僕が子供の頃、親父やお袋から
「出されたものは、全部食べなさい」
「ご飯粒を残したらダメだ」
と言われたものだ。
つい最近、
僕:俺はラーメンをスープまでしっかり食べる派だな
娘:それは「足りませんでした」って意思表示になるから、最後は残すのが普通だよ
という会話になった。
まぁ、どっちが正解ってものではないのだが、僕は両親の教えで、残さず食べるのが当たり前だと思っている。
娘たちにも、残さず食べるように教えたつもりだったが、今思い返してみると、ファミレスに行って、子供たちが「食べきれない」と言って残したものを、「お父さんが食べるからちょうだい」と言って、僕が食べきっていたような記憶がある。
娘たちの世代には、娘たちのマナーや暗黙の了解というものがあるのだろう。
確かに、全部たいらげたら、作り手としては「もしかしたら、たりなかったのかな?」と思うかも知れない。
一理あると思った。
でも、僕は「いただきます」の意味を考えた時、「命をいただきます」だと思っているので、「食べ物の命を無駄にせず、全てありがたくいただきます」との思いで、全て腹の中に入れるのが当たり前だと思っていた。
僕等の両親の時代、戦後の食糧難の中、腹いっぱい食べるなんて事は、滅多にない事だったらしい。
また、農家で育った両親は、「米一粒のありがたさ」というものを、僕に教えるために、「残さない美学」というのか、「残さない事の重要性」というのか、とにかく「お百姓さんが、一生懸命作ったものを無駄にしてはいけない」という事を、これでもかというくらいに言い聞かせていた。
時代は変わり、飽食の時代。
果たして、娘たちは「いただきます」の意味をどう感じたり、どう受け止めているのだろう?
先日、お客様との会話で
「マグロって、僕らが子供の頃は高級品で、滅多に食えるものじゃなかったですよね? 当たり前にマグロが食えるというのは、いい事なのかも知れないけど、高級品が当たり前に食えるようにって世の中が、少し違ってるような感じがするんですけど…」
と言ったら、
「もし、高級品が食えるのが当たり前なら、何万円もするフランス料理なんてものも当たり前に食えるようにするべきだよね」
という事になった。
これ、クロマグロの漁獲量が増えて、少しは値段が落ちそうだというニューズを見ながら出てきた話だ。
そもそも、物の値段とは誰が決めるのだろう?
それは、生産者と消費者のせめぎ合いであって、高ければ消費量は落ちるだろうし、安ければ生産者の儲けが減るという中で、「ちょうどいい価格」というものに落ち着くのだろう。
それを、「たくさん捕れるようになったから価格が落ちてくる」みたいな報道されたら、漁師さんも「今まで限界ぎりぎりで下ろしてたんだから、少しくらいもうけさせて欲しい」という「心の声」を言えない状態になってしまう…
なんで、外野が「是々非々」を決めるような言い方をするのだろう?
「儲けたい」という気持ちが、ある事は認めても、表現する事は許されないみたいな感があるような気がするのは僕だけだろうか?
「いつか、マグロの大トロを食えるようになりたい」
それって、昭和世代の考え方なのだろうか?
でも、時代は昭和だろうが、令和だろうが、やっぱり「ご飯を平気で残す」というのは違う気がするんだけどなぁ…
って、自分の娘との意見の違いが出ている親が言う事ではないって気もするんですけどね…(苦笑)
「出されたものは、全部食べなさい」
「ご飯粒を残したらダメだ」
と言われたものだ。
つい最近、
僕:俺はラーメンをスープまでしっかり食べる派だな
娘:それは「足りませんでした」って意思表示になるから、最後は残すのが普通だよ
という会話になった。
まぁ、どっちが正解ってものではないのだが、僕は両親の教えで、残さず食べるのが当たり前だと思っている。
娘たちにも、残さず食べるように教えたつもりだったが、今思い返してみると、ファミレスに行って、子供たちが「食べきれない」と言って残したものを、「お父さんが食べるからちょうだい」と言って、僕が食べきっていたような記憶がある。
娘たちの世代には、娘たちのマナーや暗黙の了解というものがあるのだろう。
確かに、全部たいらげたら、作り手としては「もしかしたら、たりなかったのかな?」と思うかも知れない。
一理あると思った。
でも、僕は「いただきます」の意味を考えた時、「命をいただきます」だと思っているので、「食べ物の命を無駄にせず、全てありがたくいただきます」との思いで、全て腹の中に入れるのが当たり前だと思っていた。
僕等の両親の時代、戦後の食糧難の中、腹いっぱい食べるなんて事は、滅多にない事だったらしい。
また、農家で育った両親は、「米一粒のありがたさ」というものを、僕に教えるために、「残さない美学」というのか、「残さない事の重要性」というのか、とにかく「お百姓さんが、一生懸命作ったものを無駄にしてはいけない」という事を、これでもかというくらいに言い聞かせていた。
時代は変わり、飽食の時代。
果たして、娘たちは「いただきます」の意味をどう感じたり、どう受け止めているのだろう?
先日、お客様との会話で
「マグロって、僕らが子供の頃は高級品で、滅多に食えるものじゃなかったですよね? 当たり前にマグロが食えるというのは、いい事なのかも知れないけど、高級品が当たり前に食えるようにって世の中が、少し違ってるような感じがするんですけど…」
と言ったら、
「もし、高級品が食えるのが当たり前なら、何万円もするフランス料理なんてものも当たり前に食えるようにするべきだよね」
という事になった。
これ、クロマグロの漁獲量が増えて、少しは値段が落ちそうだというニューズを見ながら出てきた話だ。
そもそも、物の値段とは誰が決めるのだろう?
それは、生産者と消費者のせめぎ合いであって、高ければ消費量は落ちるだろうし、安ければ生産者の儲けが減るという中で、「ちょうどいい価格」というものに落ち着くのだろう。
それを、「たくさん捕れるようになったから価格が落ちてくる」みたいな報道されたら、漁師さんも「今まで限界ぎりぎりで下ろしてたんだから、少しくらいもうけさせて欲しい」という「心の声」を言えない状態になってしまう…
なんで、外野が「是々非々」を決めるような言い方をするのだろう?
「儲けたい」という気持ちが、ある事は認めても、表現する事は許されないみたいな感があるような気がするのは僕だけだろうか?
「いつか、マグロの大トロを食えるようになりたい」
それって、昭和世代の考え方なのだろうか?
でも、時代は昭和だろうが、令和だろうが、やっぱり「ご飯を平気で残す」というのは違う気がするんだけどなぁ…
って、自分の娘との意見の違いが出ている親が言う事ではないって気もするんですけどね…(苦笑)
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