聖書の言葉を聴きながら

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臨時で詩編の説教を上げます

2020-08-12 14:26:10 | 日記
臨時で、いつもは上げていない水曜日の集会で話した原稿を上げます。

「こんなことが聖書に書かれているなんて」と多くの方が思いそうな箇所です。

それについて、わたしが聞き取ったことをお伝えしたいと思いました。

詩編 137:1〜9

2020-08-12 14:24:51 | 聖書
2020年8月12日(水) 祈り会
聖書:詩編 137:1〜9(新共同訳)

 詩人はバビロンの流れのほとりに座り、涙を流します。
 彼は、バビロン捕囚によりエルサレムからバビロンに連れてこられました。
 彼の故国 南ユダは、新バビロニアによって滅ぼされました。その際、バビロニアの王ネブカドネツァルは、多くの者を捕虜としてバビロニアの首都バビロンに連れて行きました。第1回が紀元前 597年、列王記下 24:14にはこう記されています。「彼(ネブカドネツァル)はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。」
 そして第2回は10年後、紀元前 587年です。列王記下 25:11「民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。」ここから50年バビロン捕囚は続きます。

 詩人はおそらく神殿で讃美の奉仕をする詠唱者だったのだろうと思います。列王記や歴代誌には、神殿に関する記述の中に詠唱者という言葉が出てきます。
 彼にとっては、讃美の奉仕こそ神から与えられた務めでした。彼は捕虜として連れて行かれるのに、竪琴を手放さずに持っていきました。エルサレムからバビロンまでの約2,000kmの旅路において、大切に抱えて自分にとってなくてならぬものとして持っていきました。

 バビロンにはユーフラテス川から水を引くための運河が張り巡らされています。1節の「流れ」は複数形なので、この運河を指しているのでしょう。
 運河の川底には時間とともに土砂が溜まっていきます。洪水の危険を避けるためには、底をさらうことが必要です。捕囚の民はその労働者にあてがわれたと思われます。そしてその労働の監督をバビロニア人がします。そして休憩時間に命じるのです。3節「わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから」。
 詩人は神殿の讃美奉仕者、詠唱者です。彼が歌うのは讃美の歌、詩編です。彼は聴いている同胞イスラエルのために神を讃美します。
 バビロニア人にはヘブライ語は分かりません。彼は詩人に歌詞を説明させます。ある旧約学者は、3節の「歌」の原文は「歌の言葉」を表しており、「歌をうたえ」を「歌詞を求めた」と訳しています(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。そして歌詞の説明を聞いたバビロニア人は言ったのでしょう。「己が民を救うこともできない神、その神を信じているお前たちは、何と哀れなことであろうか。」
 詩人は思います。4節「どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。」
 そして彼は2節 竪琴を運河のほとりの柳の木々に掛けたのです。彼は、エルサレムから大切に持ち続けてきた竪琴を手放したのです。主への讃美を主のあざけりに使われるなど彼には耐えられませんでした。

 そして彼は涙しながら祈りつぶやきます。5~6節「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。/わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。」
 エルサレムという単語は女性名詞です。ヘブライ語の名詞は男性名詞と女性名詞があります。詩人は、恋人に向かって訴えるように語ります。「わたしがあなたを忘れてしまうようなことがあるなら、竪琴をつま弾くこの右手は動かなくなってもいい。もしも、あなたを思わぬ時、あなたを最大の喜びとしないような時が来るなら、わたしの舌が上顎に張り付いて、讃美できなくなってしまえ。」

 彼は悔しさ・悲しさで自分が埋め尽くされてしまう中で、神に向かって訴えます。
 7節「主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。』」
 エドムは、ヤコブの兄 エサウの子孫です。イスラエルと近しい民です。けれど、隣接する国ですから、領土を巡って絶えず争いがあり、良い関係ではありませんでした。
 「エルサレムのあの日」というのは、新バビロニアによってエルサレムが陥落した日のことです。エドムはその時、バビロニア軍の攻撃に加担し、ユダの領地を侵略しました。
 それについてオバデヤ書が記しています。オバデヤ 10~11「兄弟ヤコブに不法を行ったので/お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。お前が離れて立っていたあの日/異国の者がエルサレムの財宝を奪い/他国の者がその門に入り/エルサレムをくじ引きにして取ったあの日に/お前も彼らの一人のようであった。」
 そしてエドムは積年の思いを吐き出すように叫びます。「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」何一つ残すことなくすべてを奪い尽くそうというのです。
 詩人はこの場面を目撃し、その声を聞いたのでしょう。バビロニア人のあざけりを受けて、詩人は記憶が甦り、それが自分の中を嵐のように駆け巡ります。
 詩人は、主がエドムのしたことを忘れず、報いてくださることを願います。

 8~9節「娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者/お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。」
 娘バビロン、エルサレムを恋人のように擬人化し語りかけたように、バビロンをも擬人化して語りかけます。
 詩人は、バビロニアがエルサレムにしたのと同じことをバビロンに仕返しする者を幸いだと讃えます。これは詩人がバビロニアに伝わる「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラピ法典を知ったのでしょう。ハンムラピは新バビロニアではなく、その前に存在したバビロニアの初代の王です。詩人は、バビロニアの有名な法典のように、バビロンもエルサレムと同じようにされればいい、と願っています。なぜ願うのか。それは自分たちには報復する力などなく、辱めに耐えるしかなかったからです。

 8節の「いかに幸いなことか」は、9節の「お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」にも掛かっていきます。あまりにも強烈な言葉で、詩篇がこんな言葉で終わっていいのかとすら思います。
 幼子をたたきつけるのは、当時の戦争において普通に行われていました。自分たちに刃向かう後の世代をなくしてしまうためです。これは聖書の他の箇所にも出てきます。預言者エリシャは後にアラムの王になるハザエルに向かってこう語ります。列王記下 8:12「あなたはその砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂きます。」

 罪の世では、余りに理不尽な状況、自分ではどうすることもできない状況、とても受けとめることのできない事柄というものがあります。そんなとき、神の民は、神が裁きを成してくださることを祈り願いました。
 預言者エレミヤも祈ります。エレミヤ 15:15「主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。」20:12「万軍の主よ・・わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。」
 自分の手に余ることは神に委ねるのです。神は言われます。申命記 32:35「わたしが報復し、報いをする」。
 詩編には、神が「報復の神」であることを期待するものもあります。詩編 94:1~2「主よ、報復の神として/報復の神として顕現し/全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。」

 詩編を読み始めるときに申し上げましたが、詩編は神が語りかけられた言葉ではなく、民の祈りの言葉です。神がその祈りを受け入れ、ご自身の言葉、神の言葉としてくださいました。それはこの137篇も含めて神が「こう祈りなさい。こう祈っていい。わたしが聞く」と言ってくださっているのだと思います。

 9節の言葉を聞いて、皆さんが思い浮かべるのは、新約の愛と赦しの言葉かもしれません。マタイ 5:43, 44「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ローマ 12:14「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」
 主が求めておられるのは、愛と赦しです。
 しかし、わたしたちは罪を抱えており、愛せないのです、赦せないのです。罪の世にあって、罪を抱えて、怒りや悲しみに苦しむのです。わたしたちには、神の裁きが必要です。その時神は、詩編を通して語りかけられます。「信仰深く装わなくていい。あなたをわたしに委ねなさい。怒りも悲しみもわたしに委ねなさい」と語りかけてくださいます。わたしたちは信仰を演じる必要はないのです。神はわたしたちを知っておられます。わたしたちの欠けも弱さも知っておられます。そしてわたしたちを受けとめてくださいます。だから神は、独り子イエス キリストをお遣わしくださったのです。そして神の国に入るその日まで、わたしたちを整え導いてくださいます。

 現代でも、戦争などにおいて、子どもたちの命が奪われ、弱い者が辱められる状況はなくなっていません。新しい武器・爆弾が開発され、古よりもはるかに悲惨な状況を生み出しています。
 わたしたちは、神の国が到来するその日まで、この137篇も神が与えてくださった神の言葉として祈ります。今もなお怒り・悲しみに苦しむ人々、涙せずにはいられない人々と共に、神に祈っていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この世では、罪が猛威を振るい、涙せずにはいられない苦しみや悲しみ、理不尽を押しつけてきます。この世にあってわたしたちは無力に立ちつくします。わたしたちはあなたが裁かれるのを待ち望みます。どうか罪を裁き、あなたの義を立て、御国を来たらせてください。わたしたちの怒りや悲しみ、そして絶望を拭い去ってください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 11:23〜32

2020-08-09 18:08:03 | 聖書
2020年8月9日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 11:23~32(新共同訳)


 25節「兄弟たち・・次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」
 イスラエルの救いを心から願うパウロは(10:1)、イスラエルが、待ち続けた救い主、イエス キリストを拒絶し、福音がイスラエルを離れ、異邦人に差し出されることになったことを神に問い続けます。

 神の民は皆、神に問い続け、訴え続けてきました。罪人には神の御心が明らかではありません。罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなさること、神の導きに納得がいきません。パウロもまた神に問い続けます。パウロ自ら自分の思いを超える救いを経験しましたけれども、神の御心を理解し尽くすことはできませんから問い続けるのです。
 その中で、パウロは神の「秘められた計画」に気づかされていきます。
 「秘められた計画」は、秘義(聖書協会共同訳)、奥義(新改訳2017)、神秘(フランシスコ会訳)などとも訳されています。

 イスラエルが神に選び分かたれたオリーブだとするならば、異邦人は野生のまま置かれているオリーブです。神に選ばれたオリーブであるイスラエルは、神によって育まれ栽培されていましたが、不信仰の故に折り取られてしまいました。そして野生のオリーブである異邦人が接ぎ木されました。
 異邦人キリスト者にはイスラエルに代わって選ばれたことに対する驕りがあったようです。パウロはその驕りを注意します。18節「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。」22節「神の慈しみに・・とどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
 そしてイスラエルについては23節「不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」と言います。

 その上で25節「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と言います。ここからパウロが神に問い続ける中で示された神の秘められた計画が語られます。
 25~26節「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」パウロは全イスラエルが救われる幻、神の計画が示されました。それは全イスラエルが救われる前に、異邦人全体が救いに達するというものです。
 「異邦人全体が救いに達するまで」は、新しい訳では「異邦人の満ちる時が来るまで」(聖書協会共同訳)」となっています。異邦人の救いが満ちる時、26節「こうして全イスラエルが救われる」のです。

 これは旧約で預言されていたことであると、イザヤ 59:20~21や詩編 14:7を引用します。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。/これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」シオンというのはエルサレムのこと、ヤコブというのはイスラエルのことです。エルサレムで十字架を負われたイエス キリストが来て、イスラエルの不信心を遠ざけてくださる。神がイスラエルの罪を取り除いてくださるときに起こる主の約束である、と言うのです。

 パウロは言います。28節「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」
 神の福音、キリストの良き知らせについては、イスラエルは、異邦人が救いに与るために、福音を拒絶し、神に敵対しています。けれども神の選びということで言えば、神を信じ、神に従った先祖たちのお蔭で今も神に愛されている、というのです。29節「神の賜物と招きとは取り消されない」からです。

 ファリサイ派にいた頃のパウロは、神に従っているから神に愛されている、神に熱心であるほど神に愛される、と考えていました。この神に敵対しているけれども、神に愛されているというのは、従来のパウロでは考えられない考え方です。神に敵対していたパウロ自身の回心、これまで学んできた旧約の御言葉を何度も思い起こして神に問いかける、異邦人の使徒として立てられ多くの困難を経験しながら伝道に仕える、神に従う中で経験するあらゆる事柄を思い起こしながら神に祈り求める。そのような中で神から示された秘められた計画、それはこれまでの自分には受け入れがたい、矛盾したものであったかもしれません。けれどもそれをイエス キリストが体現されました。拒絶され、捨てられたのに、最後まで愛し抜き、十字架を負い抜いてくださいました。コロサイ 1:27ではこう言われています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」まさしく神の秘められた計画とは、イエス キリストなのです。

 パウロもキリストが出会ってくださったので、神の御心を知り、神の前に身を低くする者とされました。神の愛と約束は変わらなかった。迫害者であった自分にさえ与えられた。何一つ神の御言葉、約束は変わっていない。その神の真実の故に、自分も救いに入れられた。パウロはキリストにおいて成就した神の秘められた計画へと導かれます。
 神は不従順をさえお用いになるお方。30節 異邦人たちはかつては神に不従順でした。それが今、イスラエルの不従順によって憐みを受けて、キリストの福音に与っています。そして今、イスラエルは異邦人たちが憐れみを受けるため、不従順になっていますが、それは彼ら自身が将来憐れみを受けるためなのです。

 神の示しによって「あぁ、そうだったのか」と気づかされたパウロは神の御前で自ら確認するように語ります。32節「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」

 神はすべての人を憐れんでおられます。だからわたしたちは希望を持ってキリストを宣べ伝えます。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)

 神は生命の通う生き生きとした関係を求めておられます。喜びをもって神を信じ、神と共に生きる関係を求めておられます。ですから「すべての人は救われます」というように結果を固定されません。固定してしまうと、標本のように生命が失われてしまいます。けれど、神はすべての人を憐れんでいてくださいます。憐れむためにすべての人は不従順に閉じ込められています。神は招いておられるのです。わたしたちが神へと立ち帰るのを待っておられます。放蕩息子が父親と再会したあの喜びと平安を与えようとしていてくださいます(ルカ 15:20)。神は冷めることのない愛をもってわたしたちを憐れんでいてくださいます。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに対して生命が満ちる生きた関係を求め与えてくださることを感謝します。わたしたちは罪ゆえにあなたの御心からずれ、あなたから離れていってしまいます。そのわたしたちを主の日ごとに御前に立ち帰らせ、聖書を通して語りかけてくださることを感謝します。どうかあなたの慈しみの内に生きるあなたの子であらせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 16

2020-08-05 16:54:55 | 黙想
ヘブライ人への手紙 3章 4節(聖書協会共同訳)

どんな家でも誰かが建てるものですが、万物を建てられたのは神なのです。

 
 万物の根源に神がおられる。
 現代では、神は存在せず、すべては科学の法則により、偶然に(たまたま)存在していると考える人もいるが、一方では偶然といいながら、もう一方で存在の意味、人生の意味を語ろうとする。それは大きな矛盾である。この世は矛盾に苦しんでいる。
 しかし聖書は、この世に向かって「万物の根源には神がおられる」と語りかける。
 

ハレルヤ

ヨハネによる福音書 5:31〜36

2020-08-02 18:17:42 | 聖書
2020年8月2日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:31〜36(新共同訳)


 イエスは今、自分の命を狙うユダヤ人たちに語ります。
 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」

 「裁き」のところでも話しましたが、ヨハネによる福音書の書き方には興味深いものがあります。相反するような記事を修正せず、載せています。そこにイエス キリストを宣べ伝えることへの深い敬意が感じられます。
 8:13には、ファリサイ派の人たちがイエスに向かって「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言っています。それに対してイエスはこう言われます。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」(8:14)
 このくだりは、この箇所まで説教が進んだときに話すといたしまして、大事なのは福音書の編集者であるヨハネが「こことここ、矛盾するなぁ」と自分の判断で修正していないことです。ヨハネは、信じやすくなるようにとイエスの言葉を変えたりしませんでした。矛盾するようでも、理解を超えることであっても、イエス キリストに出会い、イエスを知ることができるように願って福音書を編纂しました(20:31)。イエス キリストと出会うとき、聖霊が信仰へと導いてくださることを信じていました。
 ですからわたしも、神がこの福音書をキリストを証しするご自分の言葉、聖書とし、二千年近く語り続けてこられた神の御業の前で畏れをもって語らねばならないと思います。
 きょうは31〜36節から聞いていきます。

 ユダヤ教の(旧約)聖書注解に「人が自分のために証言する時、その人には信用がおけない」(岩波版 新約聖書、p.321、5:31注2)という言葉があるそうです。聖書において証言は重要な要素です。申命記 19:15に「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」と記されています。ここから様々な事柄について二人ないし三人の証言が求められるようになります。

 イエスも言われます。32節「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」
 一体誰がイエスについて証しをするのでしょうか。

 ここでイエスは話を変えて、洗礼者ヨハネについて語られます。33節「あなたたちはヨハネのもとへ人を送った」。1:19には「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして」とあります。ヨハネは彼らに「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(1:23)と言い、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(1:26)と言ってイエスが救い主として活動をする予告をしました。イエスはそれを33節「彼(ヨハネ)は真理について証しをした」と言われました。
 後にイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われます。ヨハネが証しした真理とは、イエス キリストのことです。

 しかしイエスは34節「わたしは、人間による証しは受けない」と言われます。けれども「あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」(34~35節)イエスはユダヤ人たちの救いのために、彼らが知っているヨハネについて語られます。
 ヨハネは光そのものではなく、光について証しをするために来ました。(1:8)イエスはヨハネをともし火だと言われます。イエスご自身が光であるのに対して(1:9)、ヨハネは火をともされて輝くともし火です。夜が明け、本当の光が到来するのを待ちつつ仕えるともし火です。
 当時ヨハネの洗礼は、大勢の人が集まる一大ブームでした。ユダヤ人たちは流行のファッションを身にまとうように、ヨハネの洗礼を楽しもうとしました。丁度信仰はなくてもパーティーとしてクリスマスを楽しむようなものです。確かにその時は楽しいでしょう。しかしそれは、過ぎ去り記憶の彼方へと消え去ってしまうものです。
 大事なのは、ヨハネが証ししたものに思いを向けること、出会うことです。

 さてイエスは「わたしは、人間による証しは受けない」(34節)と言われましたが、36節「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」と言われます。それは「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」と言われます。
 天の父が救い主に託された救いの御業、それこそが救い主の証しです。

 洗礼者ヨハネは牢に捕らえられていたとき、イエスの許に弟子を送って尋ねました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。」イエスはこうお答えになりました。マタイ 11:4~6「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
 イエスが言われたのは旧約に預言された神の救いの御業の数々です(列王記下 5:8~14、イザヤ 25:8, 26:19, 29:18~19, 35:5~6, 42:7, 61:1)。神の救いの御業が今、ご自分を通して行われていることをイエスは告げられました。神の預言はイエス キリストにおいて成就しています。イエス キリストの証しは、父なる神ご自身がなしてくださるのです。

 イエスは少し先 5:39で「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われます。
 イエスが生きておられる間には新約はまだ書かれていませんから、ここで言う聖書とは旧約のことです。神の言葉である聖書がイエスを証しする、聖書が救い主の業として告げていることがイエス キリストにおいて成就する。そして、その頂点に位置するのが十字架と復活です。神の言葉と業がイエス キリストにおいて実現したのです。父なる神ご自身がイエスを証しし、イエスが救い主であることを保証してくださっています。イエスが言われた「わたしについて証しをなさる方は別におられる」とは、父なる神、神ご自身なのです。

 その父なる神とイエス キリストは一つです。イエスはこう言われます。14:7「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
 ヨハネによる福音書も父と子が一つであることを伝えようとしています。1:1~2「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 神は人間の言葉で表現し尽くすことのできないお方です。けれど神は、不十分な人間の言葉でご自身を啓示することを願い、わたしたちに聖書を与えてくださいました。イエス キリストもご自身では何も書き残されませんでした。「人間による証しは受けない」と言われた方が、弟子たちの宣教の業にご自身を託されました。
 ヨハネによる福音書が編纂されたと考えられている紀元90〜110年頃には、まだ三位一体という言葉はありませんでした。この言葉は、福音がギリシャに伝えられて、ギリシャの哲学の伝統と触れ合う中で与えられた言葉です。けれども三位一体という言葉は知りませんが、ヨハネによる福音書は父と子と聖霊が一つであることに気づいているのだろうと思います。

 神は、神を知ることができるように人の言葉で啓示してくださいました。神の思いを知ることができるように、神の言葉としてイエス キリストを遣わしてくださいました。聖書を通して、わたしたちはイエス キリストと出会い、イエス キリストを知るのです。そしてキリストを通して差し出されている救いに与るのです。
 どうか教会に集うお一人おひとりがキリストに出会い、その救いに与り、主の平安と喜びが豊かに与えられますように。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いのために、わたしたちの思いを超えるあなたご自身をイエス キリストにおいて啓示してくださることを感謝します。わたしたちが知り尽くすことのできないあなたの前で、わたしたちは身を低くしてあなたの言葉を聞きます。どうか信仰をもってあなたを仰ぎ見ることができるよう聖霊を注ぎ、清め導いてください。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたと共にあることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン