バージェス動物群

カンブリア紀中期の化石動物群。多数の門にわたる動物のほか、所属不明の多種多様な化石が含まれる。(広辞苑)

性生活の経済的側面が経済生活の性的側面であったり

2006年02月25日 23時53分00秒 | Weblog
昨日バイトが終わって駅から家に帰る途中、奇跡的にshop-iのメンバーに会いました。
JOB会議の後につぼ八で随分飲んでいたらしいです。
T君が無闇にジャンプしたり、通行人に向かって「どこから湧いて出やがった」とか何とか言ったりしていました。

終電を逃したHさんとプラチナさんはそのままウチに泊まっていきました。


何がどうなったのか思い出せませんが、話題は何故か世界史に。
三人とも私大文系・世界史受験なので、里は違えど重箱の隅をつっつきまくった戦友です。
マイナーな世界史用語を言っていき、「あぁ~あったあった」と懐かしむ不思議な談笑をしました。それも2時間くらい。

ドヴァーラヴァティーとかムムターズ=マハルとかヴェルチンジェトリックスとか
チンギス=ハンの長子ジュチの子バトゥとかの単語が出るたびに爆笑。
世界史の単語って何であんなに響きが面白いんでしょう。
スリジャヤワルダナプラコッテ並です。


起きたのはもう昼で、三人で油麺にこにこへ。
ここはファンがけっこう多く、mixiにはコミュニティが出来たくらいです。
昼よりも2時から4時の微妙な時間が混むのが特徴です。
食べて、野菜ジュースを買って、二人と別れました。



買ってあった『回転木馬のデッド・ヒート』を読みました。
人から聞いた変わった話をできるだけそのまま書いたという、小説のようなエッセイのような不思議な本です。
「雨やどり」という話から引用。

しかし年をとり、それなりに成熟するにしたがって、我々は人生全般に対してもっと別の見方をするようになる。
つまり我々の存在あるいは実在は様々な種類の側面をかきあつめて成立しているのではなく、
あくまで分離不可能な総体なのだ、という見方である。
つまり我々が働いて収入を得たり、好きな本を選挙の投票をしたり、ナイターを見に行ったり、女と寝たりするそれぞれの作業は
ひとつひとつが独立して機能しているわけではなく、結局は同じひとつのものが違った名称で呼ばれているに
すぎないということなのである。
だから性生活の経済的側面が経済生活の性的側面であったり、というのも十分にあり得るのだ。


作者が読んだとある小説に、「金を払って女と性交しないというのはまっとうな男の条件のひとつである」
という文があったそうで、それについての考えが最初に出てきます。

作者にはそんな風に言い切ることはできそうにないと言うのです。

我々は実にいろんなものを日常的に買ったり売ったり交換したりしているために、
最後には何を売って何を買ったのかさっぱりわからなくなってしまったということが多々あるから

だそうです。

作者はもちろん金を払って女と性交しないし、したこともないし、この先しようとも思わないらしいですが
我々は多かれ少なかれみんな金を払って女を買っているのだ」ということが言えるのだ、とも言います。


ちょっと例がアレですが、言われてみれば確かにそうなのです。
日々の生活は全部つながっており、それぞれ独立しているわけではないのです。

休日に映画を見に行くのは、映画を見るためだけではなくて
平日のストレスを解消させる面もあります。
つまり平日の仕事のための休日の映画、というとらえ方が可能です。
逆に、何故人は働くかといえば日々を楽しく過ごすため、という部分がけっこう大きいと思います。
としたら休日の映画のための平日の仕事、とらえることも可能なわけです。

まさに「分離不可能な総体」です。

これを認識していないと、何かしんどいことを為そうとする際
孤独にそれのみに打ち込んでしまったりして、結局失敗してしまうのです。

一見ムダに見える友達との談笑や趣味の時間も
巨視的に見れば案外そんなことはなかったりするんですよね。

知識を増やすための読書と一緒に、小説も読もうかな。


性生活の経済的側面が経済生活の性的側面であったり」というところが絶妙な表現だと思ったので
タイトルにさせていただきました。






パンの棚

2006年02月23日 01時46分50秒 | Weblog
鼻がもう。閉めきってない蛇口みたいな感じです。透明な鼻汁が止まりません。
ティッシュがあっと言う間に切れたので、自宅近くのスーパーに行って買ってきました。
いつもは日用品はドンキで買うんですが、そこまで行くのが面倒だったのです。


自宅近くのスーパーは古典的なスーパーです。
珍しい南国のフルーツや聞きなれない野菜は置いてないし、チーズはプロセスチーズしかありません。
そんな中、パンの棚を見たときふっと子供の頃を思い出しました。
今のコンビニみたいに、148円とか138円とかの小賢しい値段でちょっと凝ったパンばかりを売ってる棚ではなく、
ストレートな「ジャムパン」「クリームパン」「カレーパン」とかを100円前後で売ってる棚です。

子供の頃とは、まだ「朝の会」と「帰りの会」があり、
月曜は必ず210円を握り締めて近所の本屋へジャンプを買いに行き、
果汁グミを食べ過ぎて夕飯を残してしまうことがあった頃です。

母の買い物についていった時は、密かに買い物カゴにジャムパンを忍ばせたものでした。


小学生の頃は幸せだったと思います。では何故幸せだったのか。
自分なりになんとなく考えてみました。

人によってまちまちだとは思いますが、自分にとってやっぱり大きいのは
いかにするべきかを考えていればよくて、何をするべきかを考えなくてもよかったから、ということだと思います。
なんというか、自分の周りの枠組みがしっかりしていた。
世界はまあこんなモンだという根拠のない納得があり、
とりあえず頑張ってさえいればいいとこまでいくんじゃないか、という楽観がありました。

世界はそんなに単純なものじゃないことがじわじわ分かってきて、目の前にある物を処理していくだけでは駄目なんだと気付いてきて
今は、問題を解く前にまず問題設定をしなければならないという状況です。
ある意味楽しいかもしれませんが、これは相当にキツいことです。
自分は今何をするべきなのか?」という問いと常に対峙するのは、疲れます。


この問いは、何かをやっている最中でも消えないからさらに厄介です。
自分は今本当にこれをすべきなのか?」と。
考えれば考えるほど「他にも解くべき問題があるのではないか?」という疑問が湧いてきて、
どんな仕事をやっても長続きしない、という事態に陥ります。

そして、極めつけに「そもそも自分はどういう存在なのだ?」という問いに発展してしまいます。
自分は何をすべきか?という問いが、自分は何をすべき存在か?になるのです。
これがいわゆる「自分探し」というやつでしょう。

この状態にはまってしまい、抜け出せないとアレです。ニートです。
この間の幸福の話とも関連して、選択肢ありまくりの現代ではその抜け出しにくさは凄まじいものがあります。


ただ、最近はこの状態から中々抜け出せない人が多いためか、
この状態がかなりの悪者として見られているような気がします。
余計なことを考えずに、早く割り切るのがシャープなやり方である、という感じです。

でも、この状態自体が悪いのではない、というのは少し考えればわかる話で。
早く割り切っている人というのは、穿った言い方をすればこの状態から逃げている
とも言えるのではないでしょうか。

自分は何をすべきか?を徹底的に考え抜いていくということは、ツライからこそ
得るものもでかい、と考えます。


長々と書きましたが、まあ要するに「モラトリアムってしんどいよね」ってことです。
そんなもん高校で終わらせてこい」と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、
大学に入ってから全く知らなかった世界がブァーっと開けた気分なので許してください。






教養と雑学の明確な違いって何ですか?誰かヒントください。

クオリア

2006年02月21日 01時47分15秒 | Weblog
最近、はまっている概念があります。
クオリア」です。

この言葉を知ったとき、「やられた!」と思わずヒザを打ってしまいました。


クオリアとは簡単に言うと「意識のなかでとらえられる質感」のこと。

これについて説明するときによく用いられるのが、赤さです。
例えば、自分が赤いリンゴを見ているとする。
今自分が感じているこの「」というこの色。
これは一体どこから来たのか?

科学的に説明するならば、リンゴがリンゴにあたる光のうち特定の波長を持つものをよく反射する性質を持っていて、
その特定の波長を持つ光が眼に映り、視神経の興奮が脳に届くから、となるでしょう。

しかし、その特定の波長を持つ光の刺激が、なぜこの色を自分に知覚させているのか。
科学的な説明の言う「特定の波長を持つ光」も「視神経の興奮」もこの色そのものではないはず。

自分が今見ている「この色」という質感(クオリア)は一体何なのだ?

勿論、色だけではなく音、におい、さわり心地なども同じことです。

このことは現代科学では全く説明できていないし、これからも説明できる見込みはないといいます。
むしろ、現代科学では説明することは原理的に不可能であるとすら言われています。


この考えを突き詰めていくと、もはや常識になっている
意識とは、脳の中の化学反応の産物である
という考え方が危うくなってきます。
確かに脳内の化学反応は意識に影響を与えるでしょうが、化学反応それ自体はクオリアではないのです。
意識と身体は同じものだと思いきや、やっぱり別物かもしれない、と。


自分が何故ヒザを打ったかといえば、自分が特別な存在ではないことがわかってしまったからです。
ここでの「特別な存在」とは、人が誰しも子供の頃に感じる万能感ではないです。
大体の人が経験するように、自分も成長していく上で自分は特別でも何でもなく、
ただの凡人であるということを思い知らされてきました。

しかし、この「私」という意識。クオリアを感じている意識を持つ存在は、宇宙で自分だけではないか?
という考えは未だに残っていたのです。勿論「クオリア」というように言語化はしていませんでしたが、直感として。
その直感が「クオリア」という言葉で言語化されてしまっているのを見て、「自分以外にもクオリアを感じているヤツがいる」
ということがわかってしまったのでヒザを打ってしまったのです。
まあ、完全に証明されたわけではないのですが。


この話は、以前チラっと紹介した科学哲学との話ともリンクするので、大変興味深いのです。
今、クオリアをキーワードに脳や意識について研究されているという茂木健一郎さんの本『「脳」整理法』を読んでいるんですが、
科学哲学っぽいことが出てきます。
タイトルだけ見るとハウツー本っぽいですが、全然そんなことはなく。
なんだろう。自分の中では分類不能な本です。

クオリアという切り口から「芸術の感動」について解明するという『クオリア降臨』も興味深そうなのでこれから買って読もうと思います。
ちょっと高いけど。


茂木さんと言えば、茂木さんがNHK土曜スタジオパークに生出演してたところを見た時のこと。
クオリアについて茂木さんが簡単に説明すると、NHKアナウンサーが
「それを研究することでどんなことに役立つんですか?」
と聞く。対して茂木さんは
「何に役立つか、とかそういうことではなくて、科学というのはロマンが必要なんです」
という感じのことを話してました。(後で一応人工知能の開発に役立つよ、と付け足してましたけど)

科学というのはハンパじゃなくロマンチックな営みなのかもしれないです。


今日の関心事

YAHOO!JAPAN
「クーポン 高田馬場」で検索してみてください。






風邪を引きました。
BOOKMARK更新しました。

gooの「検索で知るコトバ」が面白い

2006年02月19日 21時07分06秒 | Weblog
今日は馬場でトルコ料理を食べた後、
上野の国立科学博物館にチラっと行ってきました。
大体2時間くらい。
今は工事中で見えませんが、外に巨大なシロナガスクジラの模型が展示してある建物です。

地図を見る限りでは案外狭い敷地だったので入ったのですが、地下3階から地上3階までギッシリ展示があり、
とても限られた時間内では全ては見切れずに地上部分を概観するに留まりました。
まあ大王イカは見れたので満足です。

一番惹かれた展示は、情報技術の発達の歴史と九元連立方程式求解機というもの。
以前なら絶対にスルーしていたであろう展示に惹かれている自分を発見し、
何となく変わりつつある自分を感じました。

国立科学博物館には大学パートナーシップという制度があるらしく、
提携している大学の学生は学生証を見せれば常設展を無料で、特別展を割引で見ることが出来るそうです。
都内の主な理系大学、東京大学、筑波大学、ICU、青山学院大学などが参加していました。
該当する大学の人は一度行ってみては?
ちなみにウチの大学は提携してませんでした。残念。


ところで、タイトルにも書いたようにgooの「検索で知るコトバ」が面白いのです。

トップページの検索ボックスの下あたりに、何度か更新すると出てきます。
クリックするとその言葉の検索結果が出てくるわけですが、その言葉がなんとも微妙な、トリビア的な言葉が多くて面白いのです。
毎日更新されているようなのでブログのネタになるかもしれません。

2月19日現在の「検索で知るコトバ」

死の四重奏
生活習慣病の中で互いに合併しやすく、しかも合併することで
より加速度的に動脈硬化や心筋梗塞などを引き起こしかねないという四つの病気のこと。
「肥満」「高血圧」「高脂血」「糖尿病」の四つ。

サイパンタートル
サイパンの先住民族チョモロ族が作る民芸品で、サイパンの定番みやげであるボージョボー人形。
そのオプションパーツ。
ボージョボー人形の下に置いておくとパワーが倍増するらしいです。

観梅
文字通り梅を観賞すること。「梅見」とも言うらしい。
花見よりも上品な印象を受ける。

ホロフォニクス
音を立体的に聞こえさせる技術。
ヒューゴ・ズッカレリという人が開発し、原理や方法は今も秘匿され続けているという謎の技術。
従来の「バイノーラル録音」という技術とは違い、人間の脳との相互作用が関係しているらしい。
鮟鱇が紹介してましたね。

藤子F不二雄展示館
川崎市多摩区生田緑地に建設予定。藤子F不二雄の原画(ドラえもん、オバケのQ太郎など)が展示されることになる。
99年、遺族が川崎市に4万点近い原画を寄贈したことがきっかけらしい。
藤子F不二雄の本名は藤本弘。96年に62歳で亡くなるまでに生田緑地近くに35年間暮らしていたという。
生田緑地には、岡本太郎美術館もある。

ハネッセル
収納部と背負部(ハーネス)の付け替えが自由なランドセル。
これによって身長の伸びが速い小学生が、明らかに身の丈に合わない
小さなランドセルを背負っている、という痛々しい光景がなくなるかもしれない。
デザインも色々。

PSd
ポータブルストレージディスク。USBポートに差込可能なSDカード。
これによりカードリーダーやUSBケーブルなしにデータのやり取りが出来る。

ラムタン
ラムのタン。つまり羊の舌。
道産子の間でブームらしい。
牛タンよりもジューシーで、コラーゲンたっぷりらしいですよ。


そんなこと知ってどうする」という単語も少なくないですが、中には興味深いものも。
情報を得る手段は主にネットだという人は、自分の興味のある分野の情報しか見ていなかったりしますから
こういうコーナーは面白いと思います。

これは検索された回数が多いキーワードを自動的に表示しているのか、
運営者でアンテナの高い方がキーワードを選んで表示させているのかが気になるところですね。







アクティブ・ノンアクション

2006年02月18日 12時06分54秒 | Weblog
気付いたら随分と放置していました。


2月に入り、Shop-i JOBの入学シーズン用営業が始まったりアルバイトを始めたりと、生活がかなり変わりました。
午前中に読書、午後にJOB営業、夜にアルバイトという生活です。
ここになんとか「ブログを書く」を入れたいところです。


一応、午前中を読書の時間と決めてみたのはいいものの、最近では正直あんまりできていません。
そしてまずいことに、「今日はそれなりに頑張ったし、これでいいか」とちょっと満足すらしているのです。

そんな中、以前雑誌に載っていた「アクティブ・ノンアクション」という言葉をふと思い出しました。

雑誌の文章を引用すると、アクティブ・ノンアクションとは
忙しく毎日を過ごしているのにもかかわらず、本当に必要で意義があり、真の充足感をもたらしてくれる
何かについては、まったく達成できていないこと
」(PRESIDENT 12.19号)
です。

「忙しい」ということはしんどいですが、同時に気持ちよかったりもします。
ドラマとかに出てきそうな分刻みで動く青年実業家になったような気がします。
たくさんの仕事をこなした後は、「自分は頑張った」という満足感が得られます。
「自分は社会から、みんなから必要とされている人間である」という安心感も生まれるかもしれません。

しかし、そこでこなしていることはただのルーティンワークが主であることが非常に多い。
短期的に見れば色んなことをやっていても、長期的に見れば何ら意味のあることをやっていない状態。
それがアクティブ・ノンアクションです。


今やっているアルバイトが肉体的に疲れるのもあって、自分はちょっとこれに陥っている気がしたのです。
肉体的な忙しさはより充実感が得られますから。

勿論ルーティンワークを軽視してはいけませんが(組織の中でそれをやると信用されなくなります)、
そのために「本当に必要で意義があり、真の充足感をもたらしてくれる何か」にあてる時間を削ることはあってはならないことです。

今月の自分のテーマは「両立」ですかね。
うまい切り替えを駆使していわば「アクティブ・アクション」の状態に持っていければ・・・と思います。


今日の関心事

惑星の旅
エウロパの写真に驚愕した。





BOOKMARK更新しました。