〖驕る平家も久しからず〗、と云われた時代の悲運の天皇二人
二条天皇の第二皇子であった順仁親王は僅か二歳で即位【六条天皇】となる。
この時代、後白河上皇〈法皇〉と平清盛に操られた時代
陽成天皇を始めとして、朱雀、後一条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、・・・
この間軒並み、幼少の天子が続き、天皇の親政は望めず、院政が100年以上続く
六条天皇が二歳で即位、現在の満年齢でいうと9か月の赤ん坊である、益して五歳で退位する
もちろん天皇自身は分からぬまま、そして譲位を受けて即位するのが
第80代【高倉天皇】であり、まだ僅か八歳であった。
このお二人、崩御されるのも早く、六条天皇13歳、高倉天皇21歳であった
特に【高倉天皇】は平清盛の娘〈徳子〉を中宮としている・・・後の建礼門院
この二人には壇ノ浦で亡くなった、安徳天皇が第一皇子として誕生している
もう一つ・・・高倉天皇と云えば、詩吟を志しているものには【小督の局】は欠かせない
【小督の局】は、高倉天皇の皇后〈徳子〉が天皇の傍にと出仕させたと云われています
高倉天皇は大変に気に入り、一時も離さなかった、しかし清盛入道の知るところとなり
小督は身の危険を感じて嵯峨野に身を隠します、天皇は「仲国」を小督探索に・・・
小督は琴の名手、方や!仲国は笛の名手・・・嵯峨野の渡月橋の畔で素晴らしい琴の音が
思わず「仲国」は笛を吹きながら、琴の音のする館へ・・・
黒田節の二番に〈峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か・・・〉とあります
小督の住む館へと入って行く「仲国」と、館で琴を奏でる「小督」
一度は天皇のもとへと戻りますが、結局「清盛」の逆鱗に触れ「清閑寺」へと・・・
高倉天皇は自分が無くなった時には、小督の墓の傍へと言い残したと伝わっています
清閑寺で亡くなった【六条天皇】と共に、ダブル御陵として清閑寺から見下ろす土地に
拝所からは鉄の門が閉ざされていて墓所を見上げるだけです
制札には六條天皇【清閑寺陵】〈せいかんじのみささぎ〉と高倉天皇【後清閑寺陵】〈のちのさいかんじのみささぎ〉と
拝所の前に石段が、上の塀の奥が墓所になっている
ここ拝所の前から更に右へと昇ると清閑寺があります
上に門が見えてきました・・ 清閑寺の入り口です
小督が此処で剃髪をしたそうです
謡曲の「小督」と清閑寺の謂れが・・・
清閑寺から下を見ると御陵の拝所と制札が見えます
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清閑寺への中腹からの撮影です、ここからでも墓所は窺えません・・・奥は森のようです
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