下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です
先日、タクシーの運転手さんから「夜勤明けに仲間と安い飲み屋で一杯飲むのがささやかな楽しみ」と聞いた。
「ご結婚は?」と聞くと、「まだなんです。母の面倒を見ないといけなくて」。
四十半ばの人だったが、2人暮らしのお母さんが数年前に事故で体が不自由になられ、結婚もできずにそのお世話をする日々だという。
親のために人生を犠牲にしている彼の話が、とてもショックだった。
私の母は98歳で、いまは老人病棟にいる。コロナで面会はできず、ときどきZoomで会うだけだ。認知症で、もう私のことも覚えていない。
かつて父が脳梗塞を起こしたとき、母は苦労して面倒を見ていた。その母が認知症になってからは主に妻が世話してくれていたが、あるとき排泄(はいせつ)物にまみれた母の体を洗うことになり、これを続けるのはとても申し訳ないと思い、老人ホームに入ってもらった。
そのホームで母が吐血し、そのまま置いておけないと言われてある病院を紹介されたが、そこがまるで「楢山節考」のような場所なのを見ていたたまれずに、さらに別の病院に移した。そこは高級ホテル以上の入院費がかかるところで、体調は回復したものの、医療スタッフから「お母さんがお元気になると、またたいへんですね」と苦笑まじりに言われた。家族には介護が大きな負担になると知っているからだ。そこにも、3カ月以上はいられなかった。
あらゆる動物のなかで、育てた子どもに自分たちの老後の面倒を見てもらおうとするのは人間だけだ。
私自身は、事故や病気で意識がなくなれば終わりだと思っているので、延命は望まない。周りに迷惑をかけず、さっさと終わりにしたいという考えだ。
いざというとき、決して妻や子どもたちに負担をかけたくないし、それだけの蓄えもない。親孝行は美徳だが、そのために子どもが自由に生きられなくなるなら、本末転倒である。
延命措置の先には看病や介護が待っている。家族にかかる負担は大きく、終わりがいつになるのかわからない。たとえ延命しても「それでよかったのか」という悩みは残る。医療者に責任が及ぶのも理不尽だ。患者本人が自分で決めておけばよいのだ。
だが、国民が自分の最期をどう過ごしたいかを選択するための法律はまだ日本に存在しない。早急な整備が望まれるが、選択肢のひとつとして、死を選ぶ権利も保障すべきである。同時に、本人が書き残した内容は弁護士などによって検認されるとともに、その規定は悪意をもって解釈できないようにすることも大切だ。
人間は自分が何者であるかをわかっていてこその存在だと思うが、その解釈には難しい問題もある。一歩間違うと、かつてのナチスの「優生思想」による障害者の虐殺や、2016年の相模原の障害者施設での殺傷事件のように、勝手な思い込みによって誰かが他人の生を踏みにじることが起私自身は意識がなくなったら生きていたくはないと思うが、それが多くの人に当てはまるとも思えない。
知人の専門医に聞くと、認知症の人は本能的に「生きたい」という気持ちが強く、交通事故にも遭わないという。だが、誰もが経済的余裕をもって生きられるわけでもない。これは日本の社会や国の成り立ちに関わる問題でもある。
人の生きる権利と死ぬ権利について、真剣に考えるべき時がきている。
こったりするからだ。
三枝成彰作曲家
1942年、兵庫県生まれ。東京芸大大学院修了。
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