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ひとは大切なものをうしなって気づく〜森崎和江さんからのメッセージ〜

2022-06-19 14:31:39 | 日記
ひとは大切なものをうしなって気づく。

森崎和江さんのことを知ったのは与論島から長崎県口之津港に出稼ぎにきた炭鉱荷役作業員を扱った本だった。与論島民は、琉球処分までは琉球本島に、税を収めるだけではなく、サトウキビなどを献上できなければヤンチュという戸主のドレイとして仕えていたものだった。
その身分を当面のあいだ無償で働けば開放するとやったのが明治政府の庇護のもとで育った三井財閥などだった。
与論島での台風被害も重なり、口之津には食うや食わずの与論島人が出稼ぎ希望へと殺到し増え続けた。しかし、一般の炭鉱夫たちに与えられるべき社宅も与論島人たちには与えられず、民家の家畜小屋や納屋のような場所で夜露をしのぎながらも必死に荷役作業に従事した。会社の差別的扱いだけではなく炭鉱で働く人たちからも差別されたため、独特な与論島人たちのコミュニティが炭鉱の街に形成されたことなど生き生きと描かれていた。

その後詩集や『闘いとエロス』『非所有の所有』を読んでいくと、中心よりも周辺、炭鉱で働く女たち、からゆきさん、みな声なき声を扱っていたその姿勢と瑞々しい感性に共感をおぼえた。

しかし、数々の森崎さんの話の中でも谷川雁さんと森崎さんのような、ある事件を受けて近い場所から徐々に、というか瞬時に遠ざかる関係性にとても考えさせられたことがある。
それ故に、絶望的距離感というものがひととひととのあいだには存在するということだった。

森崎さんは谷川雁、上野英信らと『サークル村』誌を立ち上げ炭鉱、郵便局員、鉄道員、紡績女工といった労働者の声なき声を綴り、組織化しようとしたのだった。

1961年の前年は三井三池炭鉱闘争が敗北する。国策として石炭より石油というエネルギー政策の転換と相まって、日本の労働運動はじまって以来の「総資本対総労働」の決戦場となった。
谷川雁らは中小零細の炭鉱労働者とともに閉山に追いこまれた退職者たちを退職者同盟を結成して「退職金をよこせ」と経営者や銀行とも交渉し、補償のない退職者たちの補償を勝ちとり生をつなごうとしていた。

1961年の5月、その事件はおきた。
森崎和江さんらがサークル村の女性たちの声を雑誌「無名通信」にして聞き取りなどを行っていた。そのお手伝いとして参加していた山崎里枝さんが何者かに強かんされた後に惨たらしく殺害されるという事件が起きたのだった。
『無名通信』には、そんな山崎さんのような無名の人々が自らの性としての「おんな」を掘り起こし世間の男に翻弄されない自分自身をとりもどすという作業と文字化をすすめていた。

その矢先の痛ましい事件に、森崎さんは谷川さんに炭鉱で働く仲間を集めて、この事件について話し合いを持ちたいと持ちかけた。
しかし谷川さんは、今は警官が住宅地の周りを包囲する中、退職者同盟員を切り崩そうとしており炭鉱閉山の座り込みに集中すべきと森崎さんの提案を頑として聞き入れず遮ったのだった。
その後、犯人が同じ仲間の炭鉱夫だった事が判明する。
山崎里枝さんのお兄さんは、その事件の顛末を悲観してその日のうちに自殺した。
その後、森崎さんは恋仲としての谷川さんとの関係を清算する。

失ったからこそ気がつく。
それは距離感のことで、熱烈な愛が距離のへだたり、あいだがわからなくさせていたということなのか。

自分に足りなかった距離感の意味を教えてくれたのは森崎和江という詩人を通してだったかもしれない。

この真昼
車座のまえのゆるいながれ
筑後平野の川に浮く白帆
その水のあわいさらさら
これも水
あの海も水の静寂のなかで
地球とはどこのこと
臭気たつこのからだ
そのへそのおのつながりの先は どこ
水のデッサン」

いま、私はどこにいるのだろう
そんな時に森崎和江さんはあの世に逝かれてしまわれた。

立喰いそばは六文

2022-06-18 13:22:19 | 日記
日暮里にたちよると六文そばを食べたくなる。
自販の発券機もなく、1人で厨房で働くお兄さんにお金をわたす。五目天そばに玉ねぎ天を載せてもらった。そこに七味をふりかける。
押しあう人たちに並んでネコの額のような場所でそばをたべる。

「うまい」
思わず声をだしてしまう。




アメリカによるイラク戦争のつけはどこに向かったのか? 2022/06/17

2022-06-17 18:24:00 | 日記
2001年9月11日、アメリカで飛行機がハイジャックされ、世界貿易センタービルとペンタゴンなどに激突し、多くの命をうばった。

そのビルに飛行機が突っ込んだ様を映像で見たのは銭湯に入った後だった。

あの時は銭湯あがりの人たちが、まるで力道山のプレイを見守った頃のテレビ中継さながらに見入っていた。
「こりゃ、世界の終わりなんじゃねぇの」
とか口にしている人がいたりした。

何せビルが見事に倒壊するし、アメリカの象徴的なビルが倒壊する様は、「終わりのはじまり」を予期している感じがしたからだった。

邦人の安否を気にするNHKのアナウンサーの声が耳障りだった。邦人の安否は必要かもしれないけど、あそこで見舞われた災害に苦しんでいるのは、国籍や宗派をこえた様々な人たちだから…。

ブッシュ政権(当時)は、このテロ事件をイスラム原理主義組織タリバンとビン・ラディンの犯罪と決めつけてアフガンを攻撃した。米国愛国者法が通過し、テロの実行者だけではなく関係する者への取締りや尾行、盗聴、図書館の貸出記録まで当局が必要とあれば調べられるようになった。テロ組織の犯罪抑止は、容易にヒスパニックやアラブ系住民への抑圧や監視につながった。

そしてアフガンを平定し、ビンラディンを拘束、処刑するや否やイラクの大量破壊兵器疑惑でフセインを悪者に仕立てあげての侵略戦争を行った。

実は、チェイニー、ラムズフェルドらが役員を連ねていたシンクタンクアメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)は、1990年のイラクによるクウェート侵攻後の湾岸戦争で次の戦争を仕掛ける絵図を描いていたと言われている。

1998年1月30日付ニューヨークタイムズ誌には、PNAC所員による「イラクへの爆撃は十分ではない」を寄稿し、イラク武装解除プロセス全体を通じてイラクの政権交代を提唱している。サダム・フセインを米国とその中東同盟国、およびこの地域の石油資源に対する脅威として描写し、イラクの支配下にある大量破壊兵器の潜在的な危険性を強調するような内容だったという。

9.11同時多発テロ事件を利用し、国連憲章にも抵触する他国の政権転覆をも露骨に打ちだすアメリカという国の姿に、むき出しの国家的暴力という連想を浮かべるのは私だけではあるまい。

そして実は、アフガンに侵攻するアメリカを中東諸国の中には協力していた国もあった。イランもそうである。

イランのハタミ政権(当時)は、9.11テロ以降、アフガン、イラクへのアメリカの侵攻を冷静に分析し、反米意識を強めるイスラム原理主義的保守派と対決しつつあった。

国境を封鎖してアフガニスタンから逃れてくるタリバン兵の逃亡を阻止していた。アメリカによる戦争で、タリバン政権崩壊後はカイザル暫定行政府体制を支援して5億6千万ドルの復興支援をするなどしていた。ブッシュ政権の対テロ戦争に協力的だったイランに対して「悪の枢軸」と名指しする前の事であった。

「イランの善意を台なしにして、陰険なイランイスラム勢力を抑圧し、ビンラディンのやうなイスラム過激派の活動を助長することになっている」
としたのはイランへのアメリカの軍事侵攻後のハタミ政権の態度である。

それは、米軍を駐留させていたサウジや他の親米アラブ諸国の支配体制を揺さぶった。サウジアラビアでは、550億ドルの湾岸戦争による戦費負担と石油価格の低迷により失業率が25%にものぼった。そして王族を取り巻く階層だけが特権的な待遇を得続けることで不満は爆発した。エジプトに端を発したアラブの春はこうした不正を民主化する転機となったものの圧倒的暴力で鎮圧された。

このような理不尽なアメリカによ中東政策と国内での王族の腐敗と民衆への鎮圧は、イラクやシリアで台頭したイスラム国を容易に生みだしたのだろう。イスラム国による差別と憎悪による暴力は、少数民族や女性、他宗派難民だけではなく労働者農民にもむかった。また、アフガニスタンでは、タリバン勢力が復活した。この旧態依然としたむき出しの暴力を誰が生み出し、誰が被害を被るのだろうか。

これらの支配を終わらせられるのは、抑圧された人々による平等な民主主義社会の実現に向けた取り組みによってしかない。戦争による圧倒的犠牲者は私達であり、その命も戦費も未来にわたるツケを背負わされるのも私達だからだ。

(写真は、2002年フィレンツェで行われた世界社会フォーラムに100万人の人々がイラク戦争反対を訴えたデモ行進)

ヒョウ被害とブレヒト「のちの時代のひとびとに」

2022-06-14 12:48:13 | 日記
昨日は実家で過ごした。
母親も83歳、足腰が弱くなっており歩行が困難になっている。ピンポン王くらいのヒョウが降って大変だったと。プレハブの窓ガラスが割れていたのでベニヤでふさぐ。
夜は家にあるホコリを被ったブレヒトの詩ををサッチモを聞きながら。

劇作家ブレヒトは、ナチス誕生から滅亡までを亡命者となりながら生き延びた。
1933年ナチスによりブレヒトの著作の刊行を禁止され、焚書の対象となる。 それを前後して国会議事堂が放火され、ナチスにより共産党の仕業とでっち上げられ無政府主義者、共産党員が逮捕される。1934年は悪名高き全権委任法が通過し独裁制となる。1935年にはナチスによりブレヒトは市民権を剥奪され亡命を余儀なくされる。
いま改めて1936年に書かれた詩が予言のように警笛を鳴らしてる。

「のちの時代のひとびとに」 ブレヒト

そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。
無邪気なことばは間が抜ける。
シワをよせぬひたいは感受性欠乏のしるし。
笑えるものはおそろしい事態を
まだ聞いていない者だけだ。

なんという時代
この時代にあっては
庭がどうの、など言っているのは、ほとんど犯罪に類する。
なぜなら、それが無数の非行について沈黙している!
平穏に道を歩みゆく者は 苦境にある友人たちと
すでに無縁の存在ではなかろうか?

たしかに、どうやらまだぼくは喰えている。
でも、嘘じゃない、それはただの偶然だ。
ぼくの仕事はどれひとつ、
ぼくに飽食をゆるすようなものじゃない。
なんとかなっているいるなら偶然だ。
ひとは言う、飲んで喰え、喰えりゃ結構だ、と
だがどうして飲み喰いができるか、もしぼくの
喰うものは、飢えているひとから掠めたもので
飲む水は、かわいたひとの手の届かぬものだとしたら?
そのくせぼくは喰い、ぼくは飲む。
賢明でありたいと思わぬこともない。
むかしの本には書いてある。
賢明な生き方が。
たとえば、世俗の争いをはなれてみじかい生を
平穏に送ること
権力と縁を結ばぬこと
悪には善でむくいること
欲望はみたそうと思わず忘れること
が、賢明なのだとか。
どれひとつ、ぼくにはできぬ。
そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い

ぼくが都市に来たのは混乱の時代
飢餓の季節。
ぼくがひとびとに加わったのは暴動の時代
ぼくは叛逆した、かれらとともに、
こうしてぼくの時がながれた
ぼくにあたえられた時、地上の時。
戦闘のあいまに食事し
ひと殺しにまじって眠った。
愛を育てもしたが、それに専念する余裕もなく、
自然を見ればいらだった。
こうしてぼくの時はながれた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくの時代、行くてはどこも沼だった。
ことばのためにぼくは屠殺屋どもにつけ狙われた。
無力のぼくだった。しかし支配者どもには
ぼくがいるのが少し目ざわりだったろう。
ぼくにあたえられた時、地上の時。

ぼくらの力は乏しかった。
目的地はまだ遠かった。
でもはっきり見えていた、たとえぼく自身は
行き着けそうもないとしても
こうしてぼくの時がながれた
ぼくにあたえられた時、地上の時。

きみたち、ぼくが沈没し去る潮流から
いつかうかびあがってくるきみたち。

思えぼくらの弱さを言うときに
この時代の暗さをも、
きみらの免れた暗さをも。

事実ぼくらは、靴をよりもしばしば土地をはきかえて
絶望的に、階級間の戦いをくぐっていったのだ、
不正のみ行われ、反抗が影を没していたときに。
とはいえ、無論ぼくらはしっている。
憎悪は、下劣に対する憎悪すら
顔をゆがめることを、
憤怒は、不正に対する憤怒すら
声をきたなくすることを。
ああ、ぼくたちは
友愛にのみ生きることは不可能だった。
だがきみたち、いつの日かついに
ひととひとがみな手をさしのべあうときに
思え、ぼくたちをひろい心で。

サッチモ 「Blueberry hill」 2022/06/14

2022-06-14 03:33:39 | 日記
黒人歌手の中でもジャズの定番のように聞くようになったルイ・アームストロング。サッチモの愛称で親しまれました。
また彼ほどアメリカだけではなく世界でアメリカ人の顔のように慕われた黒人、アフリカ系アメリカ人を自負していた歌手は居ないのではないかと思います。

1960年内戦下のコンゴ民主共和国でライブをしたときには、敵味方関係なく停戦して皆でサッチモの曲を聞き入り、彼が去ったあとに内戦が再開されるという逸話に代表されるように、誰からも愛されました。

そんな彼の曲の中でもブルーベリー・ヒルは大好きなナンバーです。
サッチモの曲は明るく振る舞いながらどことなく寂しい。それは何もかも失った人間が、あの頃を懐かしむ郷愁のようなもののことなのでしょうか。