三星堆玉器の古代文字

三星堆遺跡で出土され、まだ世に知られていない玉器に刻まれている未解読古代文字を紹介します。解読のヒントを求めています。

「眼の神殿」と「眼の神像」

2011-04-13 23:24:58 | 古代文明




テル・ジガーンの東北東、ティグリス河から約2km離れた地点にあった、二つの隣接した低い遺丘(A区、B区)からなる、単一時期の遺跡である。この遺跡の発掘調査では、1930年代にアメリカの調査隊が発掘した、北イラク、モースルの北東約25kmの地点にある遺跡テペ・ガウラのXI-IX層に年代上匹敵する住居址が発見された。ガウラ遺跡のそれらXI-IX層とその下層のXIA/B層によって代表される時期は、俗にガウラ期と呼ばれてきたが、今では「北方ウルク前期」あるいは「銅石併用時代後期第2期」と呼ばれることが多い。年代的には、前4200/4000年~前3800/3750年に相当する時期である。

また、特筆に値するのは、家屋の外の石敷きの上で「ハット・シンボル」あるいは「スペクタル・アイドル」と呼ばれる土製の「覗き穴眼」の偶像が発見されたことである。これは、北メソポタミアの「ウルク中期」の後期から「ウルク後期」にかけて盛行した「アイ・アイドル」と呼ばれ眼そのものを極端に誇張した、アラバスターなどの石製、奉納用「眼の神像」の前身だと考えられているものである。数多くの石製「眼の神像」を出土したシリア、ハブール川上流域の遺跡テル・ブラクのいわゆる「眼の神殿」は考古学史上有名だが、ブラクでも「眼の神殿」よりも古い層から「覗き穴眼」の偶像が出土している。近年、「覗き穴眼」とするものは、「偶像」ではなく、織物をつくる地機の支えとして使われたものではないかという意見もでているが、その見解はまだ憶測の域をでるものではない。もしも、「偶像」であったならば、ムシャリファにおいて一般住居址から出土したという事実は、その偶像崇拝が民間宗教であった可能性を高めよう。しかし、その遺物についての解釈はまだ議論の余地を残す問題として、我々の前に立ちはだかっている。

原文の出所:
http://www.kokushikan.ac.jp/research/ICSAI/report/Eski_Mosul/063500_0614.html
写真の出所:
http://xfactk.com/ancient/ 眼の出土物

シュメールの出土物

2011-04-13 21:19:29 | 古代文明
シュメールの出土物

竹簡

2011-04-13 10:24:50 | 三星堆遺跡
竹簡

008三星堆玉器

2011-04-12 23:21:24 | 三星堆玉器
008三星堆玉器

蚌殻

2011-04-12 22:46:13 | 三星堆遺跡
蚌殻

007「魚と矢」のモチーフ

2011-04-11 12:24:39 | 三星堆玉器
007「魚と矢」のモチーフ

亀の甲羅

2011-04-11 11:34:27 | 三星堆遺跡
亀の甲羅

「眼」の至聖所

2011-04-08 23:06:10 | 古代文明
「眼」の至聖所

「眼」の象徴

2011-04-08 22:34:21 | 古代文明
http://en.wikipedia.org/wiki/Tell_Brak 英語 
http://www.learningsites.com/Brak/Tell-Brak_home.html

四川省広漢市の西郊、鴨子河南岸の三星村・回龍村・真武村を中心とした地域では、二十世紀二十年代の末に、大量の玉石器が発見され、脚光を浴びたことがあった。残されている南城壁に近い三星堆の地域で、レンガ工場の土取り作業中に玉・石器が見つかったことで、四川省文物考古研究所が中心となって一九八六年に発掘調査を行い、ふたつの祭祀坑が発掘され、総計800点以上の大量の青銅器など貴重なものが出土した。

その後、四川大学などによって周辺地域の数ヵ所で発掘調査も行われた。そして土器による炭素14の年代測定でいまから四八〇〇~二八五〇年前の数価が出され、しかも範囲が十二平方キロにおよぶことも判明し、三星堆文化と命名されることになった。

これによって、四川省の古名である「蜀」における古代青銅文化のレベルと芸術の特徴が明らかとなった。この地の古代文化や歴史ならびに商周時代の宗教、儀礼、さらには彫塑、冶金などの分野を研究する上で、このうえなく貴重な資料となったのである。 

これらの青銅器のなかに、異質性・独自性を持ち、これまで他の地域ではまったく見られなかった数多くのものが存在している。一番世間を驚かせたのは「縦目仮面」と呼ばれ、幅1メートル38センチ、高さ65センチという巨大な青銅仮面である。(地図と仮面の写真)いままでの青銅器の常識を超えたスケールであった。しかも、その仮面の表情の異様さ、額全体を覆う眉と目。その目玉はきわめて強調され、まぶたから巨大な筒が飛び出している。まさに、「游離する目」である。

三星堆遺跡の出土品のなかに、縦目仮面のほか、大量の「目」をかたどった青銅鋳造品の飾りや目をモチーフにした文様、図案が確認された。これらの出土品は当時の人々のなかに、「目」に対する特殊な崇拝が形成されていたことを物語っている。専門家たちが遺物の研究を通して、「目の神殿」で「目を呼び出す」儀式が行われていた、と考えている。

そもそも四川省の古名である「蜀」を表す漢字は、字の上の部分は「目」であり、下の部分はヘビあるいはムシを表している。まさに「目」を強調した形の文字である。商(殷)・周時代に属する甲骨文に刻まれた「蜀」字は、まるで巨大な目の形をした頭を持つ人間がよろめきながら歩いているようであった。当時の黄河流域の人々の、古代の蜀国に対するイメージは「目玉人間の国」とでもいうようなものだったのであろう。このようなイメージをいだいた理由は、いままで無視されてきた伝説の書『華陽国志』に由来すると指摘する専門家がいる。文献のなかには古蜀国の歴史に関する略述が見える。それによれば「蜀」という国は「縦目の王」を始祖とする王国である。

 出土品のなかで中核となる青銅器は、商(殷)・周時代のような神に供献する神聖な儀礼用の容器としてのではなく、直接神としての崇拝の対象として造形されたものであった。三星堆遺跡において、目玉が強調され、数多くの青銅器はやはりシュメールの「眼の神殿」で行われた目を呼び出す儀式と同じように使われたのだろう。

十二支の順番は何時決められたのか

2011-04-08 22:16:42 | 三星堆玉器




「十二支」と「十干」は、それぞれ独自の周期をもつ年の数え方で、この二つを組み合わせて60年かけて一周する年、または60日かけて一周する日を表し、時刻や方角を示すときにも用いられる。

十二支の順番はどうやって決まったの?

 昔々、神様が動物たちに「元旦に神殿へ早く来たもの12匹に、一年ずつ順番にその年を守ってもらい、これを干支とする」というおふれを出しました。
 動物たちは身支度をはじめましたが、ネコだけは集まる日を忘れてしまったので、ネズミに聞くことにしました。「集まる日はいつだニャ~?」「正月の二日だチュー」。このネズミは、悪知恵の働くヤツだったので、ネコはダマされているとも知らず、のほほ~んとしていました。
 さて、そんな頃、ウシは「オラは歩くのが遅いから、一足先に出るんだモ~」と、年末にみんなよりも早く出発しました。その時、ネズミはちゃっかりウシの背中に飛び乗りました。
 ウシは誰よりも早く出たおかげで、神殿に一番早く到着しました。「ここまで来れば安心だモ~」と、神殿の前で元旦が来るのを待つことにしました。
 やがて、日が昇って神殿が開き、ウシがゆっくりと中に入ろうとした時、背中に乗っていたネズミがヒョイと飛び降り、神殿に入ってしまったのです。「一番のりだチュー」。
 こうして、ネズミは干支で一番になり、ウシが二番になりました。ネコは正月の二日になってから来たため、干支の仲間になれませんでした。この日からネコはネズミを恨み、追い回すようになったといわれています。

三星堆玉器の十二支の順番は今と同じようになっている。裏は一面の浮き彫りの絵になっているので分かる。


006三星堆玉器 十二支の始まり

2011-04-08 22:09:44 | 三星堆玉器
006三星堆玉器 十二支の始まり

十二支の始まり

2011-04-08 21:59:32 | 古代文明
十二支(じゅうにし)は、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の総称である。十干を天干というのに対して、十二支を地支(ちし)ともいう。

古代中国で考えられ、日本に伝えられた。3500年前十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。戦国以降、日だけでなく、年?月?時刻?方位の記述にも利用されるようになる。

戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称には十二支が当てられた。また、木星が約12年で天球を西から東に一周することから、十二次という別の天球分割法における木星の位置が年の記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳の十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになった。これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。

また、12という数が1年の月数と同じであることから、月を表すのにも用いられるようになった。これを月建といい、建子の月は冬至を含む月、すなわち夏暦の11月、周暦の正月である周正に置かれた。

さらに、時刻(十二時辰)や方位の表示にも用いられるようになった。正午(昼の12時)、正子(夜の12時)、子午線(南北を結ぶ線: 経線)、卯酉線(東西を結ぶ線: 局所的に緯線と一致するが厳密には両者は別のもの)の称はこれに由来する。

十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。また、各十二支には動物が割り当てられている。これを十二生肖と呼ぶが、日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指すことが多い。元々十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある。

干支(十干と十二支)
十二支は古来、「甲子」「丙午」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」である。十干十二支を合わせたものを干支(「かんし」または「えと」)といい、干支(十干十二支)が一巡し起算点となった年の干支にふたたび戻ることを還暦という。

歴史
その成立時期は従来、後漢の王充『論衡』にあることから後漢頃とみなされていたが、1975年、湖北省雲夢県の睡虎地秦墓から発見された竹簡『日書』に十二生肖の記述があり、戦国時代には成立していたことが分かっている。『日書』には「子、鼠也。…丑、牛也。…寅、虎也。…卯、兔也。…辰、(原文脱落)。…巳、蟲也。…午、鹿也。…未、馬也。…申、環也。…酉、水也。…戌、老羊也。…亥、豕也」とあり、子鼠?丑牛?寅虎?卯兔?亥豕は現在と一致し、巳蟲?申環?酉水も現在の蛇?猿?鶏と関連すると考えられている。また午鹿?未馬?戌老羊とあり、鹿が入り犬がなく、配当も異なっている。

唐代になると十二生肖を象った彫像が作られるようになり、獣頭人身で手に笏をもち文官の服を着る姿で表された。これらは墳墓の副葬品に入れる陶俑として作られたり、墓誌銘の四周に彫刻されたりした。またこれらの彫像は仏教において薬師如来の眷属である十二神将を表すのに用いられて日本に伝播し、武人像の下に十二生肖を彫刻したり、十二生肖の獣頭人身の姿で作られたりされた。また朝鮮半島には統一新羅時代に伝播し、慶州の墳墓などに見られるが、文官ではなく武官の姿に象られ、ただ十二生肖を象ったものなのか十二神将であるのかは定かではない。

また民間において紀年や人の生年を表すのに使われるようになった。特に新年を迎える際に用いられ、中国では春節(旧正月)になると新年の十二生肖にちなんだ催しが開かれ、日本でも正月のやりとりする年賀状の図案に使用される。なお各国において割り当てる動物に若干の異なりがある。




金の杖のモチーフ 魚 矢 鳥 人面

2011-04-08 21:40:50 | 三星堆遺跡


この魚と水鳥とは、一見、バラバラに描かれているように見えるが、よく見ると両者は、実は棒状の紋様で結ばれている。しかも、その線は水鳥を貫いて魚の口の中に入り込んで消えている。棒のように見える線の一方の端には、「矢」をかたどったものが刻まれている。この線は、一体、何を表しているのか、諸説があるが、すくなくともこの線が、魚と水鳥そして矢との間にある何らかの関係を暗示しているのであることは確かである。

ここで指摘したいのが、「矢」というモチーフは、古代バビロニアや古代中国ではシリウス星を意味する符号である。黄金の杖は実用の道具として用いられたとは到底考えられない、権力の象徴として、最高権力者の持ち物であると考えられる。

三星堆遺跡に残されている、数多くの「三星」が付いている地名はドゴン族の伝承を思い出させる。少なくとも三星堆遺跡は時空を越えて「三星」と「目」、「魚」、「矢」、「水鳥」などを結び付いてくれた存在である。これらの要素はドゴン族の伝承の中でも極めて重要なモチーフであり、すなわちドゴン族の伝承そのものである。

三星堆金の杖

2011-04-08 21:35:47 | 三星堆遺跡
三星堆金の杖

三大ピラミッドの中で一番重要なのはもっとも小さいメンカウラーである

2011-04-08 20:00:16 | 古代文明




三大ピラミッドの位置関係図を見ると、一番小さいメンカウラー王時代にできたとされているピラミッドは真南にある。三大ピラミッドのなかで、ただ唯一「神」を表す記号が使われたのはこの一番小さいピラミッドである。古代象形文字で「神聖ピラミッド」と記されている。

古代エジプト神話をドゴン族神話と合わせて考えてみると、類似性が明らかである。
宇宙では、一番小さいシリウスBが特別である。