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出村文理 「マンロー書誌」 要綱 その1

2021-03-17 17:13:10 | マンロー

出村文理 「マンロー書誌」 要綱 その1

 

この本は、これまでマンローについて論じた著作の中で、最も浩瀚で最も正確なものである。

正式名称は以下の通り。

ニール・ゴードン・マンロー博士書誌 : 帰化英国人医師・人類学研究者

2006年に札幌で出版された。題名のとおり、マンローを医師・哲学者として、人類学者・アイヌ研究者として多面的に把握し、自著を中心に彼の思いを浮き彫りにしようと試みている。また生前あまり知られることのなかった日本での足跡を丹念に拾い上げ整理している。
このことは、とくに、先行した桑原千代子著作で形成されたマンローの「虚像」を洗い流す上で役立つ。だが、そのために記述がやや細部にこだわり、多くの人々にはやや読みにくいものになっている。

ここでは「マンロー伝」に関わる部分について要点を抜き出しておく。

伝記に関わる部分から


* 横浜時代(1891ー1921) 明治21年~大正10年

香港横浜間の定期航路を数次にわたり往復。90年に寄港先の横浜で、哲学パンフを自費出版した。これが最初0著作である

91(明治24年)5月 マンローは趣味の考古学研究等を日本で行うため、船医を退職した。そして英国の汽船「オセアニア号」で横浜に上陸した。

これまでマンローは体調を崩し、その療養のために横浜の「一般病院」外国人専用病院、後年の「山手病院」)に入院。そのまま同病院勤務となったとされてきた。

また93年(明治26)年には同第八代病院長に就任、約30年にわたり在任したとされていた。

横浜在住研究者の調査の結果、これらが間違いであることが明らかになった。

マンローは健康体で上陸→就職した。同病院に数年勤務の後、横浜で開業医いた。(青木祐介・伊藤泉美 2006)。

もし病院長であれば、各地での発掘調査や大著「先史時代の日本」などの執筆は不可能であったろう。

 
この記事(要綱 その1)では、彼の人生に沿って要点を追っていく。以前書いたものとかなり重複しているので、いずれ整理統合していくつもりである。


*日本で最初にレントゲン撮影を実施

マンローは横浜市内で開業。当時の日本では最先端となる医療を実践した。
96年レントゲンが、X線を発見した数年後、専門雑誌掲載事を参考にして、マンローはレントゲン装置を英国帰りの技師の協力を得て試作、実用化した。これは横浜指路教会で一般公開された。

これについては他の文献では確認されていない。文献では次のように記載されている。

レントゲンがX線を発見したのが1895年。ベルリンに留学中だった長岡によりいち早く日本にも伝えられた。東京帝大、一高、三高が競って研究に着手。

最初のX線撮影装置はシーメンスが開発。 98年に東京帝大と陸軍医学校へ輸入されている。1909年には初の国産機が納入されている。

ということで、マンローの名はまったく登場しない。

 

* マンローの日本語

日本で50年も暮らしたというのに日本語はまったく上達せず、日本文特に漢字の一部を読むことが可能であったが、書くことは不可能に近かった。

最初の夫人を除き、夫人達は日本人若しくはハーフであった。会合や長期旅行には必ず通訳を雇用した。

 

* 無二の親友 ベルツ

明治年間、御雇い医学教師として活躍したドイツ人ベルツはマンローと活発な交遊があり、考古学研究で意見を交換して共同で各地の視察旅行をした。

べノレツはマンローの性格・人柄を日記で次のように記している。

いっしょに古墳を見に行ったマンロー博士は印象に残る好人物。名前からすぐにわかるように「生粋のスコットランド人」である。がっちりした体格に、上品というわけではないが愛嬌のある顔だ

とはいえ、あくまでも男性的だ。隠したでのない誠実そうな目、善良で信頼に足る男と感じさせる率直な人柄。

大の理想主義者であり、驚くほどの博識と幅広い教養を身につけている。

横浜で開業医をしているが、病院が軌道にのるまで何年も辛酸をなめたという。

(中略)日本の考古学に関しては、私がマンローにとって唯一のライバルだ。

学者の嫉妬深さは余人の域をはるかに超えるものがある。だがマンローは、自分のコレクションも、研究成果も、果ては手書きのメモにいたるまで、洗いざらい自由に見せてくれる。ドイツ人仲間では聞いたこともない。

後年、ベルツは自己の遺言書にマンローの日本考古学研究に対し3千円を贈ると記し、死後に同研究費が贈呈された。

* エゾとアイヌへの興味

1909(M42)年に釧路市春採のアイヌ集落を訪れており、来道の度にアイヌ文化の関心が増大していった。日本古代文化の源流がアイヌ文化との密接な関連を有していると考えるようになっていった。

1908(明治(1)年2月に横浜で「えぞのアイヌ」の講演を行っている。

 

* 堂垣内セイさんの思い出

1907(明治40)年ころ、マンローは小樽市忍路ストーンサークルの現地調査に赴いている。この時現地の有力者堂垣内家と知己を得た。マンローは娘のセイさんの横浜遊学を支持した。セイさんは堂垣内尚弘・元北海道知事の母堂に当たられる。

1909年頃から2年間、セイさんは横浜のマンロー邸で通訳兼行儀見習をされ、あわせて横浜フェリス女学院に通学された。

後年、マンローの生活を次のように述べている。

「良い人で面倒をみて下さる方でした。

お手伝いさんが5名、書生が1名と居られ、食事は和食で、生の魚介類特にカ=が好物でした。パンを食べたところを見たことがありませんでした。西洋料理は来客のみでした。クリスチャンでしたが、敬虔な祈りはしていませんでした。

本を沢山持っておりました。考古学の出土品やアイヌ民族関係の資料は誰にも触れさせませんでした。来客のお見えになる家ではありまんせでした。」

 

* 離婚と再婚

最初の妻アデレー夫人との関係は、マンローの自己中心の研究生活、長男ロバートの病死で冷えきっていた。

そこに高畠とくとの関係が持ち上がった。高畠とくの父は久留米藩士族であった。(柳川藩江戸詰家老との説もある)

とくは英会話学習のため、横浜・東京で外人家庭へ奉公し習得した。

1903年12月26日に横浜文芸協会の主催するマンローの講演会「日本の貨幣」(横浜ゲーテ座)に出席した。講義後の質疑において、マンローの間違いをしたことがきっかけとなり、マンローが研究援助を申し込んだとされている。

当時、日本の裁判所に外国人同士の結婚を破棄する権限はなかったため、マンローは日本に帰化するという奇策を考えだした。

当時、外国人の日本の帰化は容易ではなかったが、日英同盟締結時であって、かつ医師として収入が安定しているために認められたものであろう。

1905年2月3日に帰化申請は受理され、みずから日本名「満郎」と名付けた。

まもなくアデレー夫人と協議離婚が成立、5月に高畠とくと結婚した。同年12月に長女アヤメが生まれた。マンローは菖蒲(あやめ)の花を好んで名付けた。

 

* 一時帰国と博士学位記取得

マンローの英国本国への帰国は、1908年の母校における医学博士学位取得審査等のためであり。の一回限りの帰国だった。(提出論文名:英文「日本における癌」)

往路はホノルル・アメリカ経由であった。学位論文と臨床関係の各口頭試問及び試験をパスして、翌年に医学博士の学位が授与された。

博士学位授与は、マンローの生涯の誇りとなった。

その折、英国内の大学・博物館等を巡って関係機関から依頼の日本考古学資料とアイヌ文化資料の寄贈を約束すると共に多数の関係文献を購入した。

更にドイツ・オーストリア・フランスに周り、音楽鑑賞を楽しんでいる。英国滞在中にはチぇンバレンと、ドイツではE.ベルツとそれぞれ会っている。

ドイツのベルリン民族学博物館において、シゥリーマン発掘のトロイ遺跡出土の遺物を計測した。

帰国後の11月に英国・王立人類学研究所会員に推挙された。

 

* 二度目の離婚

桑原千代子著『わがンロー伝』(新宿書房1983)の記述の中でも最も怪しい記述である。

 

帰国の際、フランス女性を連れ帰った。これを見たとくは、マンローと協議離婚し、長女アヤメを連れて家を出た。

件の女性は北海道旅行をともにすると、そのまま横浜港を発って日本を去った。前後の経過から見て、とくの思い過ごしだった可能性も否定できない。

そ0後、とくは旧制・中学教員免許を取得し、東府中学の教師となった。

とくは1932年以降、物資不足時期には経済的・物質的な援助を行い、誕生日は贈物を欠かさなか。

942年4月Ⅱ日のマンローの臨終にも立会っている。

 

* 三度目の結婚

マンローはとくと別れ独身生活を送った。

5年後の1914(大正3)年10月、横浜市在住スイス人アテール・ファープルブランドと結婚した。

アデールは当時28歳、父のジ=ームズ・ファープルプランドは横浜市在住の時計輸人貿易商。母は日本人でその結果彼女はバイリンガルであった。

マンローにとって三度目の結婚であった。この時マンローは51歳。外面が良いからオールドミスになりかけのアデールが夢中になったのだろう。父親は絶対反対したと思う。

マンロー夫妻は新婚旅行を兼ねて、沖縄列島、九州を長期旅行し、鹿児島県では考古学発掘調査を実施、北海道にも数次にわたり訪れた。

この豪勢な暮らしが如何にして可能だったかは想像できる。マンローにはおよそ理財の能力がない。

岳父は関東大震災直前の大正12年8月に82才で死去した。

 

* アイヌの現状に対する憤り

1916(大正5)年秋、マンローはアデールとともに、白老でアイヌ文化研究の実地調査を行っていた。

折から道庁が実施中の「アイヌに関する調査」に関連して、北海道庁から次の諮問を受けた。(質問そのものが土人法の精神を体現している)

第一 アイヌの人口回復を助くる条件

第二 和人とアイヌの接触はアイヌを向上せしむる否や

第三 日本的文化がアイヌ族に及す影響

第四 アイヌ文化を評価し又は享益し得べきや

第五 アイヌを救済し進歩せしむる有効な方法

同諮問に対し、マンローは当時のアイヌの人々の生活実態をふまえ医師の観点から次のような諮問を行った。

アイヌの人々も基本的知能を有しており、他の人種に比して何らおとるところがない。

飲酒の制限・結核・トラホーム等による疾病防止の衛生思想の普及、日本人児童との学校教育の交流、生業のための農業従事の推進を実施する:ことにより、その生活等が向上するであろう。

マンローはこの考えを、後年、北海道平取村二風谷で医療奉仕と衛生思想の普及を実施するときの指針とした。

続く


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