停年後の生活を楽しみましょう。

常識を脱して、新しい目で停年後の生活を考えましょう。定年後は自分のために楽しむ時間です。

「道徳は社会の基本」№88 道徳を社会の基本に

2016年07月31日 | 老人の知恵
 道徳を無視しないまでも、道徳を軽視した社会では決して良い社会にはなり得ません。これまで軽視されていた政治の世界でも道徳をより重視して行く事。これ以外に社会も政治も良い方向に導く方法はないと断言します。
 法律優先から道徳優先社会に帰る。具体的には、
「法律に違反していないから悪い事ではない。」→「道徳に違反しているかいないかで善悪を判断」これは、法の抜け道を造っている・抜け道をよく知っている、多くの政治家に実践して貰いたい事。そしてこれを実践しない人は被選挙権を剥奪する。
「法律で決まっていないからしても良い(しなくても良い)」→「道徳に違反しているかいないかで決める」これはモンスターペアレントと言われているおばさんや、迷惑行為を楽しんでいる一部の若者や暴走族に実践して頂きたいですね。これを実践しない人は短期間の「福祉や道路掃除などの労役の刑」に服して貰います。
「法律で決まっているが捕まった事がないから悪い事ではない」→「罰を与えない規則は規則から外す。規則を守らなければ必ず罰する」規則を破っても罰せられない、規則を守らなくても警察から咎められない。そんな事を許すから規則は守らなくても良いという考えが定着します。規則を作るのなら必ず守らせる。守らせる気がないのなら規則を作らない。その分道徳でキッチリと規制する。そして道徳を守る・守らせるキャンペーンを大々的に繰り広げる。名目だけの法的規制をするより、道徳を守らせる運動をする。
 法律で規制出来ない事が多くなってきた現在、初心に返って「道徳で社会秩序を維持する事を強化する」これが大事なのではと思います。


「道徳は社会の基本」№87 道徳と法律その関係は

2016年07月30日 | 老人の知恵
 長々と理屈を述べてきましたが、この検証を通じて訴えたかったのはこの一点です。それは、現在政治や保安地域生活教育等々色々な面で行き詰まっている事がありますが、その原因は「道徳の軽視」に尽きると思います。
 道徳→宗教→法律と進化させてきた社会の規律を維持する方法で、法律はとても有効な手段だった事は否定しませんが、法律に対する重要性が肥大化し、法律が最優先になり宗教や道徳が軽視されるようになったためだと考えます。
 では法律より優れた社会秩序を維持する規律は創出出来るのか。それはあるかもしれませんが、私の頭脳では考えつきません。何れ偉人が現れて更に進化した規律を作られるかもしれません。しかし、それまで手をこまねいて待っている訳にも行きません。でば何か良い手法があるのでしょうか。
 それなら私にも提案したい方法があります。「困ったら初心に帰れ」前にも書きましたが、これしか方法はないと思うし、今すぐ出来る事としてはこれが最良の方法だと思います。
 「困ったら初心に返れ」→「道徳は社会の基本」これしかないと思います。


「道徳は社会の基本」№86 道徳で罪を裁く

2016年07月29日 | 老人の知恵
 現実の世界ではどうなのか調べていませんが、ドラマや時代劇などでは、恐喝されて仕方なく?殺人を犯してしまった。と言う話はよく出てきます。仕方なく殺人を犯したというのは言葉のあやですから、今日の検証結果まではご容赦下さい。
 相手の致命的な秘密を公表するぞ、と言って脅し、骨の髄までしゃぶり尽くそうとするような恐喝事件で、非恐喝者が恐喝者を殺してしまう。そんな筋書きのドラマは沢山あります。
 犯人側から見れば、恐喝されるネタを作った本人が悪い。と言えますし、被告から見るとそんな人の弱みにつけ込んで金銭を巻き上げるのは許せない。このままでは死ぬしか方法はない。と考えて死ぬ人もいますが、恐喝者を殺してしまう事もあります。如何なる理由が有ろうとも殺人はいけない事ですが、自分が死ぬ以外助かる道は相手を殺す事。これも理屈です。さてどちらがどの程度悪いのか。これを決める事は私には出来ません。恐喝されるネタが、本人の犯罪から来る事もあるでしょう。また恐喝者に依って作られる事もあるしょう。(例えば、強姦や盗み撮り等)恐喝のネタの発生理由は様々です。その事によっても、恐喝者を殺した罪の重さは変わってきます。法廷でも事情により情状酌量が行われています。
 しかし、恐喝者を殺すという事の中にあまり出てこない見方は、恐喝者は相手を非難する権利は微塵もない。と言う事です。極端な言い方をすれば脅迫者は殺されるほどの悪い事をしている。と言う事です。脅迫のネタを恐喝者によって作られた場合など、中には脅迫者は殺され損(殺されて当然)と言うケースもあっても良いのではと思います。がそれを推奨する訳ではありませんので誤解の無いように。
 今回の検証では「法律より道徳を重視しなければいけないのでは」と言う観点で検証してきました。時代劇風に言えば、天下の名奉行大岡越前の守の「大岡裁き」のように。
 次回は「道徳と法律」の纏めをしておきたいと思います。


「道徳は社会の基本」№85 法律が道徳をねじ伏せている

2016年07月28日 | 老人の知恵
 今回の検証は、細かい検証は抜きにして、色々な事象での道徳が法律でねじ伏せられている?とい事を上げておきたいと思います。私は法律が力を持ちすぎて、最高の力を得たので他の道徳や宗教をねじ伏せている例だと思っていますが、これについては異論をお持ちの方も多々居られると思います。
 私は自分の考えを変えるつもりはないし、他の人の考えを変えるつもりもありません。ですから、ここの事象についての検証はしませんが、異論をお持ちの方からの反論は聞かせて頂きます。
 それでは本論です。私が考えている「法律が道徳をねじ伏せている」事象は、
尊属殺人。人は皆平等ではなく、親兄弟子供は自分にとって特別な存在です。尊属殺人は厳しく罰せられるべきと思います。しかし、道徳を重視して情状酌量の比重を多くする事は必要でしよう。
男女平等。男女は同権であっても決して男女同一ではありません。男性は力強く、家族の安全と生活を守るもの。女性は力は弱くても精神力は強く生命力も強いもの。と思っています。男女はお互い足らない所を補い合うもの。ましてや、男女を区別するものとして、呼称を男女同一にするなど全くのナンセンス。看護士と言うより看護婦さんと言う方が親しみを感じます。
 次回は「道徳で罪を裁く」と題して、情状酌量をもっと取り入れるべきでは。と言う観点で検証をします。


「道徳は社会の基本」№84 法律が道徳をねじ伏せた

2016年07月27日 | 老人の知恵
 今日のテーマは少し衝撃的な言葉になってしまいましたが、法律は総て本当に正しい事ばかりか?と言う観点で検証します。
 道徳の補完として宗教が生まれ、宗教の補完として法律が出来ました。これはよい事だったのですが、時代の進歩と共に法律の力が増してくると同時に、法律が最優先という慣習が定着し始めました。そして「法律が最優先で、総ての事象は法律で善悪を決める」という考えが定着して行きました。それは正しい事でしょうか?それとも間違っているのでしょうか?今回から暫く、この点について検証を進めます。
 私の結論は「法律が最優先で、総ての事象は法律で善悪を決める」と言う事は、絶対に間違いです。今回から暫く、このような結論ありきでの検証になります。
 間違いだという一つの証は「力の強いものは力でねじ伏せてはいけません」これは力の強いものが常に心がけなければいけない事です。「道徳→宗教→法律」と進化してきたのはそれぞれが下位の規律を補完するためのもので、下位より力があるものではありません。しかし、一部の人だけでなく、多くの人も力を持っている人も法律は総てだと思い、法律の力で世の中の善悪を決めるようになりました。法廷闘争では道徳は何の意味も持ちません。法律だけが通用する世界です。当初はそれでも良かったのです。いやそうでなければいけなかったのかもしれません。情に絆されて刑罰に手心を加えるのは良くないからです。しかし、情を入れた方が良い事例も沢山出て来ます。当然現行刑法でも多少の情状は酌量されています。しかし、凡例では情を入れる場合があっても、法令を作る段階では情や曖昧さは一切排除されます。そして情(情け、道徳)を無視したものが、規律として法律になって行きます。私の持論は「過ぎたるは及ばざるが如し」法律が最優先になりすぎたのは良くない事だと思うし、これが総ての悪の元凶になっているのではと思います。
 次回は、具体的な事例を挙げて「法律が道徳をねじ伏せている」と言うテーマで検証します。