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語「新しい動詞語彙」
2005/01/15(土)
「ニッポニアニッポン語>新しい動詞ボキャブラリ」

 動詞語彙の変化について。 
 「言葉はどんどん変化する」ということのついでに、新しい動詞語彙について。
 新しくふえた動詞は、外来語からの転用が多いが、もとからある語を省略した動詞や、元の語を変化させた動詞もある。

 「○○する」という言い方なら、「ゲットする」「ダッシュする」「プレイする」など、いくらでも動詞にできる。活用は「する」と同じ。日本語教育では第3グループ動詞。(国文法でいうサ行変格活用、サ変)。
 「げっとする」は、20代10代以下の世代に定着し「手に入れる」という語などより多く使われている。「ポケモン、ゲットする」あたりから流行しだした語が、10年ほどで定着した。
 「~する」という言い方の動詞は、今後もどんどん増えていくだろう。

 「さぼる」「だぶる」のように、定着し辞書に「俗語」として搭載されている語もある。こちらは、第一グループ動詞(国文法のラ行五段活用動詞)

 若者は、「さぼる」を、元からある日本語だと思って「今日、授業さぼった」という。すでに俗語ですらなく、「日本語」として定着している。「さぼる」を使わず、「授業をなまけた」「授業を遊びのためにやすんだ」などと言う若者は皆無だろう。英語由来のカタカナ動詞が多いなか、「さぼる」はフランス語由来。
 「彼は高校時代に留年している」ということは「彼、高校だぶってる」のように言う。

サボる:仕事や授業など、決められた課業をしないですごす>サボタージュ(フランス語sabotage)から
ダブる:同じものが二つある。留年して、同じ学年に二年続けて在籍する>ダブル(double)から
トラブる:何らかのもめ事が起こる。こまった事態に陥る>トラブル(trouble)から
ググる/グーグる:検索サイトを使用して調べる>インターネット検索googleから
パニクる:混乱状態の中で、驚き慌てて冷静な行動ができない>パニックから
ネグる:意図的に無視して傷つける>ネグレクトから
パクる:他人が作った作品をまねする
ビビる:怖れて前に進めず、行動できない
コクる:好きな相手に自分の気持ちを告白する
テンパる:もう一歩で物事が成就する前の、余裕のない緊張した状態になる>テンパイ(麻雀用語)から

 これから流行し、定着するかもしれないラ行第1グループ動詞。
ブログる:インターネットに日記を書き込む
ロムる:ネットに書かれている文章を(コメントなどを残さずに)読む専門
コラボる:共同作業、共同事業をする>コラボレーションから

 私はまだ、耳にしたことがないが、関西では若者が「笑う」とは別の語として使い分けているという「笑ける」という語。あきれはてたりしらけたりして、いう言葉も見つからず、笑うしかないというときに使うそうだ。「笑う」と「しらける」の合体語だろうか。
「そんなこと言うなんて、なんてこった。もう笑ける」
 「お笑い」やテレビから発生した語は、若い世代への浸透速度が速い。また、関西発生の語が全国に広まるのも早い。私の周囲で「笑ける」という語を聞くのも、まもなくかもしれない。
10:22 | コメント (5) | 編集 | ページのトップへ




ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「さ」入れことば
2005/01/25 (火)
ニッポニアニッポン語>「さ」入れことば

 今週も「ことばの変化」について。
 
 私自身は自分の年齢相応の言葉遣いをしているつもりでいるが、10代20代の若者の話しことば書き言葉に接することが多い環境にいるので、「変化してきているなあ」という言い方に出くわす機会も多くなる。
 「ら抜き言葉」が定着した次に、変化が定着するであろうと予測できる「さ入れことば」について。

 「先生、来週は介護体験に行くんで、授業をやすまさせていただきます」と、20歳前後の日本人学生が言ってきたとき「私くらいの年代の人に話すときは、やすまさせて、じゃなくて、休ませていただきますって言ったほうがいいですよ」と、一応注意する。
 日本語教授法のクラスだから、「休ませていただきます」が、現在のところまだ「正統日本語」であることは、教える。

 学生は「ええっ?バイト先でこの言い方が丁寧だって教わったのにい」と、不満な顔。「バイト先で指導してくれた人、何歳?」「えっと、センパイは25かな?30くらいかも」

 すでに「指導する立場の人」の日本語が変化しているのだから、学生が「先生、その本、読まさせてください」なんて言ってくるのも、「さ」入れ表現として、定着していく。
 「サ入れことば」が優勢になっていく「変化の進行」は、おそらく止められないだろうと、思っている。

 20代以下の人は「明日の会議に出させていただきます」「今日で役員をやめさせていただきます」などの表現から、「させていただく」をつければ、すべて丁寧な表現になると考えている。「飲まさせていただきます」「買わさせていただく」を「丁寧な意志表現」としてつかっている。
 テレビバラエティ番組「スマップスマップ」でも、「料理を作らさせていただきます」と言っていた。

 第2グループ動詞(一段活用動詞)は、変化しない語幹部分に使役の語尾「させる」を接続する。 離乳食を食べさせるtabe・saseru、電話をかけさせるkake・saseruなど。
 第1グループ動詞(五段活用動詞)は、これまでは、変化しない語幹に [a・seru]が接続した。

 これが、第2グループと同じに、saseruをつけるようになり、第1グループと第2グループの使役の語尾が同じになるという変化が起きている。
 この変化は定着するだろう。言葉の変化は「簡単便利」を志向する。使役の形が同じ方が簡単だから、

 書くkak・u → kak・a・seru(書かせる)→ kak・a・saseru (書かさせる)
歩くaruk・u → aruk・a・seru(歩かせる)→  aruk・a・saseru(歩かさせる)

 「さ」入れ敬意表現はこれから先もっと増えていき、若い人にとっては、これが丁寧な表現としてふつうになっていくだろう。

 「この言い方を私はしたくない」という世代の人は、頑固に「読ませていただく」「書かせていただく」と、言い続けましょう。
 でも、私たちがいなくなったあとは、「読まさせて」「書かさせて」が「標準的な日本語表現」になっていくのは、確実な情勢ですね。
08:02 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ




ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「いまどきの形容詞①」
2005/01/26 (水)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞①

 変わりつつある動詞使役表現につづいて、変わりつつある形容詞について。
 日本語教育で扱う形容詞は、イ形容詞(国文法形容詞)とナ形容詞(国文法形容動詞)がある。

 形容詞もさまざまな変化のなかで新しい表現が生まれたり、発音が変わったり、品詞が変わったりしている。

 古い辞書にはのっていないが、辞書の新しい版に俗語として搭載される形容詞もあり、若者言葉の省略形容詞も増えてきた。「ばっちい」のように、「汚い」の幼児語としてつかわれていた語が、大人の話の中でも普通に使われるようになったものもある。

 最近、辞書に載った形容詞の例。
 「せこい」〔俗〕ずるかったり、人目をごまかしたりする所があって、まともには付き合えない感じだ(新明解国語辞典第3版・第4版)

 以前とは、使い方、意味合いが変わっている形容詞。
 たとえば、以前「おいしい」は、「食べ物の味がいい」という意味が主要な使い方だったが、「うまい」の丁寧な表現として多用され、いまでは、「いいところだけ使ったりもっていったりすること。他にくらべて、条件がいいこと」などを表現するようになっている。用例「おいしいバイトあるけど、やんない?」「おいしい話には裏アリでしょ」

 「ヤバい」は、俗語として「危ない、悪い状態になる」を意味していた。その意味に加えて、若い人は「他からぬきんでている度合いが危ないくらいにすばらしい」「いいと感じ、それを好きになるのが危険になると思えるくらいだ」という意味合いで、「いいっすねぇ、それ、ヤバイよ」などと表現し、「ヤバい!」が誉め言葉になっている。

 形容詞の省略化も進んでいる。若い世代では省略化が定着している形容詞をあげてみる。
グーグルで検索したときの出現件数が多いものをあげると
 「うっとうしい、うざったらしい」→「うざい」10万2千件    
 「めんどうくさい」→「めんどい」84800件
 「気持ち悪い、気味が悪い」→「きもい」58000件「きしょい」7800件
 「むずかしい」→「むずい」5万2千件
 「かったるい」→「たるい」「たりい」(垂井、樽井といっしょになるので件数不明)
 長い形容詞を短くする変化が多い。短いほうが、「簡単便利」だからだ。言葉は複雑なほうには変化しにくい。たいてい「短く言いやすい」ほうへと、変わる。

 「しょぼくれている」→「しょぼい」20万4千件
 これなどは、動詞アスペクトの「~ている」が、形容詞化している。「しょぼい」は、動詞としての「しょぼくれる」と別の語として存在する。<続く>
=========
もんじゃ(文蛇)の足跡
102?件  84?件  58?件  52?件 204?件 7?件
数字を打ち込んだら、ハングル文字が出てきたので、面白いので、残しておきます。ハングル文字の入力方法を知らなかったので、びっくりしました。
09:02 | コメント (6) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「いまどきの形容詞②」
2005/01/27 (木)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞②

 「やばい」が若い世代の中で誉め言葉として機能していることについて「やばいが褒め言葉とは、驚きですね」投稿者:w****** (2005 1/26 9:15) と、コメントをいただきました。感想をお寄せくださりありがとうございます。
 私たちの現在の語感からすると、「びっくり!」のところもありますが、実は、この変化は日本語としては、よくある意味の変わりかたなのです。

 「すご~い!」「すごっ!」という感歎のことば。
 すばらしい技や出来事などに感激した人たちの口から漏れる。この場合、すばらしさを誉めたたえることばになっている。
 しかし、「すごい」の元の語「すごし」は、
①気候様子態度などが寒く冷たく感じられ、身にこたえる → ②冷たさを含み、恐ろしく感じる → ③ぞくっとして恐ろしく感じるほどすばらしい →④程度がはなはだしいようす(すごくいい、すごく悲しいなど) 
と、いう意味の変遷を経て、現在わたしたちが気軽に口にする「すご~い!」という感歎の言葉になった。

 津波惨禍の写真をみて「すごい!」ぞっとするほど恐ろしい悲惨な状況。原義から言うと、こちらのほうが「すごい」の意味にあっている。
 しかし、美しいものを見たときも、驚くような技を知ったときも「すごい」のひとこと。若い世代が「やばい!」を誉め言葉に使うのも、「すごい」の意味変遷と同じ歴史をたどっていると言える。

 言葉は意味のうえでも、形の上でも、さまざまな変化をしていく。
 動詞から形容詞へと品詞移動しつつある例を紹介しよう。

 動詞「違う」が、形容詞へと品詞移動していく途中。
 動詞では「ちがう、ちがわない、ちがって、ちがえば」と活用したが、形容詞と同じ活用「ちがくて」「ちがくない」「ちがければ」という活用を、若い世代が使っている。終止表現が「ちがいます」から「ちがいです」に変われば、形容詞化が完成する。
 おそらく定着していくだろう。

 「違う」は、もともと状態を表わす動詞なので、動きや作用を表わす動詞に比べて、形容詞に近い内容をもっていた。「違う」の対義語(反対の意味をもつ言葉)が「同じ」というナ形容詞(形容動詞)であることからも、形容詞化が進むことが推察される。

 ナ形容詞「同じだ」も、イ形容詞へと移動していく。「おなじい、おなじくない、おなじければ、おなじくて」と、形容詞型の活用に変わっていくだろう。<続く>
09:01 | コメント (3) | 編集 | ページのトップへ


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「いまどきの形容詞③」
2005/01/28 (金)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞③

 ナ形容詞(形容動詞)からイ形容詞へと品詞移動する例もある。
 「きれいだ」は、日本語教育では「ナ形容詞」国文法では「形容動詞」。これまでの活用は「きれいだ、きれいじゃない、きれいな人」

 しかし、若い世代の間では、「きれいだ」はイ形容詞に移動しつつある。「きれい、きれぇくない」。名詞修飾はいまのところまだ「きれいな人」。イ形容詞への移動が完了すれば「きれいぃ人」になるだろう。仮定形も「きれいならば」から「きれぇければ」へ。

 日本語変化予想。「元気だ→げんきい」「便利だ→べんりい」「不思議だ→ふしぎい」など、語幹部分が[i」の段で終わるナ形容詞はイ形容詞へ品詞移動が進むと推測できる。
 さらには「静かだ→静かい」「健康だ→けんこい」などの変化が起こるかも知れず、「静寂だ」は「せいじゃくて、せいじゃくない、せいじゃければ」などの活用をみせるかもしれない。予想があたるかどうか。「大穴100円→400万円」くらいでるかも。

 若者ことばのイ形容詞の用法に、「感動終止形」とでも名付けられる新しい言い方がある。「はやっ(とても早いので驚いたとき)」「うまっ(とても美味い)」「おもっ(とても重い)」など、程度が大きいようすをいうとき、基本形の[i]を省略し、促音化していう。この言い方はすでに定着している。

 基本形の発音も変化していく。形容詞の例。「ちいさい」→「ちっちゃい」「ちっちぇえ」長い→なげえ 痛い→いてえ やばい→やべえ つらい→つれえ 寒い→さみい 明るい→あかりい、のように、母音が変化した発音の語、現在は俗語表現だが、将来はこちらがメインになるかもしれない。

 イ形容詞は二種類ある。属性形容詞(形状、形態やもののありさまを形容する。大きい、長い、重い、黒い、丸いなど)は、語尾がイ。感情形容詞(人の感情や感覚を形容する。寂しい、悲しい、苦しいなど)は、主として語尾がシイになる。

 省略形容詞は、「うっとうしい→ウザイ」「めんどうくさい→メンドイ」など、感情や感覚を表わす形容詞であっても、語尾が「シイ」にならず、「イ」になる傾向がある。

それから類推すると、これまで使われてきた感情形容詞の多くが「シイ」ではなく、「イ」の語尾に短く省略されることが予想される。
 「悲しい→かない」「寂しい→さびい」「楽しい→たのい」「うつくしい→うつくい/うっくい」「やさしい→やっさい/やしい」

 未来日本語予想があたるかどうか、ウォッチングを続けていこう。
07:36 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ




2005/02/12 (土)
ニッポニアニッポン語>新語・新用法の生成・ピンクい

 子どもは、赤ん坊のときから周囲のことばを耳にし、しだいに母語を獲得していく。子どもの「ことば獲得過程」を観察するのは、本当に面白い。
 大人のいうことをそっくり真似したり、同じように言っているつもりで間違えたり。

 やわらかい→やらわかい、エレベーター→エベレーターのような発音しにくい語の言い間違いのほか、過剰適用と呼ばれるまちがいがよく起こる。
 ことばに規則があることを発見した子どもが、見つけ出した規則を過剰に適用していくのだ。

a****さんの投稿
 『まだ就学前のこと。夏の夕方、浴衣に下駄を履いて、両親と姉と散歩に出た帰り道、劣化したコンクリート舗装の道でつまずいて転んだことがあります。『大丈夫?』と声をかけられて何と答えてよいかわからず『だいじょばん(・・ばない』と答えました。皆大笑いでした。爪先と膝を打って痛かったので、とっさのことに「形容詞+否定語」を発したのでした。
「ちがくない」「きれーくない」を見ていて思い出しました。。。 投稿者:a**** (2005 2/10 0:50)

 この投稿に書かれているように、子どもは母語獲得の過程でことばの規則を発見し、さまざまに応用していく。
 行く→いかん、食べる→たべん、という否定の表現を覚えたら、さっそく応用する。
 だいじょぶ→だいじょばん(だいじょぶない)
 子どもの「だいじょばん」に、周りの大人たちは大笑いし、子どもは「だいじょばん」と言ったのでは間違いらしいと気づく。そして、周囲の人々は「だいじょうぶではない」「だいじょうぶじゃない」という言い方をしていることを学ぶ。
 
 しかし、ある程度のまとまった層が「たいじょばん」とか「たいじょぶくない」と皆で表現し出したとき、変化が起こる。
 だいじょうぶナ(ナ形容詞、国文法の形容動詞)をイ形容詞として、「だいじょぶイ、だいじょぶくない」という言い方をする人たちがでてきているし、チョキの形の指2本、Vマークとともに「だいじょV」というのもある。

 発音の変化や文法規則の変化は、あっという間に広まっていく。たいていは、「言いやすいほう」「簡単なほう」へと変わっていく。また、「既成の規則を他の語にも応用する」ほうへ向かう。

 たとえば、赤→赤い、青→青いという規則を、昔の人は、黄色→きいろい、茶色→ちゃいろい、と過剰に適用した。その結果、現在、ちゃいろい、きいろいは、形容詞として成立している。「まっしろ」「まっくろ」に対する「まっきいろ」もある。

 さらに、子どもは、緑→みどりい、紫→むらさきい、と応用する。
 留学生から「青は青いになるのに、紫はなぜ紫いと言ってはいけないのか」という質問が出たとき「今は、まだ名詞の紫だけ。形容詞の紫いはありません。紫いセーターと言わずに、紫のセーターといってください」と、答えている。

 しかし、「黄色→きいろい」が成立したあと、「紫→むらさきい」が、誤用とされる根拠は、今のところ「紫い」は、成立していない、というだけであって、皆がつかえば、成立する。
 「みどりい」「むらさきい」は、現在のところ認められていないのであって、将来は色彩形容詞として定着すると思う。
 外来語にも適用されて、ぴんくい、オレンジい、まで出現するかどうか、ウォッチング。

 色彩語として、ピンクのかわりに桃色、オレンジのかわりに橙色を使用する人は、若い世代にはほとんどいない。ぴんく、おれんじを外来語意識を感じない幼児のうちから使用している。

 「正しい日本語」とは、「現在広く使われ、共同体の精神的基盤・共通財産として理解しあえる表現」「現在のところ、大多数の人に不快な感情を与えずに伝達できる表現」にすぎない。

 「まっか」に対する「まっぴんく」を不快とは思わず、当然の表現として使う層が広がれば、「まっぴんく」が成立する。
 「むらさきい」「だいじょV」なんて、変!と、現在のところ感じる人がいても、将来の変化を憤ることはできない。<おわり>
09:12 | コメント (8) | 編集 | ページのトップへ




2005/01/29(土)
「ニッポニアニッポン語>フツーにおもろい新語造語新用法

 新語造語流行語は、毎年毎年生まれて消える。消えずに残ったことばは定着する。
 
 m:********さんから教わった「二十歳る(はたちる)」も、語感のおもしろさ、造語の妙に感心。AV業界での造語だそう。

 タレントの榎本加奈子(最近は佐々木大魔神の恋人としてマスコミに登場)が、かって、「二十歳になったら何をしたいか」という質問に、「ラブホとか」と、シレ~と答えていた、あのノリの語感。キャピキャピとはずんでいて、人生の苦しみや悲しみはまだ遙か先、いまのところ「ムズいこと」は、なあ~んにも考えていない若さの躍動特権。

 「成人する」というと、一人前になったような語感の動詞だ。身体だけ育っていても精神未熟な近頃の20歳。成人式といっても「保護者同伴の式」という地方もでてきた昨今では、「はたちる」の造語がふさわしい感じ。「散る」という音が含まれているので、20歳までの「子ども」が散っていく感じもして、うまい造語だと思った。

 「ハタチルなんぞという造語、スカン」と歯がみをしても、未来のワカゾーは20歳になると「やだ、私もとうとう来週、はたちるんだよ」「はたちるのぉ?やばいよぉ」などと会話しているかもしれない。

 「はたちる」があるなら、「三十路る(みそじる)」「みそじい」または、「三十る(みそる)」もあり。「みそい」はネットでもなかった。
 30歳すぎてパラサイトしている独身のなかで、あんまり羽振りがよさそうじゃない人に「みそじい人」「いつまでもミソってられていいね」なんて言いそうな気がする。

 すると、四十代は「フワクる」「フワクい」が候補だろうか。現代の四十代は迷いっぱなしで、絶対に「不惑の年」じゃなく未だにふわふわしている感じが「ふわくい」

 こんなふうに言葉あそび造語あそびなどしたり、ヒンシュクものの新語造語を使って話したりする生活→ジャンク言語生活。ジャンク言葉を発したり、ジャンクフードで一日過ごしたり、ジャンクな生活をおくるのを総合して「ジャンクる」
 グーグル検索でも出てこないこの「ジャンクる」が「普通に使われる動詞」になる日がこないとも限らない。

 この「普通に」の意味。私は「一般的に、どこにでもあるありふれた」の意味でつかっているが、若い世代での使われ方、意味が少し違うものがある。

 「はたちる」を教えてくれたm*******さんの文章から。
A:国語教科書からも、漱石が消えつつある。普通に、悲しい。
B:国語教科書には、大変世話になった。普通に暮らしていたら、中島敦の小説には、なかなか出会う機会がないと思うから。

 Bの「普通に」が従来通りの使い方。「普通に暮らす」「普通に使われる」など、副詞として動詞を修飾する。「他とかわりなく、一般的な」「だれでもしているあたりまえな」「特にほかと変わったことはない」という意味。

 Aの「普通に」が「若者世代の新出用法」
 評価や程度に幅や差を含む形容詞を修飾する。「普通に悲しい」「ふつうにかわいい」と、若い世代が表現したときの「フツーに」は、「特別な場面、他とことなるような特異な状態において悲しいのではなく、ごく自然な発露の感情として悲しい」「特殊な状況、特別な環境でいうのではなく、自分自身の日常感覚としてとてもかわいいと感じる」というような意味合いで使う。

 「あなたにとってはどうか知らないが、私にとっては、あたりまえのこととしておいしいと感じる」→フツーにおいしい。

 「よい」「ふつう」「悪い」という三段階の分け方の感覚で言うと「この味のうまさは普通だ」は平均的な味、特別に美味くもまずくもない味を示す。
 若い人の言い方だと「ふつうにうまい」は、「他の人はどうかしらないが、私にとってはおいしい」「特別な基準でなく、そのままでおいしい」のような使い方。
 この「フツーに」の使用も10代は20代よく使い、30代前半がぎりぎり。40代で使う人は少なくなる。

 「あいつってさぁ、フツーに危ない人だよね」なんて人物評をされると「え、普通なの、危険なの、どっちなの」と思ってしまうのは50代以上。
 夕暮れ時にひとりでいるあなた、「フツーに寂しい」とつぶやいて、若者ぶってみますか。

 これらの「今出来のことば」も、みんなが使えば「ふつうの日本語」になっていく。
 「そんな変な日本語認めない」と、いきり立っても、生きていることばは変化する。

 「おもしろい」の省略形、「おもしい」派と「おもろい」派があるらしいが、私は関西風に言ってみます。「フツーにおもろい日本語」。

13:05 | コメント (10) | 編集 | ページのトップへ



ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語 対象をしめす「が」と「を」
2005/02/15(火)
ニッポニアニッポン語>対象をしめす「が」と「を」

 私は、省略語や新語、流行語のチェックも言葉を教える教師の「職業訓練」のひとつとして続けており、新しい表現を耳にしたとき、いつも「おもしろ~い」と思って受けとめるのだが、自分が使うとなると、なじんだ古い言い回しのほうを口にするほうが多い。

 たとえば、「明日のサッカー試合が見たい」「明日のサッカー試合を見たい」、あなたはどっち?
 私は、まだ「が」を使っているが、若い世代には「を」が広がっている。
 
 動詞に「~たい」をつけた欲求希望の表現で、助詞の変化が起きている。

 これまでの規範的日本語では、「水が飲みたい」「テレビが見たい」というように、「~たい」という表現で欲求を表わすとき、対象を示すことばにつく助詞は「が」だった。

 しかし、この「が」が、「を」に変わりつつある。「水を飲みたい」「テレビを見たい」というように、助詞が「を」になる表現は、新聞雑誌などの文章中でもよく見るようになった。
 探し出せば、「ほら、明治の文豪でも対象語にヲをつかっている」という用例がみつかるだろう。

 「きく」と「きける」と「きこえる」の使い分けは、留学生にとって戸惑うことのひとつで、助詞もまちがいやすい。今のところ、日本語教科書では「~を聞く」「~が聞ける」「~が聞こえる」と、教えている。

 「みえる、きこえる」を使った文で、「音楽をきこえる」「富士山をみえる」と、留学生が作文に書いたら、誤用として赤ペンで添削を入れる。

 教科書に従うなら、①「生演奏の音楽を聴く」②「品質のよいスピーカーで生に近い音がきける」③「どこからともなく音楽がきこえる」となる。
 ①は「を」、③は「が」、こちらは今のところ問題ない。しかし、現実社会の会話で②の可能形表現は、ゆれがある。②は「音がきける」「音をきける」、両方が使われている。

  「~たい」の文を練習するとき、留学生には「が」の方を教えている。
 しかし、「母が作った料理を食べたい」のように複文になった場合は、「母の作った料理が食べたい」と共に、「を/が」どちらも許容としている。

 「昔、友達といっしょによく食べにいった、なつかしいあの料理 を/が 食べたい」は、「を/が」どちらも許容できるとして、「おいしい料理が食べたい」「おいしい料理を食べたい」などになると、さてどうしたものかと悩み、「肉が食べたい」「肉を食べたい」、ここまで許容してよいものやら、と困ってしまう。
 現実社会では、留学生がいっしょに食事をすることの多い若い世代の日本人の間で、「肉を食べたい」と言う人が確実に増えている。

 私の方針としては。
 書き言葉はできるだけ規範に準ずる。レポート中にひとつでも「自分が気に入らない新語や新用法」が書かれていると不可にする大教授も現実にいるのだから、留学生だから大目に見てもらえるなどと甘えてはいられない。

 留学生の作文での、生き生きとした生活描写部分では「いまどきの言い方」を許容しつつ、レポート・論文をこれから書こうとしている学生には「この言い方は、まだ正式な書き言葉では使えない」と、教えている。

 論文の書き方練習では、「だんだん多くなる→しだいに多くなる」「ぜんぜん~ない→まったく~ない」「もっと多く→より多く」などの言い換えドリルもある。

 話しことばの場合、公式な会議などでは、書き言葉に準じて話す。
 友達との会話では、若い世代に流行している言い方をとりいれてもかまわない、というごくあたりさわりのないやり方をとっている。

 2005/02/11に出した「かぶる」。
 若い世代同士の会話の中や作文のセリフ描写でも、認めよう。

 書き言葉で、レポートや論文に「かぶる」が出てきたとき、どうするか。論文なら「重複する、かさなる」と訂正せざるを得ない。
 新語や新用法を目の敵にして、ひとつでもレポート中に「ら抜き」その他の新用法があったら、容赦なく不可にする先生の目に「かぶる」など「逆鱗!」かも。

 日常生活では使えても、論文中では使えない語がたくさんあることを伝えるのも、作文指導のひとつなのだが、現在の書き言葉はやっと百年の歴史しかもっていない表現方法。話しことばの変化スピードには追いつかないけれど、書き言葉の変化も少しずつ現れる。

 発表論文中に「ら抜き」の受け身形「見れる」「でれる」がいつ現れるか、「本を読みたい」がいつ出現か、ウォッチング。

 書き言葉もしだいに変化して行くであろうことは念頭にいれておかないと。<おわり>

ぽかぽか春庭「イマドキの形容詞①」

2013-06-05 | 日本語

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語講座「いまどきの形容詞①」
2005/01/26 (水)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞①

 変わりつつある動詞使役表現につづいて、変わりつつある形容詞について。
 日本語教育で扱う形容詞は、イ形容詞(国文法形容詞)とナ形容詞(国文法形容動詞)がある。

 形容詞もさまざまな変化のなかで新しい表現が生まれたり、発音が変わったり、品詞が変わったりしている。

 古い辞書にはのっていないが、辞書の新しい版に俗語として搭載される形容詞もあり、若者言葉の省略形容詞も増えてきた。「ばっちい」のように、「汚い」の幼児語としてつかわれていた語が、大人の話の中でも普通に使われるようになったものもある。

 最近、辞書に載った形容詞の例。
 「せこい」〔俗〕ずるかったり、人目をごまかしたりする所があって、まともには付き合えない感じだ(新明解国語辞典第3版・第4版)

 以前とは、使い方、意味合いが変わっている形容詞。
 たとえば、以前「おいしい」は、「食べ物の味がいい」という意味が主要な使い方だったが、「うまい」の丁寧な表現として多用され、いまでは、「いいところだけ使ったりもっていったりすること。他にくらべて、条件がいいこと」などを表現するようになっている。用例「おいしいバイトあるけど、やんない?」「おいしい話には裏アリでしょ」

 「ヤバい」は、俗語として「危ない、悪い状態になる」を意味していた。その意味に加えて、若い人は「他からぬきんでている度合いが危ないくらいにすばらしい」「いいと感じ、それを好きになるのが危険になると思えるくらいだ」という意味合いで、「いいっすねぇ、それ、ヤバイよ」などと表現し、「ヤバい!」が誉め言葉になっている。

 形容詞の省略化も進んでいる。若い世代では省略化が定着している形容詞をあげてみる。
グーグルで検索したときの出現件数が多いものをあげると
 「うっとうしい、うざったらしい」→「うざい」10万2千件    
 「めんどうくさい」→「めんどい」84800件
 「気持ち悪い、気味が悪い」→「きもい」58000件「きしょい」7800件
 「むずかしい」→「むずい」5万2千件
 「かったるい」→「たるい」「たりい」(垂井、樽井といっしょになるので件数不明)
 長い形容詞を短くする変化が多い。短いほうが、「簡単便利」だからだ。言葉は複雑なほうには変化しにくい。たいてい「短く言いやすい」ほうへと、変わる。

 「しょぼくれている」→「しょぼい」20万4千件
 これなどは、動詞アスペクトの「~ている」が、形容詞化している。「しょぼい」は、動詞としての「しょぼくれる」と別の語として存在する。<続く>
=========
もんじゃ(文蛇)の足跡
102?件  84?件  58?件  52?件 204?件 7?件
数字を打ち込んだら、ハングル文字が出てきたので、面白いので、残しておきます。ハングル文字の入力方法を知らなかったので、びっくりしました。
09:02 |


ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「いまどきの形容詞②」
2005/01/27 (木)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞②

 「やばい」が若い世代の中で誉め言葉として機能していることについて「やばいが褒め言葉とは、驚きですね」投稿者:w****** (2005 1/26 9:15) と、コメントをいただきました。感想をお寄せくださりありがとうございます。
 私たちの現在の語感からすると、「びっくり!」のところもありますが、実は、この変化は日本語としては、よくある意味の変わりかたなのです。

 「すご~い!」「すごっ!」という感歎のことば。
 すばらしい技や出来事などに感激した人たちの口から漏れる。この場合、すばらしさを誉めたたえることばになっている。
 しかし、「すごい」の元の語「すごし」は、
①気候様子態度などが寒く冷たく感じられ、身にこたえる → ②冷たさを含み、恐ろしく感じる → ③ぞくっとして恐ろしく感じるほどすばらしい →④程度がはなはだしいようす(すごくいい、すごく悲しいなど) 
と、いう意味の変遷を経て、現在わたしたちが気軽に口にする「すご~い!」という感歎の言葉になった。

 津波惨禍の写真をみて「すごい!」ぞっとするほど恐ろしい悲惨な状況。原義から言うと、こちらのほうが「すごい」の意味にあっている。
 しかし、美しいものを見たときも、驚くような技を知ったときも「すごい」のひとこと。若い世代が「やばい!」を誉め言葉に使うのも、「すごい」の意味変遷と同じ歴史をたどっていると言える。

 言葉は意味のうえでも、形の上でも、さまざまな変化をしていく。
 動詞から形容詞へと品詞移動しつつある例を紹介しよう。

 動詞「違う」が、形容詞へと品詞移動していく途中。
 動詞では「ちがう、ちがわない、ちがって、ちがえば」と活用したが、形容詞と同じ活用「ちがくて」「ちがくない」「ちがければ」という活用を、若い世代が使っている。終止表現が「ちがいます」から「ちがいです」に変われば、形容詞化が完成する。
 おそらく定着していくだろう。

 「違う」は、もともと状態を表わす動詞なので、動きや作用を表わす動詞に比べて、形容詞に近い内容をもっていた。「違う」の対義語(反対の意味をもつ言葉)が「同じ」というナ形容詞(形容動詞)であることからも、形容詞化が進むことが推察される。

 ナ形容詞「同じだ」も、イ形容詞へと移動していく。「おなじい、おなじくない、おなじければ、おなじくて」と、形容詞型の活用に変わっていくだろう。<続く>
09:01 |

ぽかぽか春庭のニッポニアニッポン語「いまどきの形容詞③」
2005/01/28 (金)
ニッポニアニッポン語>いまどきの形容詞③

 ナ形容詞(形容動詞)からイ形容詞へと品詞移動する例もある。
 「きれいだ」は、日本語教育では「ナ形容詞」国文法では「形容動詞」。これまでの活用は「きれいだ、きれいじゃない、きれいな人」

 しかし、若い世代の間では、「きれいだ」はイ形容詞に移動しつつある。「きれい、きれぇくない」。名詞修飾はいまのところまだ「きれいな人」。イ形容詞への移動が完了すれば「きれいぃ人」になるだろう。仮定形も「きれいならば」から「きれぇければ」へ。

 日本語変化予想。「元気だ→げんきい」「便利だ→べんりい」「不思議だ→ふしぎい」など、語幹部分が[i」の段で終わるナ形容詞はイ形容詞へ品詞移動が進むと推測できる。
 さらには「静かだ→静かい」「健康だ→けんこい」などの変化が起こるかも知れず、「静寂だ」は「せいじゃくて、せいじゃくない、せいじゃければ」などの活用をみせるかもしれない。予想があたるかどうか。「大穴100円→400万円」くらいでるかも。

 若者ことばのイ形容詞の用法に、「感動終止形」とでも名付けられる新しい言い方がある。「はやっ(とても早いので驚いたとき)」「うまっ(とても美味い)」「おもっ(とても重い)」など、程度が大きいようすをいうとき、基本形の[i]を省略し、促音化していう。この言い方はすでに定着している。

 基本形の発音も変化していく。形容詞の例。「ちいさい」→「ちっちゃい」「ちっちぇえ」長い→なげえ 痛い→いてえ やばい→やべえ つらい→つれえ 寒い→さみい 明るい→あかりい、のように、母音が変化した発音の語、現在は俗語表現だが、将来はこちらがメインになるかもしれない。

 イ形容詞は二種類ある。属性形容詞(形状、形態やもののありさまを形容する。大きい、長い、重い、黒い、丸いなど)は、語尾がイ。感情形容詞(人の感情や感覚を形容する。寂しい、悲しい、苦しいなど)は、主として語尾がシイになる。

 省略形容詞は、「うっとうしい→ウザイ」「めんどうくさい→メンドイ」など、感情や感覚を表わす形容詞であっても、語尾が「シイ」にならず、「イ」になる傾向がある。

それから類推すると、これまで使われてきた感情形容詞の多くが「シイ」ではなく、「イ」の語尾に短く省略されることが予想される。
 「悲しい→かない」「寂しい→さびい」「楽しい→たのい」「うつくしい→うつくい/うっくい」「やさしい→やっさい/やしい」

 未来日本語予想があたるかどうか、ウォッチングを続けていこう。
07:36 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ




2005/02/12 (土)
ニッポニアニッポン語>新語・新用法の生成・ピンクい

 子どもは、赤ん坊のときから周囲のことばを耳にし、しだいに母語を獲得していく。子どもの「ことば獲得過程」を観察するのは、本当に面白い。
 大人のいうことをそっくり真似したり、同じように言っているつもりで間違えたり。

 やわらかい→やらわかい、エレベーター→エベレーターのような発音しにくい語の言い間違いのほか、過剰適用と呼ばれるまちがいがよく起こる。
 ことばに規則があることを発見した子どもが、見つけ出した規則を過剰に適用していくのだ。

a****さんの投稿
 『まだ就学前のこと。夏の夕方、浴衣に下駄を履いて、両親と姉と散歩に出た帰り道、劣化したコンクリート舗装の道でつまずいて転んだことがあります。『大丈夫?』と声をかけられて何と答えてよいかわからず『だいじょばん(・・ばない』と答えました。皆大笑いでした。爪先と膝を打って痛かったので、とっさのことに「形容詞+否定語」を発したのでした。
「ちがくない」「きれーくない」を見ていて思い出しました。。。 投稿者:a**** (2005 2/10 0:50)

 この投稿に書かれているように、子どもは母語獲得の過程でことばの規則を発見し、さまざまに応用していく。
 行く→いかん、食べる→たべん、という否定の表現を覚えたら、さっそく応用する。
 だいじょぶ→だいじょばん(だいじょぶない)
 子どもの「だいじょばん」に、周りの大人たちは大笑いし、子どもは「だいじょばん」と言ったのでは間違いらしいと気づく。そして、周囲の人々は「だいじょうぶではない」「だいじょうぶじゃない」という言い方をしていることを学ぶ。
 
 しかし、ある程度のまとまった層が「たいじょばん」とか「たいじょぶくない」と皆で表現し出したとき、変化が起こる。
 だいじょうぶナ(ナ形容詞、国文法の形容動詞)をイ形容詞として、「だいじょぶイ、だいじょぶくない」という言い方をする人たちがでてきているし、チョキの形の指2本、Vマークとともに「だいじょV」というのもある。

 発音の変化や文法規則の変化は、あっという間に広まっていく。たいていは、「言いやすいほう」「簡単なほう」へと変わっていく。また、「既成の規則を他の語にも応用する」ほうへ向かう。

 たとえば、赤→赤い、青→青いという規則を、昔の人は、黄色→きいろい、茶色→ちゃいろい、と過剰に適用した。その結果、現在、ちゃいろい、きいろいは、形容詞として成立している。「まっしろ」「まっくろ」に対する「まっきいろ」もある。

 さらに、子どもは、緑→みどりい、紫→むらさきい、と応用する。
 留学生から「青は青いになるのに、紫はなぜ紫いと言ってはいけないのか」という質問が出たとき「今は、まだ名詞の紫だけ。形容詞の紫いはありません。紫いセーターと言わずに、紫のセーターといってください」と、答えている。

 しかし、「黄色→きいろい」が成立したあと、「紫→むらさきい」が、誤用とされる根拠は、今のところ「紫い」は、成立していない、というだけであって、皆がつかえば、成立する。
 「みどりい」「むらさきい」は、現在のところ認められていないのであって、将来は色彩形容詞として定着すると思う。
 外来語にも適用されて、ぴんくい、オレンジい、まで出現するかどうか、ウォッチング。

 色彩語として、ピンクのかわりに桃色、オレンジのかわりに橙色を使用する人は、若い世代にはほとんどいない。ぴんく、おれんじを外来語意識を感じない幼児のうちから使用している。

 「正しい日本語」とは、「現在広く使われ、共同体の精神的基盤・共通財産として理解しあえる表現」「現在のところ、大多数の人に不快な感情を与えずに伝達できる表現」にすぎない。

 「まっか」に対する「まっピンク」を不快とは思わず、当然の表現として使う層が広がれば、「まっピンク」が成立する。
 「むらさきい」「だいじょV」なんて、変!と、現在のところ感じる人がいても、将来の変化を憤ることはできない。<おわり>
09:12 | コメント (8) | 編集 | ページのトップへ




2005/01/29(土)
「ニッポニアニッポン語>フツーにおもろい新語造語新用法

 新語造語流行語は、毎年毎年生まれて消える。消えずに残ったことばは定着する。
 
 m:********さんから教わった「二十歳る(はたちる)」も、語感のおもしろさ、造語の妙に感心。AV業界での造語だそう。

 タレントの榎本加奈子(最近は佐々木大魔神の恋人としてマスコミに登場)が、かって、「二十歳になったら何をしたいか」という質問に、「ラブホとか」と、シレ~と答えていた、あのノリの語感。キャピキャピとはずんでいて、人生の苦しみや悲しみはまだ遙か先、いまのところ「ムズいこと」は、なあ~んにも考えていない若さの躍動特権。

 「成人する」というと、一人前になったような語感の動詞だ。身体だけ育っていても精神未熟な近頃の20歳。成人式といっても「保護者同伴の式」という地方もでてきた昨今では、「はたちる」の造語がふさわしい感じ。「散る」という音が含まれているので、20歳までの「子ども」が散っていく感じもして、うまい造語だと思った。

 「ハタチルなんぞという造語、スカン」と歯がみをしても、未来のワカゾーは20歳になると「やだ、私もとうとう来週、はたちるんだよ」「はたちるのぉ?やばいよぉ」などと会話しているかもしれない。

 「はたちる」があるなら、「三十路る(みそじる)」「みそじい」または、「三十る(みそる)」もあり。「みそい」はネットでもなかった。
 30歳すぎてパラサイトしている独身のなかで、あんまり羽振りがよさそうじゃない人に「みそじい人」「いつまでもミソってられていいね」なんて言いそうな気がする。

 すると、四十代は「フワクる」「フワクい」が候補だろうか。現代の四十代は迷いっぱなしで、絶対に「不惑の年」じゃなく未だにふわふわしている感じが「ふわくい」

 こんなふうに言葉あそび造語あそびなどしたり、ヒンシュクものの新語造語を使って話したりする生活→ジャンク言語生活。ジャンク言葉を発したり、ジャンクフードで一日過ごしたり、ジャンクな生活をおくるのを総合して「ジャンクる」
 グーグル検索でも出てこないこの「ジャンクる」が「普通に使われる動詞」になる日がこないとも限らない。

 この「普通に」の意味。私は「一般的に、どこにでもあるありふれた」の意味でつかっているが、若い世代での使われ方、意味が少し違うものがある。

 「はたちる」を教えてくれたm*******さんの文章から。
A:国語教科書からも、漱石が消えつつある。普通に、悲しい。
B:国語教科書には、大変世話になった。普通に暮らしていたら、中島敦の小説には、なかなか出会う機会がないと思うから。

 Bの「普通に」が従来通りの使い方。「普通に暮らす」「普通に使われる」など、副詞として動詞を修飾する。「他とかわりなく、一般的な」「だれでもしているあたりまえな」「特にほかと変わったことはない」という意味。

 Aの「普通に」が「若者世代の新出用法」
 評価や程度に幅や差を含む形容詞を修飾する。「普通に悲しい」「ふつうにかわいい」と、若い世代が表現したときの「フツーに」は、「特別な場面、他とことなるような特異な状態において悲しいのではなく、ごく自然な発露の感情として悲しい」「特殊な状況、特別な環境でいうのではなく、自分自身の日常感覚としてとてもかわいいと感じる」というような意味合いで使う。

 「あなたにとってはどうか知らないが、私にとっては、あたりまえのこととしておいしいと感じる」→フツーにおいしい。

 「よい」「ふつう」「悪い」という三段階の分け方の感覚で言うと「この味のうまさは普通だ」は平均的な味、特別に美味くもまずくもない味を示す。
 若い人の言い方だと「ふつうにうまい」は、「他の人はどうかしらないが、私にとってはおいしい」「特別な基準でなく、そのままでおいしい」のような使い方。
 この「フツーに」の使用も10代は20代よく使い、30代前半がぎりぎり。40代で使う人は少なくなる。

 「あいつってさぁ、フツーに危ない人だよね」なんて人物評をされると「え、普通なの、危険なの、どっちなの」と思ってしまうのは50代以上。
 夕暮れ時にひとりでいるあなた、「フツーに寂しい」とつぶやいて、若者ぶってみますか。

 これらの「今出来のことば」も、みんなが使えば「ふつうの日本語」になっていく。
 「そんな変な日本語認めない」と、いきり立っても、生きていることばは変化する。

 「おもしろい」の省略形、「おもしい」派と「おもろい」派があるらしいが、私は関西風に言ってみます。「フツーにおもろい日本語」。

ぽかぽか春庭「語の変化チゲーヨ」

2013-05-29 | 日本語
ポカポカ春庭のニッポニアニッポンゴ講座

5-3-1 語の変化「チゲーヨ」

 日本語には、出自によって大きく分けると、
1,古来の和語 
2,日本で新たに作られた語(漢字語、カタカナ語)、
3,中国由来の漢語、
4,西洋由来の外来語

の語種があることを紹介し、4の外から入ってきた語も、すでにもともとの日本語語彙と同じくらい定着している語と、まだ「外から海を越えて入ってきた語」という意識が残っている語があることを述べた。

 「梅、馬」は千年を経て、「かるた、てんぷら、たばこ」などは400年を経て、日本語語彙として定着し、外来語だということを意識されることもなくなったように、今は「外から来た語」という意識が残っている語も、あと100年200年たつうちに、外から来たことなど忘れられてしまうほど、日本語語彙としてなじむものもでてくるだろう。

 また、新しがり屋が使った一時的なカタカナ語としてすぐ消えてなくなる語もあるだろう。
 単語そのものの出入り、入れ替わり変化について紹介したついでに、単語の形や活用形なども変わっていくことを付け加えておきたい。
まっきーさんが、あるコラムの文章を紹介してくれたので、私の回答とともに再録させていただく。
==========
ちょっと面白いコラムを見つけたので・・・但し長文ですから、省略して載せておきますです。
<コラム>
「違うよ」の変化形としての「ちげーよ」が当たり前のように流通しているのだ。
「違いない」が「ちげーねー」にになるのは理解出来るが、「ちげーよ」は反則だ。
そんな狼藉を許したら、「優勝をねれー(狙う)よ」とか、「煙草1本、もれー(貰う)よ」といった言い方まで許すことになってしまう。優勝は練れないし、煙草は漏れたりしない。
心配するな、これは「違うよ」が変化したわけじゃない―と言う者もいる。
「ちげーよ」の原形は「違うよ」ではなく、「違いよ」だと言うのだ。
「長いよ」が「なげーよ」になるように・・・。

つまり、そこでは「違い」が自動詞の名詞形ではなく、「い」で終わる形容詞として認識されているわけだ。余計に心配じゃないか。
何しろ「違い」が形容詞だとしたら、その名詞形は「ちがさ」だ。
ちがさの分かる男。
全然分かってないじゃないか。
文字の上で矛盾が火を噴いている。<コラムおわり>

『嫌いな日本語』(深川峻太郎)
全文は、『わしズム』新年号でどうぞ
===========
春庭の回答
 「チゲーヨ」が、いつ市民権を得るか、興味深いところ。
 五段動詞(日本語教育では第1グループ動詞という)の可能形は現代では「書ける、読める」である。が、今でも、五段動詞可能形を、昔のとおりに「かく→かかれる」「よむ→よまれる」と表現する地方がある。よいことだ。一律いっせいに変わらなくてよい。

 50年後でも「違うよ」という表現を使う人は残るだろうが、「狼藉」は着実に一般化しつつある。「チゲーヨ」に変わったところで、嘆くことはない。
 学生が使っている「前の世代とは異なる表現コレクション」が趣味なので、「チゲーヨ」の浸透ぶりにも注意を払ってきた。


5-3-2
 チゲーヨより早く、動詞「違う」の否定形が「違い」を形容詞とみなした「チガクナイ」が学生ことばに浸透していた。今では「それって、ちがうんじゃない?」「それ、違っていない?」より多く耳にする。
 「違う」は、動詞のカテゴリーの中では「状態動詞」に入る。「そびえる」などもその仲間であるが、動きをあらわさず、存在、状態を表す。

 動詞の中で、このような存在を表す動詞は別格のふるまいをする。たとえば、動詞「ある」の否定形は「あらない」といわない。ただの「ない」になり、「ない」は形容詞。動詞の中に、動きを表す動詞的動詞もあるし、状態や存在を表す形容詞的動詞もある。

 形容詞もグラデーションをなして、動詞的な形容詞もあるし、形容詞的形容詞もある。
 存在をあらわす形容詞は、形容詞のなかで別格のふるまいをする。

 動詞的形容詞とは、存在を表現する形容詞。たとえば「多い」「少ない」。ものの数や存在を示しているので、他の形容詞と異なる面をもつ。

 一般の形容詞「美しい」なら、「美しい人を見た」というように原型を名詞修飾につかえるが、多いは「多い人を見た」と言えない。「多くの人をみた」という。「少ないご飯を食べた」と言うのもへん。「ごはんをすこし食べた」とか、「残り少ないごはんを食べた」なら可能だが。

 このように、日本語動詞形容詞のなかで、存在と状態を表す語は、特殊なふるまいをする。動詞「違う」の反対語は「同じ(だ)」という形容動詞(日本語教育ではナ形容詞)になるように、「違う」は、もともと動きを表す典型的な動詞とは異なる動詞であった。

 ゆえに、「違う」が「違い」という連用形(日本語教育ではマス形)から形容詞化していくのは、歴史的な言語変化の当然の流れといえる。

 若年世代形容詞の用い方。終止形「長いヨ→ナゲーヨ」「早いヨ→ハヤェーヨ」
感歎形「ナガッ」「ハヤッ」

 このふたつは、定着のみこみ大。辞書搭載がいつになるかは未定ですが。
 「もらう」「ねらう」は、動き動詞だから、形容詞化しない。発音上の変化がおこるとすれば、「モラウヨ→モローヨ」「ネラウヨ→ネローヨ」は起こりうるが。
 
 「違う」が形容詞化して「チガクナイ」と変化するのは「違う」が形容詞に近い性質をもともと持っているから。動きを表す「もらう」「ねらう」は、「モラクない」「ネラクない」とはならない。

 深川峻太郎氏のご心配は「日本語を知らず、日本語変化の方向を知らない方々にとっての、固定的正しい日本語観」による、いらぬ心配である。
 「文字の上で矛盾が火を噴いている」とお嘆きであるが、「違う」と「狙う」は動詞のカテゴリーが異なるので、「違う」と同じ変化は「狙う」には起きないことが「日本語変化の歴史」から見て、予想される。矛盾していないのだ。

 「テフテフ」が「ちょうちょう」と発音が変化したことを受け入れておきながら、「チガウヨ」が「チゲーヨ」と変化することを受け入れられないことこそ矛盾。
 要するに、自分がうまれる以前の変化はそのまま受け入れるが、今、目の前で起きている変化は受け入れられない、という老人性変化拒否症の症例のひとつ。

5-3-3(追加)
 形容詞に感情形容詞「楽しい、悲しい、嬉しい」などと、状態形状形容詞「長い、赤い、丸い」などの区別がある。感情形容詞には「悲しむ」「楽しむ」また、「悲しがる」「うれしがる」のように、派生関係のある動詞が存在する。形状形容詞は「長む」「長がる」などの派生関係の動詞は使われない。

 また、意味のカテゴリーにより、「み」を伴う名詞派生が可能な語と、「み」はつけられない語もある。「さ」「み」どちらをつけて名詞化するか、両方か、片方か、どちらもできないか。
現代日本語で、「丸い」という形容詞は「まるさ」「まるみ」どちらも可能。しかし「長い」は「ながさ」はよいが「ながみ」は使われていない。「苦しい」は「苦しみ」「苦しさ」両方つかうが、「美しい」は「美しさ」はあるが「うつくしみ」は使わない。

 「違い」を「違う」という自動詞の名詞形ではなく、形容詞として認識した場合、長い→ナゲーヨ、違い→チゲーヨ となるなら、長いの名詞形が「ながさ」であるのと同じく「違い」の名詞形は「ちがさ」になるのだろうと、深川峻太郎氏は嘆いておられる。
 「違い」が形容詞として認識されるようになれば、否定形「ちがくない」テ形「ちがくて」ていねいな終止形「ちがいです」仮定形「ちがければ」となっていく。当然、そのうち名詞形として「ちがさ」も出現するだろう。

 自動詞の連用中止形名詞「ちがい」と形容詞認識の「ちがさ」が並行して使われる時代もあるだろう。
 「ちがいのわかる男」「ちがさのわかる男」どちらを受け入れるかは、これから先、日本語を母語として話す世代に託されている。どちらを選ぼうと、彼らの自由だ。
 当分、春庭自身は書き言葉として「それ、ちがくない?」とは書けないだろうが、予想としては、あと20年で辞書搭載されるね。
 
 何度も同じ例を繰り返して申し訳ないが、もう一度言う。「ちがさ」の出現がゆるせない人は、千年前には誤用とされた「あたらしい」などという「今出来のまちがった日本語」を使わずに、古式ゆかしく「あらたしい」という「本来の正しい日本語」をつかうべきだ。

 蝶を、「ちょうちょう」などと発音せずに、昔の発音通りに「テフテフ」と発音するべきだ。テフテフ→テウテウ→チョウチョウと、発音が変化し、私たちはこの変化をよしとしたから、現在「ちょうちょう」と発音している。
 語形も発音も変化する。「あらたしい」は「あたらしい」と変化したので、私たちはこちらを使う。テフテフはちょうちょうという発音に変化したので、現代ではテフテフと発音せずに、ちょうちょうと言う。

 私たちが、縄文時代のことば、飛鳥奈良平安時代のことばを話していないのと同じように、未来の人々は私たちと同じことばを話していない。ことばは時代とともに変化する。
 状態をあらわす動詞「違う」が、状態をあらわす形容詞「ちがい」に変化していくことが、日本語を母語として話す次代の人々に受け入れられて残るなら、その変化は定着するだろうし、受け入れられなければ、一時の流行語としておわる。

 語形の変化や発音の変化を心配するより、日本語を母語とする文化にとって、もっと深刻な心配事、不安材料が山のようにある。
 先に述べた「自然環境の破壊」も「子供の生活から身体性が失われていくこと」も、すべて、言語文化の危機に直結する。

 言語文化を生かすのは、人間が生きて活動する社会であり、社会を成立させるのは、生きて活動する人間。
 私たちがどう生きていきたいのか、どのような社会を築きたいのか、どういう文化を継承させようとしているのか、このことを考える方が、「若いやつらは、ちがくない、などと表現しおってけしからん」と嘆いているより、建設的だと考える。<続く>


5-4-1 ラ抜きことば
 一時期かまびすかった「ラ抜きことば」について、去年、概略を説明したのだが、話のついでに再度解説しておきたい。

 「ラ抜きことば」とは、「見る、出る、食べる」などの「一段活用動詞(日本語教育では第2グループ動詞という)」の可能形が「みれる、でれる」という形になること。
 「見られる」「出られる」「食べられる」というのが「正しい」とされる形である。「みれる、でれる」を使う比率は、20代以下の世代では、もはや100%に近く、辞書にもこの形が掲載されるようになってきた。

 「ら抜き」を目の敵にし、「正しい日本語を使おう」と主張する人々には分が悪い昨今。
 さて、動詞の可能形「~することができる」の形。五段動詞(日本語教育では第1グループ動詞)」の場合はどのような形か。
 「打つ」の可能形はうてる。例文「私はどんな変化球でも打てる」
 「読む」の可能形は「よめる」。例文「ゼロスタートの留学生も、4ヶ月で400くらいの漢字を読めるようになる」

 五段動詞の受け身形は「ピッチャー、左バッターに打たれる」「ヒミツのラブレターを他人に読まれる」というように、「打たれる」「読まれる」という形。可能形と受身形は形がことなる。
 オーソドックス日本語では、一段動詞(第2グループ動詞)の場合、可能形と受身形が同じ。
 「生魚を食べることができますか」という可能の意味で「生魚、食べられますか」も、せっかく釣った魚をよその人に横取りされたという意味で「釣った魚を隣の奴に食べられた」と表現するのも、同じ「食べられる」になる。

 食事のシーンが書かれている話で「夕食の魚、食べられたよ」「あら、そう」というセリフがでてきたとき、いくつかの解釈が成り立つ。
 前後の文脈によっては、「食べることができた」という意味。生魚は苦手だった人が、おいしいさしみなので食べることができた、と言っている場面。

 二つ目は、「夕食に食べようと思っていた魚をだれかに(猫だかカツオ君だか)にとられた(結果自分では食べることができなかった)」という場面。

 三つ目は「大切なお客様に夕ご飯をだした。魚が苦手かどうか気になったが、食べた」尊敬の語として「お食べになった、召し上がった」のかわりに「食べられた」という場面。

 五段動詞なら、1と2の区別はつく。3の尊敬の意味は、五段動詞でも前後の文脈や動作主体の明示がないと判断できない。

 1,「この手紙、難しい漢字ないから、読める」読むことができる、以外に解釈できない。

 2,「隠して置いた秘密のラブレター、読まれた」この場合、読んだ人は「手紙を隠していた本人」ではない。誰か別の人が盗み見たのだ。

 3.「教授が、学生の論文を読まれた」これは、普通は尊敬語「お読みになる」と解釈される。
 このように、現代日本語の五段動詞(1グループ動詞)では基本形(辞書形)「読む」と、受身形「読まれる」と可能形「読める」が区別できる。


5-4-2
 しかし、江戸時代より前、可能形は受身形と同じだった。すなわち「拙者、論語を読むことができる」という意味で「拙者、論語、読まれる」と言った。

 今でも地方によって「読まれる」と「読める」を両方つかうところがある。「飲む」という語の可能形。「飲まれる」と「飲める」

 「この水はきれいだから、飲んでも大丈夫」という「水の状態」を「飲むことができる」と説明するときと「大酒のみだから、どれだけ飲んでも大丈夫」という本人の能力をあらわす「飲むことができる」を「飲まれる」「飲める」という別の語で区別して表現する地方もあるそうだ。

 しかし、標準語では、可能形の古い形「飲まれる」は残っていない。「~することができる」という可能形は「飲める」「読める」「打てる」などの形だけ。
 「コップの水、飲まれた」と言ったら、「水を飲むことができた」という意味ではなく、「飲もうと思ってコップに入れてきた水を誰かほかの人が飲んでしまった」という意味。または、敬語。どなたかが、「コップの水をお飲みになった」のどちらかの表現になる。

 現代日本語では、第1グループの動詞は可能形と受身形を区別できるが、昔は出来なかった。現代標準日本語では第2グループの動詞の可能形と受身形は同じ形なので区別できない。
 しかし、「ら抜き」可能形を使えば、可能形と受身形は区別できる。「生魚、平気だよ。食べれる。さしみ大好きだ。」と言えば、食べることができる、の意味。「猫、逃げってだろう、テーブルの上にだしてあった生魚、今、食べられた」と言えば、猫が食べた。「猫に食べられた」受け身になる。

 ら抜き可能形が普及したのは、このような「受身形」と「可能形」を分離して表現するのには便利ということもあるし、言葉は常に経済的な方向、つまり「ことばの一部分の発音を省略する方向で」形が変わっていくという理由もある。

 「食べられる」より「食べれる」は、ひらがなひとつ分、省略できる。人間はなまけものなので、発音を複雑にする方向には変化が進みにくい。発音を簡略にする方向だと変化が進む。

 すなわち、どんなに「ら抜き言葉は正しい日本語ではない」と、主張し続けても、もはや変化の方向は、「ら抜き」が優勢なのだ。動詞活用変化の面からいっても、発音変化の面からいっても、「みれる」「でれる」「たべれる」の方が合理的だからだ。
 「最後のひとりとなろうとも、昔ながらの、見られる、食べられるという可能表現をつかうぞ」も大いに結構。文体、表現は自由だ。

 今でも「書かれる」を可能形として使う地方もあるように、「食べられる」を可能形として使うことも残っていくだろう。
 個人の表現において、他者を傷つけることを意図しない限り、どの語、どのような文体を選ぶのも、自由だ。

 ただ、言語変化の大勢からいうと、「みれる、でれる」は、圧倒的に優勢だ、という流れをとどめることはできないだろう。
 そして、「みれる、でれる」が嫌いな方へ。ご自身が「見られる、出られる」と表現するのは、いっこうにかまわないのですから、どうぞ、お使いください。春庭も書き言葉では「みれる」と書けない古いくちです。

 しかし、「みれる、でれる」を見聞きしたときに、ご自分の価値判断で「そんな日本語使うな。正しくない」と、お腹立ちなさいませんよう。
 自分の価値判断を人に押しつけることなしに、それぞれの話し手書き手が、個々人の好みで、語も文体も選んでいけばいいこと。<続く>

5-4-3
2004/03/09 23: 3 tttakaaki 質問・・切られるのら抜きでは

切る(五段活用、1グループ動詞)、否定形「きらない」テ形「きって」受身形は「きられる」可能形は「きれる」可能否定形「きれない」
着る(一段活用、2グループ動詞)、否定形「きない」テ形「きて」受身形「きられる」可能形若い人バージョン「きれる」可能否定形「きれない」
となり、切るの可能形「この包丁はよく切れる」「私はさしみが切れる」

「切る」の可能形が「切れる」になるのはラ抜きではない。可能形の作り方の定型。規則的に可能形になる。
yom-u → yam-eru(よめる)
kak-u → kak-eru(かける)
kir-u → kir-eru(きれる)

 一段活用動詞の「着る」の可能形が「きれる」になるのは、ラ抜き。本来は「着られる」
 「着る」の可能形「ひとりで和服が着れる」と「切る」の可能形「ひとりでみじん切りが切れる」、平仮名表記のかたちは同じ「きれる」になる。

 ただし、アクセントが異なる。「切れる」は「き(低)れ(高)る(低)」「着れる」は「着(低)れ(高)る(高)」となり、ことばとしての区別はつけられる。(若い人バージョン=区別はつけれる)
 五段活用と一段活用で、可能形のひらがな表記が同じになる動詞は、「帰る(五段)」「変える(一段)」こちらもアクセントが異なる。日本語では、音の高低は、語の弁別に重要な役割を果たす。

 名詞「雨」と「飴」が音の高低で識別できるように、可能動詞「切れる」と「着れる」も音の高低で識別でき、別の語として認識される。


5-5-1 文化の変化とことばの変化
 「ゆく河のながれは絶えずしてしかも元の水にあらず」ことばもまた。
 言語文化の変化は二千年前も、百年前も常にあった。言葉は生々流転盛者必衰。
 問題にすべきは、ことばそのものではなく、現在の文化・日常生活が、急激に変化し、ある部分は衰退していることのほうであろう。

 「白砂青松」と言っても、なんのことやら。当然だ。海岸は護岸工事や埋め立てやらテトラポットやらで埋め尽くされている。「山河清明」どんな様子やら。山は削られ、ゴルフ場には除草剤や芝生除虫剤がたっぷり散布され、川はせき止められ、カジカもイワナもいなくなった。

 詩の読解をしていたときのこと。「夏の白く輝く道」という一節を読み、ある都会の子供が「白く輝く道というのは、雪がふった道なのに、なぜ夏と書いてあるのか。冬のまちがいに違いない」と言い出した。
 「汗を拭きながら歩く」とか「草いきれの中」という他の行の表現からみて、まさか、この詞を「冬」と受け取ることはないと思っていたので、衝撃だった。

 夏の焼け付くような日差しをうけて、あぜ道や田舎の土の道が、白く乾ききったように光る風景を、この子は見たことがないのだった。白=雪という○×式の想像しかできなくなっている、という面もあるが、すでに都会では、アスファルトに覆われていない道がないということ。
 白く焼け付く夏の道を見たことがなく、草いきれのむんむんする中を歩く気分もわからず、言葉だけ指導しても、夏のあぜ道を歩いてゆく感覚は取り戻せない。

 豊かな自然と多様な文化の中ですごさなければ、日本語言語文化が培ってきた豊かな言語表現も味わえないのだ。

 かっては、田舎の子には田舎の自然があり、都会の子には都会の自然があった。私の同世代の人たち。私は田舎の山と川を見て育った。東京に生まれて育った友人は、原っぱや路地の中に遊び場所をみつけていた。
 今、原っぱは消えてなくなり、路地で遊んでいる子は、誘拐や痴漢が心配だから、家に入れといわれる。

 江戸東京たてもの園の企画展「はらっぱ」に、昔、夕暮れまで遊びほうけた原っぱの記憶にまつわる展示がされていた。中に、らお屋の屋台があった。
 路地や広場に屋台を置いて、キセルの竹を交換するラオ屋。展示してあるのは、20年くらい前まで、浅草で現役で仕事を続けていた方の屋台。

 キセルを使用する生活がなくなれば、「キセル」という語が日常生活で使われることは少なくなる。子供は博物館の中でしかキセルを見ることはなく、日常生活で誰かがキセルでタバコを吸う姿を思い浮かべることはない。このような生活の道具などは、変化を押しとどめることができないだろう。

 しかし、砂浜がつづく海岸を埋め立てて工業用地にしたこと。川をせきとめて、行き来していた魚を絶滅させること。このような変化を「国の事業」として進めてきておきながら、言葉についてだけ「これは使うな」「これは言い換えよ」と、言うのは矛盾している。

 「美しいことば」を子供達に残したいなら、第一番にやるべきは、美しい国土をとりもどすことだと考える。こどもが自然によりあつまって、思い切り体をうごかせる「原っぱ」をとりもどすこと。
 これだけ自然を破壊しつくしておき、子供の遊び場もなくなっている中で「愛国心を養うために、儀礼の場では必ず国旗に最敬礼、国歌は起立して斉唱」と強要して愛国心が育つのだろうか。

 私はふるさとを愛し、この郷土、この土地を誇りに思っている。「おクニはどちら?」「私のクニ、すごく田舎なんですよ」と、表現するときの「クニ」を愛している。愛国心を持っているつもりだ。
 「旗の掲揚や起立しての斉唱に従わないと罰則」と規制されなくとも、郷土を愛する気持ち、母語を大切に思う気持ちにかわりはない。

 ただ、押しつけないでほしいと思う。ことばも歌も。
 自由にことばを発したい。自由に歌もうたいたい。美しい国土のなかで、なごやかなコミュニケーションの中で、豊かなことばが胸の中に育つだろう。

 ことばは変化していく。しかし、美しい国土と人の心が保たれていく限り、豊かな言語文化は継承されていくだろう。逆に国土が荒れれば、ことばの文化も滅んでいく。
 いま、私たちの母語が危機にあるといえるのは、言葉の発音や語形が変化の流れに従って変わっていくことをさすのではない。

 言語文化を培い、支えていくはずの人心も生活文化も荒れていく。その荒廃が、ことばの豊かさをも衰退させていく。危機はここにある。<続く>


5-5-2
 「春の小川はさらさら流る」(「流る(ながる)」は「行くよ」に変わったが)の「小川」は、なんと東京の渋谷を流れていた小川のことだそう。
 渋谷だけではない。こどもたちがメダカを取り、せりを摘み、蛍を追った小川など、どれだけ残されているだろうか。メダカも蛍も、今ではホテルのイベントでもないと子供達がふれることも難しい。

 「小川のめだか」は、もはや日常生活の中にはない。(街のペット屋熱帯魚屋などで売っているメダカは日本産原種のメダカではないので、水槽で飼っている人は管理をきちんとしましょう。飼えなくなったとしても、小川に放流してはいけない。生態系をこわすことにつながる)

 「たどん」を日常生活で使わなくなれば、若い人に「たどん」と言っても説明なしには伝わらなくなる。
 「蜘蛛の子を散らすように去っていった」という表現がある。私自身、蜘蛛の子が散っていくのを見たことは、たった一度しかない。「全地域を虱潰しにさがした」という。若い世代にシラミをつぶした経験をもつ人はまれであろう。

 ことわざの意味も、「情けは人のためならず」「流れに棹さす」が、若い世代と高年世代では、受け取る意味が正反対になっていることを以前に紹介した。
 「他者に情けをかけるのは、回り回って自分のためになること」→「他人への同情は結局その人自身のためにならないから、情けをかけるのはよくない」

 「流れに乗って勢いを増す」→「流れを止める」
 日々話される言葉、読む言葉はたえず流れて変化する。その中で、私たちは自分たちの心や意識を記述する方法、自分の考えが的確に伝達される方法をさぐり、工夫していく。
 よりわかりやすく、より美しく表現するべく努力するのみである。

 おおっと、「春庭の文章は、わかりにくく、ひねくれていて、何が言いたいのか、首を傾げるようなシロモノ」という評を受けてきたんでした。
 わかりやすい文章にならないのは、私の能力不足。今後とも精進いたします。「精進」は呉音で「ショージン」と読みませう。

5-5-2-2 表記の変化
 評判悪いついでに、日本語教師春庭の日本語表記変化予測を。
 ひらがなの表記においても、長音はカタカナ表記と同じく「ー」になるだろう。
 「しょうじん」は「しょーじん」は「おおきい」は「おーきい」になる。
留学生に指導するとき、「オ段」の語の長音について、大きい、通り、狼、などの長音は「お」と書く。「その他の語はオ段の長音をウと書く」と指導している。大きい道路「大路」はオオジ。王子は「オウジ」と表記する。

 「大きい」は旧かなで「オホキイ」と書いたから長音部分は「オオ」になり、表記は「おおきい」。「大路」は「オオジ」
 プリンス「王子」の長音部分は「ウ」を用いて「オウジ」と書く。
 書き言葉の表記では意識しなければならないが、日常しゃべっているときの長音は同じ。
 大路は「オオジ」と書き、プリンス王子は「オウジ」と表記しても、発音はまったく同じになる。 オ(高)ウ(低)ジ(低)。
 JR京浜東北線の駅の王子は、オ(低)ウ(高)ジ(高)なので、アクセントが別。

 文科省の「現代仮名遣い」に関する通達は何度も改訂されてきた。発音が先行し、表記が後追い。
 カタカナは「オージービーフ」と書いてもいいのだから、平仮名も王子を「おーじ」と書いても、いいというのが、若い世代の感覚。仮名表記は「発音通り」という方向で改定が繰りかえされてきたので、「おおじ」と「おうじ」も、いずれは「おーじ」になることが予想される。

 なんて、書くと批判がビシバシ。しかし、これは「けーたい」メール文ではすでに広まっている表記方法である。あと20年したら、文部科学省国語審議会は後追いで認可するだろう。許容範囲内表記であると。
 王子を「おーじ」と書く変化がいやな方は、「蝶々」を「てふてふ」と書くべきである。むろん文体は、旧かな擬古文でせう。<続く>


5-6-1 変化の受容と拒絶

 以上、語種についてまた、語の変化について述べてきた。これは、chiyoisozakiさんの日記に転載された匿名の投書に対する、日本語教師春庭なりの考えをのべたもの。

<匿名の投書(ちよさんカフェ日記から引用)>
 最近、文部省でも気がついて呉れたようで嬉しい限りです。70年近くも生きていますが、日本は武力で占領され、経済で占領され、日本語までも占領されつつあります。外来語の氾濫です。固有名詞のワシントンなら仕方ありません。日本語にある電信通信をEメールと呼ぶなど目に余りあります。国語、日本語の先生方のお力が不可欠です。ご協力をお願いします

 春庭の個人的考えでは、この方が「電信通信」と書きたいなら、どうぞどうぞ。誰もそれをとめない。この方が「今後は手紙を廃し、電信通信にてご連絡申上度候」と、手紙に書いたとして、受け取った人が、電信通信というのを、電報のことと受け取ろうと、それは、ふたりの間で通じ合えばいいことだから、ちっともかまわない。

 ただし、他の人に「eメールなどと外来語を使用するのは目に余る」と、怒る必要はない。「eメール」「電信通信」どちらの語を日常生活で使うかは、各人の判断にまかせたらいい。

 言葉にたいする感性、思想、価値観、それぞれ人によって異なる。
 「海」というひとことで、やさしい母のふところを感じる人、勇壮な一本釣りの男をイメージする人、父の命を奪った憎い嵐を思い出す人、さまざま。人さまざまでいい。それを「海といったら、生命をはぐくんできた45億年の命の母、と感じられない人は馬鹿である」なんて、決めつける必要もない。

 ある人から「バカ!」と怒鳴られて猛烈に腹がたつこともあるし、「ねぇ、いやょぉ、ばか~ん」と甘えられて、馬鹿の一言がうれしいときもある。一方向の価値観を全員が持たなければならない、としたら、その方が怖い。

 投書の方は、テレビを「映像音声放送電波受像器」または「かみなりつくりのなみによるうごき絵姿と声うつしのからくり箱」とよんでいるのだろうか。ミシンを「自動縫製機」または、「ものぬういととじからくり」とでも呼んでいるのであろうか。

 「ちげーよ」について述べたことを繰り返すが、自分がうまれる前の変化は黙って受け入れておきながら、現在目の前の変化が受け入れられないのは、老人性変化拒否症のひとつの症状にすぎない。

 「eメール」と言う外来語いやだと言う人も、「ラジオ」という外来語は使用しているではないか。日常生活で、「音声放送電波受信機」と言わずに「ラジオ」と言っているのなら、「eメール」を人様が使うことに文句をつけるべきではない。自分の日記や手紙の中では、どうぞご自由に「電信通信」と書いてください。若い人がどの語を選ぶかは、若い世代に選ばせましょうよ。

 若い世代の人にとっては「電信通信」と言ったのでは、新しい通信の概念にそぐわないと感じられたから、eメールが普及したのだ。どの語が普及しどの語が使われないか、それは、使う人々が決める。
 それが証拠に、JRが「国電」のかわりに普及させようとした「E電」とういう略語は、使われなかった。人々の感性にあわないものは、無理矢理押しつけてもだめ。感性にあうものは、自然に普及する。

 ちよさん回答にもあるが、70年近くを生きてきたとおっしゃる方なら、「一定の価値観」を他人にも押しつけることの結果がどうなったか、60年前に体験したことと思うのに、それでもなお「電信通信をEメールと呼ぶのはけしからん」と発想し、自分の価値観にあわないことばを排除しようとする、そういう考え方に興味がわいた。

 「国語、日本語の先生方のお力が不可欠です」と、書いておられるので、日本語教師春庭、売られた議論を買いました。<続く>


5-6-2 日本語変化への基本方針

 「国語、日本語の教師」としての、春庭の基本的態度。まとめると、1~5である。

1,言語は変化していくものである。私たちは現在、縄文時代と同じ言葉を話していない。平安時代のことばでもない。長年の変化を経た「現在の日本語」を話している。

2,300年前、1000年前の日本語と、現在の日本語が異なっているように、これから先の日本語も必ず変化していく。どのような変化が受け入れられて、定着するのかは、その時代を生きて、書いたり話したりする人々が決めること。
 百年後の日本語を読み書きするときに生き残ってはいないであろう世代の人々が、「違うのではないか?」を「ちがくない?」と言うのはケシカラン、とか、敬語が乱れているのは許せないと、怒っても無駄。次代の人にとって、心地よい変化ならば、そちらが定着する。

3,表記は発音のとおりに書き表される方向ですすむ。すなわち、「とおりに」は「とーりに」となるだろう。

4,お役所の文書と、マスコミの表現についての基準は、それぞれが定めること。一般的国民、不特定多数に理解できる文と文字表記を使うべき。もし、役所の文書とマスコミの表現に分からない部分があったら、「ここがわからない」と、申し入れをし、注釈をつけてもらう。
(最近、各省庁の「白書」も文章もわかりやすくなってきたと言うのだが)
 役所やマスコミは、「日本語理解語彙、語彙調査」(注1)を定期的に行い、高齢世代に理解が不足している語と若年世代が理解できなくなってきている語については、文末に注をいれるようにすること。(注1の語の注釈は、のちほど)

5,言語の変化がいやだと思う人が、旧来の表記や語彙を用いて書くのは自由。
 断固として歴史的仮名遣いで小説やエッセイを書き続けている作家もいる。
 「桃尻語」で書くのもあり、けーたいメール文体や表記をとりいれて書く人もいる。それぞれの表現したいようにどうぞ。

 さて、表記の変化予測として「ひらがなの長音記号として「ー」が許容範囲表記とされるのは、20年以内、と書いた。修正したい。10年以内であろう。

 新しい単語や表現、新しい表記は、「けーたいメール」などでの個人使用での普及→若い人向け雑誌など→スポーツ新聞や週刊誌など→一般全国紙でも使用、という具合に普及が進んでいくのが一般的な傾向。
 春庭が「ひらがな長音表記は、おーじ、おかーさん、びょーいん、となっていく」と予想を書いた翌日の購読新聞(03/12朝刊)に、私が書いたことを実現する表記があったので、なんというタイミングかと思う。
 「発想法」「KJ法」で知られた川喜田次郎さんへのインタビュー記事。

 インタビュー記事なので、話し言葉の雰囲気を残すための書き方ではあるが。まずタイトルが、「いろいろあらーな、がいい」と、ひらがな長音符号で大きくドン。本文トーク部分でも「おどろくような早さで、世界が一本になりつつありますなー(中略)いろいろあらーな、がいいの。」

 川喜田さんは、今もなお都内の研究所で「新しい発想を生み出す法」「現場からデータを集めよ、集めたデータは数量的に分析するだけでなく、数量化できないデータと率直に向き合い、総合してまとめていく」ということをめざしている。
 現在83歳とは思えない柔軟な思考を続け、「あと10年は元気に」と、意気盛ん。
 すべての高齢者の頭脳が硬直し、「伝統を守れ」「昔の○○のほうがよかった」と嘆くだけとは限らない、ということがわかる。
 さまざまな高齢者がいることを念頭におきつつ、高齢の方の経験を尊重したいと念じている。
 しかし、今回は「あえて火中の栗を拾うのもいいかな」と思い、年長者に異論申し立てを、させていただいた。

 2月末から、日本語変化論を展開し、語種について、言葉の変化について縷々述べてきた。
 でも、「火中の栗を拾う」ということわざの元句、フランス語成句では、「他人が食べる結果になる栗を、わざわざ危険を冒して拾ってやること」だって。知らなかった。フランス渡来の外来ことわざじゃなく、日本の栗だと思っていたし、拾う努力をしたあとは、自分で栗を食べるのかと思いこんでいた。

 かように、春庭、知らないことばかり。だから、いっそう言葉はおもしろい。もっともっと知りたいし、いろんな方の意見も聞きたい。
 自分と同じ意見に「そうそう」とうなづくだけでなく、異なる意見を知り、討論し議論し、反論し、ことばを交わし合いたい。
 匿名投書の方、ご無礼の数々お許し下さい。春庭、未熟者ゆえ、ことばづかいも乱暴不適切にて、正しく美しいとされる日本語からもほど遠く。<続く>



5-6-3 理解語彙と使用語彙

 みなさん、「春庭がまたわけのわからんことを」と思っても、「またもやアホが悩んで考えている。バカの考え休むに似たり。でも、休んでもまた進めばいいさ」って、「お
ーきい」気持ちで見守ってね!!

 ところで、あなたは、「アホ言ってらー」と言いますか?「馬鹿言ってんじゃないよー」というほうですか。 
 ポカポカ春庭の言語文化教育研究 語の変化(6)の注「理解語彙と使用語彙」について

(注1)「理解語彙」とは何か

 人々が、「話し聞き読み書き」する語彙には、A:理解語彙 B:使用語彙 の二種類がある。
 日頃、日常生活で、自分自身が話したり書いたりするときに用いる語彙を「使用語彙」という。
 自分自身は日常用語として使うことはないが、読み書きしたとき、意味が理解できる語彙が「理解語彙」である。理解語彙>使用語彙。
 一般的な日本語母語話者の場合、高校卒業のころでの語彙数獲得は、理解語彙で約3万語といわれている。

「語彙調査」とはどんなことか。
 書き言葉については、新聞雑誌に記載されている全語彙を調査する、などが行われる。
話しことばについては、ある語について、どの年代の人がどのような語彙を使用しているか、どの地域で使用されているか、などを調べる。

 これまで種々の語彙調査が行われ、方言や新語などが調査対象になった。方言の聞き取り調査などは、とてもたいへんだった。調査者が方言調査の地元へ出かけていき、対象者(インフォーマント)にインタビューして聞き取り調査を行うなどの方法が行われてきた。

 この種類の語彙調査を行うには、莫大な時間と人材を必要としたが、現在では、別の調査方法も使われる。インターネットやマスコミメディアを使えば、素早く調査が行えるのだ。(直接の聞き取りではないので、データの扱いは、慎重を期す必要があるが)

 この手の調査のひとつが、「アホバカ全国調査」である。テレビというメディアを使って、全国的な語彙調査を行った、テレビ番組「探偵!ナイトスクープ」である。
 言語地理学者、徳川宗賢の監修のもと、全国で「アホ」「バカ」「その他(デラなど)」のどれを使用して相手を罵倒するか、を調査した画期的な社会言語調査。方言周圏論(注2)の裏付けともなった。

5-6-4 方言周圏論
(注2)
「方言周圏論ほうげんしゅうけんろん」

 アジアや日本の方言の要素(語・音など)が文化的中心地を中心に、同心円状に分布する場合、中心から外側へ向けて順次、古い形が残存することが観察される。

 文化的中心地のことばがしだいに遠くへと伝播していくため、中央から遠いところには、古い時代につかわれた言語が残存するからだ。
 中央から遠く隔たった地方に、古い言語の姿が残されることが推察される、という社会言語論のひとつを「方言周圏説」という。

 柳田国男『蝸牛考』(1930)は「かたつむり」が地方でどのような方言で呼ばれているか調査したもの。

 柳田は、民俗学調査旅行などで自分が知り得た乏しい情報から、京都で「かたつむり」を呼ぶ語の時代的な変化が、地方に残存していることを推定した。
 京都地方では、古い時代にかたつむりのことを「ナメクジ」といった。それが、京都から遠く離れた地方の「かたつむり」を表す方言として残されているのだ。
 柳田は「かたつむり」の方言として、デデムシ系・マイマイツブロ系・カタツムリ系・ツブリ系・ナメクジ系・ミナ系の6系統と、さらに新しい系統とみなされるツノダシ系があることをあげ、その分布状態を示した。

 その分析のなかから、方言の語彙が周圏的に広がっていることを推察したのである。
 その後45年たって国立国語研究所が作った『日本言語地図』(1972)の「かたつむり」の分布図によって、柳田の推定の正しさが裏づけられた。
 “かたつむり”と同様に周圏分布をする語が80ほど見つかっている。
 「牝馬・もみがら・塩味がうすい・座る・教える・糠・(いい天気)だ・痣になる・とうもろこし・おたまじゃくし」など。

 全国規模の調査ではなく、地方語ごと、狭い地域でも、その地方の文化的中心地を中心として、周圏分布を見せる語の例はたくさん見つかっている。
 この周圏論は語彙に認められるもので,音・アクセントはむしろ逆に、文化的中心地ほど保守的だという“方言孤立変遷論”(金田一春彦)や、語でも各地で独立に生まれることがあるという“多元的発生論”(長尾勇)など反論または修正説もある。

 方言分布の成立は極めて複雑で、ただ一つの原則(仮説)だけでは解釈できない。確かに孤立に変化することもあり、各地で独立に生まれることもある。これらと同列に周圏的分布を示すことも間違いなく認められる。

 異論はさまざまあるが、方言周圏論は今もなお、方言分布の解釈の原則が数あるなかの一つとして、有効な考え方であるといえる。
=============
 ことばは、地域によっても様々な姿をみせ、時代によっても異なる。どのような言葉を話すにせよ、書こうとするにせよ、ひとつひとつの言葉を大切に表現し、そして発したことばには、自分で責任を持つように心がけたいと思っている。
 しかしながら、春庭、生来の粗忽。言いまちがいや、思いこみも多い。どうぞ、語彙のまちがい、言葉遣いの不適切な点にお気づきのさいは、ミニメールにてご指摘ください。

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の3冊
No.110,(や)柳田国男『蝸牛考』岩波文庫
No.111,(と)徳川宗賢『日本の方言地図』中公新書
No.112,(ま)松本修『全国アホバカ分布考』太田出版


5-6-5 変わるから言葉はおもしろい

 ことばは、変わっていくから面白い。ゆく川の流れはたえずして、元の水じゃない。湖も川も海も、水が循環し入れ替わっていかなかったら、よどんだ水たまりになる。今の日本の世相であるなら、さぞかし腐臭漂いヘドロ重なるドブとなるでありましょう。
 ゆれ動き、流れていく時間の中で、できる限りの多様性を示す社会や言語表現をながめていたい。

 「言葉はどんどん変化する」という予測と同時に、「外来語を出来る限り使わない」という人を尊重したいし、丸谷才一のように「断固として旧仮名遣いで小説を書き続ける」と、いう人がいることも、多様な表現の中のひとつの見識として尊重する。頑固一徹を通すのも、多様な中のひとつのあり方だろう。
 頑固一徹な人、春庭、嫌いではない。今は亡き私の父も頑固者だった。一度こうと決めたら曲げなかった。

 餓えに苦しんだ兵士の生活と捕虜生活を忘れず、「この世から戦争がなくならない限り、あの旗を掲げることもあの歌を歌うこともしたくない」という考えを死ぬまで変えなかった。しかし、それは、自分の信念としてやっていることで、子供たちに強制することはなかった。歌うなとも歌えとも強制されなかった。
 春庭、個人的趣味では、未来永劫かわらない世の中に住むのは、ちょっとこわいと思う。社会も家庭も、人もことばも変わるのを見ていたい。
 
 ただ、短期的にみるなら、今のような変化の方向は、「わたし的には」ちょっとつらい行く末になるかなあ、と思っている。自然はどんどん失われ、多様性は否定され、一定の方向のみ強制される。

近い未来だけをみるなら、この先、日本語コース修了式できっちり起立して歌わないと、仕事させてもらえなくなるかも。どうぞ、言葉も歌も強制しないでください
 でも、変化を好む春庭。世の中が変化して、世界から戦争がいっさいなくなれば、旗でも歌でもなんでもアリ。

 しかし、近い未来だけでなく、これから先の長期的な言語の歴史をみるなら、現在の日本語の変化など、小さな変化にすぎない。
 大きな変化とは何か。言葉が消滅すること。

 世界に3000以上あるという言語の中でも、すでに絶滅している言葉も少なくない。その言語を話し、理解できる人が、80代、90代の高齢者数名で、その人たちがいなくなれば、もう、その言語を話す人々は皆無、という言語もある。

 「日本語は、変わっていくだろう」これは、確かなこと。しかし「1万年後にも、日本語が生き延びているだろう」この予測はだれにもわからない。
 1万年後に人類と地球環境が残っているかどうか、予測がつかないのと同じくらい、わからない。
 かなうならば、言語文化も、美しい自然も生き残ってほしいものだが。<続く>


5-6-6
 日本語言語文化が消えてなくなるとしたら、その原因は外来語の増加というような理由ではないと思う。
 外来語は、第1次、第2次、第3次と何度となく外来文化の渡来とともに増え、定着すべきは定着し消えてゆくことばは消えていった。日本文化が外来の文化を消化吸収する能力は高い。
一時的に消化不良を起こすことがあっても、回復する力はあるだろう。

 外来文化拒絶するのではなく、受け入れ消化吸収しながら、同時に考えていくべきは、美しい日本語を残していくこと。
 言語文化を守るためには、地球環境や古里の山河を守っていくこともめざしていくべき。
 人の心情や自然を表現する言語。しかし、山を崩し川を汚して、トンボもいない国土の中で、「赤とんぼ」の歌を歌って、歌の味わいが伝わるのだろうか。メダカなど泳いでいない川しか知らず、「メダカの学校」を歌って、春ののびやかさや楽しさは継承できないだろうと憂える。(今や、「メダカの学校」など子供達は歌わないが)

 「個性を大事にしよう」というかけ声は盛んだが、学校の方針にそわない個性を発揮したり、文部科学省の意向にあわない教育をしたりすれば、たちまち個性どころではなくなる教育。
 言葉によっても、身体によっても、他者と自己との間のコミュニケーションをとることがドンドン難しくなる社会。

 一方的な論理で反対意見をおしつぶそうとする勢力。一定方向の考え方しか認めようとしない勢力。そのような硬直から壊死が始まる。
 過去の歴史を振り返ると、このような硬直した押しつけがまかり通るようになった次は、「権力に反対するものを狩る時代」になっていくことがわかる。現在はすでにこの段階に入っている。

 イラク派兵反対のビラを配っていたグループが「住居侵入」で逮捕された。公衆トイレに「反戦」の落書きをした青年は起訴され、有罪判決が出た。

 我が家の郵便受けに「女性を商品扱している」チラシを投げ込まれるのを、いくら不愉快だ迷惑だと思っても、警察は「住居侵入」を適用して逮捕することもない。町の公衆トイレに不愉快な絵やことばを書いた者へ有罪判決を出した裁判も聞いたことがない。なぜ、特定のチラシのなげこみだけ、特定の落書きだけが有罪なのか。

 そのうち、インターネット言説も思想統制がかかり、為政者に反対する意見を書き込んだ者は、なんらかの理由をつけて逮捕される時代がくるのかもしれない。
 過去の言葉から「日本語」は変化を続けてきたが、「古事記」も「源氏物語」も、後世の人々が味わい楽しむことができる。言語の部分変化はあったが、言語文化が崩壊することは、これまではなかった。

 落書をとりしまった時代も、幕府への批判者に手鎖をかけた時代もあった。それでも言語文化は生き延び継承されてきた。だから、言論への厳しさが増す現在の状況にあっても、そんなに憂鬱にならなくてもいい、という楽観論もあるだろう。

 しかし、「反戦」と落書きをしただけで逮捕有罪になる現在の状況が、これ以上悪くなるのかどうか、私には、判断できないので、どうしても憂鬱になっていく。
 言論統制が終われば、「できものと思いこみ異分子を追い出したつもりでいたが、切っていたのは自分自身の体だったこと、自分の胸を切り裂いていたことに気づく時代」

 自分自身を切り刻んでいたことに気づいたとき、すでに遅し。出血多量はとめられない。
 国の予算をつかって、「この言葉は使うな、こう言い換えよ」という統制がかかったことを、「外来語はわかりにくいから、国家側から統制してもらったほうが都合がいい」と人々が受け止めたなら、外来語だけではなく、すべての言語言説に統制がかかっていく時代に入っていくのかと、心配性の憂鬱な「中高年」のひとりです。

,112 多様な言葉、多様な文化がときにぶつかり合いながらもお互いを認め合い、自分の存在も相手の存在も尊重しあえる世の中。そうなってほしい。
 川喜田二郎さんが言うように「いろいろあらーな、がいい」

ぽかぽか春庭「ことばのイメージも変わる①」」

2013-05-25 | 日本語
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座
2005/03/01(火)14:49編集
「ニッポニアニッポン語>ことばのイメージも変わる①」

 「美しい日本語を大切にしよう」もちろんだ。私は私のことばを大切にし、人に良い印象を与えることばを使いたいと思っている。
 だが、当然のことに「美しいと感じる表現」が何か、「よいイメージの語」は何か、というのは、時代によって異なり、個人によっても異なる。

 「言葉に付随するイメージ」をとりあげてみよう。プラスのイメージをもつ語なのか、マイナスイメージの語なのか。

 私にとっては、プラスイメージだった言葉の例。「練炭」
 冬の日、こたつの中のあたたかいイメージと共にあった練炭。寒い朝、母が用意してくれ、掘り炬燵の中に入っていた。練炭のこたつは、寝起きの私たちをほかほかとあたためてくれた。「おこたのレンタン」、プラスのイメージだった。

 若い世代にとっては、「何ソレ、そんな言葉何をさしているのか、イミわかんない」という人と、「えぇ、レンタンって、あの自殺の?やだなあ」という人と。
 今朝のニュースでも、レンタンが置かれた車内に集団自殺の3人が。
 練炭から連想できる言葉は「一酸化炭素中毒。ネットで募集の集団自殺に使われたもの」というマイナスイメージしか思い浮かばないという。

 最近のニュースでの言葉のイメージについて。
 テレビやラジオのニュース原稿、新聞報道は、これまで「標準的な日本語の発音、語彙、用法」の代表にされてきた。

 「雑貨小売業ドンキホーテの防犯ビデオに映っていた女が窃盗容疑で逮捕された~」
 「バイクによるひったくりの被害にあった女性は、~」
 ニュースで聞くかぎりでは、容疑者は「女」で、被害者など他の立場の人は「女性」と表現されていて、逆はない。「詐欺で起訴された女性は」とか、「電車内で痴漢被害にあった女は~」というニュースは聞いたことがない。

 「悪いことをした方=女」「被害者その他悪いことをしていない方=女性」と、区別して表現している。ニュースのなかでは「女」をつかうのは「悪いほう」に固定されている。

 本来は「女」に、特別悪い意味はない。しかし、この用法が固定されれば、「女」が今より低いイメージの語になっていき、そのうち「おれの女はお前ひとり」などという歌の一節も、受け取られる意味が変わってくるかもしれない。

 現代日本語で、「あなたにとって、よい感じを受けることば、プラスイメージの語は、何ですか」というアンケートをとったら、おそらく上位にランクインするであろう「ありがとう」「おかあさん」の二語を見てみよう。

 「お母さん」という語が一般に広まり、使われるようになったのは明治時代から。国定教科書が制定され、標準語導入時に、母親への呼びかけの語として、当時の一般的な語であった「オッカア」「オッカサン」「カーチャン」「カカ」などを押しのけて採用された。

 教科書によって徐々に「お母さん」が普及していくにつれ、「オッカア」は書き言葉の地の文中には登場せず、「セリフ」の中の語としてだけ文字にできた。
 「オッカア」と表現された母親が文章に登場したら、それは「田舎に住む母親」や「街の片隅で、つつましく暮す母」をイメージする手がかりになった。

 標準語として採用されたことにより、「おかあさん」は「オッカア」「オッカサン」より、「よい暮しをしていそう」なイメージを与えられたのだ。

 一方、戦前は「都会に住むハイクラス家庭の母親」をイメージされていた「ママ」は、現在は「一般家庭の母親」から「飲食業店舗の女主人」への呼びかけまで、さまざまに用いられている。
 言葉に付与されるプラスマイナスイメージも、時代によって変化していくのである。<続く>


2005/03/02(水)08:43編集
「ニッポニアニッポン語>ことばのイメージも変わる②」

 「ありがとう」は「ありがたし」の音便形。有り難し=「存在することが難しいもの、実際にはなかなかないもの」という意味だった。
 平安時代の清少納言は「ありがたきもの。舅にほめられる婿。姑に思はるる嫁の君」と書いている。しゅうとに誉められる婿どのも、姑に気に入られる嫁さんも、実際にはないもの、存在することが難しいものだった。

 「存在することが難しい」→「めったにない、めずらしいもの」→「めったにないような珍しいことをしてくれたり、物を与えてくれたことへの感謝の意」と意味が変わってきた。

 現在では「プラスのイメージがあることば」「美しいと感じる言葉」人気ランキング上位の「ありがたい」「ありがとう」も、清少納言にとっては、、特別プラスイメージでもなく、美しい言葉でもない語だったろう。

 清少納言の時代には、感謝のことばとして「かたじけなし」を使っていたが、「かたじけなし」も、もともとは「容貌がみっともない」という意味だった。
 みっともない容貌→人前で顔がみっともなくなるくらい恥ずかしい→相手に失礼と思うくらいはずかしく恐縮する→恐縮し、恐れおおく思うくらいに相手に感謝する。

 最初はマイナスイメージのことばだったであろう「かたじけない=醜い容貌」が、「相手に感謝する」になり、よいイメージに変わった。
 源氏物語桐壺巻には「かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにて」とあり、「ありがたい、もったいない」というプラスイメージのことばとして使われている。

 現在、若い人が「そんな状況はめったにない」と言う意味合いでよく使うのが「アリエネー」。現在では、特にプラスのイメージがある語ではない。
 「有り難し」から、感謝の意の「ありがとう」へと、意味が変化した。これから類推すると、未来の日本語においては「アリエネ」が、感謝を表現する意味になっているかもしれない。
 「美しいと感じる日本語」の上位に「ありえね」がランクインするかも、、、、そんなことアリエネー!、、、とは限らない。

 2005/1/15の「ニッポニアニッポン語、新しい動詞」の例をあげ、「インターネット内だけでなく、これから一般にも定着してくだろう」と予測した語彙のひとつ「ブログる」。

 ネット内では「ブロクる」という動詞を検索すると2万件以上もでてきてはいたが、1月31日の新聞で一般書籍広告の中に書籍の題名をみつけた。『時代はブログる』
 これから「メモる」「ダブる」などの語に続いて、定着していく英語由来の動詞となるか。「部録る」などの当て字が登場しそう。

 広告や週刊誌、ファッション誌などでは、新鮮に感じられる表現を見出しにつかってインパクトを与えようとするので、新語が多くなる。「バトる女たち」という見出しも見た。こちらは「闘争る」と書いて「バト」のフリガナがつくのかも。

 新鮮なイメージを与え、衝撃をあたえるための新語がどんどん登場するが、この中から、定着し、「日本語語彙」として、残るのはどれだろうか。
 生きて使われる流れの中で、プラスイメージの語、マイナスイメージの語、さまざまなイメージを伴いながら、ことばは生々流転していく。<おわり>


2005/03/03(木)10:03編集
「ニッポニアニッポン語>老化防止に思い出す語、覚える語①ふりもの」

 これまで知らなかった言葉を知ることは楽しい。
 出雲にお住まいの翻訳家の文章で、出雲のあたりでは、雨や雪などを総称して「降りもの(ふりもの)」と呼ぶことを知った。
 舞台関係では、舞台に降らせる紙吹雪の桜や雪などを総称して「ふりもの」と呼ぶこともあるというが、現実の雨や雪の総称をこれまで聞く機会がなかった。

 「降りものがあると困るから、早めに帰ります」「降りもので、お足もとが難儀なことです」などと、出雲ではことばをかわすようだ。
 島根県下小学校の学校便りに「冬型の気圧配置になり,寒い日となりましたが,雨や雪の降りものがほとんどなく、子どもたちが移動するにも楽器の運搬にも都合がよかったです」と記載されていた。

 飲み物食べ物かわき物、着物履き物かぶり物、読み物書き物作り物、見もの聞きもの探しもの、入れ物乗り物落とし物、金は天下の回り物私のところにゃ来ない物。物にもいろいろあるけれど、「降りもの」はじめて聞きました。これから、ちょこっと真似してつかってみよ。
 今夜の東京は氷点下に冷え込むという予報。夜半過ぎの降りもので、また屋根が白くなりそうです。

 f******さんからのコメント。
日本語はよく調べるとおもしろいですね。国語辞典をひいているとこんな言葉もあるんやと驚きます。投稿者:f****** (2005 3/2 16:59)

 私も辞書を開くことが好き。知らないことばを発掘し、忘れた言葉を思い出すジョブトレーニング、職業訓練のひとつとして、辞書を「一冊、1頁めから最後まで一度に全部読んでチェック」ということを、ときどきしている。
 「ことばを教える者としての職業訓練」というと、大義名分がたつような気がするから、そう言ってみたが、「金のかからないヒマつぶし」にすぎないと言われれば、その通り。

 国語辞書は、仕事がら何種類かパソコンまわりに並べてある。もちろんパソコンでも言葉はさまざまに検索することができるが、辞書は、調べたい言葉だけでなく、その前後の語や他のページなどもちょこっと覗くことができ、思いがけない言葉を見ることもあって、今のところ、私には書籍版の辞書の方が使い勝手がいい。

 コンパクトサイズ国語辞典で6~7万語、机上サイズで10万語の語彙が一冊の辞書に並んでいる。
 日本語教師春庭、学生よりは語彙力があると思っている。しかし、辞書にある語、全部知っている語かというと、現代日本語辞書でも知らない語はあるし、みたこと聞いたことある語でも、忘れてしまったものもたくさん。
 
 2年前の「辞書全読チェック」のときは「文色(あいろ)」という語が「昔みたことあったはずなのに、忘れていた語」だった。「懸魚(かけざかな)=枝にかけて神前に備える魚」という語があることをこのとき始めて知った。私の家では仏壇神棚に魚を供えることをしたことがなかったので。
 (このときの辞書全読についてはhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0301c7mi.htmの2003/01/29と2003/01/30に記載した)

 今回、古語辞典をのぞいてみたら、「古事記」を学んでいたころに読んだはずなのに、そんな語があったかどうか、すっかり忘れていた「ああしやごしや」を再発見した。<つづく>


2005/03/04(金)10:11編集
「ニッポニアニッポン語>老化防止に思い出す語、覚える語②トリアージ」

 弥生の空から白い「ふりもの」が次から次へと落ちてきます。
春雪三日祭りのごとく過ぎにけり(石田波郷)

春の雪が地上へとおりていく様を9階の部屋の窓からじっと見つめていると、「時」が空から地上へと降り続く気もする。逆に下から空を見上げると、雪の中へと上昇していく幻想も広がる。

 ことばを探る楽しみは、さまざまな季節の中に過ぎ去った時間をふりかえる楽しみでもある。 時間の中を旅するように、辞書の中、ことばの中にもたくさんの「時の旅人」が行き交う。

 『古事記』の中のさまざまな古語。「古事記歌謡」にも、今は聞かない表現がいろいろみつかる。
 人をあざけって笑うときに使う「ああしやごしや」という囃し言葉は、戦勝祝い(久米歌)の一節に出てくる。
 久米歌は、服属儀礼のひとつとして天皇の代替わりの即位礼などで歌われた歌謡だという。

 「年取った妻がおかずがほしがるときは、蕎麦の実がついていないほどに、ちょっぴり与え、若い妻がおかずをほしがるときは、ヒサカキの実のように大振りにたっぷりやろう」

 『前妻(こなみ)が 菜乞はさば 立(たち)そばの 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 菜乞はさば いちさかき 実の大(おほ)けくを こきだひゑね ええ しやごしや こはいのごふぞ ああ しやごしや こはあざわらふぞ(記・神武天皇)』

 「ああしやごしや、これはあざ笑うときのことば」と、歌われた。
 人を非難し、悪口をいうときにつかう悪態ことばが「ああしやごしや」だと書かれている。今では聞いただけでは誰も意味がわからない。

 今ではだれもこの言葉を使わないので、もし、悪口をいいたい相手と対面してつぶやきたいときは、おすすめ。仕事のことで、上司に文句をいわれたとき「ああしやごしや」と、つぶやいてみる。上司が「何?」とききとがめても、叱られる心配はない。

 「ああしやごしや」のように、早くから意味が分からなくなった古い言葉もある。
 100年前までは使われていたのに、消えたことばもある。10年前にはおおはやりだったのに、たちまち消えてしまったことばもある。ことばのウォッチングはほんとうに面白い。

 すっかり忘れてしまう語もあれば、新しく覚える語もある。
 最近、新しく覚えたばかりの語。テレビドラマ『救命病棟24時』をみていて「トリアージ」という外来語を知った。防災や医療関係者には、とっくに知られていた言葉なのかもしれないのに、私は阪神淡路大震災のあとも、聞いたことないことばだった。

 トリアージは、災害時における救命活動の優先度に関する語だ。優先度は、生命が危機的状況にある患者が高い。予後(社会復帰)に基本的な重点が置かれる、など。この優先度決定により、医療能力を最大限に発揮させ、最大数の傷病者を救命することができる。

 トリアージという言葉を知ると同時に、「重症すぎ、救命できる可能性が低いものの治療はあとまわしになる」という現実も知った。

 本当に災害が起こり、自分の家族がトリアージにより「治療あとまわし」になったら、どういう態度をとればよいのか、など、考えさせられた。「新しい言葉を知る」とは、新しい概念、新しい考え方を知っていくこと。

 常に好奇心をもって、新しいことばを知っていくように心がけることは、脳細胞を新しくする。
 新しく覚える言葉、忘れていく言葉、頭の中の辞書は、いつも書き換えられながら使っているのだが、たぶんこれから先私の脳内辞書は「忘れることば」のほうが多くなるだろう。<続く>


2005/03/05(土)13:08編集
ニッポニアニッポン語>老化防止に思い出す語、覚える語③啓蟄の日に

啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる(山口青邨)
 今日は二十四節季の啓蟄。虫が地面のぬくもりを感じて動き出す日、のはず。ですが。桃の節句の夜にふった雪が、夜も零下の気温となり消え残っている所も多い。外へと顔を出してみて、あわててまた穴のなかにもぐりこんでしまった虫たちもいることだろう。

 それでも今日の陽射しは春の気配を感じさせる。身体も脳も、春に備えて活動開始しなければと思いながら、穴のなかで首をすくめている。
 身をすくめ、陽射しを確かめながら、春の季語などひとことふたことつぶやいてみる。
春めきてものの果てなる空の色(飯田蛇笏)
春めくと覚えつつ読み耽るかな(星野立子)

 忘れていきがちなことばを脳内につなぎ止めておくために、辞書のほか、歳時記や詩集も手に届くところに置いておく。ことばの楽しみに読み耽る。

 1月に銀座のデパートで「金子みすず展」を見てきたので、金子みすず詩集をパラパラと読みかえす。篠弘『疾走する女性歌人』を読了して、手元にある道浦母都子や俵万智の歌集を開く。今は枕元に安東次男『花づとめ』をおいて、一章読んで眠りにつく。俳句短歌漢詩などを詩人安東次男が読みとったエッセイ。

 先週、母の33回忌に田舎の寺へ行き、行き帰りの電車で永井路子の『今日に生きる万葉』を読んだ。古本屋で一冊百円。
 東京に戻り、母の形見の土屋文明『万葉私注』を出してみる。奥付発行日は、私が生まれた日の20日後。紙質の悪い時代の本だから、背表紙もなくなっている。「賣価参百参拾六円」とある。ラーメン一杯23円の時代。本一冊でラーメンは10杯食べられた。

 それから母が残した一冊の作品集をめくる。
 田舎暮らし、家事の合間にちびた鉛筆で広告チラシの裏に書き留めた一句、また家庭菜園をたがやす合間に思い浮かんだ一首を新聞に投稿していた。
 新聞や雑誌に掲載された切り抜きが、母の急死のあと文箱がわりの菓子折空き箱に残っていた。母の3回忌にまとめて自費出版し、供養とした。
 この一冊をまとめるために、私は母のあとを追うことをせずにすごし、出版後の30年間を生き続けることができた。母のことばの一語一語が私を支えたのだ。

 一句一句をたどる。55年の短い生涯を母なりに懸命に生き抜いたあとが、ページの上に広がっていく。
 私にとってこの冬はひときわ寒さが身に染む日々だったが、そう、もう3月だしね。母には経験できなかった55歳から先の人生を母の分まで生きなくちゃなあ、と思う。

 ひとつひとつの言葉を読み返し、新しい言葉を覚え、これから先の「老い暮し」に、心まで老け込んでしまわないように、脳細胞をゆすっていかないと。
 「枡野浩一かんたん短歌」も面白いし、ことばの楽しみはまだまだ∞。<おわり

ぽかぽか春庭「新語・新用法の生成」

2013-05-22 | 日本語
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座
2005/02/12 (土)09:12 編集
ニッポニアニッポン語>新語・新用法の生成

 子どもは、赤ん坊のときから周囲のことばを耳にし、しだいに母語を獲得していく。子どもの「ことば獲得過程」を観察するのは、本当に面白い。
 大人のいうことをそっくり真似したり、同じように言っているつもりで間違えたり。

 やわらかい→やらわかい、エレベーター→エベレーターのような発音しにくい語の言い間違いのほか、過剰適用と呼ばれるまちがいがよく起こる。
 ことばに規則があることを発見した子どもが、見つけ出した規則を過剰に適用していくのだ。

a****さんの投稿
 『まだ就学前のこと。夏の夕方、浴衣に下駄を履いて、両親と姉と散歩に出た帰り道、劣化したコンクリート舗装の道でつまずいて転んだことがあります。『大丈夫?』と声をかけられて何と答えてよいかわからず『だいじょばん(・・ばない』と答えました。皆大笑いでした。爪先と膝を打って痛かったので、とっさのことに「形容詞+否定語」を発したのでした。
「ちがくない」「きれーくない」を見ていて思い出しました。。。 投稿者:a**** (2005 2/10 0:50)

 この投稿に書かれているように、子どもは母語獲得の過程でことばの規則を発見し、さまざまに応用していく。
 行く→いかん、食べる→たべん、という否定の表現を覚えたら、さっそく応用する。
 だいじょぶ→だいじょばん(だいじょぶない)
 子どもの「だいじょばん」に、周りの大人たちは大笑いし、子どもは「だいじょばん」と言ったのでは間違いらしいと気づく。そして、周囲の人々は「だいじょうぶではない」「だいじょうぶじゃない」という言い方をしていることを学ぶ。
 
 しかし、ある程度のまとまった層が「たいじょばん」とか「たいじょぶくない」と皆で表現し出したとき、変化が起こる。
 だいじょうぶナ(ナ形容詞、国文法の形容動詞)をイ形容詞として、「だいじょぶイ、だいじょぶくない」という言い方をする人たちがでてきているし、チョキの形の指2本、Vマークとともに「だいじょV」というのもある。

 発音の変化や文法規則の変化は、あっという間に広まっていく。たいていは、「言いやすいほう」「簡単なほう」へと変わっていく。また、「既成の規則を他の語にも応用する」ほうへ向かう。

 たとえば、赤→赤い、青→青いという規則を、昔の人は、黄色→きいろい、茶色→ちゃいろい、と過剰に適用した。その結果、現在、ちゃいろい、きいろいは、形容詞として成立している。「まっしろ」「まっくろ」に対する「まっきいろ」もある。

 さらに、子どもは、緑→みどりい、紫→むらさきい、と応用する。
 留学生から「青は青いになるのに、紫はなぜ紫いと言ってはいけないのか」という質問が出たとき「今は、まだ名詞の紫だけ。形容詞の紫いはありません。紫いセーターと言わずに、紫のセーターといってください」と、答えている。

 しかし、「黄色→きいろい」が成立したあと、「紫→むらさきい」が、誤用とされる根拠は、今のところ「紫い」は、成立していない、というだけであって、皆がつかえば、成立する。
 「みどりい」「むらさきい」は、現在のところ認められていないのであって、将来は色彩形容詞として定着すると思う。
 外来語にも適用されて、ぴんくい、オレンジい、まで出現するかどうか、ウォッチング。

 色彩語として、ピンクのかわりに桃色、オレンジのかわりに橙色を使用する人は、若い世代にはほとんどいない。ぴんく、おれんじを外来語意識を感じない幼児のうちから使用している。

 「正しい日本語」とは、「現在広く使われ、共同体の精神的基盤・共通財産として理解しあえる表現」「現在のところ、大多数の人に不快な感情を与えずに伝達できる表現」にすぎない。

 「まっか」に対する「まっぴんく」を不快とは思わず、当然の表現として使う層が広がれば、「まっぴんく」が成立する。
 「むらさきい」「だいじょV」なんて、変!と、現在のところ感じる人がいても、将来の変化を憤ることはできない。<おわり>



2005/02/15(火)09:03 編集
ニッポニアニッポン語>対象をしめす「が」と「を」

 私は、省略語や新語、流行語のチェックも言葉を教える教師の「職業訓練」のひとつとして続けており、新しい表現を耳にしたとき、いつも「おもしろ~い」と思って受けとめるのだが、自分が使うとなると、なじんだ古い言い回しのほうを口にするほうが多い。

 たとえば、「明日のサッカー試合が見たい」「明日のサッカー試合を見たい」、あなたはどっち?
 私は、まだ「が」を使っているが、若い世代には「を」が広がっている。
  動詞に「~たい」をつけた欲求希望の表現で、助詞の変化が起きている。

 これまでの規範的日本語では、「水が飲みたい」「テレビが見たい」というように、「~たい」という表現で欲求を表わすとき、対象を示すことばにつく助詞は「が」だった。

 しかし、この「が」が、「を」に変わりつつある。「水を飲みたい」「テレビを見たい」というように、助詞が「を」になる表現は、新聞雑誌などの文章中でもよく見るようになった。
 探し出せば、「ほら、明治の文豪でも対象語にヲをつかっている」という用例がみつかるだろう。

 「きく」と「きける」と「きこえる」の使い分けは、留学生にとって戸惑うことのひとつで、助詞もまちがいやすい。今のところ、日本語教科書では「~を聞く」「~が聞ける」「~が聞こえる」と、教えている。

 「みえる、きこえる」を使った文で、「音楽をきこえる」「富士山をみえる」と、留学生が作文に書いたら、誤用として赤ペンで添削を入れる。

 教科書に従うなら、①「生演奏の音楽を聴く」②「品質のよいスピーカーで生に近い音がきける」③「どこからともなく音楽がきこえる」となる。
 ①は「を」、③は「が」、こちらは今のところ問題ない。しかし、現実社会の会話で②の可能形表現は、ゆれがある。②は「音がきける」「音をきける」、両方が使われている。

  「~たい」の文を練習するとき、留学生には「が」の方を教えている。
 しかし、「母が作った料理を食べたい」のように複文になった場合は、「母の作った料理が食べたい」と共に、「を/が」どちらも許容としている。

 「昔、友達といっしょによく食べにいった、なつかしいあの料理 を/が 食べたい」は、「を/が」どちらも許容できるとして、「おいしい料理が食べたい」「おいしい料理を食べたい」などになると、さてどうしたものかと悩み、「肉が食べたい」「肉を食べたい」、ここまで許容してよいものやら、と困ってしまう。
 現実社会では、留学生がいっしょに食事をすることの多い若い世代の日本人の間で、「肉を食べたい」と言う人が確実に増えている。

 私の方針としては。
 書き言葉はできるだけ規範に準ずる。レポート中にひとつでも「自分が気に入らない新語や新用法」が書かれていると不可にする大教授も現実にいるのだから、留学生だから大目に見てもらえるなどと甘えてはいられない。

 留学生の作文での、生き生きとした生活描写部分では「いまどきの言い方」を許容しつつ、レポート・論文をこれから書こうとしている学生には「この言い方は、まだ正式な書き言葉では使えない」と、教えている。

 論文の書き方練習では、「だんだん多くなる→しだいに多くなる」「ぜんぜん~ない→まったく~ない」「もっと多く→より多く」などの言い換えドリルもある。

 話しことばの場合、公式な会議などでは、書き言葉に準じて話す。
 友達との会話では、若い世代に流行している言い方をとりいれてもかまわない、というごくあたりさわりのないやり方をとっている。

 2005/02/11に出した「かぶる」。
 若い世代同士の会話の中や作文のセリフ描写でも、認めよう。

 書き言葉で、レポートや論文に「かぶる」が出てきたとき、どうするか。論文なら「重複する、かさなる」と訂正せざるを得ない。
 新語や新用法を目の敵にして、ひとつでもレポート中に「ら抜き」その他の新用法があったら、容赦なく不可にする先生の目に「かぶる」など「逆鱗!」かも。

 日常生活では使えても、論文中では使えない語がたくさんあることを伝えるのも、作文指導のひとつなのだが、現在の書き言葉はやっと百年の歴史しかもっていない表現方法。話しことばの変化スピードには追いつかないけれど、書き言葉の変化も少しずつ現れる。

 発表論文中に「ら抜き」の受け身形「見れる」「でれる」がいつ現れるか、「本を読みたい」がいつ出現か、ウォッチング。

 書き言葉もしだいに変化して行くであろうことは念頭にいれておかないと。<おわり>

2005/02/22(火)14:47編集
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する①」

 「動詞、形容詞の変化」「挨拶語の変化」「漢字の読み方の変化」など、言葉の変化についての話題を続けています。

まっこと、まっこと!!言葉はいつの世でも、「生きている」
つまり必要がなくなった「言葉」も「言い回し」も絶えてしまうのは、ごく自然なことなんですね・・・・。投稿者:c********** (2005 1/22 13:26)

 と、いうコメント感想のとおり、ことばは消えたり変わったり。生まれたり絶えたりして世につれ人につれていく。私たちは、なくなっていく言葉を惜しんだり、変わる言葉をなげいたりするけれど、未来のことばについては、未来の人にまかせるしかない。

 江戸から明治へ。近代にどっと新語がふえた。
 標準語や言文一致文体確立前の明治期には「行きませんかった」などの文末表現も登場し、擬古文や漢文読み下しなどの文体から新しい表現方法への模索が続いた。
 標準語や、言文一致文体が成立して百年。

 江戸時代までに消えてしまった言葉はたくさんある。現代人は日常生活でそれらの語や用法を使用せずとも不自由ないように、未来の人は、私たちが現在話していることばがどのように変化しようと、それをそのまま受け入れる。

 文字の読み方や書き方、言葉の意味内容は、言葉が生きている限り、ゆれ動き変化していく。
 「フツーに」という副詞に、若い世代が新たな意味を付け加えて使用している例を紹介した。(05/01/29)
 「私は使わない」という人、それでいいと思います。自分の語感をたいせつに。
 ただし、言葉は社会の共通財産だから、「じぶんだけのことばの使い方」で「自分だけの語感」だと、社会共通コードとはならない。現在流通している語彙、意味でないと通じなくなることは当然。「フツーにおいしい」の言い方が、定着したあと、「そのおいしさは、たいしたレベルじゃない」と判断したら、発話者の意識とずれてしまう場合もある。

 自分の語感で話すといっても、「ヨン様に心ひかれる」とというつもりで「ヨン様って、あわれねぇ」と発言したとしても、聞き手はそのように受け取ってくれない。
 平安時代の「あわれ」という言葉には含まれていた「賛嘆、賞賛の気持ち」「心ひかれる、愛情」という意味が消え去り「気の毒、みじめでかわいそう」という意味だけが残った。
 生きている言葉は、今生きて使われているようにしか機能しない。

 古語辞典には載っているが、現代では使われないことば。ことばは残っているが、意味する内容がすっかり変わってしまったものも多い。また、生活の中で使わなったものは、そのものを表わすことばも日常会話から消えてしまう。

 口語では消えてしまい、人々が話すときには使われなくなったことばの意味用法も、文章や辞典に残っていれば、ことばの歴史をひもとき、楽しむことができる。

 たとえば。「あからさま」という言葉は生き残り、私たちも使っている。
 「人の私生活をあからさまに書く記事なんて読みたくない」など。「つつみ隠さずはっきりと」「露骨に」の意味。

 しかし、「あからさま」のもともとの意味の「ちょっとの間」「さしあたって」「仮初めにも」という使い方は消えた。
 また、「あからさま」の「あから」と語根は同じと思われる「懇し(あからし)」=痛切である、ひどい、という形容詞も消えた。<つづく>



2005/02/23(水)09:02編集
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する②」

 「あからさま」と同根の「あからしま風」、どんな風がふくか想像してください。
 語源がわかっていれば、さっと吹く風、はやて、暴風、の意味と想像できるけれど、もう「あからさま」の意味が変化しているし、わからない。

 「懇しい(あからしい)」という言葉が、現代日本語の辞書のなかに見あたらないとしても、現代人は何も不自由していない。「あわれ」の意味が変化してしまっても、特別困りはしない。

 01/29のテレビ番組「日本人は日本語を知らない」では、60%以上の人が「役不足」を「その仕事をするためには、自分の力は不足している」という意味だと思っている、と紹介されていた。

 元の意味は「自分の実力より役目が軽くて不満なこと」「自分の力を十分に発揮できるようなよい役目ではないこと」を意味したのだが、誤解のほうが半数を超えれば、こちらが定着していくだろう。

 たいていは前後の発言から推理できるので、そう混乱はないはずだが。たまに困るのは、過渡期に両方の意味が流通している場合。
 「役不足」を「役目に対して力が不足」なのか、「役目が軽すぎて不満」なのか、どちらの意味でつかっているのか、判断できないときもある。

 「このたび、PTA副会長をおおせつかりました。役不足ではありますが、これからの1年間、努めさせていただきます」などの挨拶の場合、ほとんどは、「力不足」のつもりで使っていると推測される。しかし中には「ほんとうは会長をやりたかったのに、副会長では不服」という本音をしのばせている人も、いるかもしれない。

 未来の人々は、「役不足」の意味が、元の意味の「自分の実力より役目が軽くて不満」から、最初の意味とまったく正反対の「その仕事をするためには、自分の力は不足している」という意味に変化しても、新しい意味を使いこなしていけばいいだけであって、何も不自由はしない。

 消えていくことば、新しい言い方に入れ替わることば、新しく生まれてくることば、ことばは生活と共に生々流転する。語彙も文法も。

 消えつつある、過渡期のことば。
 相撲で黒星が続いた力士の成績を「たどんが並んでいる」と言ったら、「たどんって何?」と、聞き返された。

 私たちは日常生活でもはや「炭団(たどん)」を使わなくなった。「たどんってどういう意味かわかる?」と聞いてみると、若い世代の人は、「たどん」を知らないという。「たどん」という言葉を知っていても、実際に見たことはない。

  炭の屑などを土や澱粉質で練り固めた炭団は、鎌倉時代以降広く用いられ、庶民の燃料となってきた。しかし、生活の中から消えたものの名前は、「生活語」として日常で口にすることはなくなる。辞書、百科事典や博物館に残っているのみの語となり、生きた日常用語ではなくなっていく。

 物があっても、言葉が消えることもある。
 「ぶんまわし」という道具を使ったことある人、いますか?、今は「ぶんまわし」と呼ぶのは、宮大工などの職人さんだけになっている。円を描く器具のこと。

 私が学校で円を書いたときはすでに「コンパス」と呼ばれていて、「明日の算数でコンパスを使う」ということはあっても「ぶんまわしで円を書く」とは言わなかった。
 学校では、「ぶんまわし」という呼び方を採用せず、外来語の「コンパス」を使っていたからだ。「ぶんまわし」という器具があることを知ったのは、大人になってからだった。

 物だけでなく、行事や行為がなくなれば、関連することばが消えていく。
 天秤棒に荷を下げて運んだり、駕籠に人を乗せて運ぶという行為がなくなった。すると、天秤や駕籠をかつぐのに疲れたとき、駕籠の棒を息杖(いきづえ)で支え、休むことを意味する「肩す」という動詞(サ変)は消えて、誰もこの言葉を使わなくなる。<つづく>

2005/02/24(木)10:06編集
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する③」

 近い将来、文語としてのみ残り、日常生活では使わなくなるかも知れないと思われる語「夕ごはん」「夕食」

 私は昼ご飯のつぎに食べる食事を「夕ご飯」「晩ご飯」と言っている。しかし、学生は「よるごはん」と言う。最初に聞いたときは、「えっと、それは夜食のことじゃなくて、夕食のほうだよね」と、確認してしまったが、若い世代を中心に「夜ごはん」が浸透中。

 夕食がおそくなり、夜10時に食べたとしても、私は「晩ご飯10時に食べた」とはいえるが、「夜ごはん10時に食べた」と言えない。「夜ごはん」という語が、私の慣れ親しんできた日本語語彙の中にはなかったので。
 「夕ご飯」より「よるごはん」「晩ご飯」が優勢になれば、「晩飯」は残っても「夕食」はすたれ、「よる飯」「晩食」が使われるだろう。

 夕方5時ころに文字通り「夕ご飯」が出されるので不評だった病院でも、今は夜暗くなってから夕食を出すようになった。夕方ではなく、夜食べるのだから夕食ではなく「よるごはん」へと言葉が変わるのは当然なのだろう。

 言葉に対する私の基本的な態度は、2004年2月3月にも記した。繰り返しになるが、以下のとおり。
 言葉は、使われている間は変化していく。その変化を受け入れたい人は受け入れればいいし、新しい言葉や用法を使いたくない人は、自分の言語感覚に従えばいい。

 新しい言葉や用法が定着するかどうかは、より若い世代に託されているのであって、「そんな言葉の使い方はない」「そんな新語はおかしい」などと、年輩世代の人が「日本語が乱れてしまう」と心配する必要はない。

 「乱れている」という見方で言うなら、文献が残されている日本語だけに限ってみても、すでに千年の間に、係り結びの法則もなくなり、活用形も変わり、変化してきたのである。上二段下二段活用の語は一段活用に。ラ行変格(ある・おる、など)、ナ行変格(死ぬなど)は五段活用に変化した。

 語彙そして発音も、変わっていく。室町までは発音しわけていた、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の発音の区別も消えた。室町末期から変化し、江戸時代には、完全に「じ/ぢ」「ず/づ」の区別がなくなった。

 (方言では、「じ」「ぢ」を発音しわけている地方もある。「か」と「くゎ」の区別も残っている)

 昔々は[papa]と発音していた「母」が、室町頃には[fafa]に変化し、いまでは[haha]と発音している。「ハハ」もまたいつか変わってしまうかもしれない。変化は続く。

 昔の人から見たら、現在の「正統的日本語」なんて、乱れっぱなしもはなはだしい言語になっている。この先も、日本語が人々に使われる限り変化し続けるだろう。<つづく>


2005/02/25(金)12:50編集
「ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する④」

 室町時代から「じ/ぢ、ず/づ=四つ仮名」の発音が混同し、「みかづき」の「づ」も「すず」の「ず」も、同じ音に発音するようになった。
 江戸時代の人の中に「じ/ぢ」「ず/づ」の表記がごちゃまぜになったことを憂えた人もいた。発音が混同すれば、縮みを「ちじみ」と書いたり、鼓(つづみ)を「つずみ」と書く人も多くなる。

 そこで、「四つ仮名の区別を明らかにした表記」を書き残した本も出版された。『蜆縮涼鼓集(けんしゅくりょうこしゅう)』という。
 蜆(しじみ)縮(ちぢみ)涼(すずみ)鼓(つづみ)などの表記を「正しく」かき分けている。
 江戸時代には不快に感じる人もいたこの四つの仮名「じ/ぢ」「ず/づ」の混同、現代の人はだれも「づ」と「ず」の音が同じで不愉快だ、と感じていない。

 古代の日本語ではラ行音が単語の最初にくる語彙はなかった。有声音(濁音)が語頭にくる単語も少なかった。ラ行音や濁音が語頭にくる単語の響きは、美しい響きとはかんじられなかっただろう。

 私たちは古代日本語を話しているのではないから、語頭に濁音がくる語もラ行音が来る語も自由に使っている。「大事」も「薔薇」も「元気」も「響きが美しくない汚いことば」とは思わずに発音している。

 発音の変化の例。漢語を取り入れた結果、平安時代に拗音が発生した。漢語が伝わって一般化する前は、きゃきゅきょなどの拗音の発音はやまとことばにはなかった。

 たとえば「豹」という語が日本語に入ってきたとき「へう」と記述された。
 拗音の発音がやまとことばにはなく、表記の方法もなかったが、しだいに「ひょう」という拗音の発音が広まった。

 「大将たいせう」の「せう」が拗音化して表記は「たいしやう」になった。現在では「たいしょう」と表記し、実際の発音では「タイショー」。
 「銀杏(いてふ)」、現在では発音通りの「いちょう」と書く表記になっている。

 てふてふ→てうてう、が拗音化して「ちょうちょう」になった。拗音化が定着する過程での年輩者は「てふ」を「ちょう」などと言いおって、なんていうひどい発音だ、と苦々しく感じただろうが、私たちは「ちょうちょう」という発音を「美しくない響き」と感じることはない。

 日本語発音の変化のひとつ。「チョー、さみぃ」のように、形容詞終止形の母音連続(二重母音)が、赤い→あけぇ 痛い→いてぇ  重い→おめぇえ かっこいい→かっけぇー 強い→つぃぇー などのように発音される。
 私の同世代の人の中には、俗な言い方、不快な発音と感じる方もいるだろう。

 「美しい響きの日本語」「違和感を覚えない言葉づかい」というのは、「自分の世代が使ってきた日本語を基準にして、現在のところ大多数に受け入れられている表現かどうか」であって、歴史的にはどんな言葉遣いも発音も、登場の最初には「違和感のある言葉遣い」だった。

 年輩者自身が、身につけた言い方を守り、自分の語感をたいせつにして表現したいように言うのは自由だし、若者の言葉遣いに「私に対してはそういう言葉づかいをしないでほしい」と主張するのも自由。その時その時代の「自分がここちよく感じる表現方法」を使っていけばよいのだ、と何度か繰り返してきた。

 しかし、年輩世代の人が「響きが美しく、違和感のない日本語を大事にしたい」と発言するとき、往々にして「自分たちにとっては響きが美しくないと感じる言い方があり、違和感を感じる言葉遣いを聞くこともある」という含みがある。
 この違和感に対しても「日本語の乱れについて心配する必要はありません」と、繰り返してきた。

 若いウェートレスがファミレスで「あいたお皿のほう、はこばさせていただきます」と言ったとき、違和感があったとしても「生きて移り変わる過渡期の日本語」の現場に立ち会っていると思ってください。

 生きていることばは常に変化する、ということを承知していれば、「美しい響きのことば違和感のない言葉遣いを大事にする」のも、「私にとって」「私の世代にとって」のことだと納得できる。

 日本語のリズム。心臓の鼓動や歩調に合わせた1,2のリズムによって開音節のことばが続くと、七五調五七調(休止符をいれると8拍の繰り返し)ができる。日本語の音節が開音節であることが変化しないならば、このことばのリズムも継続するだろう。しかし、その他の発音や文末のいいまわしなどは、100年単位で変化していく。<つづく>


2005/02/26 (土)05:45編集
ニッポニアニッポン語>生きていることばだからこそ変化する⑤

 ラテン語のように、宗教や学術用語としてのみ残り、生活の中で話す人々がいない言語であれば、変化しない。

 日本語がどんどん変化しているとしたら、それは日本語が生きていることばだから。  「日本語が乱れることなく、正統日本語が保たれる」のはどのような場合か。日本語を話す人がいなくなり、ラテン語のように、文献の中にのみ残る場合である。

 言葉は社会の中で育ち変化していくものだが、個人個人には好みもあり、好きな表現、自分は使いたくない表現があって当然。

 「日本語がどう変わろうと、私は振り込め詐欺もら抜き可能形も使いたくない」という人は、その人の見識と好みで個人表現を行ってよい。断固として新字体の漢字を認めず、歴史的かなづかいで文章を書くのも自由。

 しかし、どんなに年輩世代が違和感を感じたとしても、未来の日本語を育てるのは、これから先日本語を使用している若い世代なのだ。
 マミュアルでいくら教え込んだとしても、若い世代が実際にコミュニケーションの道具として用いる日本語が「未来の日本語」として残っていく。

 言葉は常に変化する。私たちは変化の末の現代日本語を読み書き話しているのであり、だれも千年前と同じ平安時代のことばで話してはいない。百年後の人は、100年の間に変化した言葉を話すのであり、500年後には500年の間に変化したことばを話すのだ。

 変化はしても、生きて使われる言語が残っていくことが大事。
 新しい表現、新しい発音・文法は、どんどん生成していく。

 生まれた子供は新しい母語話者として成長し、新しい話者は、新しい表現者となる。ことばは進化し、新陳代謝をはかって生きていく。

 もしも、次の世代の過半数の日本語母語話者が、親として「現在の世界情勢で経済的に有利な言語となっている英語のほうが、役に立つ。子どもには英語を優先的に身につけさせたほうが、将来のビジネスで有利になり、いい暮しがさせてやれるだろう。そうだ、家の中でも英語で話して、子どもの将来に備えよう」と考えるようになれば、3代のちに、日本語母語話者はいなくなる。
 そのようにして消えていった言語は世界のなかにいくらでもある。

 私たちにできることは、豊かな伝統の中で受け継がれてきた、言語文化の多様な環境を残してやることのみ。
 生きた言葉の生成に立ち会いつつ、私たちは豊かな言語文化を残し、子どもの心にあたえてやらなければならない。

 くるくる変わる教育行政。ゆとりの時間はうまくいかず、学力低下。じゃ、今度は「国語の時間をふやす」そうだけれど、そんな場当たり的な改革で、子どもたちの言語文化環境がよくなるとは思えないのだが。

 守るべきことがあるのだとしたら、言語文化全体を守り、表現の自由を守っていくことだ。心の自由も保障されない社会に「美しいことば」など存在しようもない。
 一方的な価値観のおしつけや、異質なものの排除が続く社会は、病み萎縮していくのみ。言葉は硬直し、豊かな表現を失っていく。

 歌をうたうも歌わぬも、自分の心で決めることができず、どのような声量で歌おうと勝手にすることもできず、「決まったことなんだから従うのが当然」「上からのお達しなんだから、反対は許されない」
 そういう世の中なら、「美しい日本語」というのも、ある一定の解釈一定の価値観を含むことばしか許されなくなり、言葉狩りがはじまるだろう。 

 私たちがアイデンティティを保つために必要な文化の基礎として「言葉」が存在し、人と人が言葉を使って交流(コミュニケート)するために言語表現がある。
 人と人との心のつながりをおろそかにする社会、一方の人々にとって都合のいい表現だけが認められるような社会であるならば、言語文化は貧弱になっていくだろう。

 若い人の発言に対し「こんな言い方はひどい、こんな言葉遣いは困る」と眉をひそめるより、「心の自由を守ることが美しいことばを守ること」になる、と繰り返してきた。
 「美しい響きのことばを大事にしたいなら、心の自由を規制するようなことはさせないでほしい」これだけが、私が言葉について言い続けたことの提要です。<おわり>