午前10時30分~11時30分頃
聖 書 出エジプト記12章24~28節
メッセージ 「すぎこしの祭り」
こどもさんびか 3,54,135,32
聖書 列王記上3章22~28節
題 「ソロモン王の知恵」
イスラエルを建国したダビデ王は、息子のソロモンを後継の王に指名して、「主の教えを守り、主に従うように」と言いのこします。ソロモンは王になるとギブオンでいけにえを献げて祈りました。
その夜、神様はソロモンの夢に出てきて、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言ったのです。ソロモンは「正しく聞き分ける知恵を与えて下さい」と願いました。神様は、「あなたは長寿や富を求めなかった。私はあなたに知恵に満ちた賢い心をあたえる」と答えたのです。
さてある時、ソロモン王のところに2人の女性がやってきました。2人は一緒に住んでいて、そろって赤ちゃんを産んだのですが、一人の子どもは寝ている間に母親の下敷きになって死んでしまいました。2人の女性はソロモン王に、「生きているのは自分の子供だ」と主張しました。
王は「神様知恵を与えて下さい」と祈って、家来に刀を持ってこさせ、「赤ちゃんを半分にして2人に渡せ」と言いました。一人の女性は「子どもをその女性に与えて下さい。お願いですから体を切らないでください」と言いました。もう一人の女性は、「そうしてください」と王に言ったのです。
ソロモン王は、「子どもをその女に与えて下さい」と言った女性が赤ちゃんの母親だとして、「子供を殺してはならない」と言って、赤ちゃんは真の母に戻されました。
午前10時30分~
聖 書 列王記上3章22~28節
メッセージ 「ソロモン王の知恵」
讃美歌㉑ 53,351,355,32
礼拝後、DVD「ソロモン王~神が与えた知恵~」を見ます。
聖 書 ヨハネによる福音書7章37~44節
メッセージ 「生きた水」
仮庵の祭りの最後には、イザヤ書12章3節の「あなたがたは喜びに救いの泉から水を汲(く)む」を朗読しながら水が汲まれます。この聖句のヘブライ語は、ウシャヴテム マイム ベッサッソン ミィマイエネ ハイエシュア で、フォークダンスの「マイム マイム」の出だしです。マイムは水で、後半のマイム マイム マイム マイム マイム マイム ベッサッソンは、仮庵の祭りの時に汲まれる水を喜んでいる様子です。
イエス様は、この聖句が読まれる祭りの最後の日に、「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と叫ばれました。「聖書が語った」とは、エゼキエル書47章1~5節を指します。捕囚の地バビロンにいたエゼキエルが、エルサレムに連れていかれ、幻の中で神殿を見たシーンで、神殿の敷居の下から水が湧きあふれ、川になっていったというものです。
イエス様を信じて与えられた生きた水を飲む者は、その人からも水が湧き出るのです。イエス様が与える水とは、イエス様が復活されたときに与えられた聖霊を指しています。弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのがそれです。私たちはその聖霊によって生かされ、他者をも生かすようになるのです。
イエス様は互いに愛することで、他者を生かすとも教えられました。聖霊を受けるとは、互いに愛することでもあります。
聖書 ヨハネによる福音書7章14~24節
題 「かりいおの祭り」
ベトザタの池のほとりで足の悪い人をいやすしるしをされたイエス様は、その後ガリラヤに戻られました。そこではパンと魚のしるしと、湖の上を歩くしるしをされました。それを見ていた人々は、イエス様はすごい人だと思うようになりました。ユダヤ人の指導者たちはイエス様をねたみ、殺そうと思うようになりました。
秋になってかりいお(テント)の祭りがエルサレムで行われるため、イエス様も都に上っていかれました。そして祭りの行われている神殿で説教をされたのです。かりいおの祭りとは、出エジプトの時に人々が荒野で生活をしたことを記念して、神殿の付近でかりいおで8日間を過ごすものです。それは、神様が荒野で人々と共にいて下さったことを記念して行うのです。
イエス様は、神様が人となった方です。それは神様が人と共にいて下さるということです。イエス様がかりいおの祭りで説教をされたということは、まさにそれを象徴することでした。しかし人々はイエス様のしるしを見ていました。
園庭に咲いてたカンナの花です。
聖 書 ヨハネによる福音書7章14~24節
メッセージ 「かりいおの祭り」
エアコン入れない礼拝堂は暑いです。3日はきちんと冷やしておきます。
聖 書 ヨハネによる福音書5章19~30節
メッセージ 「永遠の命」
ベトザトの池での足が悪く歩けなかった人が癒されたお話は、イエス様の7つのしるしの中の3番目です。イエス様はこの人に、「床を担いで歩きなさい」と言われました。そうすると男の人は、それまでは横になっているためだけに使われていた床を、自由に扱えるようになって歩き出しました。
この人は、自由になったわけですが、私たちにとって自由のうちで一番大切なことは、罪から自由になることです。人をおとしめる「罪」から自由になって、人を大切にすることに生きられるようになります。
イエス様のしるしとは「標」であって、交通標識であると考えると分かりやすいです。交通標識は、デザインのインパクトが問題なのではなく、そこで示されていることを守るようにさせているものです。
しるしも、そこで行われていることの本当の意味を知ることが大切なのですが、ベトザタの池では床から自由になれなかった人が自由になったことがしるしの意味です。そしてそれは罪から自由になったことでもありました。だからイエス様は「もう罪を犯してはいけない」(14節)と言われているのです。
ここでは男の人が、そういったことによって罪から自由になるという永遠の命を得ることになったのです。しるしを見ることによって、あるいは読者が読むことによって、永遠の命が示されることが大切なのです。
聖書 ヨハネによる福音書3章1~15節
題 「夜に来た訪問者」
イエス様は多くの奇跡によるしるしを行いました。人々はそれを見てイエス様を信じましたが、イエス様はその人々を信用しませんでした。
しるしは「標」という漢字をあてるのが良いと思います。交通標識のようなものと考えて良いと思います。交通標識は単なる看板ではありません。それを守ることによって、交通事故を防ぐという目的を持っています。イエス様のしるしも単なる見世物の奇跡ではなく、そこで示される「イエスは神の子メシア(キリスト)である」ということを信じる目的のものでした。
しるしを見ていてイエス様にあこがれていたニコデモは、ある夜イエス様のところに来て「人は生まれ変わらなければならない」と教えられました。それがイエス様のしるしが意味することでした。その時ニコデモはよく意味が分からなかったと思います。「歳をとった私が母の胎に戻ることが出来ましょうか」と答えました。
でもイエス様が十字架に掛けられた日に、イエス様のところに香料をもってやって来るのです。ニコデモは、初めてイエス様に会った夜には示されているものが分からなかったのでしょうが、その後のイエス様との関りの中で、イエス様を神の子メシアと告白した人なのです。