兎神伝
紅兎〜革命編
(18)薬盗
『こ…これは一体…』
平次は、獣湯(けもののゆ)に近づくや、思わず絶句した。
そこには、両手で目を覆って泣き噦る琴絵と小春と小夜の側で、満身創痍の伝七と新五が、灸に文字通り灸を据えられドヤされていた。
『伝七!新五!その傷はどう…』
言いかける平次は、二人の足元に投げ出されているものを見て口をつぐんだ。
風呂敷包みから飛び出す貝殻の薬箱…
谷間の阿片畑…
まさか…
『平次!この馬鹿!』
振り向く灸は、平次の姿を見出すなり、唐突に頬を打った。
『おまえの馬鹿を真似たせいで、この子達、もう少しで命を落とすところだったんだよ!』
『俺の馬鹿を真似たって…』
『惚けるんじゃないよ!ここ最近、あの人が殆ど顔出さないってのに、どうしてあんなに薬を持ってこれるのか、わからないあたしだと思うのかい!この馬鹿!馬鹿!大馬鹿がっ!』
平次は、声を荒げる灸に何度も頬を打たれながら、見る間に顔色を失っていった。
真秀(まほろ)の原料である真秀芥子(まほらけし)は、東洋水山脈の一画、旻朱山脈の限られた地にしか自生しない阿片の一種である。
強い鎮痛効果があり、山の民の間では、古くから麻酔薬として使われていた。
しかし、反面、使い方によっては幻覚作用を及ぼし、激しい中毒症状と禁断症状を齎す為、栽培方法は限られた忍衆の間の極秘とされていた。
無論、本来ならば、平次が手に入れる事は勿論、存在を知る事すら出来るはずはなかった。
それを知る事となったのは五年近く前…
注連縄衆と言う逆徒(さかきやから)を取り締まりに訪れた名を忘れたと言う暗面長(あめんおさ)が、穂供(そなえ)で負った傷の手当てをするのに使うの見てからであった。
ほんの微量、剥離に塗れ、深い裂傷を負った神門(みと)と参道に塗るだけで、出血も激痛も治る軟膏は、さながら魔法の薬であった。
暗面長(あめんおさ)が滞在したのは、一年弱。
その間、彼は逆徒(さかきやらか)を取り締まるだけでなく、社(やしろ)の改革も行った。
兎神子(とみこ)達の処遇が改善され、日常的に行われる拷問のような仕置きもなくなった。
しかし、名無しの暗面長(あめんおさ)が去り、状況は逆戻りし、前よりもひどくなった。
殊に赤兎の琴絵に対する仕打ちが…
平次は、絶えず注ぎ込まれた白穂に混じって血を垂れ流す、琴絵の神門(みと)を見るにつけ、同じ事を思うようになった。
暗面長(あめんおさ)がいつも兎神子(とみこ)達に使っていた、あの薬が欲しいと…
そんな時…
『これ、よく効くぞ。』
琴絵の神門(みと)の傷に、殆ど効かぬ軟膏を塗ってやりながら、涙を堪える平次に、あの人の手が後ろから差し出された。
『こ…これは…』
『真秀(まほろ)と言う、朧や霞の忍達が、鎮痛剤や忍術に使っている薬だ。塗ってやると良い。』
振り向く平次に、愛想の良い笑顔を傾けてきたのが、あの人との出会いであった。
あの人は、その後も度々やってきては、大量に真秀(まほろ)を持ってきてくれていたが…
ここ最近、あの人は姿を見せなくなり、薬は底をつき欠けていた。
思い余った平次は、社(やしろ)の裏手の山林を降った谷間に、阿片の隠畑がある事を知った。
総宮社(ふさつみやしろ)の目を盗み、聖領(ひじりのかなめ)相手に密売する為に開かれた隠畑である。
栽培されているのは、よく似ているが、真秀(まほろ)とは違う美国(うましくに)…
それでも、調合の仕方でほぼ同じ軟膏となる。
谷間一帯を占める広大な畑を前に、平次は思わず唾を呑み込んだ。
隠畑片隅の実と葉を、ほんの籠一杯…いや、籔一杯で、貝殻の薬箱にして軽く百はあの薬を調合できる。
社(やしろ)の兎神子(とみこ)と拔巫女(ぬいみこ)全員が使っても、軽く一月分は調合できる。
それを、社(やしろ)は一時の快楽を貪る為の阿片を造る為に浪費しようとしているのだ。
阿片を煙にして吸うのは…
聖領(ひじりのかなめ)に築かれた占領軍隠砦の兵(つわもの)達であろうか…
それとも、聖領(ひじりのかなめ)の神職(みしき)達であろうか…
茂みに隠れて見つめる平次の前で、警護を務める神漏兵(みもろのつわもの)達が、お溢れの阿片を旨そうに煙にして吸っている。
彼ら一人が、今一瞬にして煙にしている実で、兎神子(とみこ)や拔巫女(ぬいみこ)達の軟膏が軽く十日分調合できる。
しかも、彼らの足元には…
実と混ぜれば鎮痛剤となり、それだけならば湿布にもなる葉が、無造作に打ち捨てられていた。
こうしている間にも、琴絵は数えきれない程の男達に血塗れの参道を貫かれている。
今夜も血と白穂に塗れた傷口の痛みに悶えながら、眠れぬ夜を過ごすのだ…
阿片の煙に酔い痴れる神漏兵(みもろのつわもの)達を前に、握る拳を震わせ歯軋りをしていた平次の中で、何かが切れた。
無意識に懐に忍ばす手に、隠し持つ銭形の手裏剣が触れる。
『ウッ!』
『アッ!』
『ウグッ!』
気づけば、銭形手裏剣を投げ放つ指先で、三人の神漏兵(みもろのつわもの)達が、呻きを漏らして倒れていた。
『だっ…誰だっ!』
『何奴っ!』
『曲者だっ!出あえ…
残りの神漏兵(みもろのつわもの)達が辺りを見回し、狼狽の声をあげて駆け回り出す中…
平次は音もなく彼らの一人の背後に周り、首を締め上げへし折った。
『おまえは…』
『黒兎の平次…』
振り向く神漏兵(みもろのつわもの)達が声を上げるより先に、倒れた神漏兵(みもろのつわもの)の湾曲刀を拾い振り翳す。
相手は四人…
しかし、阿片に酔った兵(つわもの)などカカシに等しく、平次が横切る時には、全員呻きもあげずに倒れ伏した。
平次は、血塗られた湾曲刀を倒れた兵(つわもの)の一人に握らせ、同士討ちを偽装すると、近くの実と葉を夢中で毟りとり、去って行った。
『コトちゃん、脚を拡げて』
『うん。』
盗んだ美国(うましくに)を軟膏に調合し終えると、早速、琴絵に脚を拡げさせ、神門(みと)の傷に目を向けた。
『ウゥゥッ…』
平次は思わず声を漏らして、目を背ける。
まだ十歳にも満たぬ小さな神門(みと)から、その日も血と白穂が溢れ出していた。
まだ、漸く小指が挿るか挿らないかくらいの孔に、何十人のズ太い穂柱が捻り込まれたのであろう。
それも、既に付け根が裂け、一面赤剥けに剥離してる上から、数れぬ程抉られ続けたのが一目でわかる。
『これが…これが…人間のする事なのか…』
必死に涙を堪えて歯軋りする平次は、すかさず軟膏に舌先を伸ばす。
『お兄ちゃん、駄目!そこ、汚いよ!』
『コトちゃんの身体(からだ)で、汚い所なんかあるものか。』
平次は、舐めとった軟膏を、口腔内で唾液と混ぜ合わせると、慌てる琴絵にニッコリ笑いかけ、血と白穂に塗れた神門(みと)に口を近づけた。
『アァァ…アァァ…アァァ…』
唾液の混じった舌先が触れた瞬間、琴絵は全身の力を抜いて喘ぎ出した。
『コトちゃん、気持ち良い?』
『うん。』
『よしよし、今から、もっと気持ち良くして上げるからね。』
平次は言うなり、舌先を更に参道の奥へと挿入させる。
『ウグッ…』
一瞬…
鼻をつく尿臭混じりの白穂の臭いと、舌先に広がる尿と白穂と血の味に息が詰まる。
しかし…
『アァァ…アァァ…アァァ…』
軽やかに顎と腰を上下させ、つま先をピンと伸ばしながら、心地よさげに喘ぐ琴絵の声を聴くと、血と尿と白穂の悪臭と気色悪い味も消し飛んだ。
平次は、憑かれたように、更に丹念に琴絵の参道を弄り、神門(みと)を舐め回していった。
『アァァ…アンッ…アンッ…アァァン…』
顎と腰を浮かせ、更なる喘ぎを漏らす。
真秀(まほろ)の軟膏は、舌先で滲みでる唾液に混ぜながら、舐めて塗るのが、最も鎮痛効果を高めると言う。
しかし、真秀(まほろ)の薬は、傷や患部に当てれば良薬だが、口から取り込めば毒薬となる。
最初のうちは何でもないが、回を重ねるうちに体内に蓄積され、少しずつ血液を汚染させ、内臓を破壊してゆき、死に至る事もあると言う。
しかも、今使っているのは、真秀(まほろ)ではなく美国(うましくに)…
真秀(まほろ)以上に鎮痛効果が高いが、毒性も強いと言う…
それでも…
『アンッ…アンッ…アンッ…アーーーーンッ…』
琴絵の顔から苦悶が消え、心地よさそうな笑みが溢れ出すと、平次は自身の身体(からだ)の事も、命の危険さえ消し飛んだ。
『コトちゃん、気持ち良い?気持ち良い?』
『うん!凄く良い!凄く凄く気持ち良い!』
『よしよし!もっと良くしてやるぞ!もっと、もっと、もっと…』
『アァァーンッ!アンッ!アンッ!アァァーンッ!!!!』
平次は、更に顎と腰を浮かせて声を漏らす琴絵の神門(みと)と参道を、延々と舐め回し続けた。
最初はほんの弾みであった…
次は、今回限りのつもりであった…
しかし、どんなに救い難いほど神門(みと)と参道が傷つき、凄まじい激痛の中にあっても、琴絵は自分だけ薬を塗って貰おうとはしなかった。
仲間の兎神子(とみこ)達にも分けて欲しいと願った。
平次が、どのようにして薬を手に入れて来るのかわからぬまま、想像もつかぬまま、只々、自分と同じように仲間達の痛みも和らげたいと望んだ。
その分…
すぐに薬を切らして、また、激しい股間の激痛にのたうつ琴絵を見ると…
平次は、ただ快楽を貪る為に阿片を吸う神漏兵(みもろのつわもの)達の姿と重ね、いたたまれなくなった。
あの有り余る美国(うましくに)の実は、一時の快楽を貪りたいだけの富裕階層に、法外な値で売り捌かれて終わる。
その金は、琴絵を野獣のような男達の餌食にしている者達の懐を肥やさせて終わる。
しかも、葉に至っては…
売り捌かれもしなければ、一時の快楽を貪る阿片にすらされずに破棄されて終わる。
平次は、何度も何度も隠畑に忍び混んでは、美国(うましくに)の実と葉を盗み続けた。
盗む量も、最初はほんの一掴みか二掴みであったが、次第に籔一杯が籠一杯となり…
最後には、風呂敷に何包みも盗み出すようになった。
回数と量が増えるのに比例して、警護は厳しさを増すようになった。
当初は、警護の兵(つわもの)が摘み食いしている程度にしか思われなかった。
時折、死傷者が出ても、阿片に酔った兵(つわもの)が、喧嘩でもして同士討ちとなったのだろうと思われていた。
しかし、数を重ね、減る量が増えると、様々な憶測が飛び交った。
阿片の栽培も密造も、律令で固く禁じられていた。
見つかれば当人は死罪、家名は断絶され、一家は良くて兎神家(とがみのいえ)、悪くすれば河原者に落とされる。
その上、最も幼い娘や孫娘は、その場で着物を剥ぎ取られ、数多の男達の凌辱を受けた後、敵対する家の産土社(うぶすなつやしろ)に赤兎として兎幣される事になっていた。
だが…
旧帝国の時代が始まって以来…
新たな利権や大国の思惑が、神領(かむのかなめ)にも影響を及ぼすようになり、諸社領(もろつやしろのかなめ)の腐敗と権力抗争を蔓延らせた。
社領間(やしろのかなめのあいだ)でも、勢力と利権の対立が深まり…
全社領(すべてのやしろのかなめ)の長である総宮社(ふさつみやしろ)の権威も失墜し、今や律令の定めも有名無実となりかけていた。
それでも、大義名分の材料とはなる。
違反する利権で財と勢力を成す者を見出す者があれば、それを暴き立てて潰しにかかり、自身のものに掠めようとする者も現れる。
また、権威を失いかけた者は、そうした対立を煽り立てては介入し、回復を図ろうともする。
何処の誰が、いつ間者を送りつけて、いかなる工作を弄して潰しにかかって来るかわからぬ状況にあった。
最初は、昴田組と三波組が交代で末端部隊を警護に充てていたが…
いつも通り、見張りの死角から畑に忍び込む…
何日も前から何度も下見を繰り返していた。
何処から忍び込み、何処から抜け出すかも練り尽くしていた。
計画はいつも通り完璧だと思っていた。
しかし…
警護の目を盗み畑に入り…
生い茂る美国(うましくに)の実と葉を目の前にした時…
軟膏を掬った舌先で、神門(みと)を舐め、参道を弄られた時の、気持ちよさそうに喘ぐ琴絵の顔を思い浮かべた。
『コトちゃん…今夜も楽にしてやるぞ…』
平次は、目を瞑り、瞼の向こうの琴絵の笑顔に、胸の内でそっと囁きかけた。
次の刹那…
プチッと小枝が折れるような音…
しまった!
平次が顔色を変えるより先に、頭上四方に飛び出す鳴子が凄まじい音を立て出した。
『出あえ!出あえ!』
『曲者だ!曲者だ!』
『出あえ!出あえ!』
各地より、吹き鳴らされる呼子に合わせ、警護達の掛け声が響き渡った。
畑の茂みに潜り込み、駆け出そうとする平次の正面に、十字を模る黒兜の兵(つわもの)が一人…
『貴様…』
昴田組の神漏兵(みもろのつわもの)は、紅い兎の面をつけた黒装束を目にするや、湾曲刀を引き抜き迫る。
平次はすかさず銭形手裏剣を投げつけ、昴田兵(すばるたのつわもの)の眉間を割る。
同時に…
『いたぞ!』
『こっちだ!こっちだ!』
『捕らえよ!生捕りにしろ!』
四方より、神漏兵(みもろのつわもの)達が、畑の茂みをかき分けながら、四方から一斉に迫ってきた。
平次は、茂みの海原に潜り進み、各地で神出鬼没に顔を出しては、神漏兵(みもろのつわもの)に銭形手裏剣を投げつけ、眉間や後頭を割る。
『こっちだ!』
『いや、こっちだ!』
『こっちにもいるぞ!』
平次の撹乱は見事に嵌り、神漏兵(みもろのつわもの)達は、右往左往と駆け回っていた。
また一人、平次は銭形手裏剣を投げつけ眉間を割る。
一瞬、姿を見せては確実に仲間を仕留める賊に、神漏兵(みもろのつわもの)達は、次第に焦りを、更には恐怖を募らせてゆく。
しかし…
一向に囲みが緩む気配もなければ、突破口も見出せない平次もまた、疲労と共に焦りを募らせるのは同じであった。
その時…
『ウグッ!』
少し離れた神漏兵(みもろのつわもの)が一人、呻きを上げながら、茂みに沈んでいった。
『えっ?』
平次が思わず驚き振り向くと…
『アウッ!』
『アァァッ!』
また二人、離れた場所で神漏兵(みもろのつわもの)が茂みに沈んで行く。
平次が呆気に取られて見つめていると…
『ウワッ!』
今度は、真後ろで鈍い声がした。
振り向けば、いつの間に接近を許していた神漏兵(みもろのつわもの)が、万力鎖で首を絞め折られて絶命していた。
『平次、こっちだ!』
倒れ伏す神漏兵(みもろのつわもの)の後ろから、姿を表す新手の紅い兎の仮面が、平次に顎をしゃくる。
『伝七!おまえ…』
『良いから、早く来い!』
唖然とする平次の手を握り、伝七が駆け出すと、後ろ彼方でまた二人、神漏兵(みもろのつわもの)が茂みの中に消えた。
やがて追ってを巻いて一息つく平次と伝七の元に、新五も駆けつける。
『伝七!あれ程来るなと言っただろうが!』
思わず声を荒げる平次に…
『俺も来たくはなかったが、伝七がな…』
新五は紅い兎の仮面を外すなり、ムスッとして言った。
『平次も伝七も何考えてやがる。今がどう言う時か、二人ともわかってるだろう。』
身長も高ければ、顔つきも年齢らしからぬ老け顔の新五は、物言いは怒らせつつも、淡々と大人びた口調で言った。
『仕方ねえだろう!あんなお宝を前に、御預けはねえからよ!』
次に紅い兎の面を外す伝七は、人形のような顔一面に、子供じみた戯けた笑みを浮かべると、風呂敷包みいっぱいの美国(うましくに)の実と葉を掲げて見せる。
最後に紅い兎の仮面を外した平次は、二人の顔を見比べながら、暫し考え込むように黙り込んだ。
『平次、約束しろ。馬鹿は今回限りで終わりだ。でなければ、次はもう助けてやらんぞ。』
新五が切長の流し目に平次を見据えて言うと…
『なーに言ってやがる!こんなお宝、放っておく手があるかい!今回は平次一人だったからヘタ打ったけどよ。俺がついてりゃー千人力って奴よ。今度はもっと派手に掻っ攫おうぜ!』
伝七はまた、戯けて言う。
『平次、どうなんだ?約束するのか、しねえのか?』
『何だ、新五は怖えのかよ。だったら、おめえは残ってな。臆病モンのウドの大木なんぞ、いるだけ邪魔だからよ。』
『平次、答えろ。』
新五は、口を尖らせそっぽ向く伝七を無視して、流し目を更に鋭く細めて、平次を睨み据えた。
平次は、尚も無言のまま遠くを見つめる。
しかし…
『平次、おまえがヘタ打って捕われてみろ。コトちゃんがどんな目に合わされると思ってる。』
新五が、相変わらず物言いは怒らせつつも、淡々と大人びた…それでいて、何処か釘を刺すような口調で言葉を締めると…
『わかった…』
平次は、大きく息を一つ吐き、後ろを向いたまま頷いて見せた。
『阿片畑に盗みに入るのは、今回限りだ。』
『おい!そりゃーねえーぜ!あんだけお宝がありゃーよ。コトちゃんだけじゃーねー、千春ちゃんも小夜ちゃんも、灸姉貴も…
社(やしろ)の兎と拔(ぬい)、みんなの痛いのをずっと楽にしてやれるんだぜ!』
伝七は、平次の言葉に納得ゆかぬと言うように、まくしたてると…
『伝七、今回限りだと言ったら、今回限りだ!阿片畑の事は、もう忘れろ!あそこに畑はない!ないんだよ!』
平次は声を荒げて言うと、一瞬目と口を固くつぐんで歯を食いしばった後、二人に振り向きもせず駆け出して行った。
そう…
あの時限り…
あの時限りの筈だったのだ…
なのに…
『平次!聞いてるのかい!おまえが馬鹿な事をしたせいで…伝七と新五は、もう少しで…もう少しで…』
更に巻くしたてながら平次の頬を打ち続ける灸の声は、しかし次第に涙に滲み始めた。
すると…
『やめて!』
それまでひたすら泣いていた琴絵が、感極まったような声を上げるなり立ち上がり、平次のもとへ駆け寄ろうとした。
しかし…
『ウッ!』
琴絵は、股間に走る激痛に呻きをあげ、その場にくずおれた。
『コトちゃん!』
『コトちゃん!』
『コトちゃん!』
灸に捲し立てられ、すっかり項垂れていた平次と伝七と新五が、同時に声を上げる。
『お願い!もう、平次兄ちゃんを打たないで!怒らないで!全部、私の為にした事なの!私がいけないの!いつまでたっても痛がるから!痛いの我慢できないで泣いてるから!私が悪いの!だから…だから…打つなら私を打って!お願い!お願い!』
股間の激痛に立ち上がれぬまま、琴絵が涙声を上げると…
『そうだね…平次は、コトちゃんの為にしたんだもんね…それを…コトちゃんの大事な大事な人をぶったりしてごめんよ、姉ちゃんが悪かったよ。』
側に寄り、琴絵の肩を抱く灸もまた嗚咽を漏らし始めた。
側では、小春と小夜が一層声を上げて泣き出した。
『平次、おまえ、コトちゃんにこんな思いをさせて、どうなんだい?もし、おまえに何かあったら、この子、どうなっちまうと思うんだい?』
灸が、琴絵の肩を抱いて尚も嗚咽混じりに言うと、平次もまた、歯を食いしばり、硬く瞑る目を潤ませ出した。
その時…
『灸さんや、もうそのくらいにしてやって下さいな。平次も、こんなに反省してるじゃないですか。』
何処からとなく、人の良さそうな声が聞こえて来た。
『奥平さん。』
振り向く灸は、忽ち苦いものでも噛んだように顔を顰めて見せた。
『悪いと言えば、この私が悪かったのですよ。こんなに長く顔も出せず、皆さんがお待ちの薬を持ってきて差し上げられなかったのですからね。』
乱れ髪を風に靡かせ、愛想の良い笑みを浮かべながら颯爽と歩いてくる、青い楽土服に身を固めたやさ男…
『だがな、平次。私とも、もう一度約束だ。今回の件は、房枝と一緒にうまくカタをつけてやる。その代わり、あの畑には二度と近づくんじゃないよ。無茶もしない。でないと、誰が一番悲しむのか、忘れない事。良いね。』
『はいっ!奥平さん!』
憧れに満ちた眼差しと笑顔で見つめる平次と相反して、灸は奥平剛三と言う男に、何か心許せぬものを感じていたようである。