2002年1月16日
ぼくが初めて三国志を読んだのは、20歳の頃だった。その頃のぼくはやることもなく、いつも暇つぶしに本屋に行っていた。
「どうせ暇だから、長編でも読んでみるか」と手に取ったのが、吉川英二の『三国志』だった。
文庫版全8巻を買い込んで読んでみた。ところが、とにかく登場人物が多く、一度や二度読んだくらいではその関係がつかめなかった。それがわからないと、物語の流れがつかめない。そこで納得のいくまで繰り返し読んでいき、5回ほど読んだあたりで、ようやく物語の流れをつかむことができた。
しかし、解説などに書いている「すごい感動」を味わうまでにはいたらず、さらに「これを読んだ人は必ず泣く」と言われている『出師の表』を読んでも泣けない。
「読み方が足りないのか」などと思いながら、また何度も読んだ。
10回は読んだだろうか。それでも、ぼくは感動を味わえない。泣けない。
諸葛孔明が出てくるまでの前半4巻は疲れるし、孔明が死んでからは面白くない。すでに内容を知ってしまっているから、感動もくそもなく、結局「三国志は、おれには合わん!」と投げ出してしまった。
「劉備玄徳が人肉を食べた」ということが、変に印象に残っただけだった。
その後も、正史の『三国志』や柴田錬三郎の「柴錬三国志」などを読んでみたが、感動したとか泣いたなどということはなかった。やはりぼくには『三国志』は合ってなかったのだろう。
社会に出て10年ほど経った頃の話だが、会社の人間が急に『三国志』を読み出したことがある。何でも本社の社長が『三国志』を読んで感動したということで、社員に薦めているということだった。
その時の店長がみんなに向かって、
「お前たちもくだらんマンガばかり読んでないで、三国志のようないい本を読め。こういう本で自分を磨いていけ」と言ったのだが、そういう店長が読んでいたのは、マンガの『三国志』だった。
社長が「読め」と言うから読むような、そんな主体性のない人間から言われたくない。自分を磨く本は、ちゃんと自分で探すべきだ。
「社長がいいと言うから三国志を読む」では何のためにもならないということを、
「人が感動すると言うから三国志を読んでいた」ぼくは知っていた。