The Diary of Ka2104-2

脳の障害者とは個人的付き合いはしないとは言えない

 私のかかりつけの精神科医は人間関係こじれても私の病状が悪化しても構わないのか、なんだったらクリニック変えればと言わんばかりに、心理学を平気で現場に持ち込む。反応をみるのにコミュニケーション倫理を犠牲にする必要も必然もまったくないのにだ。私が孤独を訴えるときはいつでも、最近では「56にもなって人間関係なにもないことに恐怖を感じる。それで精神状態が時々パニックに陥る」などと症状を打ち明けたときもやはり決まって、固定された情動反応のように、その医師は「人とは接触したくない」と断言言葉を私に投げかける。何をか言わんやである。下手の横好きと云えば聞こえはいいがこの人はプロとして開業している。

 特に直近の診察で私は彼に、知的障害者に好かれてますが、私としては広く一般の人とで知見を広げたい、と言った。それを詳しく言うと、知的障害者と実は知的障害が大幅に内在している精神障害者を含め私は脳の障害者とは同僚として現場では親しくするが、個人的には付き合いたくないのだ。私にはもう時間がない。彼らはコミュニケーションの行動様式と言語において、現場に居続けたから私にはわかる、とても異様なのだ。あなたはいつまでも彼らとの最初のエンカウンターの印象のままで表面的にしかわからずそれゆえ彼らをそうではないと、なんなら脳の障害者と仕事やボランティアとして介するのでなくまったくプライベートで付き合うといいと思うのだが、異議を申し立てるだろう。私とて、上述のとおり実際それをそう言うには世間上のコンセンサス(合意・良識)にあらがうことになり波風を立てるのは丸い私には辛いものがある。私は代わりに自分を世間一般とは一段下げてへりくだった。そして一般の人と付き合うことにより自分の知見を広げたいのだと。これも世間上のコンセンサスに無理して合わせた言葉だ。我々は一般より下の身だと福祉関係者の相手をしていると暗に思わされを受ける。それに反する者が一人でも出てくると誰よりもその福祉関係者にとってまずいのだ。

 言葉の世界に風穴をあけるまでもないのだが、とかく世間は風通しが悪くて二人では歩きにくい。何を言い出すかわかりやしないてなものか。脳の障害者はさしずめ自立を目途に生きるのであって一人がお似合いよと私の嫌いなオカマさんに言われそうである。そんなこと意に介しない私は自身脳の障害者でもあることを認識している。と同時に他の障害者とその基軸がまるで違うなとも自覚している。最後に、福祉の場だけではない、世間には脳の障害者が普通に混在していることを伝えておく。


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