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森鴎外  『高瀬舟】 旧字旧仮名8888字(大正五年一月「中央公論」第三十一年第一號)

2008-09-24 13:22:54 | 出版社(ベスト500社)
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 東京帝国大学


高瀬舟
森鴎外



 高瀬舟(たかせぶね)は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島(ゑんたう)を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごひ)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。
 當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰惡(だうあく)な人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科(とが)を犯した人であつた。有り觸れた例を擧げて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。
 さう云ふ罪人を載せて、入相(いりあひ)の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類の者とは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族(けんぞく)の悲慘な境遇を細かに知ることが出來た。所詮町奉行所の白洲(しらす)で、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書(くちがき)を讀んだりする役人の夢にも窺ふことの出來ぬ境遇である。
 同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ氣色には見せぬながら、無言の中に私かに胸を痛める同心もあつた。場合によつて非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた。
 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。

     ――――――――――――――――

 いつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄(せいへい)を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院(ちおんゐん)の櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。
 それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。
 護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉(やせじし)の、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。
 庄兵衞は不思議に思つた。そして舟に乘つてからも、單に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の擧動に、細かい注意をしてゐた。
 其日は暮方から風が歇(や)んで、空一面を蔽つた薄い雲が、月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳(へさき)に割かれる水のささやきを聞くのみである。
 夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。其額は晴やかで目には微かなかがやきがある。
 庄兵衞はまともには見てゐぬが、始終喜助の顏から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。
 庄兵衞は心の内に思つた。これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆ど同じやうに、目も當てられぬ氣の毒な樣子をしてゐた。それに此男はどうしたのだらう。遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。罪は弟を殺したのださうだが、よしや其弟が惡い奴で、それをどんな行掛りになつて殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、その人の情と云ふものが全く缺けてゐる程の、世にも稀な惡人であらうか。どうもさうは思はれない。ひよつと氣でも狂つてゐるのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合はぬ言語や擧動がない。此男はどうしたのだらう。庄兵衞がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。

     ――――――――――――――――

 暫くして、庄兵衞はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助。お前何を思つてゐるのか。」
「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衞の氣色を伺つた。
 庄兵衞は自分が突然問を發した動機を明して、役目を離れた應對を求める分疏(いひわけ)をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。實はな、己は先刻からお前の島へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟で大勢の人を島へ送つた。それは隨分いろいろな身の上の人だつたが、どれもどれも島へ往くのを悲しがつて、見送りに來て、一しよに舟に乘る親類のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の樣子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一體お前はどう思つてゐるのだい。」
 喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くといふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれは世間で樂をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖(す)む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろと仰やつて下さいます。そのゐろと仰やる所に落ち著いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい體ではございますが、つひぞ病氣をいたしたことがございませんから、島へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目(てうもく)を戴きました。それをここに持つてをります。」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を當てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣すと云ふのは、當時の掟であつた。
 喜助は語を續いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで爲事(しごと)に取り附きたいと思つて、爲事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰つた錢は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする爲事の本手にしようと樂しんでをります。」かう云つて、喜助は口を噤んだ。
 庄兵衞は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事毎に餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。
 庄兵衞は彼此初老に手の屆く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。庄兵衞は五節句だと云つては、里方から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填(う)めて貰つたのに氣が附いては、好い顏はしない。格別平和を破るやうな事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、是が原因である。
 庄兵衞は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は爲事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにも哀な、氣の毒な境界である。しかし一轉して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米(ふちまい)を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂はば十露盤(そろばん)の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相當する貯蓄だに、こつちはないのである。
 さて桁を違へて考へて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出來る。しかしいかに桁を違へて考へて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。
 喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出來るだけで滿足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである。
 庄兵衞はいかに桁を違へて考へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに滿足を覺えたことは殆ど無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奧には、かうして暮してゐて、ふいとお役が御免になつたらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼(ぎく)が潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。
 一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれはである。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い處にあるやうだと、庄兵衞は思つた。
 庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。
 庄兵衞は今さらのやうに驚異の目を(みは)つて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光(がうくわう)がさすやうに思つた。

     ――――――――――――――――

 庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と云つたが、これは十分の意識を以て稱呼を改めたわけではない。其聲が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衞は此稱呼の不穩當なのに氣が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出來なかつた。
「はい」と答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそる/\庄兵衞の氣色を覗つた。
 庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて云つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞せてくれぬか。」
 喜助はひどく恐れ入つた樣子で、「かしこまりました」と云つて、小聲で話し出した。「どうも飛んだ心得違(こゝろえちがひ)で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫(じえき)で亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れた狗(いぬ)の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引(そらびき)と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。或る日いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は布團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて『どうした/\』と申しました。すると弟は眞蒼な顏の、兩方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆう/\と云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やう/\物が言へるやうになつたのでございます。『濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く/\と思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜(こぼ)れはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の咽の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる/\廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷(や)めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとう/\、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、拔いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝を撞(つ)くやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つた切、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應(てごたへ)は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて來て又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆(としよりしゆう)がお出になつて、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顏を見詰めてゐたのでございます。」
 少し俯向き加減になつて庄兵衞の顏を下から見上げて話してゐた喜助は、かう云つてしまつて視線を膝の上に落した。
 喜助の話は好く條理が立つてゐる。殆ど條理が立ち過ぎてゐると云つても好い位である。これは半年程の間、當時の事を幾度も思ひ浮べて見たのと、役場で問はれ、町奉行所で調べられる其度毎に、注意に注意を加へて浚つて見させられたのとのためである。
 庄兵衞は其場の樣子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、其疑を解くことが出來なかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、拔いてくれと云つた。それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。
 庄兵衞の心の中には、いろ/\に考へて見た末に、自分より上のものの判斷に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに從ふ外ないと云ふ念が生じた。庄兵衞はお奉行樣の判斷を、其儘自分の判斷にしようと思つたのである。さうは思つても、庄兵衞はまだどこやらに腑に落ちぬものが殘つてゐるので、なんだかお奉行樣に聞いて見たくてならなかつた。
 次第に更けて行く朧夜に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべつて行つた。

(大正五年一月「中央公論」第三十一年第一號)





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底本:「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
   1962(昭和37)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
入力:青空文庫

河東碧梧桐   「南予枇杷行」 4700字 (昭和4)

2008-09-20 18:56:19 | 出版社(ベスト500社)
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
〈ハーバード大・東大・早大・慶大・学生街・図書館・サークル〉
調べもの新聞 (高校生新聞) 中村惇夫  宮正孝


南予枇杷行
河東碧梧桐



 上り約三里もある犬寄(いぬよせ)峠を越えると、もう鼻柱[#「鼻柱」は底本では「鼻桂」]を摩する山びやうぶの中だ。町の名も中山。
 一つの山にさきさかつてゐる栗の花、成程、秋になるとよくこゝから栗を送つてくる。疾走する車の中でも、ある腋臭を思はせる鼻腔をそゝる臭ひがする。栗の花のにほひは、山中にあつてのジャズ臭、性慾象徴臭、などであらう。
 南伊予には、武将の名を冠したお寺が多い。長曽我部氏に屠られた諸城の亡命者が山中にかくれて寺号の下に安息の地を得たのだともいふ。
 中山にも「盛景寺」がある。勤王の武将河野盛景の創建、今は臨済宗である。現住僧は私の回縁者である。玉井町長を始め、数氏と共にその招宴に列した。
 食後一かごの枇杷が座右に置かれる。この辺は伊予の名物唐川(からかわ)枇杷の本場である。唐川枇杷も、長崎種子を根接ぎしで、播種改良に没頭してゐるので、土地の特有の影は地を掃らつて去らうとしてゐる。この枇杷は豊満な肉づきを思はしめる改良種のそれとは全く別趣だ。小粒で青みを帯びてゐる。産毛の手につくのすらが、古い幼な馴染に出会つた、懐旧の情をそゝる。ほのかに残つてゐる酸味は、今もぎたてのフレッシュを裏書きするのである。食ふに飽くことを知らぬ。南予枇杷行の感、殊にその第一日といふので深い。前途に尚黄累々たる、手取るに任せ足踏むに委する、甘潤満腹の地をさへ想見せしめる。
 この枇杷は、寺内土着の古木の産であるといふ。創建者盛景の唯一の遺跡とも見るべき枇杷風景か。

 大洲(おほず)の町には、昔から少名彦命に関する伝説口碑がいろいろあつた。町の背ろ柳瀬山続きに、その神陵と目さるゝ古墳さへがある。文政年間、菅田村の神主二宮和泉、その神陵確認を訴へ出て、当局の忌避に触れ、その志を継いだ矢野五郎兵衛なる者は、却つて獄に投ぜられた事実がある。
 一体少名彦命といふ方が、どういふ事跡を持たれてゐるのか、僅に古事記、日本書紀、出雲、播磨、伊豆、伊予等各地風土記に現れた簡素な筆によつて、それが大国主命の補佐者であり、蒙昧を開拓して各地を巡遊されたといふ事位しか判然してゐない。
 最近この大洲の町をとり囲む――それがやがて口碑にいふ所の少名彦命の陵を中心にして――神南備(かんなんび)山、如法寺山(ねほうじやま)、柳瀬山、高山に出雲民族の特性とも見らるゝ巨石文化――巨石をまつり、そを神聖視する祭壇的設備――の遺跡を、余りに著るしい数で発見した。
 この巨石文化の発見は、当然少名彦命の口碑と結びつくべき運命である。大洲を中心とする一区画が巨石文化の宝庫であり、他に比類のない盛容であるのは、神代当時の重要地域および重要人物との関聯をも裏書きするのである。
 少名彦命の神陵も、この傍系によつて確認されなければならない。
 肱川の上流、菅田のほとり、荒瀬を渉らうとされた命を、川向ひの老婆が認めて、そこ危しと声をかけたにも拘らず、お向きかはりされる間もなく御流れになつた、といふ最期の一シーンまでが、同時に確認されなければならなくなる。
 従来巨石文化の遺跡として知られてゐるのは、大和三輪のそれである。三輪(みわ)は大国主命をまつるといはれてゐるが、その巨石群は大洲柳瀬(やなぜ)山に発見されたのと、ほぼ同一規模であるといふ。その他石を神体とする大小諸社各地に散在してゐるが、大洲のそれのやうに、立石(メンヒル)、机石(ドルメン)、環状石群(ストーン・サアクル)等各種の形状を尽くして、整備保存せらるゝもの、真に天下無比であるといふので、有史以前の考古探討趣味は、蝸牛角上の争ひである現町政をさへ圧倒しつゝある。

 考古探訪癖は、私も幸ひに持ち合はせてゐる。外科医にして巨石狂の称ある城戸氏を先導に、まづ高山の「疣石」と俗称のあるドルメンから見学する。出石寺といふ弘法大師の開いた霊地へ通ふ峠の茶店の側にある。神代二神の垂迹の巨石、今や燦然として輝けば、四国最古の文化を語つてゐた弘法の垂迸も、ために光を失ふ。
 ドルメンの「疣石」は、今でも土民崇拝の霊石で、祈ればいぼがとれるといふ。七尺に十二尺、厚さ八尺の机形の石は天然にころがつてゐるのでなくて、割石の基礎工事を施した上に安置されてゐるのみならず、この大石を中心に、四方に霊域をかぎつたと思はれる、環状石群の遺石がある。このドルメンが、天神地祇をまつる祭壇であるか、それともたれか貴人を葬つた墓標であるか、まだ断定されてゐない。試みにその地下数尺を掘つて見たが、これといふ遺物を発見しなかつたともいふ。
 更に数町を登つて、俗称「石仏」のメンヒルの前に立つ。この石を橋梁用に下さうと曽て掘り倒した翌朝、もとのやうに立つてゐたので、村民が恐れをなした、など口碑がある。石の前には香華が供へてあり、祈願のかなつたしるしか、高さ一丈四尺の石面にはブリキ作りの鳥居が所々打ちつけてあつたりする。
 この石仏から、曲流する肱川と大洲の町を見おろす眺望は、一幅の画図である。富士形をした如法寺山の、斧鉞を知らぬ蓊鬱な松林を中心にして、諸山諸水の配置は、正に米点の山水である。
 もし巨石群の遺跡に富む「男(お)かん」「女(め)かん」二峰の神南備山が、鬼門を守つて立つならば、この高山の石仏は、正にその正反対の裏鬼門にあたる。神南備の頂上に俗称「おしようぶ岩」のドルメンのあるに対して、この高山に立石のメンヒル――として稀有の高さを持つ――を立てたのは、神代にも天体の観測による方角観念の支配した結果でないであらうか。
 次いで村社三島神社境内にある立石――この立石を祀つた遺習が、今の三島神社建立の因となつたと想像される――を見て、暫く神社の回り縁に腰して休む。同行の一人、この山に野生するとも見えた枇杷を米嚢に一杯かついでくる。飢ゑた渇いた咽喉に、正に甘露の糧であつた。思ひを我等祖先の悠久な原始時代に馳せて、彼等が巨石の霊を信じながら、祭祀の盛典を設けた時分から、こゝに生ひ立ちみのつてゐたであらうところの、枇杷を口にする奇遇をしみ/″\感ずるのでもあつた。さうしてそれは又私の南予枇杷行のクライマツクスでなければならなかつた。

 翌日は巨石文化に関聯する、少名彦命の神陵に参拝した。途中に「神楽駄場(かぐらだば)」の平地があり、霊地を象徴する環状石群があり、遠き昔から「いらずの山」としてもつたいづけられてゐた神陵所在地は、近年或る淫祠建立のため蹂躪され、その土饅頭式陵墓の大半を破壊されてしまつた。それも某盲人の無智な少名彦神尊に端を発すといふ。
 維新前の大洲藩は、少名彦命神陵決定の場合、あるひは天領となるを恐れ、俗吏根性から極力その証左を湮滅せしめようとした形跡さへがあつた。無智な敬神観念が、陵墓の何たるやを理解せず原形を破壊する位、むしろ当然であつたかも知れぬ。
 今後に残された問題は、合法的研究と、物的証左の収集によつて、神産巣日御祖命の手の俣から漏し御子――古事記――ともいはるゝ少名彦命時代のばうばくたる伝奇の上に、多少とも史実の光明を照射することである。大陸民族の渡来と信ぜらるゝ出雲民族の上に加へらるゝ史実的批判、その材料は、出雲の郷土よりも、却てこの大洲に恵まれてゐるとも見るべきなのである。

 伊予第一の長流肱川は丁度香魚狩り時季であつた。坂石といふあたりまで自動車を駆つて、そこから舟を下す。大洲まで約七八里。
 両岸重畳の山々高からねど、翠微水にひたつて、風爽やかにたもとを払ふ。奇岩怪石の眼を驚かすものなけれど、深潭清澄の水胸腔に透徹す。男性的雄偉は欠くも、女性的和暢の感だ。ところ/″\早瀬に立つ友釣りの翁から、獲物の香魚をせしめて、船頭の削つた青い竹ぐしで焼きあげる。浅酌低唱的半日の清遊だつた。
 一人の漁夫に喚びかけて、香魚の釣れ高をきくと、それが大洲署長さんであつたなどのカリカチユヤもあつた。一日吹き通した南風が舟を捨てる間際、沛然たる驟雨になつた。掉尾の爽快さも忘れられない光景であつた。
 思ふに、肱川のやうに、どこまでさかのぼつても、どこまで下つて見ても、いつも同じところに停滞してゐるやうな感じは、環境の大小深浅の相違はあれ、支那の揚子江のそれのやうに、大江的趣致であるともいへる。たゞこれは山容水態、淡装をこらした美女佳妓の侍座する四畳半式なだけだ。
 四畳半式も結局、上流に如法寺山を控へ、臥竜淵を添へ、下流に城跡の小丘、高山の屏風をめぐらして、大きくS字形に曲流する大洲の肱川観が、この長流の中心、その枢要の地であるといふことになる。
 風景にも恵まるゝ大洲町であることを祝福せねばならない。

 この風光明媚の地、一人の人材を生まざりしや。
 曽て如法寺に駐杖した盤珪禅師は播磨の人であり、藩公の招聘に応じた中江藤樹は近江生れであつた。維新前蘭学の輸入に際し、一商賈の身をもつて、疾くシーボルトの門下に馳せた三瀬諸淵は、お隣の新谷町に生れて岩倉公に侍し、憲法制定に尽瘁した香渡晋と共に、近代先覚者の名をほしいまゝにするものである。
 諸淵の伝記をこゝに叙する余裕はない。シーボルトについて蘭学医学を研めた三十九歳の生涯は二度獄に投ぜられ、後シーボルトの孫女を配偶者に迎へるまで、過渡的維新史の数奇な裏面史であつた。
 大阪に客死した当時の墓碑は、諸淵の甥三瀬彦之進によつて、現に大洲町大禅寺に移されてゐる。その墓碑を守りて、なほ生けるに仕ふる如き彦之進氏も、洋学を志して古武士の風を存した諸淵没後を辱かしめざる、洒脱朴訥の士、現に大洲名物第一者であるのを奇とする。
 香渡氏に関しては、他日又記することもあらう。前日大洲に至る途中、その生家を訪問して、遺族諸氏に面接した。岩倉公と往復の信書なほ幾多現存する。思ふに、貴重な維新史料でなければならない。

 八幡浜(やわたはま)町は、山中でありながら又海岸である、天賦の港湾である。深く湾入した海には、港口を扼する佐島がある。自から風波を防いで、南予の要港となつた。されば維新時代一漁村に過ぎなかつた寒村が、今や豪富軒を列ぶる殷盛を極めてゐる。昨今天下を支配する生繭相場も、この地の出来値を一基とするともいふ。
 神代遺跡をもつて誇る大洲との間に「夜昼峠」がある。彼は東陽、これは西陰、彼は上古史、これは近代史、原始と新進の対照、「夜昼峠」は正に的確な名詮自称である。
 川之石町にも遊んで、天下第三位を占めるといふ蚕種製造所を一見することを得た。
 さうして両地とも、土地特有の枇杷に親しんで、連日陰うつな梅雨日和を、しかも清爽な気持で過ごした。敢て白氏の琵琶行に擬する所以ではない。徒らに吐くべき核子の多きを恥ぢるのみである。





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底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※この作品は、1929(昭和4)年7月に執筆された。
※「垂迩」は、校正に使用した1983(昭和58)年12月1日第4刷に従って、「垂迹」にあらためました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:

梶井基次郎路上  4400字 底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫

2008-09-18 08:33:16 | 出版社(ベスト500社)
高大連携情報誌 調べもの新聞 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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路上
梶井基次郎



 自分がその道を見つけたのは卯(う)の花の咲く時分であった。
 Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許(もと)へ行くのにMからだと大変大廻りになる電車が、Eからだと比較にならないほど近かったからだった。ある日の帰途気まぐれに自分はEで電車を降り、あらましの見当と思う方角へ歩いて見た。しばらく歩いているうちに、なんだか知っているような道へ出て来たわいと思った。気がついてみると、それはいつも自分がMの停留所へ歩いてゆく道へつながって行くところなのであった。小心翼々と言ったようなその瞬間までの自分の歩き振りが非道(ひど)く滑稽に思えた。そして自分は三度に二度というふうにその道を通るようになった。
 Mも終点であったがこのEも終点であった。Eから乗るとTで乗換えをする。そのTへゆくまでがMからだとEからの二倍も三倍もの時間がかかるのであった。電車はEとTとの間を単線で往復している。閑(のどか)な線で、発車するまでの間を、車掌がその辺の子供と巫山戯(ふざけ)ていたり、ポールの向きを変えるのに子供達が引張らせてもらったりなどしている。事故などは少いでしょうと訊(き)くと、いやこれで案外多いのです。往来を走っているのは割合い少いものですが、など車掌は言っていた。汽車のように枕木の上にレールが並べてあって、踏切などをつけた、電車だけの道なのであった。
 窓からは線路に沿った家々の内部(なか)が見えた。破屋(あばらや)というのではないが、とりわけて見ようというような立派な家では勿論(もちろん)なかった。しかし人の家の内部というものにはなにか心惹(ひ)かれる風情(ふぜい)といったようなものが感じられる。窓から外を眺め勝ちな自分は、ある日その沿道に二本のうつぎを見つけた。
 自分は中学の時使った粗末な検索表と首っ引で、その時分家の近くの原っぱや雑木林へ卯(う)の花を捜しに行っていた。白い花の傍へ行っては検索表と照し合せて見る。箱根うつぎ、梅花うつぎ――似たようなものはあってもなかなか本物には打(ぶ)つからなかった。それがある日とうとう見つかった。一度見つかったとなるとあとからあとからと眼についた。そして花としての印象はむしろ平凡であった。――しかしその沿道で見た二本のうつぎには、やはり、風情と言ったものが感ぜられた。

 ある日曜、訪ねて来た友人と市中へ出るのでいつもの阪(さか)を登った。
「ここを登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は言った。
 富士がよく見えたのも立春までであった。午前は雪に被(おお)われ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見えていた。夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜(あかね)の空に写すのであった。
 ――吾々(われわれ)は「扇を倒(さかさ)にした形」だとか「摺鉢(すりばち)を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振り返るような気持であった。

(春先からの徴候が非道(ひど)くなり、自分はこの頃病的に不活溌な気持を持てあましていたのだった。)

「あの辺が競馬場だ。家はこの方角だ」
 自分は友人と肩を並べて、起伏した丘や、その間に頭を出している赤い屋根や、眼に立ってもくもくして来た緑の群落のパノラマに向き合っていた。
「ここからあっちへ廻ってこの方向だ」と自分はEの停留所の方を指して言った。
「じゃあの崖(がけ)を登って行って見ないか」
「行けそうだな」
 自分達はそこからまた一段上の丘へ向かった。草の間に細く赤土が踏みならされてあって、道路では勿論なかった。そこを登って行った。木立には遮(さえぎ)られてはいるが先ほどの処(ところ)よりはもう少し高い眺望があった。先ほどの処(ところ)の地続きは平にならされてテニスコートになっている。軟球を打ち合っている人があった。――路らしい路ではなかったがやはり近道だった。
「遠そうだね」
「あそこに木がこんもり茂っているだろう。あの裏に隠れているんだ」
 停留所はほとんど近くへ出る間際まで隠されていて見えなかった。またその辺りの地勢や人家の工合では、その近くに電車の終点があろうなどとはちょっと思えなくもあった。どこかほんとうの田舎じみた道の感じであった。
 ――自分は変なところを歩いているようだ。どこか他国を歩いている感じだ。――街を歩いていて不図(ふと)そんな気持に捕らえられることがある。これからいつもの市中へ出てゆく自分だとは、ちょっと思えないような気持を、自分はかなりその道に馴(な)れたあとまでも、またしても味わうのであった。
 閑散な停留所。家々の内部の隙見える沿道。電車のなかで自分は友人に、
「情旅を感じないか」と言って見た。殻斗科(かくとか)の花や青葉の匂いに満された密度の濃い空気が、しばらく自分達を包んだ。――その日から自分はまた、その日の獲物だった崖からの近道を通うようになった。

 それはある雨あがりの日のことであった。午後で、自分は学校の帰途であった。
 いつもの道から崖の近道へ這入(はい)った自分は、雨あがりで下の赤土が軟(やわらか)くなっていることに気がついた。人の足跡もついていないようなその路は歩くたび少しずつ滑った。
 高い方の見晴らしへ出た。それからが傾斜である。自分は少し危いぞと思った。
 傾斜についている路はもう一層軟かであった。しかし自分は引返そうとも、立留って考えようともしなかった。危ぶみながら下りてゆく。一と足下りかけた瞬間から、既に、自分はきっと滑って転(ころ)ぶにちがいないと思った。――途端自分は足を滑らした。片手を泥についてしまった。しかしまだ本気にはなっていなかった。起きあがろうとすると、力を入れた足がまたずるずる滑って行った。今度は片肱(ひじ)をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やっとその姿勢で身体は止った。止った所はもう一つの傾斜へ続く、ちょっと階段の踊り場のようになった所であった。自分は鞄(かばん)を持った片手を、鞄(かばん)のまま泥について恐る恐る立ち上った。――いつの間にか本気になっていた。
 誰かがどこかで見ていやしなかったかと、自分は眼の下の人家の方を見た。それらの人家から見れば、自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一生懸命やっているように見えるにちがいなかった。――誰も見ていなかった。変な気持であった。
 自分の立ち上ったところはやや安全であった。しかし自分はまだ引返そうともしなかったし、立留って考えてみようともしなかった。泥に塗(まみ)れたまままた危い一歩を踏み出そうとした。とっさの思いつきで、今度はスキーのようにして滑り下りてみようと思った。身体の重心さえ失わなかったら滑り切れるだろうと思った。鋲(びょう)の打ってない靴の底はずるずる赤土の上を滑りはじめた。二間余りの間である。しかしその二間余りが尽きてしまった所は高い石崖の鼻であった。その下がテニスコートの平地になっている。崖は二間、それくらいであった。もし止まる余裕がなかったら惰力で自分は石垣から飛び下りなければならなかった。しかし飛び下りるあたりに石があるか、材木があるか、それはその石垣の出っ鼻まで行かねば知ることができなかった。非常な速さでその危険が頭に映じた。
 石垣の鼻のザラザラした肌で靴は自然に止った。それはなにかが止めてくれたという感じであった。全く自力を施す術(すべ)はどこにもなかった。いくら危険を感じていても、滑るに任せ止まるに任せる外はなかったのだった。
 飛び下りる心構えをしていた脛(すね)はその緊張を弛(ゆる)めた。石垣の下にはコートのローラーが転がされてあった。自分はきょとんとした。
 どこかで見ていた人はなかったかと、また自分は見廻して見た。垂れ下った曇空の下に大きな邸(やしき)の屋根が並んでいた。しかし廓寥(かくりょう)として人影はなかった。あっけない気がした。嘲笑(あざわら)っていてもいい、誰かが自分の今為(し)たことを見ていてくれたらと思った。一瞬間前の鋭い心構えが悲しいものに思い返せるのであった。
 どうして引返そうとはしなかったのか。魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。――破滅というものの一つの姿を見たような気がした。なるほどこんなにして滑って来るのだと思った。
 下に降り立って、草の葉で手や洋服の泥を落しながら、自分は自分がひとりでに亢奮(こうふん)しているのを感じた。
 滑ったという今の出来事がなにか夢の中の出来事だったような気がした。変に覚えていなかった。傾斜へ出かかるまでの自分、不意に自分を引摺(ひきず)り込んだ危険、そして今の自分。それはなにか均衡のとれない不自然な連鎖であった。そんなことは起りはしなかったと否定するものがあれば自分も信じてしまいそうな気がした。
 自分、自分の意識というもの、そして世界というものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くような気持に自分は捕らえられた。笑っていてもかまわない。誰か見てはいなかったかしらと二度目にあたりを見廻したときの廓寥(かくりょう)とした淋しさを自分は思い出した。

 帰途、書かないではいられないと、自分は何故か深く思った。それが、滑ったことを書かねばいられないという気持か、小説を書くことによってこの自己を語らないではいられないという気持か、自分には判然(はっきり)しなかった。おそらくはその両方を思っていたのだった。

 帰って鞄(かばん)を開けて見たら、どこから入ったのか、入りそうにも思えない泥の固りが一つ入っていて、本を汚していた。





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底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年9月16日公開
2005年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:













【東京検定:①~⑩】 

2008-09-16 10:59:13 | 出版社(ベスト500社)
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2008-09-16 10:55:27 | 出版社(ベスト500社)
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