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作家・佐藤愛子「2度の離婚も、借金も…つまずいたら起き上がるしかない」

2021-06-13 13:30:00 | 日記

下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です

ベストセラー『九十歳。何がめでたい』など、軽妙洒脱なエッセイが人気の佐藤愛子さん。初エッセイから最新まで本誌掲載作を収めた『気がつけば、終着駅』では、人生の終わりを見つめています。97歳の佐藤愛子さんの胸のうちは(構成=本誌編集部 撮影=宮崎貢司)
──著書のタイトルは『気がつけば、終着駅』。どういう思いでつけられたのでしょうか。
もうおしまい。それだけのことですよ。とにかく、まっしぐらに生きてきました。あまり先のことを考えずにここまできたけれど、気がついたら人生の終わりに来ていた。
『気がつけば、終着駅』(佐藤愛子:著/中央公論新社)
私の干支は亥ですからね。猪突猛進してきて、80代までは歳のことを考えなかった。それが90を過ぎると五感は衰え、体はあちこち悪くなってきて。そこで初めて人生の終わりに来ていることに気がついた、ということです。
今回の本は、50年以上前から今日までに『婦人公論』に書いたものを集めたものです。『婦人公論』からエッセイの依頼を受けたのが、プロの作家としての私の第一歩でしてね。それが昭和40年ごろでしたかね。
その時から今日まで50年あまり『婦人公論』とおつきあいしてきたわけで、その50年の間に世間も変化し、私自身も変化してきました。その間のエッセイを年代順にまとめると時代の推移が見えて面白いかも、と思って、本を出してもらう気になったんです。

初エッセイは「悪妻」について
──芥川賞候補になった小説「ソクラテスの妻」がきっかけで初めてエッセイを依頼されたのは1963(昭和38)年。39歳だったこの頃は、佐藤さんの人生においてどのような時期でしたか。
売れない小説家でした(笑)。2度目の結婚をして娘が生まれ、夫の田畑麦彦も作家を目指していました。ちょうど、田畑の父が亡くなって、夫婦で売れない小説を書いていることができるくらい遺産をもらうという、結構な身の上でしたので、傍目にはのらくら夫婦に見えていたと思いますよ。いや実際のらくらでしたね、夫婦とも。その後でドカッと罰が下りましたけど。
わが家は同じような小説家志望の友人のたまり場のようになって、夕飯は私の家で食べるのが当たり前みたいに思ってる手合いがいたんですよ。のらくらの私の中にも眠っていた「主婦気質」というようなものが目覚めてきて、怒ってばかりという生活に。
それで書いたのが「ソクラテスの妻」です。あの作品によって私は、男を攻撃する女としての立場を確立したんです。確立ってのもヘンだけど(笑)。つまりは原稿注文が来るようになったってこと。
──メディアに「悪妻代表」と書かれた佐藤さん。初エッセイ「クサンチッペ党宣言」は、伝説的悪妻と名高いソクラテスの妻クサンチッペとご自身を例に、悪妻とは何かをユーモラスに書いたものでした。なぜ「悪妻」が注目されたのでしょうか。

初エッセイ「クサンチッペ党宣言」(『婦人公論』1963年8月号より)
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「われわれは堂々と悪妻の座にいればよいのです。自然のままのわれわれ自身でいればいいのです」
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もともと「悪妻」というのは、男社会が一方的につくり出した概念です。男が勝手に女の理想像をつくって、そこから外れた女を悪妻と呼んだ。私が「悪妻たれ」と言い出したのは、当時としても珍しかったでしょうね。
日本の女性は、長い間、妻というものは夫に仕えるものだという考え方を妄信し従っていました。あのエッセイを書いたのは、女性たちのそんな考え方が変わってきたから。女が男の理想から外れはじめたんですね。
なぜ変わったかというと、戦争に負けたからでしょう。敗戦でそれまで私たちが教わってきた道徳というものが全部ひっくり返った。
戦後の男たちは疲れ果て、自信を失っていましたね。とにかく敗戦国ですから。食べるものはなし、仕事はなし、家はバラックで失業者だらけですよ。
そこで女たちが生きる力を発揮したわけです。女は子どもに食べさせるものがなければ、必死になってお芋やお米を手に入れようとする。戦後、主食は配給以外で買うと法律に触れました。だから女たちは鉄道で近在の農家へ行くのね。持ってきた着物だなんだを渡して機嫌を取り、わずかばかりのお米を分けてもらう。
帰りに駅で見張っている警察に没収されないよう、背負ったお米に毛糸の帽子をかぶせて赤ん坊に見せかけて運んだり、知恵を絞ってね。たくましいでしょう。そうやって一家を食べさせたのは女なんです。そのあたりから女は実力で強くなっていきました。
それで男と女の力関係というものは次第に変わっていったんですね。
苦しい経験も糧になる
──第2作は田畑氏との再婚を入り口に女性の人生の選択について記した「再婚自由化時代」(1963年)。このなかに「人生のつまずきは、さらに新しい人生へ向う一つの契機にほかならない」という一文があります。その後、佐藤さんは田畑氏の破産が原因で離婚、その借金を自ら返済するなどたくさんの苦難を越えてこられました。つまずきから立ち直るために必要なものとは何でしょうか。
「再婚自由化時代」(『婦人公論』1963年12月号より)
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「忍耐だけで成立っている結婚生活をしているよりは、別れた方がよい。別れて一人で無理な頑張りようをしているよりは再婚した方がよい」
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そんなものありませんよ。だって、つまずいたら起き上がるしかないわけでしょう? 倒れっぱなしっていうことはないんですから。人間は自然に起き上がって次の人生に向かって歩き出すものなんです。
またつまずくかもしれませんよ。私みたいに深く考えない人は、つまずきが多いの(笑)。だけど、つまずきをマイナスだと思わなきゃいいだけの話。つまずきのない人生なんてあるわけないんですからね。
夫の会社の倒産で私が借金を肩代わりしたことも、つまずきとは思ってないですよ。あのとき私はそうしたかった。それだけのことです。

──田畑氏との離婚後のエッセイ「三人目の夫を求めます」(1971年)では「心の柔軟性を保つために(三度目の)結婚したい」と書いています。結婚は女性にとってどういうものと考えていらっしゃいますか。
「三度目」は文章の行きがかり上書いただけで、現実にはありませんよ(笑)。
ただ、柔軟性というのは経験の量から生まれますから、苦しい経験も大いにしたほうがいいと私は思っています。
娘が結婚するときに、「酒もタバコもやらん堅い男をムコにすれば、一生安泰」という親心は、間違ってると思うんですよ。結婚生活というのはそれまで思ってもいなかったようないろんな経験、つまりは修業をすることになりますから。
ひとりでいたって大変なことはありますよ。でも結婚したほうが、それまで思いもよらなかった他人の考えと衝突して、たくさんの経験をすることになる。
他人と生活を共にするってことは、経験のし甲斐があると私は思っていますね。どんなに大変な目に遭ったとしても。
「三人目の夫を求めます」(『婦人公論』1971年7月号より)
「一度、二度と経験したことによって、私は自信が出来た。二度と失敗せぬという自信ではない。失敗しても平気、という自信である」
50年の変化とは
──前書きには「それにしてもこの五十年間の日本の変りようはどうでしょう! 国の変化に伴って、日本人、男も女も老人も子供も変貌して来ました。同時にこの佐藤愛子も変化してします」とあります。50年の変化とはどういったものでしょうか
この世の中は、良くも悪くも変化するのが当たり前。現状よりもさらにいい暮らしを、と思えば当然状況を変化させようとする。しかし歳をとると変化に対応することが厄介になってくるから老人は変化を好みません。今の私がそうです。
この国が最も変化したのは、かつては精神性に重きを置いていた日本人が、こぞって物質的価値観になったことですね。
たとえば学校でイジメられている子どもがいる。昔の親はそれを聞いて「お前はその子の味方をしてイジメっ子と戦いなさい」といったものです。しかし今は「さわらぬ神にたたりなしという言葉があるからね。知らん顔してないとお前がイジメられるようになるかもよ」と教える。
50年前は古い日本人の精神性というものがまだいくらか残っていた。何が美徳か、美しい行いとは何かを子どもに教える大人がいました。でも今は美徳を教えないで、損得を教えるようになっていますね。
美徳とは何かって? いや、それについてしゃべり出すと、終わらなくなるからやめましょう。「君はヤバン人か」と昔、遠藤周作さんに言われたことがあるけれど、私はなんだか時代オクレの人間のようなんですね。
ですから、何かの相談を受けても「私の言うとおりにしたら、ろくでもない人生になりますよ」と断ったうえで答えています(笑)。まず損得ということは無視して生きてきました。これだけでももう、時代錯誤ですね。
佐藤愛子
さとう・あいこ
1923年大阪府生まれ。69年『戦いすんで日が暮れて』で直木賞、79年『幸福の絵』で女流文学賞、2000年『血脈』で菊池寛賞、15年『晩鐘』で紫式部文学賞を受賞。17年、旭日小綬章を受章。近著に『九十歳。何がめでたい』『冥界からの電話』など 



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