義和団事件の真相

事件の経過を知ろうと思いネットを探したが、さっぱり分からない。

私の予備知識としては、むかし映画で見た「北京の55日」くらいだから、そもそもなんの事件か分からない。太平天国の北京版くらいに思っていたが、ある一つの記事にあたってかなり「目からウロコ」の思いである。

その記事が、コトバンクに掲載された「日本大百科全書」(ニッポニカ)の解説


これにネットから拾ったいくつかの周辺的事実を加え、物語的に仕立ててみた。

1.「義和拳」とはなにか

山東省内に1898年に「義和拳」という秘密結社が結成された。

義和拳そのものは清朝の中期から存在する武術で、武器を持たない民衆の自衛手段として生き延びてきた。

義和拳の売りは、これが白蓮教という信仰と結びついていたことである。

2.白蓮教とはなにか

白蓮教は紀元1100年ころ、南宋に始まった仏教の一派。浄土教系の信仰で半僧半俗で妻帯の教団幹部が男女を分けない集会を催した。

一種の終末思想を持ち、国家や既成教団からも異端視されていた。「最後の審判」では、覚醒した信者だけが救済者の手で救われる。

元末には「紅巾の乱」により元を滅亡させ、明朝を成立させたが、明朝により弾圧された。

その後、白蓮教は秘密結社として生き残り、しばしば反乱を起こしたが、叛徒が白蓮教のレッテルを貼られることもあったようだ。

1796年には清朝の圧政に抗議し、全国で白蓮教徒が「弥勒下生」を唱え反乱。戦いは6年に及び、清朝衰退の原因となる。

その後も、白蓮教はさまざまな分派が秘密結社として活動を続けた。中国における秘密結社の大半は白蓮教に関係している。


3.なぜ義和拳が人気を博したか

白蓮教の流れをくむ義和拳の教えは、「呪文を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかない」という怪しげなものだった。

こういう教えは、不安な世の中に流布する。

朝鮮の支配権をめぐる日清間の戦争(1894~95)は日本の勝利に終わった。

これを見た列強は侵略の牙をむき出して、一斉に襲いかかった。それは中国を分割の危機にさらした。

それは都市部ばかりではなかった。安い商品の流入などで、農村の経済と農民の生活は破壊されていった。

この状況を敏感に感じ取った義和拳の青年達は、キリスト教の布教活動にターゲットを定めて排外主義キャンペーンを広めた。

彼らは教会を焼き、教徒を暗殺した。

それは特権的な立場から固有の文化や信仰を否定し、西洋文明を押し付けるヨーロッパ人への反感を助長し、とりわけ没落農民の人気を獲得した。


4.清朝政府の態度

このような暴力的で非合理的なキャンペーンが何故広がったか、それは清朝政府の態度にも問題があったからだ。

日清戦争の敗北を機に清朝内部での守旧派と洋務派という対立が顕になった。洋務派は95年の日清のあと一時弱体化した。

これに代わり、清朝正統派の勢力が再び力を盛り返した。そのトップに立ったのが西太后である。

彼らは義和拳を弾圧するのが困難とさとり、逆に利用して列強に対抗しようと試みた。

1899年、義和拳は農村の自衛警察である「団練」に組み込まれ、半ば合法化された。

義和拳は義和団と改称し、「扶清滅洋」(清を助け外国を滅ぼす)という時代錯誤のスローガンを掲げ、排外主義を押し出すようになった。ヤクザが合法右翼に成り上がったようなものだ。

これが河北一帯に義和団をのさばらせることになった最大の理由である。


5.義和団、北京へ、そして全国へ

しかしこのような隠蔽工作が長続きするわけはない。義和団はますます跳ね上がりキリスト教会への暴行は目に余るものになる。

各国外交関係者、とくにドイツ外交団は清国政府に強硬にねじ込んでくる。

このような中で、清朝政府は取締りを約さざるを得なくなった。山東省の巡撫が泳がせ政策の責任を取らされる形で更迭され、代わりに李鴻章の子分で洋務派の袁世凱が任命された。

1899年の末に現地入りした袁世凱は大規模な取締りを開始した。そのおかげで山東省の義和団は沈静化したが、彼らは農村に戻ったわけではない。「団練」の職を失った今、故郷に戻っても働き口はないのだ。

失業した青年はまず河北省に流入した。やがて大運河、京漢鉄道沿いに蔓延するようになった。さらに華北全域、満州、蒙古にもあっというまに拡大した。

こんなに山東省の若者がいるわけはないので、全国の失業青年が一斉に市街部に繰り出してきたのだろう。

義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け隊伍(たいご)を分けた。

全体的な指導部はなく、町ごとに「壇」という隊を分け、義和団の単位とした。宗教的指導者が壇の責任者をつとめた。少女たちも「紅灯照」という組織をつくり、戦いに参加した。


6.清政府の宣戦布告

とにかくこうやって広がった打壊しの波は、最後に北京の街にまで侵入してきた。

暴徒は外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。

これに対し列強は、在留民の生命と資産を保護するため、天津に上陸し北京の軍事制圧を目指した。

義和団の暴走を止めることが出来ず、列強の抗議にも回答できなかった清国政府だが、列強の首都侵攻に我慢することは出来なかった。

そして6月17日、ついに宣戦を布告した。

私は政府の宣戦布告というから、てっきり義和団への宣戦布告だと思った。しかしそうではなくて列強への宣戦布告だった。

理非は別として、彼我の力関係を無視したあまりにも無謀な戦争であり、無知な宮廷内官僚による自殺行為である。


7.「北京の55日」

清政府が宣戦布告すると同時に、列強の代表は各々の公館の中に閉じ込められることとなった。いわゆる「北京の55日」の始まりである。

英、米、独、仏、露、伊、墺、日の8か国は、1万4千名よりなる連合軍を編成。北京の開城に向けて行動を開始した。対決の相手は義和団ではなく清国政府の正規軍であった。

7月、双方の主力が天津で対決するが、清国軍の抵抗は脆弱であった。連合部隊はそのまま北京市内になだれ込み、公使館区域の救出に成功した。西太后と光緒帝は北京を脱出して西安に逃れた。

義和団の若者の多くは残虐にも斬首された。

この事件の後、中国は膨大な賠償金の返済に長く苦しむことになり、植民地化は一層進行した。


8.性格としては「北清事変」というべきだが

事実関係としては、

①清が列強を相手に仕掛けた戦争であり、
②戦争というにはあまりにも短く、
③清国南部はこの戦闘に参加していない

ことから「北清事変」というべきであろう。

「義和団の乱」は北清事変の序章というべきものであるが、義和団「事件」と言うにはかなりの時間経過があり、いくつかの場面の複合でもあるため、「乱」のほうが良いと思う。

また、社会的重要性に焦点を合わせれば、「義和団の乱」として記憶すべきところもあり、入試問題としての憶えやすさも念頭に置けば、「義和団の乱」のままで置くのがベストかと思う。

やはり、この「乱」の主要な側面は、農村の無産青年の思想性と規律性を内包した集団的蜂起だ。