堀川を名城公園から下って行った記事を先回書きましたので、今回は、名城公園から庄内川まで上ってみました。一部、黒川とも呼ばれている部分ですね。
堀川の水源は庄内川ですので、分かりやすくするために庄内川を起点として下っていく形で書いてみます。
今回はちょっと写真の枚数が多くなります。
これは、庄内川からの水の取り入れ口です。水分橋という名前は、いろいろと水の配分をしたから付けられたのでしょう。
堀川は、1611年完成。 庄内用水(灌漑用水)は1570年ころに作られたようです。
その庄内川から取り込まれた水は・・・堤防をくぐってから、この水門を通って・・・
このトンネルから出て来ます。 もちろん、雪国なんかではありません!
見て下さい、この奇麗な水の流れを。 緑の水草が茂る見事な清流です。
その後、庄内川に並行して流れる矢田川の下をトンネルで通過します。
川の下を川が流れるんですよ!!
ところで、なぜ矢田川から直接取水しなかったのだろうか?
私見ですが、1. 矢田川の水量が少ない。 2. 矢田川は上流から陶磁器製造の土砂の流れがあり、取水口に堆積しがちだった。・・・という理由ではないだろうかと思います。
さてさて、
矢田川を出ると三階橋のところの、こんなに大きなポンプ場で調整されているようです。
黒川(堀川)に流れていく部分です。これは、明治時代の施設を復元したものです。
説明板によりますと、庄内川から取り込んだ水は、かつて明治初期には5つもの流れに分配されていたんですね。
今は・・・私が目で確認した限りでは、庄内用水(次回に紹介します)と黒川(堀川)の2ケ所しか気付きませんでした。
察するに、御用水と黒川は一緒になったんでしょうか? ご存じの方は教えてください。
この銘板は、黒川の入り口に置かれていましたので、御用水は黒川ということでしょう。
そして、まだ水の流れは清流ですね。
まだまだ桜並木の中を、清流が流れていきます。
鯉もいますし、サギも飛んできます。
ところが、
志賀橋のあたりから、かなり濁ってきますね。
北区役所を過ぎたところでは、もう真っ黒。
このまま、真っ黒のままお堀に繋がり、そして堀川下流へと流れていきます。もちろん、江戸時代は清流だったのでしょう。
なーるへそ、
清流が、黒く変わるから「黒川」なんだ! なんて言いたくなるくらいですね。
本当は、明治時代の用水の土木設計技術者の黒川氏から名前をとったらしいです。
いつの日にか、黒川が清き流れになって、そして名古屋城のお堀全部に満々と水を湛えるのを期待しています。(^-^)