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日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-4--NO1

2013-09-13 00:39:30 | 鶴の友について

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2013年8月18日~25日にかけて、久しぶりに新潟県にお邪魔させて頂きました。
早福酒食品店、鶴の友・樋木酒造、〆張鶴・宮尾酒造、そして本当にしばらくぶりに千代の光酒造を訪れさせて頂きました。
それゆえ鶴の友についても新しいシリーズを書き始めますが、
“ナマケモノ”の私には珍しく〆張鶴について--NO4、千代の光について--NO2も続けて書きたいと思ってはいるのですが、いつになるのかは私自身にも分かりません--------。



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今回は“私の定宿”のホテル寺尾に5泊いたしました。
家庭的な雰囲気で人気のあるホテル寺尾は私がいた5日間はほぼ満室で、80歳になった社長の勝島の親父さんは相変わらず、私が煽られるほど、お元気でした。
三十数年前には〆張鶴に行くときには村上に泊まり、千代の光に行く際にも新井(現在は妙高市新井)に泊まりましたが、日本海東北道、上信越道が整備され新潟西インターから1時間と1時間半程度で行けるようになったため、
今回は新潟西インターに程近いホテル寺尾を“ベース基地”として行動することにしたのです-------。


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8月19日の10時過ぎ、早福酒食品店に到着しました。
前日に郡山市に一泊し、これまた久しぶりにH商店のH君といろいろな話をゆっくりとすることができ、朝8時過ぎに郡山南インターから高速に乗りいつもよりのんびり走り、2時間弱で新潟市にたどり着きました。

80歳になった早福岩男さんはお元気で、まったく変わらないと私には思えるのですが、やたらと「俺も80になったから----」を“連発”されています。
たとえ型式の古い年代ものエンジンだとしても“トルクも馬力も排気量”も逆立ちしても敵わないエンジンでしかない私は、「エンジンの古さをいくら“強調”されても差が拡大することはあっても縮むことは有り得ない」ので苦笑するしか方法がありません。

今回は早福さんにも19日だけではなく22日にもお時間を割いて頂き、これまで以上に「自分が聞きたかったことを伺う」ことが出来ました。
新潟淡麗辛口の“歴史”は「もちろん早福岩男さんだけが造ってきた」わけでありませんが、「新潟清酒の販売の仕方を大きく変えた早福岩男さん抜きでも語れないという“事実”」に対する客観的で妥当な評価が記憶だけでなく記録にも残されるべきではないか-----私個人は改めてそう実感しています。
そしてそれはおそまつで能天気な私も年を重ねた今、微かであってもようやく私自身が“早福岩男さんの仕事の大きさの実態”が見え始めたことの“証明”なのかもしれません。

新潟淡麗辛口の“歴史”は、酒蔵だけの“視点”だけでも酒販店サイドの“視点”だけでも、たとえ私自身に分かる狭い範囲であっても、“その歴史の実像”は見え難い--------私個人はそう痛感しています。
“歴史”を造ってきた酒蔵と早福岩男さんのような酒販店の両方の“視点”から見ない限り、微かにさえ“歴史の全体像”を見ることが出来ない------私にはそう感じられてなりません。



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8月19日の午後3時過ぎに鶴の友・樋木酒造に到着しました。
鶴の友・樋木酒造は、たぶん私が一番回数多く見させて頂いた酒蔵であると同時に私が一番“自然体”でお邪魔できる酒蔵でもあります。

以前は早福酒食品店の面した国道の116号を使うか女池インターから新潟バイパスに乗り内野方面に向ったのですが、海側を走る国道402号を使うほうが時間もかからずスムーズに走れることに気がつき、今は早福酒食品店から鶴の友・樋木酒造に向うときはこのルートしか走っていません。


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今年は例年より雨が降ることが少なく、樋木尚一郎社長の“2時間前後かかる水撒き”が大変だったそうです。
私は別に”雨男”ではないのですが、私が新潟にいた1週間のうち2日雨が降り“水撒き”が休めたそうです。
一見何もせず放りっぱなしのような“庭”のように思えますが、
「タンポポひとつとっても、抜いて良いものと絶対に抜いてはいけないものがあるので、草取りはけっこう大変なんです」との蔵の方の発言が“証明”しているように「無造作では無く“無造作に見える”、自然に無理に作為を加えない庭」を樋木尚一郎社長は好まれているように私には思えます。


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新潟市では8月に二つの会場で、新潟漆器展が開催されています。
二つの会場に展示された新潟漆器の多くは、数十年に亘って鶴の友・樋木尚一郎社長が“拾い集め”、有形文化財の蔵の屋根裏に“保存” されてきたものです。
成島焼も大堀相馬焼も、そして新潟漆器といい鶴の友・樋木尚一郎社長の“拾い集めたコレクション”は、“拾い集め始めた”時点では誰にも注目されず高価でもなく(新潟漆器は廃棄されかかったものも少なくなかったそうです)
その時点では希少でもなかったのですが、結果として貴重で大切なコレクションになってしまうのです。
現在は疎開先の二本松市で大堀相馬焼は造りを再開していますが、
相馬に帰還し相馬の土で相馬の登り窯で大堀相馬焼を造れる日がきたとき、
写真や本ではなくまとまった数の大堀相馬焼そのものの鶴の友・樋木尚一郎社長のコレクションはきわめて大きな貢献をするのではないのか-----私にはそう思えてならないのです。


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今回は妙高市(千代の光)や村上市(〆張鶴)に行った帰りにも鶴の友・樋木酒造に寄る“パターン”になったこともあり、樋木尚一郎社長や奥様のお話を本当にゆっくりゆったりと伺えました。
樋木尚一郎社長と一緒に近所のスーパー(SM)やGMSを“偵察”に行くなど
前回までのような時間の余裕の無い1泊2日コースでは考えられないことでした。
以前に何回も書いていますが、鶴の友・樋木酒造という“空間”に流れている時間は、普段私の生活している”日常の空間”と違い、きわめてゆっくりと心地良く過ぎていきます。
その心地良さに身を置きお話を伺っていて、ふと気がつくと午後10時を過ぎていて、慌てて宿泊先のホテル寺尾に向う-------そんなことの繰り返しの楽しくてありがたい4日半を過ごさせていただきました。

私の主観的見方では、鶴の友・樋木酒造の“印象”は三十数年前と基本的にはほとんど変わっていません。
もちろん蔵の内外に僅かな“変化”はありますが、その“変化”は時間のもたらす変化のスピードに比べきわめて穏やかなものであり、鶴の友・樋木酒造の根幹が揺らぐような“変化”ではありません。
なぜなら鶴の友・樋木尚一郎社長の根幹が、三十数年前も現在も、まったく変わっていないからです-----------。

街おこしも文化財の保存のお話も、あまり語られること無い“日本酒業界の話”も三十年以上前から、鶴の友・樋木尚一郎社長の“考え方も発言も行動”も変わっていないことは、三十数年前からお話を伺い続けてきたに私には疑問の余地がない“事実”なのです。
三十数年前と現在で違いのあるのは、「日本酒業界への“予言”が“現実”」となったことと「新潟市の街おこしと文化の継承の両面で樋木尚一郎社長の存在を貴重に思う人」が目に見えて増えたことだけです------------。



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上越線塩沢駅の左側の(リニューアルした)商店街が牧之通りです。
鶴の友・樋木社長も早福酒食品店早福岩男会長も絶賛の雁木と屋根の上の古来からの雪国独特の菱形の“風返し”の設置で統一し、建物の“印象”も出来る限り同じような“風合い”で統一し、三国街道の宿場町として栄えた塩沢宿を現代に甦らせようと意図したのが牧之通りなのです。
私は樋木社長と早福会長に薦められたから牧之通りを見るためだけに塩沢に来たのではなく、私にとって塩沢は四十年近く前から二十四年前まで頻繁に訪れていた“懐かしい場所”だったから本当に久しぶりに訪問したかったのです。




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実は、塩沢は私の学生時代の友人Nの地元なのです。
学生時代にスキーでNにはお世話になり、社会人になっては“地元のNの縁”から、八海山→〆張鶴→早福酒食品店早福岩男会長→千代の光・鶴の友というように新潟淡麗辛口の蔵に縁がつながっていったのです。
換言すると塩沢と友人Nは、私にとって、一番良い時期に“新潟淡麗辛口の世界”へのドアを開いてくれた存在なのです。

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さらに言うと友人Nは、この牧之通りの計画が始まった12年前に塩沢町商工会の職員として関わり、中止や白紙も何度もあった紆余曲折を乗り越えた2年前の完成時以前に別な部署に移動しており、「仕事としての“関わり”」を離れてからも地元の一人の人間として“見守って”きたそうです。

もし人と人の関係を“貸し借り”だけで表現できるとしたら、私は友人Nに借りているばかりの人間です。
今の私は面白くて楽しい日本酒との“付き合い方”の伝授や、現在は貴重品になってしまった「トップレベルの酒質の酒蔵の“酒粕”」を配り続けることで、周囲の人に多少はお役に立っているかと思われますし、何人かの酒販店の後輩の“成長”にも少しは貢献している------“貸し借り”で言うとたぶん“貸し”のほうが大きいのかも知れません。
しかしその“貸し”も、友人Nからの“借り”が無ければ存在することはなかったのです。
偶然と言えば偶然なのですが、あのタイミングで八海山→〆張鶴→早福酒食品店早福岩男会長→千代の光・鶴の友と縁が続かなければ、私は今とまったく違う人間になっていたという“確信”がありますし、鶴の友・樋木尚一郎社長との関係もまったく違っていたはずです------それゆえ友人Nとの出会いも今更ながら不思議な縁であることに、久しぶりに懐かしい塩沢を訪問したとき改めて気付かされたのです。


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友人Nとは20年振りくらいの“再会”です。
お互いに年齢を重ね“昔のイメージ”が違った部分がありました。
説明を聞きながら友人Nと牧之通りを歩いたのですが
“強い思い入れ”があるのは、言葉の端々に現れています。
「お前も良い仕事してるね-----」と言うと友人Nは苦笑するのみでした。
おそらく『能天気でお粗末な私に偉そうに言われたくない!』-----そんな気持だったのでしょう。

「牧之通りには本屋さんや文房具店など観光客の影響を受けない店もあるので、経済的なプラスはどうかという気持もあるが、牧之通りの反対側にある別の駅前商店街を含めて塩沢駅前商店街にはシャッターを閉めている(閉店した)店は一軒もない」----友人Nが気負いもなくさらっと言った言葉ですが、その言葉の意味はけして軽くはありません。

私の住む北関東の地方都市でも従来の駅前商店街は、残念ながら、“シャッター通り商店街”になっています。
ロードサイド店舗に押し捲られ、駅前商店街にかつての賑わいが戻ることは今後も難しいと思われます。
そんな流れの中にありながら、「塩沢の駅前商店街にはシャッターを閉めている(閉店した)店は一軒もない」というのは本当に驚くべきことなのです。
塩沢駅前の牧之通りは“一見の価値”が十分にあります、新潟県に行かれたときにはぜひ訪れることを強くお薦めします。



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当初訪れる予定はなかったのですが、塩沢まで来たのでかつてと同じように六日町長森の八海山・八海醸造まで行ってみることにしました。
38年前から24年前まで足しげく通った場所なのに、私の記憶とは“違った光景”になっていました。
私がまったく来たことが無いと思われるような”風景”に蔵はなっていました。
この場所の反対側は新たに”開発されたスペース”で、私が見たことがない”光景”であることは承知していたのですが、元々の酒蔵があった場所までが“見覚えのない場所化”していたのは、正直言って予想外でした。



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上記の写真が“新たに開発されたスペース”の案内板と“風景”です。
魚沼の里という名前がついていますので、ある種のテーマパークを目指しているのでは-----と思われます。
案内板にある八海山雪室は今年完成したばかりだそうですが、写真でも分かるように現在建設中の建物もありましたので、最終的にはどんな“かたち”になるのか-------24年以上八海山・八海醸造と接点の無い私には想像がつきません。
雪に埋もれる12月~3月に魚沼の里がどのように来訪者の目に映るのだろうかと思いながら、私は友人Nの車で魚沼の里を後にしたのです---------。



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千代の光について--NO2、〆張鶴について--NO4で詳しく書くつもりですが8月20日に千代の光酒造(株)、21日〆張鶴・宮尾酒造(株)を訪問させて頂きました。

千代の光の外観は、私が初めて行かせていただいた三十数年前とほとんど変わってはいませんが、蔵の内部はサーマルタンクの数が増えただけではなく、常時空調がしてあるスペースが大幅に増えていました。
蔵の中の“設備の変化”に比べ、蔵全体の印象も事務室がある建物の入り口のたたずまいも池田哲郎社長のお話を伺った応接室の雰囲気も、変わってはいません。

〆張鶴・宮尾酒造も三十数年前には無かった瓶詰めラインと巨大な“冷蔵倉庫”のスペースが川をはさんで斜め向かいにありますが、右上の写真元々の蔵の外観はまったく変わっていません。
蔵の内部はかなり変わっていますが、応接室と事務所の印象は三十数年前
とまったく同じで変わってはいないのです。

当然のことながら、千代の光、〆張鶴そして八海山にも、私が初めて新潟に行かせて頂いた昭和五十年代初めからすると40年に近い月日が流れています。
千代の光、〆張鶴の“外観”には共通する“何か”がありますが、八海山の“外観”には共通する“何か”を発見することができません。

“共通する何か”------私なりの印象では、時間のもたらす変化のスピードにさらされながらも、現在の蔵に至る“新しい歴史”がスタートした昭和五十年前後の“原点”を状況が許す範囲の中で守り残していこうとする“姿勢”だと、思われます。
たぶん、八海山・八海醸造は千代の光や〆張鶴との共通の“原点”を持ちながらも、その“原点”を守り残そうとする気持が少し薄いのではないか----------私の個人的印象ではそのように感じられます。
むしろ八海山・八海醸造は、平成の初めを“スタートの原点”とし、時代のもたらす変化のスピードを上回るスピードで“新しい歴史”を造ろうと疾走している------これが、久しぶりに八海山・八海醸造の“外観”や魚沼の里を見て私が感じた個人的印象なのです。



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内野は新潟大学の五十嵐キャンパスのすぐそばにある昔からの住宅街です。
新潟市の中心部からもあまり離れていないし通勤通学にも生活するにも便利な場所です。
内野は新潟市の中心と比べれば緑の多い住宅街ですが、鶴の友・樋木酒造は「緑に取り囲まれている」と言ったほうが適切なほど緑豊かな酒蔵なのです。
その緑豊かな鶴の友・樋木酒造という、“外の喧騒”から離れ時間がきわめてゆっくりと心地良く過ぎていく“結界のような空間”で、樋木尚一郎社長や奥様のお話を伺えた4日間は私にとって“至福の時”でした。

ある意味で“圧倒的な破壊力”を持つ時の流れによる“変化の波”に、飲み込まれないということは本当に難しく事実上不可能なことです。
新潟に限らず全国の酒を自醸し販売を続けている大多数の酒蔵は、時間のもたらす変化のスピードをやや上回る速さで動いている~時の変化にやや遅れたスピードで歩んでいるという“範囲の中”に存在している思われます。

その“範囲の外”を選択し変わらないことは、強い意志と代償を必要とします。
“結界のような空間”を三十数年に亘って維持し守り抜いてきた、鶴の友・樋木酒造が払い続けてきた“犠牲”も小さなものではありません。
何回も書いている三十数年前に比べ約半分にまで醸造石数が減っているのことも、“結界のような空間”を維持し守り抜いていたために払った“犠牲”の一つでしかないのです。


日本酒の世界、特に酒蔵には「日本人にとってとても暮らし易かった“失った過去”」が、濃淡や多寡に差があっても、まるで“タイムカプセル”のように存在し残っているように私には思えます。
鶴の友・樋木酒造は、冒頭の写真のように蔵の建物も住まいも文化庁の登録有形文化財であり、蔵の中は「古き良き日本を思わせる“結界のような空間”」だと私は感じてきました------そして、その樋木酒造だからこそあの素晴らしく不思議な酒質の、一番価格の安い上白すら“宝物”のように思える、“あの鶴の友”を造れるのだということを改めて痛感させられたのです------------。




鶴の友について-3--番外編4(吟醸会)

2013-05-03 13:11:29 | 鶴の友について

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4月24日(水)に久しぶりに吟醸会が開かれました。
多少の“誤差や勘違い”もあるかも知れませんが、第98回の吟醸会です。
上記の写真はテルさんの鮨店の入り口です、そして入り口を入ると

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こんな“景色”が迎えてくれます。

今回はG来会長の“強い要望”でやや早めに日程が決まっていたため私も何んとか休みがとれたため、前回とは異なり、18時半のかなり前に到着 していました。
吟醸会における私の“主な役目”は、乾杯の酒の選定と状況に応じた飲む酒の“スムーズな搬入”ですが、今回は乾杯の酒が極めて貴重だったため
早く行く必要があったのです。

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上記の写真が今回の乾杯の酒なのですが、吟醸会の会員でも私やテルさん、G来会長やS高・O川研究員などの古手の会員しか「リアルタイムで飲んだ経験が無い」、〆張鶴 大吟醸 1.8L 平成2年11月瓶詰の(平成元年BY)---------二十数年冷蔵保存したたった1本しか存在しない“本当に貴重な酒”だったため私としても万全を期したかったのです。

昭和五十年代前半より年一度飲ませて頂いてきたこの〆張鶴・大吟醸は、少なくとも平成5~6年ごろまでは、関東信越国税局の鑑評会で春夏連続で首席第一位や全国新酒鑑評会で金賞などの結果を生み出した--------鑑評会のためだけに造られた出品酒をそのまま瓶詰めしたものでした。
当時の私のこの大吟醸の実績割り当ては1.8Lで6本、720MLで60本で
自分用を確保するのも簡単でなかったほど素晴らしい酒質の大吟醸だったのです。
「どこも引っ込まずどこも出張っていない、食べ物の邪魔をせずに包み込んで自然なバランスを造り出し、それゆえ飲み飽きをすることもない」----------当時私達が感じていた〆張鶴の“バランス美の極致”を誰もが一番分かり易い“かたち”で体現していたのがこの大吟醸だったのです。

そんな〆張鶴・大吟醸がなぜテルさんの鮨店の冷蔵庫で二十数年をすごしたのか?
国税庁醸造試験場(当時)の新酒鑑評会の金賞入賞の基準が変ってしまい、私たちが慣れ親しみ素晴らしいと感激していた平成元年までの淡麗辛口の極限の〆張鶴・大吟醸の“かたち”のままでは金賞入賞が不可能になったため、〆張鶴・宮尾酒造も(もちろん藤井正継杜氏)もまるで別な酒のように感じられるまでの“酒質設計の変更”をせざるを得なかった------------その結果やや極端な言い方をすると、前年までスバルインプレッサWRX-STIだと思っていた車がトヨタのランドクルーザーに近い印象をまとって登場したための戸惑いがあったからだと思われます。
〆張鶴のイメージを代表する純(純米)の酒質は変わることがなかったため逆に戸惑いが大きく、その結果(今では大変ありがたいことだったのですが)6本のうちの1本が奇跡的に残ったのです。


一万円以上のお金を出して全国新酒鑑評会金賞受賞酒を買われる方がいらっしゃるかも知れませんので、念のため書き添えます。

全国新酒鑑評会金賞受賞酒の肩書きは、必ずしも飲んでみての美味さを“保障”しているわけではありません。
かつては国税庁の醸造試験場(現在は独立行政法人酒類総合研究所)の専門家の先生方が「大吟醸はこうあるべき」と決めた基準と同じように造れた大吟醸が入賞酒であり金賞受賞酒なのです--------標準的な水準を上回る酒造技術は担保されていますが、その美味さは酒造りの研究者や技術者が美味いと思う味であり庶民の酒飲みが思う一般的な美味さとは異なるのです。
私個人は、平成になるまで全国新酒鑑評会金賞受賞酒の審査基準と庶民の酒飲みの美味さの基準には海と堤防の高さの差しかなかったと思われるのですが、残念ながら、現在は大きくかけ離れているように思われます。
造る側から見た酒質だけではなく、飲む側のごく普通の酒飲みが「この美味さで晩酌で飲めるこの価格なら喜んで買う」---------エンドユーザーの消費者の「声な無き声」をどれだけ汲み取った酒質と価格を実現出来るかに日本酒の未来は左右される----------私はそう感じざるを得ないのです。

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上の写真の國権は8年古酒の大吟醸をテルさんがさらに4~5年貯蔵したものです。
下の〆張鶴、國権以外の吟醸酒は会員の皆様に頂いたもので、この5本以外にも数本の酒を投入しました。

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前置きが長過ぎると“批判の声”が聞こえてきそうなので、そろそろ〆張鶴 大吟醸 1.8L 平成2年11月瓶詰を飲んだ“感想”を書きます。

「さすが〆張鶴、やっぱり凄い」の一言に尽きます。
二十数年もたっているのに香りにも微かな変化しかなく、含み香も十分にあり全体の味わいはまろやかでありながら味全体を支える土台はまったく崩れていないのです-----そして全体の印象はもう飲めることは無いと思っていた、懐かしい昭和五十年代の〆張鶴・大吟醸の味わいだったのです。

上記の写真(クリックすると拡大できます)は以前に写したものですが、右は数量限定ですが発売されている鶴の友・特撰です-----------------他の蔵の“ふつうの大吟醸”より美味いと私個人には思える、鶴の友の中でも一番コストパフォーマンスが良いものなのですが、全部で数千本しか発売されないため鶴の友の中でも手に入れ難いという致命的な“欠点”があります。
しかし同時に鶴の友・樋木酒造の、鑑評会への出品大吟醸の“かたち”が窺えるという、きわめて稀な“長所”をもあわせ持っているのです。
ちなみに真ん中と左の鶴の友はお金では買えない非売品で、詰められる本数もきわめて少なく蔵の外にはほとんど出ることの無い“樋木家の鶴の友”なのです。
私はかつて、“この鶴の友3本”を同時に試飲させて頂くという『至福の時間』を経験したことがあるのですが、今回の〆張鶴・大吟醸を味わったことは、昭和五十年代前半から〆張鶴・宮尾酒造を知る(もちろん私もですが)テルさんやS高、O川研究員や古い吟醸会のメンバーにとってたとえ小さいグラスの半分しか飲めなくても、当時に思いをはせる『幸せな一瞬』だったのです。

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鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造--------どちらも私にとって若いころから何回も行かせて頂いた『居心地の良い“場所”でもあり懐かしい“場所”』でもあります。

現在の鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造は、同じ新潟県に在りながらも、“まったく違った蔵”との印象を持たれる方が大多数と思われます。
新潟市の地酒に徹しきわめて少ない正規取扱店しか無い鶴の友・樋木酒造、ひとつの県に数店舗しかなくてもほぼ全国に正規取扱店がある〆張鶴・宮尾酒造----------むしろ“正反対の蔵”と思うほうが自然なのかも知れません。

四十年前に比べ約半分まで販売量が減った鶴の友・樋木酒造、約三倍に販売量が増えた〆張鶴・宮尾酒造--------現在も“庭の豊かな緑”も含めて蔵の佇まいがほとんど変わっていない鶴の友・樋木酒造、大きく醸造石数が増えたため蔵の内部が以前の面影が見当たらないほど変貌した〆張鶴・宮尾酒造--------確かに“かなりの違い”があることは私なりによく分かっているつもりです。
しかしそれでも、同じようなアングルで写した蔵の正面の入り口の写真が違いの中にも“共通する何か”を感じさせるように、同じ部分というか『同じ頑固さ』を私個人は感じてきたのです。

鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造の差異と共通する点については、少し長い記事ですが、
國権について--NO4(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404
に詳しく書いてありますので見ていただければ助かります。

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平成2年の〆張鶴大吟醸について、今思うと穴ががあったら入りたいと思うほどの発言を、おそまつで能天気な私は当時宮尾隆吉前社長と宮尾行男現社長にしてしまった“明確な記憶”があります。
「〆張鶴ほど評価の確立した蔵に、飲む人達の評価のきわめて高い大吟醸の“かたち”を変えてまで全国新酒鑑評会金賞受賞を狙う必要性があるのでしょうか」--------おそまつで能天気なだけではなく、何も分からない若造のくせに生意気な発言だと現在の私自身でも激怒すると思うような発言ですが、おふたりには笑ってお許しいただいたような記憶がありますが、二十数年を経た〆張鶴大吟醸そのものに今回強いお叱りを受けたような気がしています。

風間杜氏から樋口杜氏に受け継がれた鶴の友が樋木尚一郎社長の強い意思で“その根幹”が変わっていないように、昭和五十年代前半に故宮尾隆吉前社長、宮尾行男現社長そして藤井正継前杜氏が造りだした“〆張鶴の根幹”が、国税庁醸造試験場(当時)の新酒鑑評会の金賞入賞の基準が変ってしまったため“そのかたち”を変えざるを得なかった平成2年の大吟醸にもしっかりと存在しており、私の当時の発言は“二重の意味で不当”だったと大反省させられ、空になった〆張鶴大吟醸に深く頭を下げたい心境になったのです----------。






鶴の友について-3--番外編3

2012-11-17 22:08:30 | 鶴の友について

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だいぶブログの更新をサボってしまいました。
この間にいろいろなことがあったのですが、“身辺雑記的”に短く書いていきたいと思っています。

一年半開かれることが無かった「吟醸会」が夏場に開催されました。
闘病中のG来会長も、京都から来られたK原先生も久しぶりの“出席”で
会が大いに盛り上がりました。
私は少し遅れて到着したのですが、座るスペースを探すのに苦労するほど
出足も早く盛況でした。
やはり「吟醸会」は、G来会長が正面にでんと座ってないと“形”にならないことを改めて実感しました。

S高研究員ともずいぶん久しぶりでいろいろな話をしたのですが、お互いが若かった昭和五十年代後半~平成の初めにかけての「日本酒をめぐる“楽しい出来事”」がその話題の中心にありました。
私達は、確かに、面白くて楽しい「日本酒の“黄金時代”」をその最先端に接し続けながら、ともに過ごしてきたと言えると思えます。
一つ一つの出来事がつい先日のように思え、私自身の“日本酒との出会い”が三十数年以上も前であることが、自分のことながら、信じられない思いがします。

テルさんやS高さんとも以前から相談してきたことですが、三十年前の“あるひとつの始まり”をその“始まり”に参加した人間+αで、来年1月に、“明るく賑やかに区切り”をつけようと計画しています。

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9月11日~23日の日程で新潟市が文化財として保存している旧齋藤家別邸で、大堀相馬焼展が開催されました。

鶴の友・樋木尚一郎社長は、かつて旧齋藤家別邸の保存運動にも深く関わり、大堀相馬焼にも深く関わっているのです。
大震災前にあった21の窯元は、浪江町内が警戒区域と計画的避難区域に設定されており、現在同じ福島県内の二本松市に製作と販売の仮設拠点として設けられた仮設工房で今は作られています。

大堀相馬焼展に展示された相馬焼のかなりの部分は、実は鶴の友・樋木尚一郎社長がかなり以前からこつこつと集めてきた樋木社長のコレクションなのです。
もちろん特別に高価なものではありませんし特別な意図を持って集められた訳ではありませんが、浪江町で焼かれた古い相馬焼がまとまって存在することは、原発事故後の現在ではきわめて大切な存在であると私には思えますし、浪江町民にとっても貴重な存在ではないかと思えるのです。

三十年以上前は誰もほとんど注目しなかった鶴の友・樋木尚一郎社長の“ボランティア活動”が、ここ十年、“形を造り上げる”大きな原動力となっている“姿”を私は見せてもらってきました。
旧齋藤家別邸で開催された大堀相馬焼展も、鶴の友・樋木尚一郎社長という原動力が働かなければ実現することが無かった-------私にはそのように思えてならないのですが、樋木尚一郎社長にとって“最大のボランティア活動”が実は「鶴の友を造り続けている」ことだという、エンドユーザーの消費者にとって本当にありがたい“事実”を知っている私には、“その事実”を知る人がもっと多くなって欲しいという気持も強くあるため「複雑な心境」なのです。


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11月4日(日)、私と妻は息子の通う大学の学園祭を見るため常磐線、中央線を経由して東京郊外のK市に向かいました。
妻と一緒の県外への外出は、一年前の学園祭以来のことです。

行きの常磐線は、鉄道ファンの息子のアドバイスのとうり、新型特急E657系10両編成中の3両しかないアクティブサスペンション付の1号車の指定席を取ったため、揺れをほとんど感じない快適さのまま上野駅地平ホームに到着しました。
運良く神田で乗れた中央線特快の窓から、快晴のため美しい富士山がはっきり見え、得をした心境になりました。

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上記の写真のレトロな雰囲気の時計台のある建物は、大学の図書館で外観は古びていますが、息子の話では本の貸し出しも入退館もICチップの入った学生証が無いと不可能という「近代的システム」になっているので、学生以外は入れないそうです。

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上記の写真の建物は息子の通う大学のシンボルと言われている講堂です。
1927年に完成した、大学の建物としては珍しいロマネスク様式の講堂で、
同窓会を中心に寄付を募り2004年に大規模修繕・補修で創建時の姿に戻ると同時に、音響や空調設備、トイレなどの諸機能が改善されて利便性が向上して、2006年に第15回BELCA賞のベストリフォーム賞を受賞したそうです----------なお2000年に国の登録有形文化財に指定されていると聞いています。

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息子は本来は混声合唱団(女子大と合同です)の所属ですが、この日だけ現役の学生と“定年退職された大先輩のOB”が合同でこの講堂のステージで男性合唱を披露するとのことでしたので、今年はこの日に来ることにしたのです。
この講堂の中で息子の参加する合唱を聞くのは初めてだったのですが、この講堂の優れた音響効果のせいなのか、あるいは親バカのせいかなかなかのレベルのように思えたのですが、それ以上に現役の学生よりも元気な年配のOBのパワーと意欲の強さに驚かされました。

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息子の通う大学の学園祭は3日間で20万人の来訪者があるそうですが、
最終日の日曜日はK市のお祭りとも重なり、大学通りも左右の歩道だけではなく車道も通行止めとなり人であふれます。
上の写真はまだイベントが少なかった午前中ですが、人ごみで疲れ予定より早めに帰ろうと大学からK駅に向った15時ごろには歩道も車道も人であふれなかなか駅にたどり着かない状況になっていました。

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学園祭で賑わう学内でも少しメインの通路を離れると、落ち着いた“緑豊かな景色”を見ることが出来ます。
西キャンパスの端にあるグランドのそばには、学園祭のスピーカーを使用した“音声”も微かにしか聞こえてこない「武蔵野の面影を残す“林”」も存在しているのです。

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キャンパスの中に“林を残す努力”をすると同時に、上記の写真のような比較的新しい建物も、ロマネスク様式の“古い建物群”にバランスした外観に統一しているところに、K市に移転してきた昭和の初めからの“環境をも含めた伝統”を守っていこうとしている強い意思が感じられます。
息子が歌わせてもらった講堂も1年以上の工期をかけ同窓会を中心に募った寄付で7億5千万円の費用を負担してリフォームされたと聞いていますが、その事実が、大学当局だけではなく在校生、OBが一体となって強い意志で守り抜かなければ、“伝統や文化”は簡単に失われてしまうことを“逆説的に証明”している--------私にはそう思えてならないのです。

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私は30年以上鶴の友・樋木尚一郎社長の“伝統と文化を守るボランティア活動”を見させていただいてきました。
最初のころは注目してくれる人がまったくと言って良いほどいませんでした。
しかし一人の人間の“強い意思の継続”がいかに多くのものを生み出すのか--------それを見せていただいたのは、私にとっても貴重できわめて大きな体験でした。
たとえ長く続いてきた伝統や文化であっても、一度失われてしまうと復活させるのは不可能に等しい至難の業がゆえに、たとえ困難があっても守り抜くべきものは守り抜き残す必要がある---------それが鶴の友・樋木尚一郎社長の“伝統と文化を守るボランティア活動”の根幹にあると私には感じられてならないのです。
そして鶴の友・樋木酒造の存在そのものが、もし失われてしまったらエンドユーザーの消費者がもう二度と出会えない貴重な“伝統であり文化である”ことを一人でも多くの人に分かって欲しい--------それがこの「鶴の友についてのシリーズ」を私が書き続けている最大の理由なのです-----------。



念のために書き添えますが、鶴の友・樋木酒造は酒蔵も住居も国の登録有形文化財に指定されています。
それもあって(それだけが理由ではありませんが)、残念ながら、
鶴の友は「減ることは有っても増えることは有り得ない酒」なのです------------。


鶴の友について-3--NO8

2012-02-22 11:02:08 | 鶴の友について

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地元のA酒店のA君に「ブログさぼり過ぎじゃないですか」との指摘をうけましたので、2012年第一弾を短め(私にしてはですが----)に書いていきたいと思います。

家に帰っても子供のいない 生活にもようやく慣れて、私自身にも家族にとっても“激動の昨年”を振り返りながら、新年を迎えることが出来ました。

大学に合格した翌日が東日本大震災だった息子も、授業以上に忙しいサークル活動に激動の一年の最後の12月31日にまで追いまくられ、元日の夜に“疲れた”様子で帰ってきましたが、息子にとっては“激動で忙しくあっても”充実した一年だったのかも知れません。
息子が所属するサークルの混声合唱団は一部のOB・OGその他の方々も動員した総勢117人で全力投入したビックイベントの“年末合唱”として、NHKホールで開催された第62回紅白歌合戦で北島三郎さんの“帰えろかな”と最後の蛍の光にバックコーラスとして参加しました。

「人は人の間でしか”磨かれない”」------私が若いころ誰かに言われた言葉なのですが、今思うと当たっていたように感じています。
「磨いてくれる砥石やヤスリの差が原石の”運命”を左右する」と言い換えても過言ではないとも思われるのです。

振り返って見ると、おそまつで能天気な”質の悪い原石”の私も磨いてくれる人に恵まれたおかげで、ありがたいことに現在の自分があります。
八海山の南雲浩さん、富所さん、宮尾行男社長、故宮尾隆吉前社長、早福岩男会長、嶋悌司先生、池田哲郎社長、樋木尚一郎社長、そして新潟淡麗辛口と故伊藤勝次杜氏の生酛------素晴らしく”高性能の砥石やヤスリ”のおかげで、おそまつで能天気な私も何とか格好のつく水準に磨いていただいたことには感謝の気持しかありません。
子供のころから家業である酒販店を継ぐことを嫌ってきた私ですが、今私がそれを無くしたら私ではなくなると思う部分のほとんどは、(地元の人も含みます)日本酒に関わる人のおかげで造られたものです。
三十歳代半ばでその実家の酒販店を出た私は、そのときまだ生まれてなかった息子が大学生になった今、童話の”青い鳥”ではないですが皮肉なことに、目指すべき納得できるものが”家業の酒販店の中”に存在していたと痛感しているのです。
そしてブランクをも含めた”私の日本酒の世界でのキャリア”が日本酒には関心の無い、縁が無いエンドユーザーの消費者が日本酒のファンになってもらうことにほんの少しは貢献できるのでは--------早福岩男会長や鶴の友・樋木尚一郎社長が強い意思で造り上げた”結界”と比べると、かなりレベルも低くスケールも桁違いに小さいですが、私なりの「変わらない部分」を大切にした”結界”を造れるのではないかとも今は感じているのです--------------------。

上記は、鶴の友について-3--NO7の最後の部分の引用です。
息子の入学した大学は、“私なりの理由”があって私が息子が中学生のころから勧めてきたのですが、ありがたいことに、私の想像以上に「今の息子は磨いてくれる高性能の砥石やヤスリに恵まれている」ような気がします。

高性能の砥石やヤスリで“磨がれる”ことはありがたい反面(若ければ若いほど)辛いことでもありますが、そのことの貴重さと本当の価値は年を重ねるごとに肌の感覚で分かってくるように私には思えます。
息子もこれからの“人によって磨かれる年月”を、今の私のように、ある種の恥ずかしさの混じった懐かしさとありがたかったという感謝の気持とともに思い出す日がいつか訪れるとも思えるのです-------------------。

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何回も書いていますが、昭和五十年代初めに私が偶然(あるいは本人の意に反した想定外の流れで)入り込んでしまった”新潟淡麗辛口の結界”は、今思うと本当に最先端でありその幸運に感謝するしかないほど恵まれたものだったのですが、当時の本人の感覚では「単に不本意であるだけでなく逃げ出したいほど辛く大変な面」も多かったのです。
当面の問題ですら解決はおろか“問題そのもの”をよく理解できていない状況にもかかわらず次から次に出現する問題に、おそまつで能天気を自覚していたにもかかわらず、真正面から対処せざるを得なかったのはまるで「軽トラックで高速道路を走る」ようなもので常に“過大な負荷”がかかっていたのですから逃げ出さなったことが、今思っても不思議でならないのです。

辛く大変であることは十分に分かっていながら逃げ出せなかったのは、それが私にとって“自然な流れ”だったからではないかと、今は思えるのです。

冒頭の指摘を受けたA君も現役の酒販店を離れ他の業種で働かざるを得ない数年を送ってきました。
郡山市のH酒店のH君も酒販店として厳しい負荷のかかった5~6年を過ごしてきました。
その“負荷のかかった年月”が、自分でも知らないうちに、少しずつではあっても自分自身の“あらゆる筋肉”を鍛え(本人の自覚が無くても)、周囲の人達には違って見えるようになるのです。
A君もH君も、皮肉なことにここ5~6年の苦しみが、自覚があろうとなかろうと大きく自分自身を成長させているのです。
そして日本酒の業界を離れた、あるいは離れようとしたとき「目には映っていたが“見えてなかった”捨てがたい日本酒の世界の本当の魅力に気がつく」のです---------------。

ではA君やH君に見えた「日本酒の世界の本当の魅力」とはどんなものでしょうか?

私に見えている光景を書かせていただくと、「人間と人間の信頼関係が造りだす他では得がたい関係」----------現在では希少なものになってしまった日本人が長く受け継いできた“DNAに刷り込まれた人とのかかわり方”が日本酒の世界には色濃く残っている光景なのです。

実は日本酒ほど、“手を抜かずきちんと造る”と、非常にめんどくさいと言えるほど大変な手間隙がかかるアルコール飲料はないのです。
日本酒は突き詰めていくと“究極の職人芸の世界”だし、理解されることが少ない“芸術の世界”だし、江戸時代に確立し改良を加え続けられてきた“伝統芸の世界”でもあるのですが、“タイムカプセル”という言葉が一番的確かも知れないのです--------------。

私個人は、もちろん多くの改良・改善が加え続けられてきたことは十分に承知しておりますが、現在の酒造りも江戸時代に確立した“範囲”を超えていないと感じております。
むしろ酒蔵という“存在そのもの”も含め、日本酒の造りからは私達が直接知ることの出来ない江戸時代の“時代の息吹や酒造りの職人(蔵人)の息づかい”が、たとえかすかであっても感じ取れることが、日本酒の最大の魅力であり面白さでもあり一番楽しいことでもある-----------私にはそう感じられてならないのです。

日本酒を知れば知るほど器や和食の世界に興味が自然にわいてくるよになります。
日本酒もその一部である受け継いできた“食文化”にも興味が生じるのは、ある意味で自然で当然なことですが、日本酒の面白さと楽しさを深く知ることによって“獲得した感覚”によって「敷居も高くないしスノッブでもない“親しみやすく身近で面白くて楽しい食文化の姿”」が見えてくるようになる----------私個人はそう感じています。
そして“見えてきた姿”によって私は、「学校で習ったのとは違い江戸時代は日本人にとって過ごしやすく充実した良い時代」ではなかったのかと感じるようなっています-------------なぜなら日本酒に限らず皮肉なことに、日本でよりも外国人によって高く評価される「他に類を見ない“日本固有の文化”」は江戸時代に確立したものがほとんどだと私個人には思えるからです。



以前にも何回も書いていると思われますが、きわめて長い時間がかかりましたが私が上記のように感じるようになったのは、鶴の友・樋木酒造という酒蔵と樋木尚一郎社長のおかげなのです。
そして現代の私達に「江戸時代の息吹や人々の息遣い」をまるでタイムカプセルのようにある種の“実感”をもって感じさせてくれる、鶴の友・樋木酒造という酒蔵と樋木尚一郎社長の“存在の貴重さ”を、私は改めて痛感せざるを得ないのです------------------。



鶴の友について-3--NO9に続く



鶴の友について-3--NO7

2011-12-02 20:22:37 | 鶴の友について

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上記の写真は鶴の友・樋木酒造の裏側の黒塀に書かれている鶴の絵です。

裏側といえ敷地内の奥まった所にある黒塀に書かれているので、たぶんご近所の方しか 見る機会の無い”作者不詳の鶴の絵” だと思われます。

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6月に続き10月14~15日と新潟市にお邪魔しました。
常磐道、磐越道を経由し新潟中央インターで降り関屋本村にある早福酒食品店にお邪魔し早福岩男さんのお話を伺い、その後内野の鶴の友・樋木酒造に伺う--------今回も(高速が未整備だった)三十年以上前からの私にとっての”定番のコース”どうりの新潟市行です。

以前にも何回も書きましたが、早福岩男さんは私にとって”鏡”のような存在です。
若いころ頻繁に新潟を訪れていた私の目には、お会いするたびに早福岩男さんの”姿”が毎回違って見えたのです。

もちろんそれは早福さんが”違った”のではありません。
おそまつで能天気な”何も分かっていない私“も2~3ヶ月に一回”四泊五日コース”で、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)、〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)、千代の光の池田哲郎常務(現社長)、早福岩男社長(現会長)、鶴の友・樋木尚一郎社長のお話をじっくり直接伺う機会に恵まれたおかげで、さすがにほんの少しずつであっても”見えてくる”ものがあったのです。

“ほんの少し違った目”で見ると、次の機会にお会いした早福岩男さんの姿は「私にとってはまるで違って」見えるのです。
そして最初の出会いからそれが三十数年も続いているのです。
初めてお会いしたときには、私に限りませんが、早福岩男さんの”姿”は親しみやすく身近に感じられ「いつか自分が追いつけそうな”距離”しか離れていない」と思えるのです--------しかしそれは”逃げ水に似た幻”を見ているようなもので、いつまでたっても”追いつけない”のが現実なのです。

自分の中に“1mという基準”ができてないと、とんでもないことに、10mも100mも100kmも「自分より”何となく大きい”と感じるという点でまるで一緒で、まったく差が無い」と思い込む状態になり、自分と相手の間に存在する”距離の大きさ”を理解することができないないのです。
幸か不幸か、”商売以外の人間関係先行”で新潟淡麗辛口の世界に入り込んでしまった私は”自分自身の無知とおそまつさ”を自覚せざるを得ない”場所”が複数あったため、10cm程度の自分と100km先にある”逃げ水に似た幻”との距離に比較的早くに気がつき始めていたような気がするのですが、早福さんを訪れた酒販店関係者の中で”単一の視点”にこだわった人は、”逃げ水に似た幻”との間に現実に存在しているきわめて大きな距離の差をつかめていなかった人がかなり多かったような気もするのです---------。

私にとって昭和五十年代初めから続いている“恒例行事”ですが、まだまだお聞きしたいことが多いし、また年齢経験を重ねても成長が乏しい自分の未熟さを痛感させられる貴重な機会ですので、またお邪魔したいという気持が強く生じてしまうのです-------------。

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上記の写真は鶴の友・樋木酒造の正面の入り口の中の様子です。

今年は子供が東京郊外の大学に入学したため、18年ぶりに子供が家に帰ってもいないという生活を送っています。
「子供が自分の道を見つけて進んでいくときまで“預かって”いるだけだ」と強い自覚を持って時を過ごしてきたつもりだったのですが、子供が家にいない“寂しさ”は想像以上のものでした。
そしてその“寂しさ”は、父親としての“ある範囲で最低限の責任”を果たせたかという“安堵感”と背中合わせもののような気もするのです。

はたして私が良い父親であるのかは私自身にも疑問がありますが、子供が小学校高学年から高校2年になる時間の間は、電話ではよくお話を伺いましたが新潟市に出かけ直接早福さんや樋木社長のお話をお聞きする機会には恵まれなかったのです。
子供が高校3年になって元々明確だった子供自身の行くべき方向がさらに明確に親の目にも見えるようになった昨年、私は本当に久しぶりに新潟市と村上市を訪れました。
そして子供が“離陸に成功”した今年、私も元々行きたい、あるいは行くべき方向に離陸を図るべきか--------と実感し早福岩男会長、樋木尚一郎社長だけではなく出来る限り長年お付き合いさせて頂いている、〆張鶴・宮尾行男社長、千代の光・池田哲郎社長、國権・細井信浩専務のお話を伺う機会をできるだけ多くしたいと思っているのです。

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上記の写真は、正面の黒塀の内側の景色です。
できるだけ”あるがままの自然”に近い状態を楽しみ、手を入れ過ぎないという樋木尚一郎社長の考え方が感じ取れる“庭の景色”です。

いつもはバイパスを使って早福酒食品店のある関屋本村町から内野にある鶴の友・樋木酒造に移動していたのですが、今回は海沿いの国道402号を利用したのですがバイパスを使うよりも短い時間で到着することができました。

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10月の半ばですが蔵の中は“静寂に包まれ”活躍の時を待っていました。

正面を入って右側にある事務室でしばらくお話を伺って気がつくと夕方になっていたのですが、今回は田さきさんでご一緒させていただくYさんの運転でホテル寺尾経由そして前回新潟古時計展でお話を伺ったSさん宅経由で、天婦羅の田さきさんに到着したのです。

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三十代半ばのYさんと年季の入った“趣味人”であるSさんとご一緒させていただいた今回は、樋木さんと二人あるいは酒販店の方と3人の今までとは違ったものになりました。

樋木尚一郎社長は鶴の友の蔵元として知られていますが、30年以上前からの新潟市の“街おこしの先駆者”としても知られています。
YさんもSさんも“街おこし”で樋木尚一郎社長と関わりがある方なので、今回はむしろ私が“部外者”と言えたのです。

三十年くらい前から“街おこし”のお話はよく伺っていました。
見方によっては“街おこし”のお話しがメインで、「酒の話は“街おこしの話”への導入部」程度の“地位”しか占めていなかったのかも知れません。


鶴の友・樋木尚一郎社長の言動は、私の知る昭和五十年代半ばから現在までまったく同じでまったくぶれていません。
終始一貫して言動が変わらないのです。
「久保田はいつか巨大な八海山になる」--------以前にも書きましたが、この言葉は昭和六十年代初めに私が親しい酒販店の仲間にした“予言”です。
嶋悌司先生に大変お世話になり、“久保田販売の尖兵”として最前線で強力な物心両面の支援を受け着実に成果を出していた私であっても(本当に親しいごく一部の仲間には)そう言わざるを得ないほど樋木尚一郎社長の“正論”は「私自身のそうであって欲しくない」という私自身の都合を一撃で薙ぎ倒す“正しさ”があり、否定も無視することも私にはできなかったのです-----------------。

“酒の世界”と同様に“街おこし”で「一見厳しく思える“正論”」のおかげで、樋木尚一郎社長は周囲に理解者や味方が少ない“孤高の戦い”が長い間続いてきたのですが、その考え方の根幹はまったく変わることなく続きようやくここ5~6年で樋木尚一郎社長の「考え方の根幹とその継続の価値」を知りその存在を大事に思う方達が少しづつ増えてきているのは、私にとってもうれしいことです。
その中の代表的人物であるSさんとYさんと同席させてもらい、一部激論も含む“街おこし”の話を伺えたのは、三十年前からのおそまつで能天気な自分が自分なりに”樋木さんの正論”を逃げずに見据えようとした時間が思い出された、私にとっても楽しいひとときでした。

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上記の写真は樋木酒造の敷地内にあるけやきです。

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内野駅のすぐそばにありながら樋木酒造(写真は弓道場兼将棋道場の敷地内)は自然に近い緑に囲まれているのです。

鶴の友の酒質と同じように樋木尚一郎社長によって“守られて”きたものがあります。
どちらも極端に高価なものではなくかつ庶民にとって身近なものであったが時代の流れの中で消えていったものを、高額のお金を投入するのではなく、膨大で長い時間と“強い気持”を惜しげもなく投入して“守って”きたもので、現在ではどちらも貴重なコレクションとなっています。

そのひとつは米沢の上杉鷹山公により奨励され大正年間にはその姿を消したと言われる成島焼き(現在は復興)です。
高価なものではなくメジャーな焼き物でもありませんが、陶芸の雑誌が成島焼きを特集するとき、樋木尚一郎社長のまとまったコレクションは欠かせない-------と言われているそうです。

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そしてもうひとつは、それ自体が登録有形文化財の蔵の屋根裏にたくさん保管されている新潟漆器です。
まるで竹にしか見えない手の込んだ漆器とか、何も分からない素人の私にすら貴重に思えるものでさえ廃棄されかかった(料亭の廃業時などに)そうで、それらを樋木尚一郎社長“強い気持”で拾い集めてきた長い時間の結晶が“この屋根裏の光景”なのです-----------。

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思い上がりかも知れませんが、(私は北関東の人間でありますが)私は鶴の友・樋木尚一郎社長の“強い気持”が新潟淡麗辛口全体にとっていかに貴重で大切かをふつうの新潟県人より強く感じてきたのかも知れません。
そして、新潟市の“文化を中心にした街おこし”にとって鶴の友・樋木尚一郎社長の“強い気持”がいかに貴重で大切であるかをも、ふつうの新潟市民より強く感じ新潟市民を羨ましく思ってきたのかも知れません----------------------。