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社会空間研究所所員が世界の街で見聞きした面白い話を綴ります

山陰の街その5 石見銀山 トリビア

2015年04月06日 | 街並み

石見銀山 興味あるエピソード

これまで、山陰の知られていないまちを紹介してきましたが、今回は有名な?『石見銀山』です。

石見銀山は、数年前に世界遺産に登録されたことから話題となり、多くの書物やTVなどで紹介されていますので、その名前くらいは知っている方も多いでしょう。

このため、ここでは、都市計画家の目で見た、いくつかの興味あるエピソードを取りあげてみたいと思います。

 

山の中に、ある時、忽然と現れ、消えていった“人口20万のまち”※1

石見銀山を訪れるのは今回が初めてではなく、世界遺産に登録される前に何回か訪れています。

この時は、世間にそれほど知られたところでもなく、銀山のある大田市大森町は、山の中に埋もれたように静かに竚む、忘れられた街であった。

その時聞いた話として特筆すべきは、ここに最盛期20万人もの人が生活していたということです。

人口20万人といえば、島根県では県庁所在市の松江市のみであり、銀山のある大田市は、現在人口2.2万人に過ぎません。

さらに人口密度をみると、松江市は面積約570km2の広さがあり、人口密度は3.6人/haつまり100m×100mに3.6人の人口しか住んでいないのに対し、銀山の範囲は明確ではありませんが、銀山のある大田市大森町の面積約30km2に20万人が住んでいたとすると、人口密度はおよそ70人/haつまり100m×100mに70人が住んでいたことになります。

この数字は、高層住宅の密集している香港の人口密度にほほ等しい値なので驚きです。

また、調査によると140もの寺がこの狭い山あいにあったということで、今も、街中を歩くとあちこちに神社や寺が現われ、人の生活があれば、その人口(檀家数や氏子数)に見合った寺社があることを思い出させ、20万人が住んでいたことも納得です。

静かに眠るような山に囲まれて佇みながら、かって、たくさんの人が住み、賑わっていた街が、山陰の山の中にあったことを想像したものでした。

 

■山に囲まれた大森町

 

 

※1 「石見銀山旧記」という資料によると、銀山最盛期の江戸時代初期(慶長・元和・寛永頃) には、20 万人が生活していたという。

 

廃墟の街

国には、石見銀山のように、ある時忽然と現れ、消えていった街があり、現在、廃墟として残っているところもあります。

そのいくつかをあげると

①長崎県軍艦島(端島):廃墟の街として最も有名な炭鉱の町。最盛期には人口約5,300人(1960年)ということですが、人口密度は83.6人/haと高密度に人が居住していました。

②岩手県松尾鉱山:八幡平の標高900m「雲上の楽園」とも呼ばれた東洋一の硫黄鉱山の町。最盛期には山の中に約14,000人(1960年)が住んでいました。

 

神話の国に相応しく

出雲は“神話の国”と呼ばれ、素戔男尊や大国主命※2の伝説が伝わり、銀山のある石見地方にも神話を題材とした神楽“石見神楽”※3が伝わっています。

このように神話と深い関わりのある地域であることから、石見銀山の発見の話には多くの神がかり的な伝説が残っています。

大森町にある五百羅漢羅漢寺のHPによると古いものでは6世紀後半から7世紀にかけての時代に銀山のある仙ノ山※4の山頂に霊妙仏が光を放ちながら現れたという伝説が残っているそうです。

また、14世紀初めに周防(現山口市)の大内弘幸が代々の守護神である北辰星に祈り『石州の仙山は多くの銀を出す』という託宣を受けた※5といいます。

その後、銀山は16世紀に博多商人神屋寿亭によって再発見されるまで、わすれられていました。

そして、神屋寿亭の銀山再発見のきっかけも伝説的なもので、神屋寿亭の信心が観音様に通じ、海の上から「南の山に明るい光」を見て、それが銀山の発見につながったといわれています。

このように石見銀山発見の物語には、「光り輝く」というというものが必ずあり、この神秘さが神話の国に結び付けられます。

実際は、この頃の銀山は坑道を掘り進むというものではなく、地表にある自然銀の採取が主体であったことから、銀鉱石が地表で光ったのではないかと考えられないこともなく、それほど豊富にこの地域には銀があったのではないでしょうか。

 

※2 素戔男尊は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した神話で有名。大国主命は、国譲り神話で知られ、出雲大社の祭神。因幡の白兎の話でも有名。

※3 素戔男尊の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治を題材とした演目で知られる神楽で、ユネスコの無形文化遺産石州和紙で作られた張子面を付けて演じる。

※4 銀山地区の東にある標高537mの山。推古天皇(554~628)の時代。参考:高野山真言宗 石室山 無量寿院 五百羅漢 羅漢寺 HP

■岩に掘られた羅漢寺五百羅漢のお堂

 

※5 参考:「石見銀山旧記が伝える発見伝承」おおだwebミュージアム

 

国際語となった石見銀山の銀

今、世界遺産石見銀山と呼んでいますが、古くは、銀山地区の名称から“大森銀山”あるいは“佐摩銀山”(江戸時代初期の村名佐摩村から)と呼ばれていたといいます。

ところでオランダ、イギリスなどでは石見銀山で産出された銀のことを「ソモ(Somo)」あるいは「ソーマ(Soma)」と呼んでいたといわれ、古い石見銀山の呼び名がそのまま国際語となっていたそうです。

それほど石見銀山の銀は世界的にみて重要な地位を占めていたということでしょうか。

17世紀はじめの日本の銀産出量は年間200tほどで、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれ、このうち石見銀山は年間40tあまりを産出していたと推定されています。

この銀は、国内で消費されていただけではなく、当時、世界に進出していたポルトガルやオランダ、イギリスとの貿易に使われていたといいます。

豊富な産出量を誇る石見銀山の銀が、大航海時代の終わりのころに日本にまで進出していたポルトガルやオランダ、イギリスの世界における影響力によって世界に流通し、国際語になったと想像してみるのも楽しいといえます。

 

 

石見銀山ねずみ捕り』を知っていますか

現在は流通していませんが、江戸時代にヒ素を主原料としてつくられた猛毒の殺鼠剤のことです。

石見銀山ねずみ捕り」の名前の由来は、諸説あるようですが、売り子が売り歩くときの今でいうキャッチコピーとして使われていたといいます。

では、なぜ、石見銀山とねずみ捕りの原料となるヒ素が結びつけられ、キャッチコピーとなったのでしょうか。

私は、長いあいだ銀を採掘する際にその副産物として石見銀山でヒ素が精製されたことから、これを活用して殺鼠剤をつくっていたと思っていました。

ところが、津和野を旅行し、この地の鉱山王堀家庭園を訪ねたときに、石見銀山ではヒ素は産出されておらず、ヒ素は、同じ石見の国津和野町笹ヶ谷鉱山で銅を採掘した際に産出したもので、これから、殺鼠剤をつくり、「石見銀山ねずみ捕り」として売り歩いたということを知りました。

では、津和野町にあった堀家笹ヶ谷鉱山と石見銀山がどこでつながったかというと、どうやら、当時、石見銀山は全国区で名が知られていたが、銀の産出はほとんどなくなっており、逆に笹ヶ谷鉱山は、ヒ素を原料として殺鼠剤をつくったものの、無名に近く、キャッチコピーをつくるのに「笹ヶ谷鉱山ねずみ捕り」では売れないと判断したものと考えられます。

また、笹ヶ谷鉱山は、石見銀山奉行の管轄下にあり、銀の産出量が減り、経営が難しくなった石見銀山を笹ヶ谷鉱山のねずみ捕りが支えていたという話もあり、両者は、経済的に強く結びついていたといえます。

■津和野笹ヶ谷鉱山主堀家

 

 

『カリフォルニアのゴールドラッシュ』のような

鉱山といえば、一般には佐渡金山が有名であり、小説、映画、TVなどによく登場し、無宿人や罪人※6が強制的に働かされている場面がみられます。

一方で、石見銀山の鉱夫には佐渡のように罪人が使われることはなく、自由意思で働く労働者であり、その賃金水準は高かったということです。

このため、カリフォルニアのゴールドラッシュのように銀を求めて全国から人が集まり、20万人もの人が鉱山の関連者として町をつくっていたと考えられます。

 

ところで、ゴールドラッシュの時のカリフォルニアの人口は30万人程度といわれていますが、すべてが金を採掘した人たちではなく、人が集まれば、衣食住を提供する産業が生まれるように、この時も金採掘のおこぼれに与ろうと多くの人たちが集まったようです。

そこで一旗あげて今に残る企業を立ち上げた人達がいて、ジーンズのリーバイスが有名ですが、その他にもアメリカンエキスプレスの元となった金融業、輸送ではセントラルパシフィック鉄道、さらに教育機関としてのスタンフォード大学の創設、それにカリフォルニアワインもゴールドラッシュの産物といわれています。※7

 

石見銀山について経済の連関をみると、山陰地方は、古くから、大量の炭を燃料として砂鉄から鉄をつくる「たたら製鉄」が盛んであり、この炭と鉄が銀の採掘、製錬に必要であったことから、たたら製鉄業が、石見銀山の関連産業としての地位を得ていたと考えられます。

 

※6 実際は、佐渡金山においても、鉱夫は賃金労働者であり、無宿人・罪人の強制連行は、海抜下まで伸びた江戸時代後期に坑道を湧水から守るため、水替人足の補充として行われていた。

※7 参考:ゴールドラッシュ http//psycross.com/blog/?p=6713 

 

終わりに

都市や地域の発展の歴史をみると、人口規模が小さかった時代には、その地域で自給自足できる範囲でまちがつくられ、古代の中心地“府中”なども内陸部にありましたが、人口規模が大きくなるにしたがって、交通、特に運輸に便利な東京や大阪のような湊のあるところに大都市が形成されてきました。

山陰地方は、交通の面では、必ずしも利便性の高い地域とはいえないことから、銀、銅、鉄といった鉱山に頼って古代から発展してきたものの、鉱山が衰えた近世からは、次第に忘れられたところとなっていったと考えられます。

それが世界遺産の登録によって、年間80万人以上の人がこの地域を訪れるようになり、経済的には復興しつつあるともいえますが、反対に地域の生活を脅かす観光公害も指摘され、地域生活とバランスのとれた観光振興が課題となっているといいます。

資源あっての観光であり、観光によって地域生活を含めて、その資源が壊されるのであれば、本末転倒といえます。また、個人的には、潤うのは、地域の生活者ではなく観光業者であるということは、あってはならないと思っており、富士山の入山料にみられるよう、適切な規制により資源を守ることこそが、生活者、観光客の双方の満足度を上げ、観光業者にとっても望ましい地域をつくっていくものと考えます。

 

■バイパスによる交通の制限

 

*旧道と新道がはしご状に形成され、街中には車が入れないようになっている

■パークアンドライドによる交通の制限

*川沿いにつくられたパークアンドライド用駐車場

 

おまけ

■『石見左官』によるコテ絵

 

*技術立国を支えた北前船「鏝絵」

山陰の街その4 北前船とともに栄、そして北前船の終焉とともに忘れられたまち『鷺浦』を見てください。

 

記:錦織英二郎


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