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まずは何をしよう

果たして私は「登山が好きと言えるのか?」 2024/06/11

果たして私は「登山が好きと言えるのか?」

単に山を歩くことが好きな人
本当の山好きではないか!
それが出来ない
歩いた先に
宝物がないとダメなのだ



 携帯がピコピコ点滅し、登山グループからの登山開催案内の着信を知らせている。人それぞれ、山の楽しみ方はあるだろうが「人は何故山に登るのだろうかと……」
 携帯画面をタップしている指先を停めて 
 考えた…
 が、
 考えるだけ無駄だとばかり思考能力は、風に飛ばされた風船のように青空に消えた!

 あるとき、頭を過ぎった
「そもそも、こんな事自体を考える自分は、登山に対して後ろ向きになっているのではなかろうか?」
 
 歳を重ねると行動を縛る要因も自然と身体・脳みそに付いてくるようで行動がおっくうになる。俗に言う「歳を取ると出不精になる!」に当てはまる。
行動を縛る要因は言葉で表現しづらいが、恐らく身体を押さえ込むフェロモン(思考能力・体力・気力の衰え)が多く分泌してくるのだろうと言う表現でごまかすこととする。それが登山に消極的になるひとつの要因であることには間違いないが、年齢以外に登山に後ろ向きになる自分の心の内を見つめてみたい。
 


ー----- 目次 ー-----
《人は何故山に登るのか?私なりに考えてみた》
《目的がはっきりしていない登山は遠慮する》
《家でゴロゴロしていた方が楽だと思ってしまう》
《修行を乗り越えられる人が登山好き?》

《人は何故山に登るのか?私なりに考えてみた》

 先ず個人的見解になるが「人は何故山に登るのだろうかと……」改めて考えるというか、この事を自分なりにはっきりさせないと話が進まなくなったので考えることとした。

 登山は修行だと思う。重い荷物を背負い・坂を登る・そして登った苦労を帳消しにするかのように下る。その繰り返しの先に見えるのが山頂だ!
 また、環境も過酷だ!自然に対応できなければ引き返ざるを得ない。全て自己責任下で自分の運んだバックパックの中のもので生活しなければならない。原始人に戻ったようなものだ
 修行に耐え抜いた脳みそが、山頂に立つことで修行から解放されたと共に下界では見られない壮大な景色を堪能することより精神の浄化が行われて快楽をもたらす。この快楽を求めて山に登るのかも知れない。
 「修行の先の快楽を求めて人は山に登るのではないか!」と結論づけた。



 では、自分の心の中を覗いてみよう。

 登山のパターンとして、「人に誘われていく登山」と「自分自身で計画する登山」がある。先ずは、人に誘われて行く登山について後ろ向きになる自分を考えてみよう。

《目的がはっきりしていない登山は遠慮する》

 人に誘われてもその登山行程に自分の欲求を満たす物(目的)が見つからなければ遠慮する。その心をくすぐられる物がないと登山に行かないのは、山好きとは言えないかと思う自分がいる。

【修行の観点から見て自分自身へのひと言】
精神的な快楽の他に物欲を求める事は、仏の道の観点からも登山好きとは言えない

本当の山好きは
・山道を歩くだけで満足する人
・山頂で澄んだ空気と広がる景色だけでも満足する人

 言い訳になるかも知れないが、例えば「m山」だから行かない訳ではない。

「m山」に誘われた
同伴者がいることは楽しい
誘われた山で何が出来るかまず考える?
“雲海”スポットかな……
早朝立ちだろうか?
計画的に早朝立ちは不可能のようだ
参加は見送ろう



 では、何故他の人と同じように純粋な気持ちで山に登れないのか考えてみると、要因は私が週末家庭菜園を行っている里山麓にある林に囲まれた畑にあるのではないかと考える。私からすると、そこは俗世界から離れた別天地である。

・林に囲まれたプライベートの畑なので山で過ごしている感覚で一日を過ごせる
・野菜や果樹に触れることにより“無”になれる
・楽しみながら収穫物もある
・畑のコミュニティも最高潮に楽しい
・畑という快楽地に修行せずに来られる

なので、
わざわざ目的もない山歩きをするよりも、自然と畑に足は向かう!

と言う
私の事情がある。


 敢えてもうひとつ遠慮する訳を上げると……
「目的のない登山で、山に行く頻度を上げたくない」
 私ばかり出かけていることに引け目を感じるので、本当に行きたい山に備えて出かける頻度を押さえておきたい。と言う意味である。(恐妻家ではありません。笑い)
 それと、年齢的に体力の回復度が落ちているので、もしもの登山計画のために目的のない登山で頻度は上げたくない。


 以上、「遠慮する」に至る経緯を色々書いたが…… 本音だと思う。

 次に、もうひとつの「自分で計画する登山」について後ろ向きになる自分を考えてみよう。

 

《家でゴロゴロしていた方が楽だと思ってしまう》

 自分で計画した登山であるから文句の付けようのない目的が満載のはずなのだが、出かける2、3日前になると家でゴロゴロしていた方が楽だと思ってしまう!自分がいることに気付く。
 これが正しく登山好きとは言えない大本命かと思っている。

 登山に出かけるまでがかなり面倒臭いことを消化しなければならない。一番億劫なのは天気予報に翻弄されて日程が直前まで決まらないことだ。それと、山小屋の予約も面倒なので予約不要の場所を選ぶようにしているし、交通機関を使う入山も出来るだけ避けている。

登山計画書を書く
やりたいことが一杯詰まっている
支度を調える
山頂までの行程が脳裏に浮かぶ
取っ掛かりの長い登山道を歩かねば……
永遠に続く急登があったなぁ……
家を出るまで修行のつらさが身体を縛る
家でゴロゴロしていた方が楽だと思ってしまう!
自分が居る
だが、家を出た瞬間に
不思議と気持ちは楽しさに満ちあふれる
放水された水のように


 

 

《修行を乗り越えられる人が登山好き?》


 山に出かける出発数日前から前日、“家でゴロゴロしていた気持ち”を芽生えさせているのは「修行」の存在だと思う。山それぞれに修行のメニューがあり、そのメニューをこなせた人のみが山頂に立てる仕組みに登山は定義されているのだろう。
 従って、修行を全うできる人が登山好きと言えるのでなかろうか!


 では、修行を乗り越えられるように自分は何をやっているか考えてみた。
それは、ジョギングだと思う

走っているときに辛かった登山道のことを考えながら走るときがある。
今も、修行の一環か?
と、思いながら走っている自分に檄を飛ばす!
修行を少しでも楽にするために
走る! 走る! 走る!
山頂が私を待っている
そう
修行という砦を構えて

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