さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【神様、お金をください!】改め【私は考える】

2020-07-06 22:13:51 | 仏教講座
折に触れというか、ことあるごとに、私、浄土真宗と他宗(神道を含む)は断絶しているという話をしてきたと思いますが、浄土真宗が他宗のどんなところを否定しているのか、ということを、もう少し細かく考えてみたいと思います。
まず、浄土真宗が認めないあれこれを列挙します。
ちなみに、僧侶信者共通です。


1 阿弥陀如来以外の仏様(お釈迦様を含む)、菩薩様、神様等をお祀りすること
2 ↑を拝むこと
3 神仏にお願い事をすること
4 加持祈祷・おまじない・お祓いなど
5 先祖供養(現場では普通にやってる)
6 占いなど
7 戒律
8 修行


こんなところ?何か忘れてますかね?
ま、いいや。
次に、他宗では認められていないけれど、真宗では認められていること。


① 僧侶の肉食(今は他宗の人も普通に食べてる)
② 僧侶の妻帯(今は他宗でも認められている)
③ 寺院の世襲(今は他宗でも多い)
④ 僧侶の有髪(今は他宗でも生やしている人いる)


これ、一般的な感覚で見ると、ちょっとびっくりしませんか?
私、自分で並べてみて、びっくりしました。
1~8って、普通の人が思い浮かべる、いわゆる宗教的行為じゃないですか?
1~8で「信者」の宗教行為を否定して、①~④で、坊さんだけを甘やかす、と。


ちょっと待って、ほんとに、私、今、マジで戸惑っています。
私は、またしても地雷を踏んでしまったようです。
どうしよう?闇だ、これ。


・・・・・・・・・・混乱のあまり、とりあえず寝ることにしました。


で、起きて再開です。
昨晩、この続きを書いてはいたのですが、ボツにすることにしました。
でも、浄土真宗のお坊さんには、この問題、深刻に考えてみていただきたいと思いますので、簡潔にまとめてみます。
楽しくないので、ごめんなさい。


まず、親鸞聖人は「1~8」に対して寛容であるということが前提となります。
それを前提として考えると、「1~8」を否定する目的は、他の宗教的行為から「信者」を遠ざけることだと言えると思います。
何のために?
「信者」の気持ちを逸らさせないようにするためですね。
隔離政策です。
洗脳の常套手段ですね。


次に、「①~④」ですが、これ、僧侶の「特権」と考えることができます。
なぜかと言えば、信者は「1~8」で縛られるだけなのに対して、僧侶には、「①~④」ですが、他宗の僧侶には許されないことが許される、という役得があるからです。


その根拠となるのが、「7」ですね。
「戒律」が否定されている、つまりは、「戒律」が無い、「無戒」であるということですね。
しかし、仏教界の常識では、「受戒」していない、「戒律」を授けられていない僧侶は、存在しません。
「無戒」と「僧侶」は両立しないのです。


ということは、「無戒」である浄土真宗の僧侶は、常識的には「僧侶」ではない、ということになります。
実際、世界的仏教社会においては、浄土真宗の僧侶は「僧侶」ではなく「居士(在家信者)」と見做されているんですよ。
ちなみに、僧侶が戒律を破ることを「当たり前」だと気にしないのは、日本人だけです。
まあ、それだけ信用も尊敬もされていない、ということですが。
僧侶の皆さん、パッポンやアンヘルスや林森北路で、間違っても、「自分は僧侶だ」と、言わないようにしてくださいね。


では、常識的には「僧侶」ではない浄土真宗「僧侶」なるものが、なぜ存在してしまうのか?
それは、教団という閉ざされた社会の中だけで流通する特殊用語、つまりは「団体」における「役職名」としての「僧侶」という用語が発明されてしまったからですね。
「僧侶(一般社会)」≠「僧侶(浄土真宗)」
浄土真宗の所為で、日本には、定義が真逆である二種類の「僧侶」が存在してしまっている、ということですよ。
ややこしくなるわけです。
日本という土壌が、それを許したんでしょうね。


さて、それでは、「僧侶(浄土真宗)」即ち「役職名僧侶」とは、どんな役割を担う人々なのでしょうか?
「教団」→「僧侶」→「信者(門徒)」
という、教団内ヒエラルキーの中で、「信者」に対して指導的立場にあるのだということは、明らかです。
むしろ、指導的立場を担う人々に対して、「①~④」のまま、つまり、「無戒」であるにもかかわらず、「僧侶」と名乗ることが許された、「僧侶」であると名乗る「特権」が付与された、と、考えた方がいいかもしれませんね。


ここからは、すごくイヤ~な話をします。
いったい、なぜ?
指導的立場を担う人々に対して「特権」が与えられたのでしょうか?
教団は、信者の孤立化を図り、積極的洗脳政策に邁進しております。
ということは、指導的立場とは、
「信者を洗脳する」
「非信者を洗脳して信者にする」
という役割を確信犯として担う立場だということになります。
汚れ仕事です。
だから、代償として、「僧侶」という勲章を手に入れることができた。
と、考えるのが妥当ではないですか?


教団(元締め)→僧侶(洗脳された人∧洗脳する人)→信者(洗脳される人)
というよりは、
教団(元締め)→僧侶(確信犯として騙す人)→信者(騙される人)


これ、どっちだと思いますか?
「∧」は「かつ」です。


いずれにせよ、これからの浄土真宗は、
1「カルトであることを自覚して、確信犯としてカルト(洗脳)道を貫く」
2「カルト化した教義を捨て、カルトから脱却して、仏教として出直す」
どちらかを選ぶ必要がありますね。


「1」を実践しているのが、「S鸞会」さんとか、「D朋会運動」とかですね。
まあ、今となっては、「洗脳力」のある坊さんなんて、ほとんどいないんだから、私としては「2」の方向性が好ましいと思うのですが・・・・・。
皆様は、それぞれ、お好きな方へ。


親鸞聖人の「御同朋」「御同行」は世界人類すべてですからね。