世界は一家 人類みな兄弟 笹川良一

“昭和の怪物”笹川良一とは一体どんな人物であったのか。

幅広いネットワークづくり

2008年07月31日 | 日本船舶振興会
幅広いネットワークづくり

1960~70年代において我が国の経済は飛躍的に成長を遂げた。この高度経済成長を経て、日本の国際社会における地位は著しく向上したが、それに伴い欧米諸国から「経済至上主義国」との批判は厳しいものがあった。

そんな現状を憂いた笹川良一は、日本が国際社会の一員として正しく理解認識され、その上でより良い社会を築いていくには、諸外国と各分野で交流を図ることが必要不可欠であると考えた。

笹川は「民」の立場で各国・地域との間に組織をつくり、人的交流や文化的交流はもとより、教育分野、医学分野などの幅広い活動を通じてグローバルなネットワークを構築し、広く人類社会の発展と平和を目指すことで、日本の国際的な地位向上が上がることを考えた。

1980年の米日財団の設立を皮切りに、スカンジナビア・ニッポンササカワ財団、グレートブリテン・ササカワ財団、笹川日仏財団、笹川アフリカ協会、笹川汎アジア基金、笹川中欧基金、笹川日中友好基金、笹川島嶼国基金などを次々と設立した。

これらの財団と基金は、各分野で活発的な活動を行い、相互理解を促進し、友好関係に大きな役割を果たしてきた。

これらの活動により、笹川のネットワークは全世界を網羅することとなった。

また、1987年には陽平(現・日本財団会長)主導により人文・社会科学の分野で将来の指導者となる若い世代を育てることを目的とした基金「笹川ヤングリーダー奨学基金(SYLFF)」が設置された。

現在までにこのSYLFFを通じて世界45カ国、68の高等教育機関にそれぞれ100万ドルの奨学基金が設置され、約9000人の卒業生が全世界にいる。

この奨学金制度を通じて学生が民族を超えたグローバルなつながりの意識をもってくれることが目的である。

『世襲』批判(下)

2008年07月30日 | その他
『世襲』批判(下)

【昨日のブログから続く】

能力がなく、実績がない人物が創業家の血筋を引いているだけで社長に就任することは、社会から『世襲』と批判されても仕方あるまい。

この場合の組織としての問題は、社長は創業家から出るものとの思いが社内全般にあり、息子(または親族)を社長にするため有力候補には社外へ放り出してしまう。社長の周りには自然と(?)イエスマンだけが残るという結果を招きかねない。

不祥事が起きている企業をみると、同族維持が目的化している例が多いのも頷ける。

ただし、全てが悪いわけではない。4~6年程度で交替するサラリーマン化した社長が長期的なビジョンに基づいた事業ができにくく、株主等の目を気にし在任中の短期間にある一定の成果をあげなければならず目先の結果にしか捉われなくなってしまう場合がある。

また、能力に劣る者が「ひょっとしたら俺も社長になれるかも」と分不相応な野望を抱き、社内で派閥をつくることに全精力を傾けてしまい、何のために働くのかという本来の目的を失ってしまう場合もある。

こうなると組織は最悪の状態になる。

トヨタ自動車をはじめ順調に発展している各企業は、当然のことであるがその人物が社長としての力量が備わって周囲が納得して初めて社長に就任できるのである。

さて、日本財団の場合はといえば、平成17年5月に開催された記者会見の席上で会長の曽野綾子会長に次期会長に笹川陽平が選ばれた理由を聞かれ、

「財団の仕事を一番よく知っていて、一番働いている人」と答えたように、陽平が行ってきた活動に対する評価、見識などが理事会で認められたのであろう。

ここで大切なことは、陽平が笹川良一、曽野の側で仕え、多くのことを肌で感じ学び、財団に対して誰よりも自分の命を賭けるという強い使命感を持っていること、

財団において自らが手掛けてきた様々な事業に対して情熱を持って取り組んでいたこと、世の中を変えることにより、社会をより良くしていこうという強い思いをもっていたことのである。

そして何よりも財団の職員が陽平の考えや行動に共感し、会長就任を心から望んでいたということも事実である。

『世襲』に関する批判は、全くといっていいほど起きなかった。

『世襲』批判(上)

2008年07月29日 | その他
『世襲』批判(上)

平成17年5月、日本財団の会長であった曽野綾子の退任と新会長に笹川陽平が選ばれた理事会の後、財団はすぐに記者会見を開催した。

会見で陽平は「結局、世襲では」との声に、「その批判も十分承知しております。私のこれからの活動により評価を受けたい」と自信をのぞかせた。

また曽野は、陽平会長について「財団の仕事を一番よく知っていて、一番働いている人。過去はどうでもいい」と話した。

陽平はほぼ毎日ブログを更新している。「どんな仕事をしているのか多くの人に監視してほしい。組織の情報公開も徹底しています。批判してくださる方がいてこそ、健全な組織ができますから」と語った。

平成7年に会長だった笹川良一が亡くなった時に、次期会長候補に陽平の名前があがった。

しかし、マスメディアは、陽平の会長就任に対して一斉に『世襲』批判を行った。

それから約10年後の記者会見においても世襲の質問がでた。

そもそも世襲というものがそんなにいけないことなのか、いささか疑問が残る。
「世襲とはその家の地位・財産財産・職業などを、嫡系の子孫が代々うけつぐ」(広辞苑)。

世襲、すなわち同族会社は日本で数多くある。例えば、大手ゼンコンや出版社などは現在も創業家が会社のトップまたは中枢にいる。

松下電器産業、武田薬品工業、キッコーマンなどの一流企業など、創業一族を抱えながらも国際的に活躍している企業は少なくない。

日本の代表的な企業であるトヨタ自動車は、創業家の豊田章男が副社長におり、いずれは社長になるであろう。

「豊田家はグループを束ねる旗」と取締役相談役の奥田碩(日本経団連名誉会長)も語っている。(2007年11月4日付け、 日本経済新聞)

要するに、単なる創業家だからといってバカ息子が何の苦労を知らず、実力がないにもかかわらず会社のトップに就任する(している)場合は、世襲と批判されても仕方あるまい。

【次回に続く】

日本財団会長になりたいか(下)

2008年07月28日 | その他
日本財団会長になりたいか(下)

笹川良一が平成7年7月に亡くなり、12月に会長に就任した曽野綾子は9年6カ月その職に就いた。

その間、何度か辞意を示唆したことがあったそうだ。それは、決して日本財団に嫌気が指したわけではない。

自分が退いて他の誰かが会長になっても財団は十分安定した運営ができるという曽野の判断であった。

笹川は説得し曽野は留任した。

他人からの意見で自分の考えを変えるほど曽野は一筋縄ではいかない人物であろうから陽平は相当な労力を費やしたのではないだろうか。

もし陽平が会長ポストを狙っていたら説得工作に乗り出すことなどしないはずである。

笹川亡き後、次期会長に陽平の名前があがったが、そのときマスメディアから世襲に対する批判があった。

しかし仮に本人が会長になりたいと思ったからといって簡単になれるものではない。

その経緯を説明すると、財団の会長は理事会の議決を得なければならない。

理事のメンバーには渡部昇一(上智大学名誉教授)、牛尾治朗(ウシオ電機会長)や後に内閣官房副長官になった的場順三などの“強者(つわもの)”が顔を揃え、これらの理事が賛成したうえで、国土交通大臣が認めなければ会長になれない。

その課程において、財団は当時特殊法人であったために事前に官邸協議(官房長官協議)を経た後、閣議了解を得なければならないことになっている。そこが株式会社などと大きく異なるところである。

平成17年に9年半務めあげた曽野の会長退任が決定し、財団の理事会で陽平が選ばれた。

“満を持して”の登場である。理事会終了後すぐに記者会見を行い、曽野の退任と新会長に笹川陽平が選ばれたことが発表された。

日本財団会長になりたいか(上)

2008年07月25日 | その他
日本財団会長になりたいか(上)

以下のようなコメントがあったので、私なりに勝手に思いついたことを書く。

良一会長が亡くなられた後、日本財団の会長職は曽野綾子さんから陽平会長へとございましたが、陽平会長は最初は後をお継ぎになる気がなかったのでしょうか?」(おもしろキング)

まず断っておくが、財団の会長になるのは有識者からなる理事会で決められて初めて候補者になれる。これは次回説明する。

日本財団会長には笹川良一の後、平成7年12月に曽野綾子が就任した。

当時のご本人の考えは分からないので、あくまでも推測の域を脱しないが、陽平は適任者がいなければ、自分が会長職を引き受けなければならないという気持ちは多少なりともあったのではないかと思う。またそのような考えがないほうがおかしい。

陽平は40歳でビジネスの世界から笹川率いる日本財団を含む競艇業界に入り、笹川の側で約20年近く補佐をしてきた。

その間、ハンセン病撲滅活動、アフリカの食糧増産事業、中国の医学生招聘事業、チェルノブイリ原発医療支援など数々の大きなプロジェクトが実施されてきた。

これらは長年笹川と陽平が先頭に立って行ってきた事業である。資金、人材、時間などを費やし、国際的に高い評価を得てきた。

笹川亡き後も継続していく必要があり、きちんと事業の行く末を見守っていかなければならない責任がある。

適任者がいないのであれば、当然理事長である陽平が就任するのが財団内部の一致した考えである。

それと父がつくり上げたこの業界を背負わなければならないという使命感が陽平にはあったのではないか。

たとえ本人が会長になりたくないと思ったとしても財団だけでなく、競艇業界が陽平を推すであろうし、それが彼の宿命なのである。

以上のことだけでも陽平が会長になるのが自然の成り行きである。

しかしながら、当時の日本財団は事務局長の逮捕により社会から集中的な非難を浴びており、マスコミ各社は、陽平の会長就任について『世襲』は認めないという風潮があったのも事実である。

日本財団の会長に曽野綾子就任

2008年07月24日 | 日本船舶振興会
日本財団の会長に曽野綾子就任

笹川良一の後を継ぎ、日本財団の会長になったのが作家の曽野綾子であった。

曽野は聖心女子大学卒業で「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビューして以来常に第一線で活躍してきた。

一方で、臨時教育審議会委員や松下政経塾、日航財団の理事など多くの肩書をもつ。また平成2年から日本財団の理事や、笹川平和財団や米日財団など関連財団の理事も務めてきた。

自らも海外の邦人修道女たちの働きを援助する活動を組織するなど、国際的な視野をもち、クリーンなイメージのある曽野は会長就任の記者会見でクリスチャン作家らしく、聖書ルカによる福音書を引用する場面もあり、「どんなに汚れた金であろうと誠実に使うことが大切」と語った。

就任後職員の前に立ち

・常に仕える者としての謙虚さを失ってはならない
・財団はお金を差し上げるのではなく、伝達者であるということを忘れてはならない。過剰なほど、お金と物に対する厳正な気持ちを失わないで欲しい
・どんなに拒否されてもそれが人間としてやるべきだと思ったらやるべきであり、感情でついていかなくとも、やるべきだと思ったら理性によって相手を愛し続けることが必要である

この三点を求めた。

こうして平成7年12月11日日本財団の新たなスタートが切られた。

曽野は過去を振り返ってこう語っている。
「(笹川)前会長の残して行かれた路線のうち、時代と人道が必要とし続けているものはすべて確実に残し、新たな時代と人道が求めるものには即刻道を開く」

曽野が財団の会長に就任し、日本財団が大きく変わったとよく言われたが、実のところそんなに変化はないと私は思っている。

曽野が語っているように笹川の哲学は、「困っている人がそこにいるから手を差し伸べる」という、至って簡単明瞭でそれは不変なものであり財団のスタンスは、曽野が就任しても何ら変わることがなかったのである。

ただ、曽野の場合は作家としての実績もさることながら、抜群の知名度、クリスチャンというイメージ、そして強い女性としての魅力が加わり、社会に特にマスメディアに受け入れやすかったことも事実である。

また、ちょうど情報時代の幕開けとともにその兆しをいち早く読み取り、当時の組織としては珍しいほどの情報の公開を徹底して行った。

笹川も曽野も自らのお金は好き勝手に自由に使って構わないが、財団のお金は一円たりとも無駄にしてはいけない。

財団のお金に対しては非常に“ケチ”であるところが、二人の最も共通する点であるのではないか。


笹川良一の命日

2008年07月23日 | その他
笹川良一の命日

7月18日は、笹川良一の命日であった。

笹川は平成7年7月18日午後9時、急性心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなった。96歳だった。

昭和53年勲一等瑞宝章、昭和57年に国連平和賞、昭和62年には勲一等旭日大綬章など、国内はもとより海外からも高い評価を受けた男の死である。

平成7年7月19日の毎日新聞は次のように報道している。以下抜粋。

<聖路加国際病院では、十九日午前一時過ぎから日野原重明院長と笹川陽平・船舶振興会理事長が記者会見した。

日野原院長は「故人の遺志で解剖してほしいとのことで、発表が遅れた。あまり苦しまずに、最後まで意識はあった。十八日の午後八時過ぎに容体が悪化して駆け付けたが、意識がすでにもうろうとしていた」と説明。

陽平氏は「父はベッドの上で『神戸の大震災復興のために力を尽くして欲しい』と話していた」と語った。>

死を間近に迎え、神戸大震災の被災者のことを心配し、陽平に復興を託すことを最後の言葉としているところが、笹川らしいといえる。

最後まで「世のため、人のため」に生き抜いたのである。

死亡後遺体は遺言どおり直ちに解剖に付された。

解剖病院は東京都 聖路加国際病院
日時 平成7年7月18日
執刀医師 斎木茂樹
立ち合い人 三男笹川陽平 日野原重明

密葬は7月21日、本葬、お別れ会は9月14日港区増上寺大殿で行われた。

参列者にはジミー・カーター元米国大統領や政財界、そして戦犯遺族や巣鴨獄中笹川からのあたたかい奉仕や慰問に励まされた人たちなど、約1万1,000人が参列し、最後の別れを告げた。

笹川が亡くなってから早いもので13年の月日が経つ。その間、日本財団の会長職は、作家の曽野綾子、三男の笹川陽平と引継がれていった。

日本のプレゼンス向上に多大な貢献をする笹川

2008年07月22日 | ハンセン病対策
日本のプレゼンス向上に多大な貢献をする笹川

笹川良一と日本財団は長きにわたりハンセン病撲滅の活動をしてきたことは既に書いたとおりである。

世界保健機関(WHO)の総会やハンセン病の国際会議などで「ササカワ」の名前を知らない人はいないと言われている。

それは単に「笹川」や「日本財団」の名前が広まるということでなく、我が国「日本」のプレゼンスの向上に多大なる貢献を果たしているのである。

各国政府の保健大臣やWHOの担当者は数年で代わる場合があるが、笹川と日本財団の「世界からハンセン病をなくす」という信念は、30年以上も変わらずに活動を続けてきたのである。

「ハンセン病は治る病気である」「薬は無料」「ハンセン病は恐れる必要のない病気であり、偏見・差別は全く不当である」というメッセージを笹川の遺志を継いだWHOハンセン病制圧特別大使の笹川陽平日本財団会長は、各国政府要人をはじめ、現場で伝え続けている。

ハンセン病蔓延国の大統領ですらハンセン病という病名を知らない場合もある。

笹川らは国家元首に直接会い、その国のハンセン病の現状を伝え理解させることにより、元首から保健大臣へ、大臣から担当者、そして現場レベルへと、トップダウンで病気の対策が図られることが大切なのである。

このような地道な活動が20年前に122カ国あった蔓延国が現在2カ国に激減した一つの要因でもある。

我が国は毎年多額のODA(政府開発援助)を行っているが、残念ながら各国から余り感謝はされていない。

それに比べ日本財団が行ってきた様々な活動は国際的に高い評価を得ているのである。それは笹川が世界の舞台で強い使命感を持って仕事をしていることを各国政府要人が十分理解をしているからである。

陽平が初めて父である笹川と海外出張に行ったのは昭和40年。場所は韓国であった。

ホテルに着くなり笹川は「お前はいくら金をもっているか?」と陽平は聞かれたそうだ。初めての父のお供であり、何があってもいいようにある程度のお金を持ち合わせていた陽平は、正直に笹川に金額を告げると

「(地元の)ハンセン病病院に寄付するから全額寄こせ。土産を買うより、困っている人に差し上げたほうが気持ちがよいぞ」

そう言われた陽平は、有り金全額を差し出したそうだ。陽平26歳の頃である。二度目の出張も三度目の出張も同様に所持金を全額寄付に差し出すよう命令されたそうだ。

らい予防法が廃止されても残る差別問題

2008年07月15日 | ハンセン病対策
らい予防法が廃止されても残る差別問題

平成8年「らい予防法」が廃止された。「癩(らい)予防ニ関スル件」が公布されてから約90年、その間患者や回復者たちは苦しみに耐えてきたのであった。

この時、笹川良一は既に亡くなっている。しかし、天国でこの法律の廃止を喜んだことは間違いないであろう。

それは笹川の半生が誰も手を出さなかった、というより出せなかったハンセン病との闘いであったからである。

しかしながら、法律が廃止されたからといって患者や家族らに対する偏見やスティグマ(社会的烙印)がすぐに払拭できるものではない。手をつけなければならない課題はまだ山積されている。

この大きな問題に果敢に立ち向かうのが、笹川の三男である陽平なのであった。

陽平は、「ハンセン病制圧活動はライフワークである」と語っている。30年以上にわたり父とともに、そして父の遺志を継いで制圧活動に全力投入してきた。

1985年に122カ国あった未制圧国が現在は2カ国に激減。120カ国が制圧されたその陰には笹川良一の決断力、陽平の実行力と日本財団の長期にわたる様々な活動があった。

このように病気としての制圧においては大きな成果が現れているが、社会における差別の問題は、依然として世界中に存在する。

ハンセン病に感染すると社会から排斥され、完治してもその状況は継続される。世界には現在も家族を含めると約1億ともいわれる人がスティグマを背負い、いわれの無い差別に苦しんでいる。

陽平はこの問題を重要な人権侵害ととらえ動き出すのである。陽平は病気としてのハンセン病制圧と社会的差別の解消という二つの大きな目標に向かって1年の1/3を海外の現場で活動し続けるのでる。

500万人のハンセン病患者を救う

2008年07月14日 | ハンセン病対策
500万人のハンセン病患者を救う

さて、ハンセン病対策事業について日本財団の活動に触れておく。

1985年にハンセン病未制圧国は122カ国あった。MDT(Multi-drug Therapy:多剤併用療法)の開発により、ハンセン病は治癒可能な皮膚病になり、現在はネパール、コンゴ民主共和国の2カ国に減少した。

120カ国が制圧されたのである。世界保健機関(WHO)の基準では、制圧国というのは人口1万人に対しハンセン病患者1人以下の国を指す。

これだけハンセン病蔓延国が激減した理由には、笹川良一の三男陽平(現・日本財団会長)が、日本財団を通じて1995年から5年間、全世界に治療薬を無料配布したことが大きな要因である。

それにより約500万人以上の患者を病気から解放した。

もちろん日本ではそんなことは知られていないが、それは笹川もそうであるが、陽平も自らの業績を多くは語らない。

日本国民はハンセン病に対する知識はないだろうし、意識もあまりない。それではマスメディアは報道しないのである。

参考までに日本財団が治療薬を配布し終えた2000年からは陽平の努力によりスイスの製薬会社ノバルティスが引き継いでいる。

WHOによると1980年代から現在まで治癒した数が約1500万人と公表されており、財団の薬により実に1/3のハンセン病患者を救った計算になる。

2001年5月にWHOからハンセン病制圧特別大使に任命される。現在は未制圧国を中心に制圧に向けて政治指導者、メディア関係者、医療関係者、ハンセン病患者及び回復者と会い、ハンセン病に対する正しい認識を広め、必要な医療サービスを提供するための活動を行っている。

各国を訪問し、政治指導者に面談する際に必ず3つのメッセージを伝えている。

ハンセン病は治る病気である
薬は無料
偏見・差別は全く不当である
という3点である。