一条天皇さまには、大変申し訳ない事を致しました、順番から行くと花山天皇の次だったのに失礼しました
以前のブログで〈「宇多天皇陵」と「後朱雀・後冷泉・後三条」のトリプル陵〉お伝えしましたが・・・
宇多天皇陵から〈仁和寺から龍安寺への山越え〉山を越えて五つの御陵を巡りました・・以前と重なりますが
仁和寺の裏山を登り、第一の目標「宇多天皇・大内山陵」を参拝した後、竜安寺への山越えです
宇多天皇陵へ行く時に参道で見つけた「一条天皇陵・堀河天皇陵」への道しるべこれを信じて
天皇陵かと思ったら「円融天皇の火葬塚」だったんです、気を取り直して・・・いざ出発
こんな山の中に立派な石垣や、石畳が続きました
あれ、前方に視界が開けた感じが・・・ ひょっとして、天皇陵では??それにしても素晴らしい光景
やっぱりここが、一条天皇と堀河天皇のダブル陵だったんです
一条天皇【円融寺北陵】〈えんゆうじのきたのみささぎ〉と
堀河天皇【後円教寺陵】〈のちのえんきょうじのみささぎ〉でした
一つの拝所に二人の天皇が・・・右側に一条天皇【円融寺北陵】、左側に堀河天皇【後円教寺陵】
一条天皇は、円融天皇の第一皇子で、藤原兼家の娘で女御の詮子を母として天元3年〈980〉に誕生、五歳で立太子
まさに藤原氏の全盛期とされたこの時代、天皇はお飾り者に過ぎなかった、と云ってよい
一条天皇も朝政に関与出来ないまま寛弘八年〈1011〉譲位して出家、そして同年32歳で崩御された
一条天皇の時代、平安時代中期は「紫式部」や「清少納言」が活躍した時代です
清少納言は一条天皇の皇后〈藤原定子〉に仕えていた女官です
因みに紫式部は藤原道長の娘、中宮・藤原彰子の女官でした、彰子には他に和泉式部や赤染衛門などが仕えていた
定子と彰子の二人は熾烈なライバル関係にあったが、彰子が三条天皇との実子、後一条天皇・後朱雀天皇が即位し国母となった
堀河天皇は白河天皇の第二皇子で、応徳三年〈1086〉11月に立太子、即日、父白河天皇から譲位され、僅か八歳で即位する
堀河天皇は、大変誉れ高き天皇であって、天下の政にも熱心に取り組んだが、白河院政の強化に伴い次第に薄らいでいく
後年は笛や笙を奏でるなど風流の道を歩んだ
天皇の誠実な人柄は、摂関家をはじめ貴族らの間でも大いなる人望を集め、嘉承二年〈1107〉二十九歳で崩御されている
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