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93歳のばあちゃんは、メールの返信が誰よりも早い

2021-04-15 13:30:00 | 日記

下記の記事はnoteからの借用(コピー)です

私はこの春、ちょっと子どもに戻ろうと思う。

ふらりと入った雑貨屋で、空柄の綺麗な便箋を見つけた。しばらく会えないあなたへ、今の気持ちを1文字1文字、素直に丁寧に綴ってみる。
きちんと伝えられるかは、まだわからないけれど。
♢♢♢
2月の終わり頃、ばあちゃんが入院した。
身体は年々細くなっているけれど、頭はしっかりしているし、何より、よく食べるばあちゃんだ。

朝食は、自分でパンとスープとヨーグルトを準備する。昼と夜は家族が用意した食事に、食後のデザートまでぺろりと平らげる。
私がお菓子を作っていれば、「あら、今日はクッキーなのね。たのしみ」と、こっそり予約をしながらトイレに向かう。

10年程前に大手術をうけて、ビビディ・ババディ・ブーと蘇った大事な"心ノ臓"を守りながら、杖を1本(つくのではなく、まるで盗人を撃退するための武器のように)振り回し、自分のペースでゆっくりゆっくり歩く。週2回通うデイサービスが、最近の1番の楽しみだそうだ。
そんなばあちゃんが、急に腰を痛めて立ち上がれなくなってしまった。
「腰ひねっちゃって痛いわ。布団から動けない」
初めは、症状を聞く限り「ぎっくり腰みたいだから休めば治るかな」と家族で思っていたけれど、日に日に痛みが増すようで、不安になってきた。ケアマネジャーさんのアドバイスもあり、救急車を呼んで検査をしてもらうことになった。
結果は、背骨の骨折。
「これは、手術したほうがいいですね~」
ちょっとコンビニ行ってきますね~くらいのテンションで告げられた医師の言葉に、私たち家族はとても驚いた。
「93歳なのに、手術なんてできるんですか?!」
「はい、大丈夫ですよ。心臓の手術もしていらっしゃいますし」
「い、いやあ、でも麻酔とか。まさかこれが永遠の眠りとなって目を覚まさないなんてことは……」
「ははは!そんな危険があれば、手術のお話はしません。薬は少し調整が必要なので、かかりつけの先生に確認しておきますね」
そんなこんなで、ばあちゃんは手術をすることになった。
93歳で、全身麻酔をして、背骨に釘をうって固い板みたいなもんを入れるなんて、今の医学は凄すぎる。でも、それ以上に、そんな手術に耐えられるばあちゃんがすごい。
私には、きっと、いや、絶対に無理だ。
手術前日の晩、「緊張してる?頑張ってね」とメールを送ったら、こんな返事が返ってきた。

どうやら、緊張していないようだ。
麻酔科の先生と事前面談をした母から「多少リスクはあるけど、まあ大丈夫だろうって」と聞いても、完全には信じられなかった。
下を向いたまま数時間の手術なんて、私の身体でも辛いのに、あんなにか細い身体は耐えられるのか。出血が多かったらどうしよう。
そんなことをぐるぐる考えて、本人より私の方が緊張していたのかもしれない。
手術当日は、仕事が休みの私と母が待合室で待つことになった。
手術の待ち時間って、何度経験しても結構しんどい。大抵の場合予定時刻は過ぎるし、何かあった時のために、動いたりもできない。もちろん、パクパクお弁当を食べる食欲もない。
2時間だと聞いていたけれど、色々あって4時間くらい待っただろうか。
ばあちゃんより先に戻ってきた担当の先生が、パソコンを使って説明してくれた。

「成功しました。背中は、こんな感じです」
「うわあ、こりゃすごい。人造人間みたいだ」
画面を見ながら、母がついこんなことを言った。
「麻酔科の先生も言ってました、本当にお元気ですよねえって。輸血も必要ありませんでした」
「これって、リハビリをきちんとすれば背中が伸びたりするんですか?ピンって。だってほら、こんなにしっかりした板が入っているし」
私は母の言葉を聞きながら、そんなわけなかろう、と心の中でツッコミを入れた。
「はは。ピンとは伸びませんが、ほんの少し姿勢が良くなる可能性はありますね。1週間は傷口が痛むと思いますが、今回の手術は本当にして良かったと思いますよ」
ええ、そんなことあるんですか……

「本当にありがとうございました。ところで先生って、30代ですか?……ですよね?」
母の言葉を聞きながら、再び、そんなわけなかろうと思ったけれど、先生はまんざらでもない様子だった。

なんだか祖母と母は似ている、と思った。

その後、ほんの少しだけばあちゃんに会うことができたけれど、麻酔から冷めきっていない状態で、きちんと話すことはできなかった。

あの日から、私は、ばあちゃんに会えていない。


感染予防のため、患者の家族であっても(必要な場合を除いて)お見舞いは禁止されている。
どんな様子なのか、ご飯を食べられているのか、リハビリは進んでいるのかなど、何もわからない。

この約1年間、色々なことを理解してきたつもりだったけれど、ここにきて「退院するまで会えない」という事実を突きつけられて初めて、本当の感染予防対策を知ったような気がした。
そんな私たちに残された、たった1つの連絡手段は
――そう。
これだけだ。
「携帯電話」
ばあちゃんが携帯を買ったのは、77歳の時。
(いつ始めたか忘れないように、とメールアドレスに"77"を入れておいた)
簡単携帯の操作マニュアルを見ながら、私が家族と必要な連絡先だけを登録し、1ヶ月かけて「メールのやり方」を教えこんだ。その成果もあり、携帯電話を使い始めてから16年経った今でも、メールができる。

…いや、「できる」という言葉はなんだか違う。
チャットでもないのに、1分以内に返ってくる。「ギャルか?」と思うほど、時には絵文字を使いこなしながら、私たち家族の誰よりも返信が早い。写真を撮って送るのもスイスイ、朝飯前だ。
例えば、こんな風に。
いいもん食べてますね。
私は今日も、社食のA定食(400円)です。

手術から数日後に届いたメールは、こうだった。
「当分メール無理」なんて書いてあるけれど、翌日から、まぁよくメールが来た。
これまでも時々していたけれど、入院中のばあちゃんとのメールは、何故だか私にとって癒しになっていた。

そのことに気づいたのは、ほんの数日前のこと。

入院前から、NHKの川柳講座を始めたらしい。
90を過ぎても何かを学ぼうという姿勢は、見習いたいと思う。
今まで恥ずかしいと言って見せてくれなかったけれど、入院中は考えた川柳を時々送ってくれるようになった。

メールを見る暇がない、と。ほう、なるほど。
結構忙しいようだ。仕事の合間にメールを見る時間がある私の方が、もしかすると暇なのかもしれない。

私と母と同じく、祖母も巨人ファンである。この日はプロ野球の開幕戦。一緒に観られないのは残念だけど、地上派で観られるよ。

どうやら四人部屋で人間観察をする余裕が出てきたらしい。
「みんなばーです」
…うん、そりゃそうだ。あなたもだよ。

あまりにメールの頻度が多いから、周りから注意されてしまったのだろうか。
でも私も、簡単携帯のミュートのやり方はすぐにわからない。
誰かに助けてもらったのか、自分で解決できたのか…一先ず良かった。今度やり方を覚えておくよ。

私が「手術の日に痛いと言っていたから正直眠れなかった」とメールをしたら、こう返ってきた。
最後、「い」を打っている最中に夕食が運ばれてきたに違いない。孫に送るメールより食欲が大事だ。
うれしくても、どうか死なないでほしい。

ついに、地上派で放送されないプロ野球を携帯で見ようとし始めたようだ。
でも、ごめんね、ばあちゃん。簡単携帯でテレビは観られない。次買うときは、テレビ観られるのにしようか。(私のiPhoneも、観られないけど)
一体どうしてそうなった?!
ごめん、ダンスは私も専門外だ。ただ、クイックの動きがわかったとしても、それをメールで伝えられるほどの語彙力が、おそらく今の私にはない。

最近胃の調子がよくないんだ、と話をしたら、消灯前の貴重な時間にこんなメールが。入院中の93歳に健康(なはず)の孫が励まされている。
なんとも不思議だ。

くだらない話が大半だけれど、仕事のことや最近あった面白い出来事を話す日もあれば、お願い事やお礼メールが来る日もある。

私にとってばあちゃんは、人生の「先生」だ。

じいちゃんと同じく、小学校の教師として長く働いていただけでなく、書道の師範でもあり、レザークラフトの講師でもあった。正月に送られてくる年賀状には、全て「先生」がついていたし、未だにそうである。

「先生」であるのと同時に、幼い頃から私の秘密を1番知っている人でもある。母親や先生には少し言いづらいことを、まずばあちゃんに相談する、ということがしばしばあった。全く甘くはなく、客観的で的確な答えが返ってくるものだから、それなりに信用している。(今でも、文章に迷ったときは、まずばあちゃんに読んでもらったりする)

入院中も、お悩み相談コーナーは健在だった。
これは、「人前に立って話すのが苦手なんだけど、どうしたらいいかな?」と相談した時だ。
家族に相談したら、私以外「人前に立っても全然緊張しない」タイプの強い(図太い?)人間ばかりで、なんでそんなこと悩んでるんだ?と、そもそも相手にしてもらえなかった。
ばあちゃんのアドバイスは、すぐにできるかと言われると難しいけれど、心はちょっと軽くなった。

メールを重ねるにつれ、私は不思議な感覚に包まれていた。

同じ場所で暮らしていた時よりも、離れている今のほうが、なんだか心の距離が縮まっているみたいだった。

私の仕事は不規則で、帰りが遅い日も多い。帰宅時間が22時を過ぎると特に、ばあちゃんとゆっくり話をする時間は、ほとんどなかった。それに、都内へ仕事に出ている私は、常に「自分が感染しているかもしれないリスク」が頭の隅にあり、ここ1年なるべく接触しないよう心がけてきた。でも、それ故に、会話が減っていたかもしれない、と反省した。



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