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春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

孫の2歳の誕生日

2010年07月16日 | 日記
今日は孫の2歳の誕生日。わが家でお祝いをすることになり、藤沢に住んでいる息子一家が友人を連れてやってきた。
主役の孫は移動中の車の中で寝てしまい到着時に起こされたとのことで、きわめて不機嫌。食事前の記念写真には
不機嫌なまま納まった。

ケーキに小さなローソクを2本立て、ハッピー・バースデイを歌って祝った。孫は子よりかわいいと言うが、
ほんとうにそう思う。

私がデジカメで撮った孫の写真は2年間で数百枚。デジカメは撮影した日の年月日と年齢(何歳何ヶ月)がすぐ出る
ようになっている。撮影した写真をわかりやすく整理するため、私はパソコンの中で写真を縮小し、1ヵ月分をA4
サイズ1枚にまとめ、簡単な説明を加えている。

2年間で24枚になったが、これを「撮影日記」と題して冊子にしているので孫の成育状況がひと目でわかる。
3歳になるまではこれを続けようと思っている。何はともあれ元気に育っているのが何よりもうれしい。

父13回忌の法要

2010年07月05日 | 日記
長崎での父の法要を終え、今日、鎌倉に戻った。3泊4日の長崎滞在だった。父が亡くなったのは平成10年8月17日
なので今年は13回忌。また、祖母が亡くなったのが昭和36年12月26日だったので50回忌になる。

父の場合、本来なら8月17日が祥月命日なので、この日に法要を営むべきなのだが、それ以前でも可ということだった
のでこの日に父の13回忌、祖母の50回忌の合同法要を菩提寺の光明寺で行った。母は入院中で出席できなかったが、
身内みんなが出席して供養した。

父の死去に際しては、危篤状態が何度かあり、その都度、羽田―長崎間を往復したが、いまでも忘れられないのは祖母
の死去のときだった。まだ学生だった私は、祖母の死去の知らせに、すぐ帰らなければと東京駅に向かい九州行きの
列車に飛び乗った。特急だったのか急行だったのかは定かではないが、12月26日のこと、とにかく正月の帰省客で列車は
満席、大阪までは立って帰ったのを覚えている。そんなにしてまで帰らなければならなかったのかといま思うが、当時は
若かったのでそれが可能だったのだろう。

法要は無事終えたが、もうひとつ大切なのが入院中の母の見舞いだった。母は寝たきりで、「胃ろう」の治療を受けている。
顔色はいいが、しゃべれないので、目や口を少し動かして反応するだけ。それでも東京にいる子どもたちが見舞いに来て
くれたということはわかったようだ。それだけでもうれしい。

大正7年生まれの母は8月26日で満92歳になる。もう少しだから誕生日までは頑張って欲しい。そう願って病院を後にした。

じいじの孫育て

2010年06月09日 | 日記
日経新聞の夕刊、「らいふプラス」欄に「祖父 手探りの「育児」デビュー」という記事があった。じいじたちが手探り
で孫育てを始めているというルポ風の紹介記事だ。退職して時間に余裕がでてきたじいじたちが保育園の送迎をしたり、
孫の遊び相手になったり、孫と熱心にかかわることによって若い子育て世代の大きな支えにもなっているという内容。

私にも来月2歳になる孫がいる。可愛くて「コンビニに行こう」とせがまれると、連れて行ってしまう。パック入りの
小さなアップルジュースを買ってやると満足げにしているのだが、帰る途中に必ずこのジュースを飲むと言う。「おうち
に帰ってから・・・」と言っても「ここで飲む」と言い張るので、仕方なくパックにストローを通してやると喜んで飲む。

ママは子どもの歯を守るために甘いものをあまり口にさせない。だから孫はじいじを誘ってコンビニに行く。買ったジュー
スをすぐ飲みたいといっても、それを許してしまう。じいじのやることはしつけにならない。新聞の記事には豊島区の男性
が奥さんから「おもちゃやジュースは買いすぎないように」と注意されているという話が紹介されていた。

確かにじいじは孫に甘い。だからママとの間でトラブルが生じかねない。そのようなことがないようにと、「祖父の孫育て
5ヵ条」というのが紹介されていた。

①できないことまで無理してやらない
②主役はあくまでも親、祖父はサポート役として動く
③親が孫をしかれば祖父がなだめるなど役割分担する
④妻には子育てを任せたことを認め、孫育てで得意げにならない
⑤昔の遊びやしかり方など自分の子ども時代の経験を思い出す

この5ヵ条を参考に、じいじたちはこれからも孫の「育児」に励まなくちゃ・・・。

走水神社に参拝

2010年05月09日 | 日記
連休明けの日曜日、息子夫婦と孫の4人で走水神社にお参りに行った。初夏の心地よい風を受けながら車は三浦半島を南下、
途中、三浦市の寿司割烹「豊魚」に立ち寄って昼食を済ませ、さらに観音崎方面に向かって走る。目的地の走水神社に着い
たのは午後2時頃だった。テレビや雑誌でパワースポットとして紹介されているせいか、境内には若い女性が多い。

社殿に向かって左側に手水舎がある。ここの水は富士山からの湧水で永い年月をかけ湧き出ているそうだ。この水で清めて
から鳥居をくぐり、急な石段を登って社殿に。孫も一緒にそろって参拝。その後、左側の坂道を登って三ノ宮(諏訪神社、
神明社、須賀神社)まで行った。1歳10ヵ月の孫もよく歩いた。

走水神社は、東征中の日本武尊が走水から船で上総へ渡ろうとしたが、暴風雨に阻まれて立ち往生、そのとき、同行してきた
弟橘媛がみずから入水して海神の怒りを鎮め、航海の安全を図ったという伝説にちなみ創建された古社。日本武尊は、航海に
先立ち当地を「水走る」と称えられたことから走水の地名が起こったという。

また、日本武尊は、わが身を犠牲にして海を鎮めてくれた弟橘媛を偲び、御所ヶ崎に祭る一方、村人の敬慕に謝し冠を下賜さ
れた。村人はこの冠を石棺に納め、その上に社殿を建立して尊を祭ったと伝えられている。明治43年、近くの御所ヶ崎に祭
られていた弟橘媛を走水神社に合祀し、今日に至っている。

帰路、京急観音崎ホテルで少し休み、海岸を散歩。うっそうと茂った小高い山の向こうに真っ白い観音崎灯台、その下には
青い海。やわらかな日差しと爽やかな潮風を受け生気がみなぎってくる。

大気のエネルギーと神々のパワーをたくさんいただいた1日だった。

鎌倉市の自然公園

2010年04月10日 | 日記
私が住んでいる鎌倉市には大規模公園と称する市の公園が7つある。

①鎌倉海浜公園。鎌倉を代表する海浜公園で、由比ガ浜地区、坂ノ下地区、稲村ガ崎地区の3地区に分かれている。
②鎌倉中央公園。市の中央部に位置し、田や畑、湿地などの自然がそのまま残っている。
③源氏山公園。緑豊かな自然に囲まれ、園内には頼朝像、近くには銭洗弁天がある。
④笛田公園。野球場1面、テニスコート4面のほか、多目的広場や散歩道があり、憩いの場として親しまれている。
⑤散在ガ池森林公園。鎌倉湖とも呼ばれており、周辺に2.4kmの散歩道があり、自然がそのまま残っている。
⑥六国見山森林公園。山頂近くの展望台から富士山をはじめ、丹沢や伊豆の山々、横浜のランドマークタワーなどが望める。
⑦夫婦池公園。桜の名所・鎌倉山の山合いにある2つの池を擁した公園で、貴重な動植物が生息している。

源氏山公園には子どもをつれてよく遊びに行った。広場で弁当を食べているとトビが急降下してきて食べ物を横取りする。
最初は驚いたがそのうちに慣れた。海浜公園もトビには要注意だ。夫婦池公園は市が整備して、昨年4月にオープンしたが、
それ以前にもよく行き、子どもとつりを楽しんだりした。いまは大きな錦鯉が泳いでおり、つりは禁止されている。

今日は天気がよかったので午後から夫婦池公園、鎌倉山、笛田公園と、ゆっくり散歩した。夫婦池の近くには立派な枝垂桜
があるのでそれを見てから、夫婦池公園、そして鎌倉山へと向かった。歩いていると、山の斜面を削ってそこに住宅を建て
ようとしたり、大きなマンションが建ったり、あちこちで緑が侵食されている。

鎌倉もずいぶん変わったが、それでも自然を守ろうという市民の声で緑が守られている。そんな地域がたくさんある。
そうした地域をもっともっと増やしていきたいものだ。

大銀杏倒れる

2010年03月10日 | 日記
鶴岡八幡宮の大銀杏が根元から折れたというニュースに驚いた。要約すると、3月10日午前4時15分ごろから
5分おきに「ドンドン」という音がした。同40分ごろ、雷が落ちるような音がしたたので警備員が外へ出ると、
大銀杏が倒れていた。当時、強風が吹いていたという。

高さ約30メートル、幹の周囲6・8メートル、樹齢千年といわれていた大銀杏が強風によって倒壊したのだ。
大銀杏は神奈川県指定の天然記念物にもなっていた。この大銀杏は、鎌倉幕府の3代将軍源実朝を殺害した公暁が、
この大銀杏の陰に隠れていたという言い伝えから、別名「かくれ銀杏」とも呼ばれていた。

解説書によれば、実朝殺害事件は、健保7年(1219年)正月、実朝が右大臣となり、鶴岡八幡宮に拝賀した際に起き
ている。公暁はこの大銀杏のあたりで実朝を待ち伏せ、殺害した。事件の背景には北条氏の陰謀があったと伝えられ
ているが、その後の北条一族の権勢を見れば、それもうなづける。

公暁は、実朝の兄で2代将軍頼家の子、実朝の甥に当たる。当時、公暁19歳、実朝28歳だった。殺害された実朝は
和歌に秀で、歌集『金塊集』を残しており、歌人として有名だった。源氏の正統な血筋はこの悲劇によって絶えた、
と書かれている。

銀杏の枝には、いつもたくさんのおみくじが結わかれていた。千年の風雪に耐え、歴史を見続けた銀杏だったが、
それも限界に達したのだろう。巨星堕つ、大銀杏の倒壊には、せつせつたる哀傷を感じさせられる。

再生を心から願いたい。

家事手伝い

2010年03月04日 | 日記
家事手伝いが退職後の私の仕事になった。自由な時間ができたのも理由のひとつだが、それよりも67歳の妻が膝関節症の
ため杖を必要とし、これまでのように自由に家事ができなくなったからだ。私には、洗濯、掃除、買い物、ごみ捨てなど
はできるが、肝心の料理ができない。料理ができるようになるまでは「手伝い」でしかない。

家事手伝いの一日は、7時起床、朝食の手伝いから始まり、後片付け、植木鉢の水遣り、洗濯物干し、天気がよければ
布団も干して、それから部屋の掃除、これが午前中の仕事。

お昼前後に少し時間ができるので、その時にゆっくり新聞を読み、必要なときには近くの図書館にも行く。午後2時ごろ
遅い昼食を済ませ、その後、洗濯物や布団を取り込む。夕食の手伝い、後片付け、ごみ捨て、入浴、就寝、これが一日の
仕事だ。

仕事の流れをメモ風に記していくとこうなるのだが、ひとつひとつの仕事の中身はそう簡単なものではない。例えば、掃除
にしても単に掃除機を動かせば済むというものではない。テーブル、ソファー、テレビ台などを動かすにはかなり力がいる。
とくに毎日料理をするキッチンのところの床は汚れが目立つので雑巾でよく拭かなければならない。2人暮らしなので、
トイレ、風呂、洗面台などは毎日掃除をする必要はないので助かる。

家事の手伝いだけど、これを実際にやってみると、かなりしんどい。つくずく思うのは、主婦の仕事って本当に大変なのだ、
ということ。これに子育てなどが加わると、とんでもない労働になる。世の男性の皆様、お勤めも大変でしょうが、家事を
預かる奥様に対し更なる感謝と協力を・・・。

携帯には出ない

2010年02月27日 | 日記
退職直後から携帯電話には出ないことにした。携帯電話は、どこにいてもすぐ連絡が取れる便利さから勤め人の必需品
となっている。私の携帯にも仕事上、関係のある人をたくさん登録している。しかし、勤めを辞めたのだから、そうした
過去の人間関係はもう必要ない。この際、携帯電話を解約しようと思ったが、身内に緊急なことがあったときには困るの
でそれは止めた。身内を中心に必要な範囲内で使用することにしている。

ビジネスの世界では情報機器は大切な道具だ。情報の遅れが会社や社員に大変な損失をもたらすことがある。だが、職場
を退き隠居した高齢者にとっては、スピードを要するような情報はそれほど必要ない。それよりも、あふれる情報を遮断し、
ゆったりと、静かに流れていく時間を大切にすべきではないかと思っている。ビートたけしは「現代人は情報の奴隷」と
言っているが、この奴隷状態を自らが解放する努力をすべきではないかと思う。

過去の人間関係、つまり現役時代の人間関係をリセットする。携帯電話にも出ない、テレビも見ないというと、引きこもり
みたいだが、そうではない。月に2、3回は東京に出て友人と食事をしながら楽しんでいるし、都会の空気にも接している。

私がイヤなのは、利害、損得がからむ人間関係である。それを断ち切っただけでも清々した気持ちになる。

確定申告の季節

2010年02月08日 | 日記
「平成21年分の所得税の確定申告書」を提出するため、鎌倉税務署に行った。

申告書の受付は2月16日から3月15日までとなっているが、昨年、記載ミスにより、修正申告書の提出、納付金の変更
のほか、過少申告加算税及び延滞税を課せられ、ひどい目にあったので、今年は早めに提出することにした。

提出に際し税務署の係員に「昨年は記載ミスにより、加算税等を課せられた。そのようなことがないよう今年は事前
によく見ておいてください」と、お願いした。

その結果、寝たきりの母の控除の適用に誤りがあるとの指摘を受け訂正申告をした。この訂正申告が締め切り日の
3月15日までにできたので、今年の確定申告は無事終了することができた。

何事も早めにやるということが大切ですね。

「福は内、福は内」

2010年02月03日 | 日記
2月3日は節分。

そこで、節分とは何か、その意味を調べてみた。手元の資料によれば、節分とは、立春・立夏・立秋・立冬の前日の
ことで、特に立春が一年の初めと考えられることから春の節分が最も重視され、節分といえば、春の節分を指すこと
になった。

これは立春を新年と考えれば、節分は大晦日に相当するわけで、そのために前年の邪気をすべて祓ってしまうための
追儺(ついな)の行事が行われる。その代表が「豆まき」である、ということらしい。

子どもの頃、何もわからずに「鬼は外、福は内」と、喜んで豆をまいた。広々とした田舎の家だったので、子どもたち
は家中を走り回って豆まきをした。ところが自宅が狭く、隣家との間が1メートルしかないという都会の子どもにその
ようなことができるのだろうか。住宅が密集しているところでは、たやすく「鬼は外」と言って、まめをまき散らす
わけにはいかないようだ。

ある人がこのような話をしていた。都会では「鬼は外」と言って、鬼を外に追い出すと、追い出された鬼はすぐ隣の家
に逃げ込んでしまう。だから都会の豆まきは「福は内、福は内」を繰り返すだけで、「鬼は外」とは言わないと。

豆まきをするにも都会は窮屈なものだ。