ということで、駅が機能していた時代にこの道が作られたとしたら新たな仮説が必要になりました。
そこで、初代高松駅完成から機関区として使用されていた時代の仮説を考えてみました。
<初代高松駅完成からすぐの時代、駅舎の北側の東側の土地空間はどう使われたか?>
常福寺、真行寺の間の道は現在もあり、途中道の西側の旧鉄道敷地側に二番町コミュティセンターがあります。その敷地の北東の角にいつの時代かわからないがしっかりした土地標識がありました。次の写真はそのポイントがわかるものです。

二番町コミュニティーセンター前正門にある古そうな土地の標識を発見!!

二番町コミュニティーセンター正門より袋小路を望む
先ほどのポイントから道路の幅を図ってみると3.8m
袋小路の奥で測ると3.6mということで、考えられる駅のホーム幅2間にほぼ等しいといえます。
これがホーム跡が道になったと推測できる証拠にはなりそうですが・・・
明治30年の開業したての初代高松駅の当時にタイムスリップしていただきます。
旧丸亀街道(現在の瀬戸の都通り)から西崎たばこ店角を南へ曲がっていただきます。そこから南170mぐらい正面に、初代高松駅舎が見えてきます。
ちなみにこの南北の初代高松駅正面道路、道幅については未確認ですが、当時初代高松駅前ターミナルまで、現在より道幅幅が広かったようです。(JR関係者作成の初代高松駅敷地資料より)
現在の風景で初代高松駅があったであろう場所は、旧盲学校の東側の道を瀬戸の都通りから南へ約170mのところで旧盲学校東門より北へ少し戻ったあたり。突き当たった正面に初代高松駅の駅舎が北向きに鎮座していたとイメージしてください。ここで駅舎の東側の常福寺の南側から駅舎東側ホームまでの空間を想像してみたいと思います。
◎ 初代高松駅完成からすぐの時代、駅舎の北側の東側の土地はどう使われたか?
初代高松駅舎完成から機関区として使われた時代に限定して敷地北東側の讃岐鉄道の土地空間はどう使われたと推測できるか?
<推測1 敷地北東側の讃岐鉄道の土地空間を高松駅構外として使用>
まずは現在の通常の駅舎のパターンのように、駅構内のホームとその北側の土地との境は塀で囲われていた。当時ですから、枕木等を立てた塀があったと推測できます。
そうなると、駅構外として常福寺と真行寺の間から続く南北の道からホーム北側の塀沿いに駅舎に続く側道として使われていたかもしれません。なぜなら道がある事でホーム内と空間的に離して構内を保全する役目もあったと考えられます。また現代の鉄道の側道がそうであるように、塀の北側すぐに道があった可能性はあると考えられます。
また参考までに昭和8年高松住宅明細地図(一部抜粋)で、当時の近辺の詳細住宅状況をご覧下さい。

上が北 ①現在の二番丁コミュニティーセンター ②旧盲学校
<推測2 敷地北東側の讃岐鉄道の土地空間を高松駅構内として使用>
讃岐鉄道の利用に限られて、真行寺から常福寺の南側を東西に通る道まで枕木等を立てた塀が周りに巡らせている場合です。
もし推測1の場合で、当時からこの初代高松駅舎の東側ホームの北側の堀のすぐ外側に作られた東から西入る駅舎へと続く道が作られていた場合、そのまま二番町コミュニティセンター北側の道として現在も残っている可能性は高いと考えられるでしょう。
その場合、現在の二番町コミュニティーセンター敷地内の北側2-3間は昔のホーム上で、南側は線路の上と考えられます。後の区画整理で造成されたと考えると残念ながら遺構は残っていない可能性が高いと考えられます。
話は変わりますが、25年ぐらい前になりますが、仕事で配達時に扇町の真行寺の北側のMさん宅へお伺いした時、そのおうちのご長寿の方に初代高松駅の事をお聞きしました。残念ながらその方は初代高松駅舎の時代は知らないながら、初代高松駅舎が活躍していた時代の出来事として、当時の話を語ってくれました。「当時列車が来るのを常福寺の縁で待っていて、列車が到着したら、駅舎へ行って乗って出かけていた」とのお話を頂いております。
つまり当時、常福寺から初代高松駅は見えていた。常福寺から直接見える駅舎の北東部に大きな建物は立っていなかったと推測できるでしょう。
高松に初めて陸蒸気が走った初代高松駅は、2027年で出来て130年を迎えます。この先の年月で今わかっていることも風化していくことになります。激動の幕末から明治の高松を振り返る中での歴史的文化的遺産の1つとしての価値を感じていただければ幸いです。
完成時に近い時期に駅舎ホームを北東側から南西を望む想像図