アーサンのネーチァーワールド

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プロメテウスの罠・防護服の男(11)-(13)~朝日新聞連載から

2011年10月16日 | 日記
「防護服の男(11) あの2人のおかげで」

菅野みずえの家に避難した25人は、「白い防護服の男」の情報とみずえの判断

でそれぞれ再避難し、危険な状況から逃げることができた。

 大量の放射性物質が飛び散り、住民が被曝(ひばく)するかもしれない緊急の

時期だった。しかし政府も東京電力も、それを住民に教えなかった。

 しかし25人は、混乱を起こすこともなく、冷静に動いている。

 みずえは今、福島市に近い桑折町(こおりまち)の仮設住宅で暮らす。

 「ほら、見てください」。みずえは空き地で遊ぶ子どもたちを指さす。

 「あんな小さな子が、避難生活の苦労を背負ってこれから生きていくんですよ。

もし被曝していたら……」

 それにしても、あの白い防護服の男たちは一体だれだったのか。みずえは今も

考える。

 そのころ福島県内は、文部科学省や福島県、日本原子力研究開発機構、東京電

力、東北電力などの計測車が走り回っていた。

 例えば新潟県からの応援車もきていた。3月12日夕のちょうどその時刻、

津島地区を通っている。

 新潟県の職員2人は、原発事故対応の支援のため、ワゴン車に乗って福島県

区で警官に止められて引き返している。

 その職員に話を聞くことができた。ただ、内部被曝してしまったので、名前

が出るのは困るとのことだった。

 職員によると、当時、測定器は激しく鳴りっぱなしで、焦っていた。

 津島地区を通ったとき、車がたくさん止まっていたので避難所だと思った。

 「防護服? いいえ、着ていませんでした。車を降りてもいません」

 14日未明には、放射線医学総合研究所のモニタリングカーが津島地区を通

過している。まだ大勢の避難民がいたころだ。

 車には測定器などを積み込んでいたが、「資材を運ぶのが目的だった。

放射線量は測っていない」(広報課)という。

 みずえが会った2人は、そうした計測チームの一つだった可能性が高い。

 「あの2人の警告のおかげで逃げられた。それをなぜ国や東京電力は組織と

してしてくれなかったのだろうか。もっと多くの人が逃げることができたのに」

(前田基行)

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「防護服の男(12)区長は逃げなかった」

菅野家の25人が再避難した3月13日、下津島区長、今野秀則(64)は、

家を訪ねてきた菅野みずえから白い防護服の男の話を聞かされた。

 しかし、逃げなかった。確かな情報もなしに右往左往すべきではないと思

った。なにより、区長として先に逃げるわけにいかなかった。

 3月15日の午前10時。津島支所の対策本部に呼ばれ、支所が二本松市

に避難すると告げられた。

 なぜだ。原発から30キロ離れた津島は安全のはずではなかったのか。

しばらく事態がのみ込めなかった。

 そのとき、テレビが政府の会見を放映していた。20~30キロに屋内

退避の指示。職員が食い入るように画面を見つめている。これなのか。

 午後から下津島の50軒を1人で回り、避難を呼びかけた。

 大半の家はカーテンが引かれ、避難していたが、10軒が残っていた。

避難を促したが、拒まれた。3軒は「牛がいるので避難できねえ」といっ

た。寝たきりの老人もいた。

 今野は妻(55)と長女(23)を先に逃がし、そのまま津島に残る。

 大勢の避難民でごった返した地区から物音が消えた。夜、雨が雪に変

わり、路面は真っ白になった。静かだった。

 昨日はたまたま留守だった家があるかもしれない。16日、もう一度、

50軒を回った。いったん避難した5軒が戻ってきていた。

 妻が車いすで、避難所ではトイレに行くのも大変だから帰ってきた――。

1軒で、老夫婦がそう答えた。夫は「いいんだよ放射能なんか。もう年だし、

ここで生活する」といった。今野は、車いすでも不自由しない別の施設を

さがして伝えた。

 「地域が消滅してしまう」

 無人となった地区を車で走りながら、今野は悔しかった。

 今野は元県庁職員で、今後は地元の伝統芸能保存活動に力を入れるつもり

だった。しかし、そんな老後の夢は消え去った。

 今野は町から測定器を借り、7月から毎月、地区の一軒一軒の放射線量を

測り、その住人の避難先に郵送で知らせている。

 県や町からいわれたわけではない。防護服の男の話を聞いたとき、津島が

高い線量だと知っていたら、もっと強く避難を呼びかけたのに……。そんな

後悔があるからだ。

 ひと月前と比べ、どの家の軒先も雑草が生い茂っている。3年前に亡くな

った父が大事に育てていた庭の植木も枯れた。(前田基行)

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「防護服の男(13)自宅裏は荒れはてた」


菅野みずえ一家が暮らす桑折町(こおりまち)の仮設住宅は、浪江町からは

40キロの距離だ。そこから月に1回、浪江町の自宅に通っている。

 国道114号から津島地区に向かう道に折れると、警察の検問所がある。

パトカーからマスク姿の警察官が降りてきて、町が発行する通行証をチェッ

クする。

 8月下旬、地区に入った。家並みは事故前と少しも変わらない。しかし、

みずえがつけている線量計は鳴りっぱなしだ。毎時3マイクロシーベルトを

超えると鳴るようにしてある。

 「東京電力から仮払金100万円をもらったけれど、そのうちの21万円

がこの機械で消えてしまったですよ」

 自宅に着く。玄関前の地面に線量計を近づけると、46マイクロシーベル

トにはね上がった。自宅裏の雨どいの下は170マイクロシーベルト。

そこに6時間いるだけで、年間許容量の1ミリシーベルトを超えてしまう。

 みずえはもともと大阪の人間だ。2年前、浪江町出身の夫(60)が津島

の実家を継ぐことになり、移り住んだ。ハウス農業を始めようと昨年、農業

研修を受けた。古い農家を壊し、自宅を新築した。

 大阪で居酒屋の店員をしていた長男の純一(27)も合流し、早く地域に

溶け込みたいと、祭りのグループに入って太鼓を習い始めたばかりだ。

しかし、もうこの土地には戻って来られないかもしれない。

 みずえは、東電と国にいいたいことがある。

 「だれもいない道を走ってごらんって。そうすれば、自分のしでかしたこ

との大きさを感じられるからって」

 みずえの自宅裏は草が背丈以上に伸び茂り、まるでジャングルだ。アシナ

ガバチが玄関の戸に巣を作り、アブがぶんぶんと羽音を立てて飛び交う。

近所中、ヒマワリの花だらけだ。セシウムを吸い上げるといわれ、みんなが

植えたからだ。しかしそのヒマワリが枯れて土に戻ったら、同じことなのだ。

 みずえは大阪の高槻市で暮らしていたとき、阪神大震災を経験した。

そのときはボランティアで仮設住宅を回り、お年寄りの健康相談をしていた。

 「まさか、自分が仮設住宅に入ることになるとは夢にも思いませんでした」

(前田基行)

     ◇

 次回から第2シリーズ「研究者の辞表」(約20回)に入ります。


我が家を舞台に・・・そのつながりの人々を通しての被災の深刻さは

ほんの微々たる部分にすぎない。

国・県・東電の過ちと責任を明らかにできるか・・

前田氏の連載記事に期待したい。

そして、一日も早く除染活動を始めるよう政治に求めたい!!


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