2005年10月。僕は故郷福岡の北九州に戻った。
気付けばこのHELLO!!!シリーズも第4回目。
北九州に戻ってから今までの足跡。
その日はもう秋だというのに、とても暑かった記憶がある。
最後に住んでいたのは大阪の箕面というところ。とても静かなところで、都心からは車で30分ほどかかる。
今日引越しだというのに、のん気な僕は朝から夕方までかかり自分の荷物をミニバン車に乗せていた(愛車のACTYで)。大阪を出たのは夜の7時だと思う。
後ろも見えないくらいに詰め込んだ荷物を10時間かけて北九州まで運んだ。
もう、どれくらい北九州で本格的にバスケをしていないだろう。
3年半ぶりに北九州のメンバーが集う、折尾スポーツセンターに行った。
当然ではあるのだが、僕の知っている顔ぶれはほとんどが入れ替わっていた。
知らない人間の中に自分が入って行くことは、これが初めてではない。
大阪レクセンの経験がとても活きた瞬間だったと思う。
とにかく思ったことはこのプレイグラウンドの中で誰よりも笑顔で楽しんでやろうということだけだった。
そういうことを大阪で学んで以来、彼らの温かさとミックスされ、とても自然に入れた気がする。
それから毎週行くたびに、また彼らの優しさに包まれていく感じがした。この時、今のジムに来ているメンバーは本当にバスケを愛している人間なのだと気付かされた。もちろん、いいときもあれば、良くないときもある。彼らはバスケ、そしてメンバー愛するが故に時には争うこともあった。
余談ではあるが、僕は今まで色んなチームの練習に行ったり、観たりしてきたけど、このチーム内の確執は避けては通れない最初の試練であると思う。具体的に述べれば、チーム内の目標設定についてだ。日本のチームに多いことだが、バスケをレクレーションのように楽しむことと、強いチームにし楽しむこと。この2つの対立は避けては通れない。どのチームも必ず乗り越えなければならない壁である。
ほとんどのチームは、ひとつを取り、他を排除しようと考える。時間的にも、労力的にもその方がずっと楽だからだ。
これは、僕が個人的に考えることだが、排除された方はほぼ間違いなくバスケからの引退、もしくはまた時間をかけて同じようなチームを作ろうとする。それは大小に関わらず、例えばJBLとbjリーグ、床バスとストバス。折尾スポーツセンターのメンバー同士。バスケ人口の低下、国力低下をみれば、個人的には好ましくない選択である。
今までも、これからも僕はこういう風に考えたい。
衝突しあう力は、それ自体とてつもないエネルギーを持っている。
一方を排除しては、国力低下つまり世界から日本がどんどん遅れをとることになる。それら2つの爆発的なエネルギーをもっと目先だけではなく、長期的な目で見る必要が絶対にある。日本人にこれから卓越した能力をもつプレイヤーはきっと生まれるだろう。しかし、バスケに関わる人間を失ってはまた今までと同じただのブームで終わってしまう。
今からはそんな時代ではない。
勝利に対する執念はとても必要。だが勝ち負けだけにとらわれていてはそれだけしか考えれない人間だけになってしまう。
レクレーションのようにみんなで笑いあってプレイすることはとても必要。しかし、ただ笑いあっているだけでは勝利を考えることのできない人間だけになってしまう。
日本人が得意とする能力のひとつに、別々の2つのものからミックスし、まったく新しい発想のものを作り出すこと。あんぱんのようにあんことパン、つまり和と洋をミックスするなどだ。この発想の切り替えをできる人間にならなくてはならない。日本人プレイヤーの一人ひとりに気付いて欲しい点だ。
折尾スポーツセンターのメンバーは今、この壁を一段登った感じがする。バスケに対するみなの愛情が導いた答えだ。
余談がとても長くなってしまった。。。続きはまた次回→see you HELLO!!!⑤
気付けばこのHELLO!!!シリーズも第4回目。
北九州に戻ってから今までの足跡。
その日はもう秋だというのに、とても暑かった記憶がある。
最後に住んでいたのは大阪の箕面というところ。とても静かなところで、都心からは車で30分ほどかかる。
今日引越しだというのに、のん気な僕は朝から夕方までかかり自分の荷物をミニバン車に乗せていた(愛車のACTYで)。大阪を出たのは夜の7時だと思う。
後ろも見えないくらいに詰め込んだ荷物を10時間かけて北九州まで運んだ。
もう、どれくらい北九州で本格的にバスケをしていないだろう。
3年半ぶりに北九州のメンバーが集う、折尾スポーツセンターに行った。
当然ではあるのだが、僕の知っている顔ぶれはほとんどが入れ替わっていた。
知らない人間の中に自分が入って行くことは、これが初めてではない。
大阪レクセンの経験がとても活きた瞬間だったと思う。
とにかく思ったことはこのプレイグラウンドの中で誰よりも笑顔で楽しんでやろうということだけだった。
そういうことを大阪で学んで以来、彼らの温かさとミックスされ、とても自然に入れた気がする。
それから毎週行くたびに、また彼らの優しさに包まれていく感じがした。この時、今のジムに来ているメンバーは本当にバスケを愛している人間なのだと気付かされた。もちろん、いいときもあれば、良くないときもある。彼らはバスケ、そしてメンバー愛するが故に時には争うこともあった。
余談ではあるが、僕は今まで色んなチームの練習に行ったり、観たりしてきたけど、このチーム内の確執は避けては通れない最初の試練であると思う。具体的に述べれば、チーム内の目標設定についてだ。日本のチームに多いことだが、バスケをレクレーションのように楽しむことと、強いチームにし楽しむこと。この2つの対立は避けては通れない。どのチームも必ず乗り越えなければならない壁である。
ほとんどのチームは、ひとつを取り、他を排除しようと考える。時間的にも、労力的にもその方がずっと楽だからだ。
これは、僕が個人的に考えることだが、排除された方はほぼ間違いなくバスケからの引退、もしくはまた時間をかけて同じようなチームを作ろうとする。それは大小に関わらず、例えばJBLとbjリーグ、床バスとストバス。折尾スポーツセンターのメンバー同士。バスケ人口の低下、国力低下をみれば、個人的には好ましくない選択である。
今までも、これからも僕はこういう風に考えたい。
衝突しあう力は、それ自体とてつもないエネルギーを持っている。
一方を排除しては、国力低下つまり世界から日本がどんどん遅れをとることになる。それら2つの爆発的なエネルギーをもっと目先だけではなく、長期的な目で見る必要が絶対にある。日本人にこれから卓越した能力をもつプレイヤーはきっと生まれるだろう。しかし、バスケに関わる人間を失ってはまた今までと同じただのブームで終わってしまう。
今からはそんな時代ではない。
勝利に対する執念はとても必要。だが勝ち負けだけにとらわれていてはそれだけしか考えれない人間だけになってしまう。
レクレーションのようにみんなで笑いあってプレイすることはとても必要。しかし、ただ笑いあっているだけでは勝利を考えることのできない人間だけになってしまう。
日本人が得意とする能力のひとつに、別々の2つのものからミックスし、まったく新しい発想のものを作り出すこと。あんぱんのようにあんことパン、つまり和と洋をミックスするなどだ。この発想の切り替えをできる人間にならなくてはならない。日本人プレイヤーの一人ひとりに気付いて欲しい点だ。
折尾スポーツセンターのメンバーは今、この壁を一段登った感じがする。バスケに対するみなの愛情が導いた答えだ。
余談がとても長くなってしまった。。。続きはまた次回→see you HELLO!!!⑤
19歳から大阪で一人暮らしをしていた3年半。今思うと怒涛のように過ぎていった、貴重な日々だった。
大阪に来て一番最初に思ったのは、バスケをする環境の無かったってこと。
福岡では公園なんかで目にするけど、そこにはほとんどなかった。
やっと見つけたストリートコートは家からバイクで30分程かかり、毎日できるようなところではなかった。
学生だったころの3年間は、人生で最もバスケから遠ざかっていた日々だったと思う。実際、プレイすること自体やめようとも思っていたし、バスケに関するものすべてを押入れにしまい込んでいた。時々、気晴らし程度にシューティングをすることがあっても前ほどの情熱を描くことはできなかった。
そんな生活を送って、2年程たったときとあるスポーツ店で1本のビデオテープを購入した。AND1 Mix Tapeである。AND1の存在は知っていたが、初めはそこに何の魅力も感じることはできなかった。こんなんバスケじゃないやん。それまではずっとその考えが払拭できなかった。
家に帰ってテープを観た瞬間、衝撃が走った。一番最初に印象が深かったのがHot Sauce。こんなことがボールでできるのかと、カラダに電流が流れるようにインパクトを与えた。衝動。 彼らを知っていくたびに、日本のバスケに足りないものはこういうものだ!と思うようになった。
AND1を知るまで、自分もいつしか日本バスケに染まっていたんだな~と思う。
JETSでも述べたが、日本に足りないもの。それはスターによる衝動。 一瞬席を立ってしまうくらいのもの。 日本はチーム先行型になってしまいやすく、個人技による衝動は起きにくい。
それまで、ゴールがないとバスケできないと思っていた自分が去っていった。
地面とボールがあればバスケはできるのだ。バスケをしない理由にゴールがないというのはあまりにも程度の低い考えである。
それからはテープを何度も何度も見て、観て、診てボールハンドリングからきっちりするようになった。
こういった新しい発見をするときに、ドキッ!っとする感覚。僕は【初期衝動】と呼んでいるが、この感覚に陥ったとき自分は最大の成長をしていると思う。
バスケットに関して言えば、バスケを始めた時、マイケルを初めて観た時、そして今回のテープを観た時。
僕はこの【初期衝動】をみんなと共感したくてJETSという団体を立ち上げた。
【初期衝動】は人間の心を青春に変えていく唯一のモノだと信じている。ドキッ!っとする感覚を失ってしまったとき、青春の終わりなんだと思う。
自分にはまだバスケでやり残したことがあるとすぐに実感することができた。
学生の3年が過ぎたころ、ネットサーフィンをしていると大阪市が運営しているバスケクラブがあることがわかった。
すぐさま連絡をとりエントリーした。練習当日。少しの緊張感と期待感でココロは埋め尽くされていた。大阪では初となる床バスケ。嬉しすぎた。
練習前にトイレに行った。そこで生涯わすれることが無いだろうという、運命。
宿命的な出逢いをすることになる。現STINKSキャプテンのTAKAにチームに誘われたのだ。今になってわかったのだが、彼は僕を見た瞬間に勧誘の機会を伺っていたそうだ。それでトイレに行ったときを狙ってTAKAが隣にやってきた。初対面の人間と交わす言葉がトイレだったというのはおかしなはなしである。
彼はいきなり「年いくつ?」とたずね、「23デス。」と答えると、「ほなうちのチームに入ってや。決定な。」と、「うん」という隙を与えないくらいの大阪弁で口撃してきた。そのとき思った印象は決していいものではなかった。「あいさつも無しでいきなり勧誘するとは大阪のバスケマンはどうなってるんだ!」って。
今思えば、彼はとてもシャイな男で僕に話しかけるときはかなり勇気がいったんだと理解できる。TAKAは俺と同じくらいバスケが好きで、ナルシストでロマンティックな男だった。僕もこんなに自分と似た人間に会うのは生まれて初めてだった。面白いことに性格はまったく反対だが、情熱とか考え方が妙にシンクロするのだ。
STINKSに入って大きな転換期を迎えたのだと今は思う。毎週火曜日がたまらなく待ち遠しかった。STINKSには、TAKAを始めとても個性的なメンバーばかりがそろっていた。STINKSの大御所No.15は己のバスケ道を極めようと日々進化をするプレイヤーで教養人だ。バスケ道というコトバも最初は彼から聞いたと思う。自分の信じる道を見据え進んでゆく。他人と競争することはとても重要だけど、もっと重要なことは己に勝つこと。このコトバでは伝えられないことを彼はプレイでそのことはみんなに伝えてくれる。
STINKSには、遠い異国の地より舞い降りた一人の戦士もいた。彼は台湾からの留学生で、とても純粋な魂をもつ珍しい人間だった。彼とはほぼ同時期にSTINKSに入り、いろんな事を話すようになった。海外への憧れが強くもう何年かで旅立とうとしている僕には彼はとても貴重な存在となっていた。彼から一番大きなものをもらった。それは新しいことに挑戦することの勇気だ。彼はまったく日本語を理解していない状態で来日し、今となっては日常会話ではほとんど問題ないレベルに達している。その間僅か1年。本当に彼には感謝。
STINKSが僕のバスケ道に与えてくれたモノは最高の宝である。
僕がSTINKSに入って大阪を離れるまでの半年間。この半年のために僕は大阪にきたんだといまは理解できる。帰郷の際、TAKAが僕に送ってくれたメッセージがある。
『そのStyleからは
想像も出来ない
その繊細なタッチは
どんなものを持ってしても
触れることはできなかった。
ヤツがZoneに入れば
Hoopもヤツのいいなり。
その魂を
受け入れるしかない。
TAKA
』
大阪に来て一番最初に思ったのは、バスケをする環境の無かったってこと。
福岡では公園なんかで目にするけど、そこにはほとんどなかった。
やっと見つけたストリートコートは家からバイクで30分程かかり、毎日できるようなところではなかった。
学生だったころの3年間は、人生で最もバスケから遠ざかっていた日々だったと思う。実際、プレイすること自体やめようとも思っていたし、バスケに関するものすべてを押入れにしまい込んでいた。時々、気晴らし程度にシューティングをすることがあっても前ほどの情熱を描くことはできなかった。
そんな生活を送って、2年程たったときとあるスポーツ店で1本のビデオテープを購入した。AND1 Mix Tapeである。AND1の存在は知っていたが、初めはそこに何の魅力も感じることはできなかった。こんなんバスケじゃないやん。それまではずっとその考えが払拭できなかった。
家に帰ってテープを観た瞬間、衝撃が走った。一番最初に印象が深かったのがHot Sauce。こんなことがボールでできるのかと、カラダに電流が流れるようにインパクトを与えた。衝動。 彼らを知っていくたびに、日本のバスケに足りないものはこういうものだ!と思うようになった。
AND1を知るまで、自分もいつしか日本バスケに染まっていたんだな~と思う。
JETSでも述べたが、日本に足りないもの。それはスターによる衝動。 一瞬席を立ってしまうくらいのもの。 日本はチーム先行型になってしまいやすく、個人技による衝動は起きにくい。
それまで、ゴールがないとバスケできないと思っていた自分が去っていった。
地面とボールがあればバスケはできるのだ。バスケをしない理由にゴールがないというのはあまりにも程度の低い考えである。
それからはテープを何度も何度も見て、観て、診てボールハンドリングからきっちりするようになった。
こういった新しい発見をするときに、ドキッ!っとする感覚。僕は【初期衝動】と呼んでいるが、この感覚に陥ったとき自分は最大の成長をしていると思う。
バスケットに関して言えば、バスケを始めた時、マイケルを初めて観た時、そして今回のテープを観た時。
僕はこの【初期衝動】をみんなと共感したくてJETSという団体を立ち上げた。
【初期衝動】は人間の心を青春に変えていく唯一のモノだと信じている。ドキッ!っとする感覚を失ってしまったとき、青春の終わりなんだと思う。
自分にはまだバスケでやり残したことがあるとすぐに実感することができた。
学生の3年が過ぎたころ、ネットサーフィンをしていると大阪市が運営しているバスケクラブがあることがわかった。
すぐさま連絡をとりエントリーした。練習当日。少しの緊張感と期待感でココロは埋め尽くされていた。大阪では初となる床バスケ。嬉しすぎた。
練習前にトイレに行った。そこで生涯わすれることが無いだろうという、運命。
宿命的な出逢いをすることになる。現STINKSキャプテンのTAKAにチームに誘われたのだ。今になってわかったのだが、彼は僕を見た瞬間に勧誘の機会を伺っていたそうだ。それでトイレに行ったときを狙ってTAKAが隣にやってきた。初対面の人間と交わす言葉がトイレだったというのはおかしなはなしである。
彼はいきなり「年いくつ?」とたずね、「23デス。」と答えると、「ほなうちのチームに入ってや。決定な。」と、「うん」という隙を与えないくらいの大阪弁で口撃してきた。そのとき思った印象は決していいものではなかった。「あいさつも無しでいきなり勧誘するとは大阪のバスケマンはどうなってるんだ!」って。
今思えば、彼はとてもシャイな男で僕に話しかけるときはかなり勇気がいったんだと理解できる。TAKAは俺と同じくらいバスケが好きで、ナルシストでロマンティックな男だった。僕もこんなに自分と似た人間に会うのは生まれて初めてだった。面白いことに性格はまったく反対だが、情熱とか考え方が妙にシンクロするのだ。
STINKSに入って大きな転換期を迎えたのだと今は思う。毎週火曜日がたまらなく待ち遠しかった。STINKSには、TAKAを始めとても個性的なメンバーばかりがそろっていた。STINKSの大御所No.15は己のバスケ道を極めようと日々進化をするプレイヤーで教養人だ。バスケ道というコトバも最初は彼から聞いたと思う。自分の信じる道を見据え進んでゆく。他人と競争することはとても重要だけど、もっと重要なことは己に勝つこと。このコトバでは伝えられないことを彼はプレイでそのことはみんなに伝えてくれる。
STINKSには、遠い異国の地より舞い降りた一人の戦士もいた。彼は台湾からの留学生で、とても純粋な魂をもつ珍しい人間だった。彼とはほぼ同時期にSTINKSに入り、いろんな事を話すようになった。海外への憧れが強くもう何年かで旅立とうとしている僕には彼はとても貴重な存在となっていた。彼から一番大きなものをもらった。それは新しいことに挑戦することの勇気だ。彼はまったく日本語を理解していない状態で来日し、今となっては日常会話ではほとんど問題ないレベルに達している。その間僅か1年。本当に彼には感謝。
STINKSが僕のバスケ道に与えてくれたモノは最高の宝である。
僕がSTINKSに入って大阪を離れるまでの半年間。この半年のために僕は大阪にきたんだといまは理解できる。帰郷の際、TAKAが僕に送ってくれたメッセージがある。
『そのStyleからは
想像も出来ない
その繊細なタッチは
どんなものを持ってしても
触れることはできなかった。
ヤツがZoneに入れば
Hoopもヤツのいいなり。
その魂を
受け入れるしかない。
TAKA
』
バスケをはじめて2年後、俺は中学にあがった。俺の通った中学にはバスケ部はなく、すべてをゼロからスタートさせなくてはならなかった。小学時代に一緒にバスケをやっていたメンバーはみな他の中学にいってバスケ部に入っていた。
今思うと、この時に部活バスケを経験しなかったことが結果、俺のバスケスタイルを確立させた。日本の部活バスケは昔ながらの考えが未だにはびこっている環境が多い。いわゆるスポ根だ。プレイも監督の幅でしかできない。決められたバスケ。そこではエゴが育ちにくく、チームプレイが最優先される。実際、中学、高校を卒業してバスケを引退してしまうプレイヤーは最も多い。エゴがないからだ。自分のスタイルの確立がないため、次のステップを模索できない。俺とは違う学校に行った小学校のメンバーは誰一人としてプレイしていない。これが現状だった。
中学に入った俺はすぐにスプリントの道を目指した。渡された部活願書に陸上と書いて1番に顧問のところに持っていった。部活がないと嘆くより、自分が今何をするべきか幼いながらにも判断していた。その頃にはもう昔のようなネガティブな俺はいなかった。陸上に入ることにより咲き始めた自分の身体能力に磨きをかけたかったのだ。それが自分のバスケ道に必要だと確信していた。
100mはもちろん、幅跳び、高飛び、三段、砲丸。とにかく色んなものを試した。その中学校は、陸上ではかなり有名な学校だった。練習は半端なく中学生にとっては異常なくらい練習した。でも、指導もよかったのか1年ほどで爆発的に成長した。学年で足の速さはトップになっていたし、100m、三段では区大会、県大会で入賞できるほどになっていた。学年があがると同時に俺はスプリントを辞めた。バスケをしたくてたまらない連中と同好会を結成した。部活にするために署名活動や色んなことをしたがそれはかなわなかった。それから俺は同好会のメンバーと毎日ストリートでプレイするようになった。たまに当時のメンバーと話すのだが、誰もが口をそろえて最高に楽しかったという。学校終わるとすぐにそのコートに行った。家に帰る時間がもったいなくて、毎日ボールを学校に持っていった。コートには約束もしていないのにぞろぞろとメンバーが集まってくる。バスケが好きな連中だった。勉強はできないけど、バスケに関しては俺が一番ってやつばかりだった。純粋にプレイした。それぞれが自分のスタイルを持ち、それを極めようと必死だった。学校をまじめに行ってないメンバーも朝連には参加していた。この頃がなければ自分が今バスケをやっていたかはわからない。本当に貴重な時だった。
JETSバスケットボール協会という組織を結成しようとそのとき漠然と思うようになったのはこの頃。JETS結成の意は、僕らのようにバスケがしたくてたまらないのにするところがない。そんなやり場のないプレイヤーに環境を作ってあげたい。それが目的だ。 中学時代はそんな感じで過ぎていった。バスケ道の起爆になった大切な時期だった。
今思うと、この時に部活バスケを経験しなかったことが結果、俺のバスケスタイルを確立させた。日本の部活バスケは昔ながらの考えが未だにはびこっている環境が多い。いわゆるスポ根だ。プレイも監督の幅でしかできない。決められたバスケ。そこではエゴが育ちにくく、チームプレイが最優先される。実際、中学、高校を卒業してバスケを引退してしまうプレイヤーは最も多い。エゴがないからだ。自分のスタイルの確立がないため、次のステップを模索できない。俺とは違う学校に行った小学校のメンバーは誰一人としてプレイしていない。これが現状だった。
中学に入った俺はすぐにスプリントの道を目指した。渡された部活願書に陸上と書いて1番に顧問のところに持っていった。部活がないと嘆くより、自分が今何をするべきか幼いながらにも判断していた。その頃にはもう昔のようなネガティブな俺はいなかった。陸上に入ることにより咲き始めた自分の身体能力に磨きをかけたかったのだ。それが自分のバスケ道に必要だと確信していた。
100mはもちろん、幅跳び、高飛び、三段、砲丸。とにかく色んなものを試した。その中学校は、陸上ではかなり有名な学校だった。練習は半端なく中学生にとっては異常なくらい練習した。でも、指導もよかったのか1年ほどで爆発的に成長した。学年で足の速さはトップになっていたし、100m、三段では区大会、県大会で入賞できるほどになっていた。学年があがると同時に俺はスプリントを辞めた。バスケをしたくてたまらない連中と同好会を結成した。部活にするために署名活動や色んなことをしたがそれはかなわなかった。それから俺は同好会のメンバーと毎日ストリートでプレイするようになった。たまに当時のメンバーと話すのだが、誰もが口をそろえて最高に楽しかったという。学校終わるとすぐにそのコートに行った。家に帰る時間がもったいなくて、毎日ボールを学校に持っていった。コートには約束もしていないのにぞろぞろとメンバーが集まってくる。バスケが好きな連中だった。勉強はできないけど、バスケに関しては俺が一番ってやつばかりだった。純粋にプレイした。それぞれが自分のスタイルを持ち、それを極めようと必死だった。学校をまじめに行ってないメンバーも朝連には参加していた。この頃がなければ自分が今バスケをやっていたかはわからない。本当に貴重な時だった。
JETSバスケットボール協会という組織を結成しようとそのとき漠然と思うようになったのはこの頃。JETS結成の意は、僕らのようにバスケがしたくてたまらないのにするところがない。そんなやり場のないプレイヤーに環境を作ってあげたい。それが目的だ。 中学時代はそんな感じで過ぎていった。バスケ道の起爆になった大切な時期だった。
小学校5年生。なんだかよくわかんねぇけど、俺にとってすっげ~ターニングポイントだった。小学①のときは宇宙飛行士になりたいと思ってた(今ももしいけるんだったらって思うけど)。んで、小③からは将来は将棋で飯を食うだろうっと考えていた。 色んなことに触れる、刺激を受ける→変化、進化するんやろうな。 小⑤からうちの学校ではクラブってもんに強制的に入らされてた。帰宅部ってもんはないしね。。。第一志望もち【将棋クラブ】第二、洗濯糊でつくるスライムに異常なほどはまってて【科学クラブ】第三、ぜってぇなんないでしょって思いつつ誘われて【バスケクラブ】。将棋、人数が足んないので廃部。科学、人数が多すぎて小⑥優先で入れず。。んでもってバスケクラブに入らされた。あん時はホント運動するのが超にがってで嫌だった。リレーでダントツに渡されたバトンを持って全力疾走!!こけもせんのにビリ↓↓いまだに逆上がりできない。二重とびできない。マット運動できない。。。絵に描いたようないじめの対象だったな~。デケーけど、無口で運動できない。 ほんま、あんとき声かけてきた友人サンキュウ。
ほいで、流されるまんまに入ったバスケクラブ。初めの数回はボールもつけへんようなへたれやったな。それから何度か経験するたびに他の奴より背がでかかったから自然とボールが集まるようになってきた。ゴール下でもらってショット。今思えばなんでもないシュートなんだけど、ネガティブボーイを調子に乗らすにはちょうどよかった。決まるたびにコートサイドから声が聞こえる。生まれて初めて競争社会の中で褒められた気がした。近所のおばちゃんにおっきくなったね~って褒められることはあっても(そんなん勝手にのびるんや~)、同年代はそのときが初だった。 やっぱ褒めることが最大の教育なんかもしれへんな。それからほぼ毎日学校終わったらコートにいくようになった。やればやるほど3倍くらい自分に返ってきたそれから自分のなかで変化が起きるようになった。運動能力がありえんくらいに伸びだした。足も速くなったし、運動会では紅白にもでた。小体連でもメダルも取れた。相撲部副将になった。小⑥になったときにはいつも仲間の後ろをテクテクあるいちょったのに、そのころは自分の後ろに仲間がついてくるようになった。いじめもなくなった。自信が僕を変えた。きっとそれだけだったし、それで十分だった。人は絶対変われる。恐怖心や守るもの、実はそんなに障害ではないんだ。実際、裸で生まれて裸で死んでゆくのだから。一番の障害は変われるチャンスに気づかないこと、気づいても活かせないこと。自分のウェブが小さいと引っかけることができない。ウェブをでかくするのは、感性を高めること。感性を高めるには否定しないこと。特に若い時期には否定なんて必要ないんだと思う。今の時期に物事のいい悪いなんて判断できる人間てほとんどいないのだから。いいも悪いもとりあえず自分のハードディスクに入れ込んで後でソフトにデータを焼いていけばいいのだから。色んな体験や、人の話。否定した瞬間にすべての情報がせき止められる。今は感性を高める。そうすればウェブは広がるし、無限にあるチャンスや可能性をゲットできる。人生は瞬きするように過ぎていく。限られた時間のなかで自分をどれだけ高められるか。生きるのっておもろいやないかい!チッチキチー!!!
俺のバスケはそんな感じで始まった。
ほいで、流されるまんまに入ったバスケクラブ。初めの数回はボールもつけへんようなへたれやったな。それから何度か経験するたびに他の奴より背がでかかったから自然とボールが集まるようになってきた。ゴール下でもらってショット。今思えばなんでもないシュートなんだけど、ネガティブボーイを調子に乗らすにはちょうどよかった。決まるたびにコートサイドから声が聞こえる。生まれて初めて競争社会の中で褒められた気がした。近所のおばちゃんにおっきくなったね~って褒められることはあっても(そんなん勝手にのびるんや~)、同年代はそのときが初だった。 やっぱ褒めることが最大の教育なんかもしれへんな。それからほぼ毎日学校終わったらコートにいくようになった。やればやるほど3倍くらい自分に返ってきたそれから自分のなかで変化が起きるようになった。運動能力がありえんくらいに伸びだした。足も速くなったし、運動会では紅白にもでた。小体連でもメダルも取れた。相撲部副将になった。小⑥になったときにはいつも仲間の後ろをテクテクあるいちょったのに、そのころは自分の後ろに仲間がついてくるようになった。いじめもなくなった。自信が僕を変えた。きっとそれだけだったし、それで十分だった。人は絶対変われる。恐怖心や守るもの、実はそんなに障害ではないんだ。実際、裸で生まれて裸で死んでゆくのだから。一番の障害は変われるチャンスに気づかないこと、気づいても活かせないこと。自分のウェブが小さいと引っかけることができない。ウェブをでかくするのは、感性を高めること。感性を高めるには否定しないこと。特に若い時期には否定なんて必要ないんだと思う。今の時期に物事のいい悪いなんて判断できる人間てほとんどいないのだから。いいも悪いもとりあえず自分のハードディスクに入れ込んで後でソフトにデータを焼いていけばいいのだから。色んな体験や、人の話。否定した瞬間にすべての情報がせき止められる。今は感性を高める。そうすればウェブは広がるし、無限にあるチャンスや可能性をゲットできる。人生は瞬きするように過ぎていく。限られた時間のなかで自分をどれだけ高められるか。生きるのっておもろいやないかい!チッチキチー!!!
俺のバスケはそんな感じで始まった。