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しんごの部屋2

訪問ありがとうございます。
随想を主としたブログです。
つれづれなるままに書いています。

復活祭も終わり・・

2010年04月21日 | 日記
このページのこの前の記事は冬季オリンピックに関してでしたから、もう2カ月以上経過しています。イースター、神学校の卒業式、入学式、教会における教師任命式、教会学校の進級式、ゴスペルコンサート、年次総会など、通常の礼拝や集会、プログラム以外にも、多くの行事が続きました。

まだまだ、しなければならないことは、山積みのようにありますが、今は、すこしゆったりして、私自身リフレッシュしなければいけない時のように思っています。
昨日は久しぶりに庭の手入れをし、今日はパソコンに向かってHPの更新をしています。

イエスさまは、神と人のために、日々熱心に働いておられましたが、いつも心には余裕を持っておられました。父なる神に信頼し、神の愛の中に安息しておられたからです。

私は、忙しくなると、追われるようにバタバタと忙しく働いて、平安を失うことが良くあります。イエス様にならって、神の愛の中に安息することを忘れないでいたいと思っています。

もっと広い心が必要ではないだろうか。

2010年02月19日 | 日記
スノーボードのひとりの選手が、服装の乱れと、言動の未熟さで非難を浴び、謝罪を余儀なくされた。社会人としての常識からはずれていたのは確かであるが、果たして目くじらを立てて非難するほどのことであっただろうか。

私は、人を「品行方正」という、ある決まった社会規範に無理やりはめ込もうとする、非難する人々に、むしろ問題を感じています。

オリンピックの参加条件に、品格が加わっているなら、弁解の余地はないが、それはなかったように思います。選手の人格的に未熟な面があっても、20歳そこそこで、スノーボードに熱中し、出場出来るまでには、相当な努力も必要であっただろう。人格の成長が伴っていなくても、広い心で受け入れ、これから、彼にアドバイスするなどのことで、かれが人格的に成長するのを助けてあげるほうが愛情あるというものである。

しかし、当の選手にとっては、このように非難を浴びたことは、決してマイナスにはならないと思います。この経験が、彼を成長させることになるでしょう。

むしろ、成長しなければいけないのは、非難し謝罪させることを当然のことだと思って、非難することの心の狭さと、自分たちの価値観に無理やり合わさせようとする人々のほうではないかと、思えてならない。

オリンピックを前に思うこと

2010年02月13日 | 日記
冬季オリンピックが始まる。
出場選手のことが、マスメディアで取り上げられている。
応援する側からは、勝手な期待をするが、選手のほうは、
自分をコントロールするのが大変だろう。

周囲の期待に応える成績をあげた時には、「皆さまの支えがあって・・・」
とインタビューで答え、応援する側も、その成績に満足し、選手の自分ひとり
で出来たのではない、という謙虚な気持ちに満足する。

では、期待の応えられなかった時にも、応援する側は、ともにその結果に責任を感じるか
というと、どうもそうでは無いようである。成績をあげられなかった選手や実際にサポート
した人々の責任で、テレビで見て勝手な期待をする自分には責任を感じることはすくない。

私は、メダルを期待する自分の身勝手さは、いったいなんだろうかと、考えている。
メディアに踊らされている自分が腹立たしくすらある。

「前回は金メダル一つ取れた、参加者みんなが全力で競技した素晴らしい祭典の証し
 としての金メダルだ。今回はメダルはゼロであるかもしれない。100個かもしれない。
 しかし、出場選手のこれまでの、たゆまない努力の、一つのゴールとして彼らが全力で
 競技するのを、愛情をもって見守ろうではないか。」

もし、私が大手メディアの論説主幹者であって、こんな内容を語ったら、日本の国民は
どんな反応をするだろうか。私は、共感してくれる人は、日本よりもむしろ他の国々に
多くいるように感じています。

選手には、人々に支えられて参加出来ることに感謝と喜びを持ちながら、しかし人々の
期待には気にしないで、自分を信じて競技してほしいと思います。メダルは結果だから、
他の人が獲得したら祝福してあげればよい。自分が獲得したなら、獲得できなかった人を
思いやりながらも、これまでの努力が報われたことを素直に喜べばいいのではないか。

丁寧すぎる妻。

2010年02月09日 | 日記
笑い話のようですが、私には深刻な問題です。

結婚前から、丁寧すぎる妻のことが気になっていました。40年近く経った今も
変わることがないだけでなく、エスカレートしているように思います。

私なら、会釈で「このあいだはありがとう。」で済ませられる相手とお礼の内容
であっても、妻は私の母や姉に対してでも、
「この間は~してくださってありがとうございました。」と腰を折ってお礼を言います。
「そんな他人行儀にしなくても。」と言われても変わることはありません。

しかも、病気のせいで、同じ相手に同じ内容のお礼を言ったりします。
傍らで、私は相手の方がどう感じられるかを気にすることがしばしばです。

私と二人っきりになっても「私、誰々さんに何々のお礼を言ったかしら。
何かお礼にお返しをしなければいけないんじゃないかしら。」と繰り返します。
相当我慢強いほうだと自認している私ですが、何度も繰り返されると、
つい「ああ。丁寧すぎるお礼を、三度もいっていましたよ!」などと、
投げやり口調で言ってしまいます。
後になって、イエスキリストが「七度の七十倍赦しなさい。」と
言われた言葉を守ることは何と難しいことかと、
自分の至らなさを思わされることですが、後の祭りと言うもので、
機嫌を損ねた妻と向き合わなければなりません。

妻の丁寧すぎるのは、彼女の両親の影響が多分にあるようです。
ふとん屋の彼女の父は、顧客や人に対して、物腰の柔らかな人で、
お礼も、口頭でお礼を言った後で、お礼状を書くと言った人でした。
そんな両親を見て育ったからだと、私は彼女を理解していました。
いまさら、「ざっくばらんになるように。」などと言って変わる人でないことは
分かっていますから、私にとっても、丁寧すぎるのは窮屈ですが、諦めています。

けれども、最近妻が丁寧すぎる別の理由に私は気づいています。
それは、非常に怖がりで、人を恐れる性質が強いということです。
それが、人から非難されるのを恐れて、必要以上に丁寧にしているのではないか
ということです。

「人の思惑をあまり考えずに、もっと、気楽に生きていったら?」と言っても、
これも、たやすく考え方を変えることは出来ないようです。
そんな彼女を気の毒に思い、出来るだけ
気楽に考えるように、個々の事柄で助けることくらいしか、私には出来ないようです。

もっとも、言われても自分を変えることが困難なのは、妻だけではなく、私も同じです。
もっと、丁寧に人に接するように私はなりたいのですが・・・

聖書研究・説教のページを編集しています。

2010年02月02日 | 日記
今、ホームページの新しい部屋を更新中です。
まだ、公開していませんが、もうすぐ不完全なまま、
しんごの部屋のトップにリンクを張る予定です。
一つの記事を書くのに2~3時間があっという間に流れてしまいます。
妻が眠った後で作業しなければならないので、
私の睡眠時間がどうしても少なくなります。
でも、今のうちに、これまで私が研究したことや、
後の世代の人にぜひ書き遺しておきたいことが多くありますので、
このページの編集に、これからは力を注いで行くつもりです。
 すこし、専門的な文章で読みづらいかも知れませんが、
アップした時には、開いて読んでくださればうれしいです。