小説「私の名前は舞」 石川勝敏・著
第1章
私の名前は舞(まい)。人間ではない。種類はネコにあたる。自分で男か女かわからない。御主人様が生殖カットを施したからだ。男かもしれないし女かもしれない。女かもしれないし男かもしれない。人間によって男になったり女になったり顔を変えたりしない。いつも舞は舞だ。御主人様は初老の男性で愛し愛されている。私はその初老の男性をネコ語でおじさんと控えめに呼んでいる。おじいさんでは憚れる。だいたいネコにとって御主人様に年齢や性別は関係ない。
私がハリネズミの種類と違うのは、ハリネズミは牽制のために針毛を逆立てるが、私の場合は特技でもあるわけだけれど、愛情表現のために毛を逆立てふっくらとなるところだ。さっきもおじさんがいつものように渋っ面で散歩から帰ってきたので、私はおじさんの元へ飛んでゆき肢体をふっくらさせたところだ。そうするとおじさんは私を抱っこしなでなでしてかわいがってくれた。おじさんの顔が柔和にほころぶ。おじさんは決して私のことを人間語でかわいいとは言わない。私はそれで十分だ。かわいく生まれたくてかわいく生まれたわけではない。人間の夫婦関係とは違う。
おじさんのうちには物も家具も乏しい。そんな中、リビングの端に脚立が広げた状態で置かれていました。4段の横渡しと頂点に台座がある、それはそれは頑丈で立派なものです。おじさんの職の経歴となにか関係があるのでしょうか。私がおじさんに引き取られ初めて宅にお邪魔したとき、私は一等先にその脚立の台座に登ったものです。そしてその頂点が私の寝床にもなりました。寒い冬にはおじさんがその脚立の上からふかふかの毛布を掛けてくれます。そのおかげで冬にそこから降りる際には、私は毛布で覆われた四段ばしごをある時には滑るようにある時は転げ落ちるように床に辿り着きます。今は夏の終わりで秋を迎えようとしています。なので脚立はフリーです。
私はネコだので人の気配に敏感です。またおじさんが作ってくれるわたくしへの餌、私への食事とおやつの匂いにもすぐ反応します。おじさんは日に三度の私への餌にキャットフードを使わずおまけに3時のおやつまで全てかしわのささみを供します。しかもそれはゴマ油とラー油と少々の塩とで味付けされ私はなめらかに食せるのです。なんて豪勢な食事かと思うとともに、私はなにも筋肉を鍛えているわけではないのですがとも思います。また、ネコ事ながら偏食ではないかと心持ち不安になりはしても、いつだって出されるときはそれらをすっかり忘れむしゃむしゃとしゃにむに美味しくありついております。おじさんが朝に目を覚ます気配はここに居着いてからすぐにわかりました。おじさんは時計のように決まって5時前後に起きます。ほんの数分の差です。ですから私も同じく5時に起きてすぐさまおじさんの元へすり寄ります。さあ、おじさんの一日の始まりと相成るわけです。
ある朝私が目覚めたらおじさんの気配が感じられません。しかも脚立の下にもう私の朝食が平皿に入って置かれていました。私はそこでネコぶるいをやらかしました。何かおかしい。もう数分で起きるのかなとも思いつつ私はおじさんの布団のところへ参りました。息をしているようでしたのでまずは安堵して私は布団の傍で座っておじさんを見守っていました。ところが6時になってもおじさんは微動だにしません。私は心配になっておじさんの布団にお邪魔し猫なで声を出したり横顔を私のうなじから頭部から顔から顎へと何度も何度もなでるのだけれどそれでもおじさんは起きません。私はすかさず玄関ドアを盗み見しました。ぴたりと閉まっていません。私は飛んでいってドアを鼻で押しやり外へ出ました。ちょうど隣に住む30代の男性が表に出てきてこちらへ踵を返すところでした。私は通路の中央に陣取って彼の顔をじっと注視しては顔をおじさんのドアに向けて何度も振り向けました。私はそうしながら、どうかおじさんが危ないので見てやって下さい、とネコ語で訴えていました。するとやおら私は彼に蹴り飛ばされました。
「このドラねこ!邪魔だろうが!」
人が違ってたか。そうです、彼はならず者でおじさんとは挨拶も交わさず何よりネコに限らず動物嫌いだったのです。訴えるとなんとかなるんじゃないか、と私は思っていたのですが。私はそれからそこから見える空を見上げました。まだはっきりとは明るくなっていません。
――――どうしよう・・・・。