松凬からくり帖

松凬さんが73年の人生と吟道50年からの体験や、これから起こるであろう!未体験談を写真と共にお届け!

第121代【孝明天皇】は暗殺されたのか??

2018-05-09 18:09:41 | 日記

仁孝天皇の第四皇子として天保二年〈1831〉に生誕される 。

父・仁孝天皇の崩御に伴い、弘化三年〈1846〉に即位される。

この7年後の嘉永六年〈1853〉にペリー提督が黒船4隻で浦賀へ入港

この様に、天皇の治世はまさに幕末の動乱期にあたっていました。

     

それまで政治の外にあった朝廷がにわかに政治の表舞台に登場する事に。

幕藩体制の内部崩壊と外圧に伴う国難に直面して、江戸幕府は

統治能力を著しく低下させ、その権威は大きく失墜していった

これとは対照的に、国難に立ち向かうことを強く求められたのが・・

孝明天皇だったのです。即位後数年して外国船が頻繁に来航し開国を迫る

この様に孝明天皇は、幕末の勤王・佐幕・開国・攘夷の世情に翻弄されます

天皇自身は、外国の勢力が日本に入ることに対し、恐怖心と敵愾心を持っていた。

ペリーの初来航の時、自ら神社に国家の安泰を祈るだけでなく祈祷まで

天皇は一貫して、尊王攘夷を唱えましたが、薩長よる倒幕には反感を持ち、

幕府による統治を認め、皇室が幕府の上にあって統治する国体を想定していた。

あの有名な、異母妹の【和宮】降嫁も、その方策の一つだったのです。

しかしながら、岩倉具視ら倒幕急進派の公家に、天皇は邪魔な存在だった。

ここで、孝明天皇毒殺説が浮かび上がってくるのです

慶応2年〈1867〉12月5日、孝明天皇は徳川慶喜に第15代将軍を宣下します

しかしその一週間後に天皇は疱瘡を発病し、12月25日には容態が急変し崩御

この急な展開に、天皇毒殺説の根拠があるそうなんです。

天皇に仕える女官に岩倉具視の実妹がおりました

この妹の「紀子」に猛毒を託し、天皇を毒殺したと疑われているのです

この噂に尾ひれがついて・・・明治天皇の替え玉説まで飛び出します

大変に遅くなりましたが・・・孝明天皇の【後月輪東山陵】へご案内します

先ずは・・御寺泉涌寺の門をくぐります・長い参道を行くとこの様な表示が

 

泉涌寺の立派な伽藍を右に見て 少し行くと、一本道が奥へと続きます

 

 

更に、少し緩やかな坂道を進んでいくと 後堀河天皇の制札が出てまいります・・ 更に

 

この写真から、さらにもう一曲がりすると  やっと孝明天皇の 【後月輪東山陵】に

【後月輪東山陵】〈のちのつきのわのひがしのみささぎ〉の拝所です

制札には、孝明天皇と正紀の英照皇太后の御陵であることを示していました

一般的な?御陵と違って、古墳になっていて・・厳かな雰囲気の御陵でした

 

 

 

 


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