笹川良一と山本五十六
昭和14年秋、笹川良一は山本五十六海軍次官(後の連合艦隊司令長官)から電話があり、次官室に来るよう命じられた。
笹川は山本と非常に親しかった。知り合ったのは昭和7年頃だそうだ。飛行機に異常な関心をもつ2人は意気投合し、急接近していった。
この時山本48歳、笹川33歳、年齢差15歳。洞察力の鋭い山本は笹川の人物を一目で気に入り、以来弟のように可愛がった。
二人は「日米戦うべからず」の「日米非戦論者」である。
将来は必ず航空機の時代になる、との見通しや、日米戦えば苦境に立つのは日本である、という見解で一致していた。笹川は山本からアメリカやイギリスの経済的実力を教えられていた。
また、山本は当時笹川が計画していた独伊訪問旅行計画に多大な協力をしてくれた。山本は笹川に欧州の戦乱を見せておきたかったのである。
昭和15年1月1日にローマに到着した笹川はイタリアの首相ムッソリーニと会見している。
その後ドイツに入り戦時下のドイツ国状をつぶさに視察した。笹川はローマとベルリンで刑務所見学もしている。これは自分が無実の罪で3年間入獄して見て、日本の囚人に対する扱いに義憤を感じていたからであった。
当時海外に飛行機を利用する人(政治家など)はほとんどいなかった。そのころの民間飛行機はまだ初期段階で危険極まりないものであった。
それに大変な費用がかかる。笹川は危険と費用を冒してまで満州、支那南洋群島、ドイツ、ローマなど20回近く飛び回った。当時としては驚異的な回数である。
笹川にとって「死」に対する恐怖心というものは全くないといえる。
母・テルが
「世のため人のために生まれてきた子や、神様も殺しはしまへんやろ。あきらめまひょ」と言っているとおり、万が一飛行機事故により命を失ってしまったら、笹川の運命はそこまでである。
「世のため、人のため」に生まれてきた以上、国や国民が必要とする限り何も心配はいらないのである。
昭和14年秋、笹川良一は山本五十六海軍次官(後の連合艦隊司令長官)から電話があり、次官室に来るよう命じられた。
笹川は山本と非常に親しかった。知り合ったのは昭和7年頃だそうだ。飛行機に異常な関心をもつ2人は意気投合し、急接近していった。
この時山本48歳、笹川33歳、年齢差15歳。洞察力の鋭い山本は笹川の人物を一目で気に入り、以来弟のように可愛がった。
二人は「日米戦うべからず」の「日米非戦論者」である。
将来は必ず航空機の時代になる、との見通しや、日米戦えば苦境に立つのは日本である、という見解で一致していた。笹川は山本からアメリカやイギリスの経済的実力を教えられていた。
また、山本は当時笹川が計画していた独伊訪問旅行計画に多大な協力をしてくれた。山本は笹川に欧州の戦乱を見せておきたかったのである。
昭和15年1月1日にローマに到着した笹川はイタリアの首相ムッソリーニと会見している。
その後ドイツに入り戦時下のドイツ国状をつぶさに視察した。笹川はローマとベルリンで刑務所見学もしている。これは自分が無実の罪で3年間入獄して見て、日本の囚人に対する扱いに義憤を感じていたからであった。
当時海外に飛行機を利用する人(政治家など)はほとんどいなかった。そのころの民間飛行機はまだ初期段階で危険極まりないものであった。
それに大変な費用がかかる。笹川は危険と費用を冒してまで満州、支那南洋群島、ドイツ、ローマなど20回近く飛び回った。当時としては驚異的な回数である。
笹川にとって「死」に対する恐怖心というものは全くないといえる。
母・テルが
「世のため人のために生まれてきた子や、神様も殺しはしまへんやろ。あきらめまひょ」と言っているとおり、万が一飛行機事故により命を失ってしまったら、笹川の運命はそこまでである。
「世のため、人のため」に生まれてきた以上、国や国民が必要とする限り何も心配はいらないのである。