現役の法政大学教授・慎蒼宇『朝鮮植民地戦争』(有志舎、2024年)。とりあえず一言。
著者の主張の一つは、日本近代史研究において朝鮮植民地戦争(いわゆる朝鮮独立運動)が欠落していると、これまでの日本近代史研究の枠組みを批判している。しかし、
日本の歴史学界、とりわけリベラルな立場に立つ歴史学者は、日本国憲法第9条の平和憲法の下で、正しい戦争などない、全ての戦争は非人道的で認めるわけにはいかない、という「絶対的平和主義」を信条として、日本近代の歴史を叙述してきた。
日清戦争、日露戦争、満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争を近代日本の間違った侵略戦争として論じてきた。その理由は、いったん「自衛のための戦争」を認めてしまえば、あとは際限なく戦争を容認することになると考えたためだ。実際、太平洋戦争中、日本軍部は「自存自衛」のための戦争と言っていたし、そして今の日本政府は「集団的自衛権」まで容認しているではないか。「絶対的平和主義」に固執する理由もここにある。
しかし、いかなる戦争もその正当性を認めないという「絶対的平和主義」の立場に立てば、日本の植民地支配に抵抗した朝鮮の武装独立運動(=朝鮮植民地戦争)も認めないことになってしまう。当代の代表的なリベラリストの歴史家である京都大学の山室信一教授が「私個人は暗殺という手段によって自らの政治的目的を達成することは、いかなる状況であれ、賛成できない」(「未完の『東洋平和論』」『安重根と東洋平和論』社会評論社、2016年)として、安重根の伊藤博文暗殺を認めないのもそのためである。
仮に「絶対的平和主義」を放棄して、日本の戦争は侵略戦争で「間違い」だったが、それに対抗した朝鮮の独立運動(中国の抗日戦争を加えてもよい)は「正しかった」、というダブル・スタンダードを持ち込めば、全ての戦争は「自衛」の名目で起こされる以上、なにが「正しい戦争」で、なにが「間違った戦争」なのか、その基準を設定しようとすれば、水掛け論が生じてしまう。
そのため、日本近代史研究の枠組みのなかからは朝鮮の武装独立運動(=朝鮮植民地戦争)は叙述されずに来たのだ。
一方、もちろん、韓国でも、北でも、中国でも、抗日運動(戦争)は国家の正統性の基盤になっているわけだから、絶対に「正しい」とされている。そして、自らの戦争は正しいと主張するそれらの国々による朝鮮戦争はいまだに終戦できずにいる。
日本史と朝鮮史、中国史(とりわけ近代史)という「一国史」を越える試みは決して容易なことではないが、「従来の抗日武装闘争を支持する「帝国主義」論に対して「絶対的平和主義」を思想的基盤とする「帝国史」論が投げかけた問いの意味はここにある。
慎蒼宇教授が「朝鮮人は戦争を通してしか主体形成できない」と考えているのだとしたら、それは「民衆史」ではなく「民族史」である。
