高校3年生の時のヒデキの写真を6枚並べてみました。
ねっ?嫌になるでしょう?
さて、柔道関係者の方が、「梅の花の開花」等の記事を
FBに書かれていたことがきっかけで、
昔のことを思い出してしまいました。
それは高校3年生の春のことです(25年も前・・・)。
高校総体の県予選まで残り2か月ほどとなり、
恩師の指導も厳しさを増しておりました。
春休み例年参加させられる
「西都原花祭り柔道大会(当時ローカルな大会でした)」で
優勝(団体)はしたものの、
試合内容が悪いということで恩師がブチ切れられたまま、
翌日から挑むことになった
大分県立「日田林工高校」への合宿に連行されました。
本県からは私たちの学校をはじめ、
宮崎工業(矢野先生率いる)と
宮崎日大高校(荒川先生率いる)が参加しました。
なお、チャンピオンである都城商業(有嶋先生の)などは、
別で行われた福岡での合宿に参加だったと思います。
さて、私たちの合宿ですが・・・。
行ってびっくり、各県の強豪校がわんさか来てました。
もっと驚いたのは到着してすぐ着替えを命ぜられ、いきなり「試合」。
そして、「試合」「試合」「試合」「試合」。
朝から夕方までそれが続けられたのでした(2泊3日です)。
そこで特に思い出に残っているのが2つ。
1つ目は、東福岡高校の3軍(5軍くらいまでありました)との試合です
(東福岡は強いのに同じ地区に東海大学第五高校がいるので
県予選にも出場できないという話を当時聞きました)。
3番手くらいで出た私は、
相手の目に思い切り指をねじ入れてしまいました(わざとではありません)。
もがき苦しんでいる相手に
「すまん、わざとじゃない」と謝りましたが
『チクショウ!』とそいつは興奮し、それに私も応戦。
その後は喧嘩のような柔道を繰り広げてしまいました
(試合後も日田の街でそいつらと鉢合わせとなり
大喧嘩になりかけました)。
2つ目は、山口県から参加していた「H高校」というところでした。
そこの練習時間の長さにも驚かされたのですが。
思い出に残っているのはやはり試合です。
対戦相手は、当時の山口県軽量級のチャンピオン。
何を間違ったのか相手高校の監督さんが私を見て
こう選手に言ったのです。
「あいつが宮崎県№1の軽量級の選手だ!
インターハイで戦うのだから心して戦え」、と。
この監督さんのアドバイスは間違いでした。
宮崎県№1の軽量級の選手は私ではなく、
参加していた宮崎日大のN村だったのです。
「私ではありません!」と言おうと思ったのですが、
言え出せないまま試合開始。
お互い意識しあっての引き分けでした
(私にとって有難い勘違いをしてくださいました)。
試合後、その一部始終を見ていた宮崎日大のN村が
「河野!インターハイ頑張れよ」と
冗談交じりで笑って話しかけてきたことが忘れられません・・・。
その合宿から2か月後のインターハイ県予選。
最強・最大のライバルN村の姿はありませんでした・・・。
同校の監督さんから
「N村はこの前学校を辞めた、お前優勝狙えるぞ」と言われ。
呆然としました。
彼とは順当に勝ち進めば準決勝で対戦する予定でした。
練習試合も含めた彼との対戦成績は1分け2敗。
高校から柔道をはじめた私の大きな、大きな壁でした。
彼に最後に勝つことだけ考えて練習してきました。
心の整理がつかないまま試合は勝利し続け、準決勝へ。
自分の描いた対戦相手でない選手がそこにいました。
結果は決め手のないまま(勝とうという気もないまま)判定負け。
何故かしら「ホッと」した記憶が今も残っています。
N村、元気にしてますか?
それは高校3年生の春のことです(25年も前・・・)。
高校総体の県予選まで残り2か月ほどとなり、
恩師の指導も厳しさを増しておりました。
春休み例年参加させられる
「西都原花祭り柔道大会(当時ローカルな大会でした)」で
優勝(団体)はしたものの、
試合内容が悪いということで恩師がブチ切れられたまま、
翌日から挑むことになった
大分県立「日田林工高校」への合宿に連行されました。
本県からは私たちの学校をはじめ、
宮崎工業(矢野先生率いる)と
宮崎日大高校(荒川先生率いる)が参加しました。
なお、チャンピオンである都城商業(有嶋先生の)などは、
別で行われた福岡での合宿に参加だったと思います。
さて、私たちの合宿ですが・・・。
行ってびっくり、各県の強豪校がわんさか来てました。
もっと驚いたのは到着してすぐ着替えを命ぜられ、いきなり「試合」。
そして、「試合」「試合」「試合」「試合」。
朝から夕方までそれが続けられたのでした(2泊3日です)。
そこで特に思い出に残っているのが2つ。
1つ目は、東福岡高校の3軍(5軍くらいまでありました)との試合です
(東福岡は強いのに同じ地区に東海大学第五高校がいるので
県予選にも出場できないという話を当時聞きました)。
3番手くらいで出た私は、
相手の目に思い切り指をねじ入れてしまいました(わざとではありません)。
もがき苦しんでいる相手に
「すまん、わざとじゃない」と謝りましたが
『チクショウ!』とそいつは興奮し、それに私も応戦。
その後は喧嘩のような柔道を繰り広げてしまいました
(試合後も日田の街でそいつらと鉢合わせとなり
大喧嘩になりかけました)。
2つ目は、山口県から参加していた「H高校」というところでした。
そこの練習時間の長さにも驚かされたのですが。
思い出に残っているのはやはり試合です。
対戦相手は、当時の山口県軽量級のチャンピオン。
何を間違ったのか相手高校の監督さんが私を見て
こう選手に言ったのです。
「あいつが宮崎県№1の軽量級の選手だ!
インターハイで戦うのだから心して戦え」、と。
この監督さんのアドバイスは間違いでした。
宮崎県№1の軽量級の選手は私ではなく、
参加していた宮崎日大のN村だったのです。
「私ではありません!」と言おうと思ったのですが、
言え出せないまま試合開始。
お互い意識しあっての引き分けでした
(私にとって有難い勘違いをしてくださいました)。
試合後、その一部始終を見ていた宮崎日大のN村が
「河野!インターハイ頑張れよ」と
冗談交じりで笑って話しかけてきたことが忘れられません・・・。
その合宿から2か月後のインターハイ県予選。
最強・最大のライバルN村の姿はありませんでした・・・。
同校の監督さんから
「N村はこの前学校を辞めた、お前優勝狙えるぞ」と言われ。
呆然としました。
彼とは順当に勝ち進めば準決勝で対戦する予定でした。
練習試合も含めた彼との対戦成績は1分け2敗。
高校から柔道をはじめた私の大きな、大きな壁でした。
彼に最後に勝つことだけ考えて練習してきました。
心の整理がつかないまま試合は勝利し続け、準決勝へ。
自分の描いた対戦相手でない選手がそこにいました。
結果は決め手のないまま(勝とうという気もないまま)判定負け。
何故かしら「ホッと」した記憶が今も残っています。
N村、元気にしてますか?