鈴木頌の「なんでも年表」

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出村文理 「マンロー書誌」 要綱 その2

2021-03-17 17:12:27 | マンロー

昨日1日をかけた「要綱 その2」が跡形もなく消えた。
賽の河原にもう一度石を積む羽目になった。
まぁ、関東大震災と二風谷の家の火災で二度にわたってすべてを失ったマンローに比べれば、このくらいのことはなんともない。
しかし長寿であったマンローの享年に、私もいよいよ迫ろうとしている。残りの人生が少ないということも、脳の老化が確実に進行しているということも、しみじみと実感している。
とりあえず、準備ノートを再度上げておく。明日以降、順次整理していくことにする。

 

* 軽井沢時代 (1923ー1931)


当時首都圏で活動していた在日欧米人集団は、軽井沢を共通の避暑地としていた。この頃人々は社団を結成し、軽井沢に夏季限定のクリニック兼サナトリウムを設立することとした。

専任医師にはマンローが選ばれた。22年には建物の建設が開始された。

その矢先に起きたのが23年関東大震災であった。当時軽井沢勤務中だったマンローは直ちに横浜に帰り、救急・救護を開始した。

彼は医療救急団の一員として十二月まで横浜に滞在し、罹災者の医療救済をつづけた。

しかし震災により横浜の自宅は焼失し、来日以降収集した写真類を含む研究資料と蔵書約3千冊が失われた。

24年、マンロー夫妻は軽井沢に転居した。そして社団と賃貸契約を結び、夏以外も通年で診療を行うこととなった。婦長には神戸の外人病院の婦長をしていた木村チヨを招請した。

マンローは当時、日本で猖獗を極めた結核の治療と予防に取り組み、日光浴治療を試みた。またフロイド譲りの精神分析学に傾注した。

サナトリウムは夏季は軽井沢避暑社団の経営で、夏季以外はマンローの個人経営であった。サナトリウムの経営は赤字状態が続き、マンローの経済生活は不安定となった。さらにアデール夫人の実家である横浜の時計商も倒産し、アデール夫人の精神状態は不安定となった。

 

 

* セリグマン教授がマンローの研究を支援

1929(昭和4)年秋、ロンドン大学のセリグマン教授夫妻が日本と中国の視察のため来日した。セリグマンはスリランカの社会組織「ヴ=ダ」の発見者で、当時は王立人類学研究所長の職にあった。妻も同じく民族学者であり、後にマンローの遺稿を整理し出版にまでこぎつけたのは彼女の功績である。

セリグマンはマンローのアイヌ研究に強い興味を示し、軽井沢にまで赴いてマンローと懇談した。マンローとの面会実現に尽力したのは英国大使館に勤務するG・サンソンであった。サンソンは『日本文化史』を発表するほどの知日派であり、日本アジア協会の副会長を勤めていた。セリグマンの大学時代以来の親友でもあった。

懇談の席上、マンローは研究計画を説明し資金不足を訴えた。これを聞いたセリグマンは資金助成を約束した。


帰国後、同教授は米国ロックフ=ラー財団に資金助成を申請して翌年にその交付が実現した。翌年5月、マンローは王立人類学研究所の地方通信員に発令された。一介のアマチュアとしては破格の待遇と言えるだろう。


 

* 二風谷の時代(1932ー1942)



1. アイヌ文化記録映画製作


セリグマンを通じた資金援助によって、マンローは道内に定着してアイヌ文化研究を進めることが可

能となった。

釧路の阿部寛次からは市内春採への居住を進められたが、アイヌ古老が多く住む日高をフィールドとすることを希望した。静内町と平取町二風谷が候補地に浮上したが、故郷スコットランドの景観に似ている二風谷を対象地に定めた。

二風谷における最初のアイヌ文化研究は、記録映画「熊まつり」の製作だった。1930(昭和5)年秋から準備を開始し、12月に撮影が実行された。
地元関係者の全面的協力を得て、貝澤シランペノ宅において撮影が行われ、京都太秦から呼び寄せた撮影技師が担当した。
翌33年には、「ウェボタラ(悪魔払い)」及び「チセイノミ(新築祝い)」の二本を製作した。当時、二風谷には電灯がなく、自宅前庭にチセ(アイヌ家屋)の屋根半分のオープンセットを設置した。

これらのマンローによる記録映画は、アイヌ文化研究の本格的な映像化であり、貴重なものとなっている。映画は戦後に編集され上映可能となった。また、英国・王立人類学研究所に送付したフィルムはビディオテープ化され、現在、英国内で教育用として発売されている。


2.邸宅の建設

二風谷定住を決意したマンローは、1931年7月に貝澤シラ一ノ所有地の一部を購入した。購入地は北海道庁の認可を得てマンロー名義となった。

31年秋に二風谷にやってきたマンローは、自宅完成までの間、和人商人の家を借り受け仮寓とした。軽井沢サナトリウ厶の看護婦長の木村チヨがともに来道。看護婦業務、通訳、研究補助を兼ねて同居することとなった。二人は6年後に正式に入籍し夫婦となっている。


32年の12月16日午前0時頃、仮寓が火災となり隣接する倉庫もふくめ全焼した。マンロー持参の研究資料と蔵書約約千5百冊が灰燼に帰した。マンローは放火を主張したが、ストーブの煙突からの失火説もあり、警察は不審火の取扱とした。

マンローと木村は罹災でショックを受け一次軽井沢に戻ったが、国内外からの物心両面の支援を得て、引き続き二風谷にとどまることを決めた。

1933(昭和8)年4月、マンロー邸が完成した。三階様式木造の洋館で、防火を意識したコンクリート造の書斎兼診療所が付設されていた。

洋館造の自宅は周辺からかなり目立つので、家の周りにドイツトウヒなどの生長の早い樹木を植えた。自宅裏の畑には、付近の人の生産奨励を兼ね梨やブドウなどを植えた。祖父ニールが果樹園をしてたため、マンローも果樹の知識が豊富であったといわれる。

 

3.無料診療と衛生思想の普及

 

当時の平取・二風谷のアイヌの人々の間では、結核等が蔓延して多くの死亡者がでた。その多くは貧困によるものであった。マンローはこの状態を無視することができず、付近の人々に無料診療を行った。

この行動には2つの背景があった。

一つは父ロバートの博愛主義の影響であった。ロバートは志願して刑務所服役者、貧民院収容者に診療行為を行った。また長男マンローに庶民感覚を与えるためにあえて公立小学校に入学させた。

もう一つはマンロー家がスコットランドでも指折りの名家であり、貴族的な使命感を持っていたためとされる。

もともとスコットランドに住む人はイングランドとは異なりケルト族の系統を引き継いでいる。ス

コットランドは十八世紀にイングランドに併合され、マンローの祖父の時代からはケルト族の母語ゲール語や独自の風俗習慣も使用禁止となっていた。マンローには、アイスの人々の境遇とケルト族のそれが重なってみえた。

横浜・軽井沢時代からマンローは何度も北海道に旅していて、アイヌの人々の現状をつぶさに見て来ていた。だから二風谷の人々の結核による死去の高いことはアイヌの現状の反映であることがわかっていた。

このような事情から、マンローは地元の人々への医療活動を開始したのであった。マンローによって命を救われた人がたくさんいた。診療と薬の提供のみならず食糧品まで提供した。

マンローはさらに進んで結核療養所の建設、診療所への食料供給体制づくり、野菜果物供給など、地元農業の振興や経済の向上にまで思いを致したが、時節柄か実現には至らなかった。


二風谷生まれで、マンロー宅の家事手伝いに入った青木ときは後年、「この世に神さまがいるなら、マンロー先生こそ、本当の神さまだと思うんです」と述懐している。また、晩年のマンローと親交のあった谷万吉(北海道庁職員)も、「マンロー先生こそ、医は仁術を実践された人」と評している。


4. 『アイヌ過去と現在』(Ainu: past and present)の完成

マンローはアイヌの人々の診療を通じて信頼を得て、古来からの伝統習慣を知るようになった。アイヌの古老達は、伝統的風習・儀式を詳細に伝えた。

マンローは貝澤シランペノ・二谷國松はじめ二風谷の人々から、だいじな知識・情報を惜しみなく提供された。また北見や釧路などからアイヌの古老達を招へいして、儀式・宗教関係の伝統習慣と社会組織

に関する知見を記録に収めた。


その知見は国内英字新聞に報道されるだけではなく、英国のセリグマンのもとに送られ、科学週刊誌『ネイチャ』に報じられた。

木村チヨも婦長として住民に接する中で女性ならではの情報を得ていた。母から娘に引継がれていく"守り紐"(いわゆる貞操帯)の風習もその一つである。

 

フォード財団からの研究助成費は、1937年5月で支給期間満了となった。1938年にはそれまでの研究をまとめた『アイヌ過去と現在』が稿本の形にまでこぎつけた。しかし1939年からの第二次世界大戦の開始を前に発行は頓挫せざるを得なかった。最大の後援者セリグマン教授の急死も大きな困難となった。

マンローは研究に一区切りついたのを機に、二風谷から札幌への移転を図った。しかし日高支庁と谷万吉が自宅売却に奔走したが実現せず、生活の糧を失ったマンロー夫妻は二風谷にとどまらざるを得なくなった。

 

 

5. バチェラーとの関係、共通点と相違点

この問題はどこに、どのように書くべきかわからない。あまりに類型化することは避けなければならないが、それぞれの特徴を端的に表現するためには避けて通れない作業である。

うんと単純化すると、王と長島の違いであり、それが巨人という共通の土台に立っていたこと、勝海舟と西郷と日本という共通土台に比することができる。共通性こそが本質であり、差異性は派生的である。

日本近代思想研究の武田清子はこう述べている。

宗教家バチ=ラーと科学者マンローは、その方向は異なっていたが、アイヌ文化を高く評価して、アイヌの人々を自立の志向に転じようと試みた点で共通認識があった。

この時期、マンロー夫妻は札幌に訪れる度に宣教師バチェラーを訪問しており、生涯で最も親密な関係にあった。バチェラーも二風谷を訪れ頬部の腫瘍切除を受けたりしている。
それだけ親しくなったから、お互いの生活や思考のスタイルの違いも明らかになった。ともに相当に頑固であるゆえに、口も聞かないような時期もあったようである。

マンローはバチ=ラーのアイヌ文化の先駆的影響を受けて研究をスタートしたが、途中からは強い独自性を発することになった。バチェラーはイングランド、マンローがスコットランドという出身地の違いもあったが、それは必ずしも本質的ではない。

それはなによりも宗教家バチ=ラーと科学者ンローの対立関係であった。
例えば「熊祭り」をどう見るかという違いだ。バチ=ラーは野蛮な儀式ととらえ、マンローは民族の深遠なる宗教儀式と認識していた。

北大医学部解剖学教室に留学し、バチェラーとマンローをよく識るイタリア人の人類学者マライーニは二人を次のように評している。

私(マライーニ)は、ある雪の多い冬の午後、バチェラー家にイギリス式のお茶に招かれ、バチェラーとマンローというすぐれた老人に間近に接することになった。そのときのことを決して忘れることはできない。

それは、私にとってまるでヴィクトリア時代のイギリス社会の縮図のようだった。

バチ=ラーはこの上なくはっきりと、セシル・ローズ、ゴードン将軍、カーゾン郷らの国家主義者、詩人R・キプリングら帝国建設者たちの線上に属していた。彼はユーモアがあり寛容であったが、大いに自信家でもあった。自分の考えにとって何か障害になるもの直面したときは、はがねのように不撓不屈になり、また厳のごとく確乎不動になった。

他方モンローはヴィクトリア時代のもう一方の流れを代表していた。すなわちハクスレー、ダーウイン、ケルビン郷らの流れである。その信念は科学主義、非国教主義、普遍的な人間主義であった。

マンローにとって人類の兄弟愛は白人の受難よりもはるかにだいじなことだった。

当然バチェラーとマンローはうまく話が合うというわけには行かなかった。二人の会話は、深遠で博識な内容のなかに、相手をちくり刺す言葉が適当にちりばめられていた。

 

 

* 不遇の最晩年



1.収入の途絶と経済的困難


フォード財団の研究助成が終了した1937年以降、マンローの収入は皆無となった。日本アジア協会は募金活動を行い、鷹部屋は北大で講演させ、講演料として40円を提供した。また1940年には岩波書店社長の岩波茂雄に依頼して研究資金助成を実現した。

鷹部屋福平は九大工卒。1923年に欧州留学に向かう船上でアインシュタインと同船し、面識を得る。後に北大工教授となり、1936年に二風谷のアイヌ集落研究。この際にマンローの知己を得る。


2.マンローに対するスパイ攻撃

二風谷在住者以外の地域の人達は、マンローを敵国スパイではないかのと噂するようになった。流言飛語が広まりマンロー夫妻を苦しめた。
マンローは経済的困窮と相俟って、二風谷からの移転を希望するようになった。しかし主として経済的事情により実現しなかった。

欧州大戦が本格化した1940年に入ると、マンローの周囲で特高警察の監視が強まった。そのきっかけとなったのが、宮沢事件である。
1041年12月、太平洋戦争の開戦の直後、北大生宮下弘幸と北大の英語講師レーン夫妻がスパイの容疑を受け逮捕された。容疑を受けたのは道内居留の外国人との交流であった。宮沢はイタリア人で前出のF.マライーニと共に二風谷のマンローの元を訪ねたりしたこともある。
宮沢は終戦後に釈放されるが、収監中の体力低下により1947年2月に死亡している。

日本人暴徒の襲撃を恐れたマンローは、護身用のピストルを持ち、最期の時まで枕の下にしのばせていたと云われている。



3.死去(1942年4月11日)


マンローは1940年の暮頃から体調不良を訴えるようになった。翌年に北大病院を受診。有馬英二教授による診察の結果、腎臓と前立腺の癌との診断がくだされた。マンロー自身には病名が知らされなかったが、医師であるマンローは病状を知っていた。

1941年の夏季にはすでに病状が進行していたが、これを押して軽井沢での最後の診療を行った。秋から病状が進行、翌年1月からべットに臥すようになった。平取町在住の医師・福地健二が往診を引き受けた。
1942年4月に入るとがん性腹膜炎から腸閉塞を併発。危篤状態となった。チョ夫人のほか元夫人の高畠とくが付き添うようになった。41年5月から京都大学のイタリア語教師となっていたマライーニも駆けつけた。

5月2日午後9時29分、近親者に看取られて79歳の生涯を自宅で閉じた。

葬儀は平取町の日本聖公会司祭により執り行われ、地元アイヌの老若男女・北大関係者が参列して「マンローニシバ」(先生)の最期を見送った。

生前のマンローは、「自分が死んだらコタンのみんなと同じように葬ってほしい」とチョらに言い残した。遺骨のは二風谷共同墓地に埋葬された。(後にチヨの希望で軽井沢にも分骨)

マンローの死去については、地元新聞『北海タイムス』が4月16日付で顔写真入りで大きく報じた。またマライーニはマンローの思い出を、英字新聞『ジャパンタイムズ・アンド・アドバタイザー』に寄

稿した。この寄稿によって、戦時下の在日の外国人達はマンローの死去を知った。


*マンローの没後以降

 

チョ夫人は生前のマンローの意向に基づき、自宅・土地・蔵書及び研究資料類の一切の取扱いを鷹部屋福平に託した。マンロー邸と敷地は鷹部屋名義となった。

チョは二風谷を離れて軽井沢病院看護婦として勤務を続けた。軽井沢では有志によるマンローの慰霊祭が執り行われ、マンローの骨が分けられ墓が建立された。


チョは69歳となった1954年秋に退職、余生を神戸市の姪御宅でおくり、1974年6月29日に天寿を全うした(享年89歳)。

 

マンローの生涯と人物は、石森延男作『梨の花』(創作・文芸春秋社円72)・桑原千代子著『わがマンロー伝ーある英人医師・アイヌ研究家の生涯ー』(伝記・新宿書房1983)が刊行されて、多くの人々に知られるようになってきている。

 


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