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日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-4--NO4-3

2015-07-26 03:15:08 | 鶴の友について



当初の予定よりかなり遅くなってしまいましたが、鶴の友について-4--NO4-2に続いて、“規格外”の鶴の友・樋木酒造の造り方の方向と体制の“凄さ”さを以下に私の知る範囲で書いていきたいと思います。

樋口宗由現杜氏は酒蔵の製造の責任者である杜氏になった最初の新潟清酒学校の出身者(11期)で、10数年以上杜氏として鶴の友を造り続けていますがまだ四十歳代前半の“若さ”です。
内野の蔵を訪れたときに直接樋口杜氏のお話を伺う機会はきわめて少ないのですが、樋木尚一郎社長や奥様のお話を介してや蔵の内外の光景で理解出来ることが多くあります。

『愛車のダイハツ・コペンが似合う、新しい風を身に纏う越後杜氏』----------私個人は樋口宗由杜氏にそんな印象を強く感じています。
鶴の友・樋木酒造の杜氏としての実績や10数年以上のキャリアに比べ若いというだけではなく、酒蔵や酒造りの関係者にはまったく縁が無いにも関わらず日本酒と日本酒の造りに強く魅了され自らの強い意志でこの“業界”に飛び込んできた樋口杜氏は上記の言葉が似合う『ニュータイプの杜氏』なのです----------。
「いつかフェラーリに乗りたいから酒造りをしている」と公言している蔵元が某県にあるそうですが、新潟県の蔵に通うため峠を走る機会の多かった私は、最初に買った車から現在の車に至るまでMT(マニュアル)に乗り続けていますので(ちなみに妻も息子もMT派です)車の趣味から言ってもコペンに乗る杜氏のほうが好ましい存在です--------皮肉なことですが好きな車の価格と造られた酒の酒質は反比例していると言わざるを得ないのです。
フェラーリ好きの蔵の酒は全体的に価格がやや高く鶴の友は全体として価格が安く抑えられていますが、あくまで個人的な“感想”ですがやや厳しく言うと(古色蒼然とした昭和の表現ですが)、フェラーリ好きの蔵の酒は『狼の皮を被った羊』、鶴の友は『羊の皮を被った狼』に例えられるほど酒質のレベルには私個人は大きな差があると思われます。

鶴の友は一番安い上白(二千円以下で買えます)ですら標準的な吟醸酒(本醸造)のレベルにあると私個人は感じていますが、そう思うのは私個人に限らないと思われます。
鶴の友・上白は車に例えると、軽量でコンパクトな(トヨタのビッツ以下の大きさの)車にスバルの水平対向4気筒2000CCターボエンジンと4輪駆動を搭載した舗装路(冷、冷やして飲む)、未舗装路(燗をして飲む)両方できわめて速いがその販売価格がファミリーカーの値段-------というような通常ではあり得ない存在なのです。
風間前杜氏から鶴の友の造りを受け継いだ樋口杜氏の新たな風を身に纏った挑戦は平成15酒造年度から始まるのですが、その挑戦そのものも鶴の友・樋木尚一郎社長の『無謀とも言える規格外の決断』が無ければ始まることはなかったのです------------。


 

以下は2007年12月に書いた鶴の友について-2--NO8からの引用です。


風間杜氏から鶴の友を引き継いだ、若い樋口杜氏が同じく若い”仲間”と鶴の友を造って数年が過ぎました。
樋口杜氏と廃業された伊藤酒造から移られた若い方が年間を通じて蔵に常駐され、仕込みの時期には”尾瀬”から樋口杜氏のお仲間が3人が”蔵人”として合流します。
平均年齢三十代前半、5人中4人が何らかの形で”尾瀬の自然保護”関わる人達によって、現在の鶴の友は造られています。
伊藤酒造から移られた若い方も”尾瀬から来た蔵人”も、酒造りにはきわめて熱心です。
樋口杜氏も含め5人中2人が1級酒造技能士であり、尾瀬からの3人中2人が2級酒造技能士で、残りの1人の最若手も2級酒造技能士をめざしています。
数十年チームを組み老練な職人の技に支えられて造られてきた鶴の友は、1年交代で酒造りの各パートを全員が受け持ち、酒造りの全体像を知ったうえで担当したパートを深く掘り下げようとする-----新しい時代のチームワークで今は支えられ鶴の友は造られています。

尾瀬の自然と同じように、消えてしまったらもう二度と現れることの無い鶴の友が、尾瀬の自然の保護に関わる人達によって大切に造られていることに、深い”縁”を私は感じています。

4年前、風間杜氏も含む”超高齢蔵人集団”が引退されたとき、樋木尚一郎蔵元も一緒に”引退”されるつもりだったことは、私にも感じ取れていました。
鶴の友を造り続けることの、”物心両面での負担の大きさ”を知る人間の一人として私は、樋木社長のお気持ちを「理解せざるを得ない」心境にありました。
いつかはその日が来ることを、「頭では分かっていた」つもりだったのですが、実際にその事態に直面したときに私にできたのは、”呆然”と立ち尽くすだけでした。
鶴の友を失うという”事実”に直面したとき感じた”喪失感”は、とても想像できないほど大きかったからです。
私にできたことは、忸怩たる思いを抱えながら、その存続を樋木社長にお願いすることだけでした。
「単に、新潟市の”地酒のひとつ”が失われるに止まらない」影響の大きさを、全身で痛いほど感じていたことが、かろうじて私を後退させずに支えていました。

結果として、樋木尚一郎蔵元の引退が”先に延びた”ことを知ったとき、私は生き返ったような気持になると同時に申し訳ない気持で一杯にもなりました。
もちろん私がお願いしたから”存続”がきまったわけではありませんが、何もお役にたてない、何の貢献もできない私が、”物心両面での負担の大きさ”をさらに強いるお願いをしたのは、事実として私の中に残っていたからです。
「私自身も、できる限り踏み込まなければならない」----そのときからそのような気持が私の中ではっきり現れてきたように思われます。

私の周囲には、前述したとうり「吟醸会」を中心にした庶民の酒のファンが存在しています。
彼らは、30年前から〆張鶴や八海山を知る、能書きや理屈は知りませんが酒は知っている”集団”です。
鶴の友のファンの中心もこの集団だったのです。
彼らは、酒と料理の楽しみ方のある意味での”プロ”であり、鶴の友についてもよくその価値を知っているので、私が”語る”必要はあまりなく”代弁者”には事欠かないという、私にとって”自然体”で対応できるありがたい人達です。
しかし、そういう集団だけに大幅な拡大は考えられません-----なぜなら「吟醸会」も、”去るもの追わず来る者拒まず”だからです。
私は、この”居心地の良い”「吟醸会」の範囲を超えて、鶴の友のファンを拡大することに踏み切りました。

それは、それなりに”時間と労力”を要する”仕事”でしたが、自分が予想した以上に”歓迎”されたように思われます。
しかし、本業があるための私自身の「物理的限界」が、鶴の友のファンの拡大を制約しています。
直接的な「日本酒エリアN」拡大の限界が見えてしまったのです。もしこれ以上拡大するとしたら、フルタイムでやれる酒販店に”現役復帰”するしか、もう方法が残されていないのです。
しかしそれは、樋木尚一郎蔵元から強く止められていることでもあり、また簡単にできることでもありません。

私は自分の”前進”を計りながらも、内野の蔵で行われている「挑戦」が気になり続けていました。
樋口杜氏は、20年以上前に嶋悌司先生が提唱し初代校長を務められた、「新潟清酒学校」が生んだ新しいタイプの若い杜氏でした。風間前杜氏と数年一緒に鶴の友を造った経験があるとはいえ、まだ30歳の杜氏が80歳の超ベテラン杜氏の跡を継ぐのです。
しかも、樋口杜氏が若いころ一緒に尾瀬の山小屋で働いた仲間3人を、酒を造った経験のない素人の尾瀬で働く3人を”蔵人”として招き、鶴の友を造ろうとしたのですから-------。

もちろん樋口杜氏には自信もあったと思われますが、置かれた状況と先のことも考えた上での”決断”かと私は感じていました。
たぶん樋木尚一郎蔵元にとっても、樋口杜氏以上の決断だったと思われるのですが、残念ながらこの時期も電話でお話を伺うだけだったのですが、気負いも不安もまったく感じられない淡々としたいつもの樋木社長のように私は感じていました。

いつの間にか時間が流れ、樋口杜氏と”尾瀬の蔵人”が造った鶴の友を実際に口にする日が来ました。
予想していたように多少の影響はありました。鶴の友特撰に特に出ていたように私は感じました。
しかし、別撰、上白を含めて、鶴の友は確実に受け継がれたと言える”造り”だったと私個人は感じました-----安心したと言うほうが正直な気持だったかも知れません。
樋口杜氏と尾瀬の蔵人は、先人のデットコピーをすることなく伝統に挑戦し、その挑戦によって伝統を受け継ぎ、変えるべきは変えて伝統が「博物館入り」することを防ぐ、本当に”良い仕事”をしていただいたと感謝の気持も私は感じていました。

翌年以降の鶴の友はさらに安定を見せ、受け継いだ鶴の友の骨格に自分達らしさを付け加える兆しも感じさせる仕上がりになっていました。
”造りの面”は20年でも30年でも揺らぐことがないことを、私は確信しました。
しかしそれは鶴の友が20年、30年にわたって造り続けられることと、残念ながらイコールではないのです。 樋木尚一郎蔵元がもしご自分と鶴の友という酒の”美学”だけにこだわっていたなら、樋口杜氏と尾瀬の蔵人の”挑戦”は有りえなかったのではないか------個人的見解ですが、私はそう強く感じています。
「鶴の友という酒の名前がたとえ消えても、伝統を受け継ぎながらも今後の新しい時代に対応できる、若い”酒造りのチーム”が誕生すればいい」------樋木尚一郎蔵元はそう考えれて、淡々と静かに若いチームの”挑戦”を見守られていたのではないのか、私にはそう思えてならないのです。
(ここまでで引用は終了)





今年の3月23~24日、急遽だったのですが息子と二人で新潟市に行かせて頂きました。
息子は今年大学を卒業し社会人になったのですが、14年前小学3年のとき行った新潟を就職する前に再訪したいとの強い希望で行くことになったのですが、私にとっても息子と久しぶりにゆっくり話す時間を持てた楽しい時間になりました。
村上(〆張鶴・宮尾酒造)にもぜひ行きたいとの強い要望が息子にもあったのですが、卒業者の発表が3月12日、卒業式が3月20日、入社式が4月1日というスケジュールで日程に余裕がなく、私自身もさすがに年度末に長い休みは取りずらく、3月は大変にお忙しい〆張鶴・宮尾行男会長の日程を押さえていただくのは無理とも予想できましたので今回は14年前と同じ早福岩男さん(早福酒食品店会長)がおられ鶴の友・樋木酒造のある新潟市のみのコースになったのです。
(宮尾行男会長には違う機会の訪問をお願いしてあります)
この時期は仕込み自体は終了しており甑倒しを終わっていますがまだ蔵の内部の作業が残っており、樋木尚一郎社長のご長男の由一さんにご案内いただき蔵の方の邪魔にならないように見学させていただきました。

平成15酒造年度(15BY)から樋口杜氏が醸造の指揮をとる鶴の友は、伝統を受け継ぎながらもどのような“挑戦”をしてきたのでしょうか?
全国新酒鑑評会の金賞を積み重ね、「越後杜氏鑑評会」とも言うべき平成25BYの越後流酒造技術者選手権大会で第一位に輝いたのも挑戦のひとつのの結果であり”樋口杜氏の真骨頂”を物語るものではない-------30年以上鶴の友を見させていただいてきた私にとって、樋口杜氏の数々の実績が十分に素晴らしいものであることはもちろん承知していますが私自身には「樋口杜氏のもたらした“結果”よりも“結果”をもたらした“原因や過程”」のほうがより価値が高いと思われるからです。

「若々しくて格好良い杜氏さんだね、本当に四十歳を越えているの?」-------その言葉が、蔵の中で私達を見つけて挨拶をしてくれた樋口杜氏に対する私の息子の“印象”です。
平成15BYから鶴の友の醸造の責任者となり十数年たった“樋口杜氏の現在の位置”は、単にトップレベルの越後杜氏のみならず新潟清酒学校の講師でもあり他県の若手の醸造関係者がよく訪れる対象でもあり、(杜氏又は蔵人が引退し造り手がいなくなりかけた)他の二つの蔵に「鶴の友育ちの酒造技能士」を一人ずつ蔵の求めに応じて送り出した“供給基地の責任者”でもあるのです。
樋口杜氏は、酒蔵にも杜氏や蔵人に縁や関わりのまったく無い“飲む側の人間”として尾瀬の山小屋でのアルバイト中に日本酒(吟醸酒)に出会いその魅力に強く引かれ“日本酒を造る仕事”に飛び込んだ方です。
もちろん新潟清酒学校(新潟県醸造試験場の存在もきわめて大きいですが)を持つ46都道府県中唯一の県である新潟だから可能だったことですが、樋口杜氏のケースはその新潟でもきわめて珍しい事例と言えると思われます。
(新潟清酒学校の詳細は右のURLで見てください  http://www.niigata-sake.or.jp/torikumi/school/index.html )
最初に所属していた中越の某蔵から縁があり平成10年代前半に鶴の友・樋木酒造に移ってきた樋口杜氏は、風間前杜氏と“超高齢軍団”と一緒の酒造りを数年経験するのですが平成15年に風間前杜氏と“超高齢軍団”が全員引退して蔵を去ることは想像できなかったと思われます。
引用した鶴の友について-2--NO8(2007年12月)に書いたとうり、鶴の友・樋木尚一郎社長は風間前杜氏と“超高齢軍団”の引退と同時にご自分も鶴の友も酒造業界から消え去る“意志”を強く固めておられました。
なぜ鶴の友の造りが継続されたのか、ある程度の想像は出来ますが本当のところは私にもわかりませんが、樋木尚一郎社長とご家族にとっては“ご自分達のための決断”ではなかったと私には思われてならないのです。




樋口宗由杜氏は「従来の越後杜氏・蔵人の“外の世界”から投入された“新しい血”」であり鶴の友・樋木尚一郎社長は「蔵元としてご自分の立場や利益より優先するものがあると固い信念を持つ“新潟淡麗辛口の規格外の蔵元”」です--------“新しい血”と“規格外の蔵元”が現在に至る鶴の友を平成15BYから造り続けています。
鶴の友・樋木酒造の根幹は間違いなく“規格外の蔵元の樋木尚一郎社長”が造り上げたものであり、その樋木社長が造ったフィールドで樋口宗由杜氏という“新しい血”が思う存分活躍しているのが今の鶴の友・樋木酒造なのです。

「造る量が減ることはあっても増えること無い」と言われる鶴の友・樋木酒造は、30年前の醸造数量の半分以下の800石を下回る小さいが“常識外の丁寧な造り”をし続けてきた蔵です。
平成14BYまではすべての面で“超ベテランの巧みの技”で支えられてきたのですが、樋口杜氏が製造責任者になった平成15BYからは“民主的で若いチームの挑戦”によって支えられているのです。
超高齢軍団の酒造りは、“自分達に無理の無いペース”を守りながらも超ベテランの職人の“あらゆる面での妥協”を許さない商品というより“作品”という言葉が似つかわしいものでした。
鶴の友・樋木尚一郎社長が、超高齢軍団の“作品造りという意志”を蔵元としての立場やご自分の都合より優先し続けてきたことが鶴の友という酒を“規格外の酒”にしてきたと私には思えます。
一方、樋口宗由杜氏は他の蔵では考えれない酒造りの伝統の“創造的破壊”を行い、30年後でも鶴の友を造る酒造技能士に困らない“外の世界に開かれた酒造り”を実現させたのですが、それも鶴の友・樋木尚一郎社長の『鶴の友の名声が地に落ちるリスクや蔵が打撃を受けるリスク』よりも樋口宗由杜氏の“創造的破壊”により『30年後も40年後も酒を造り続けられる若い酒造りのチームの誕生』することを優先した“決断”によって初めて可能になったことなのです。

では樋口宗由杜氏の行った酒造りの伝統の“創造的破壊”とは具体的にはどの様なものだったのでしょうか?

基本的に酒造りは農閑期の“農家の出稼ぎ”の蔵人(杜氏も含む)により造られいましたが、その蔵人の集団は高度な専門性を要求されるため長い間ギルドのような職人の徒弟制度によって支えられてきました。
この制度下では下働きから始め長い時間をかけ杜氏まで登りつめるのが普通で、5~6年ぐらいではまだ下積みで酒造りの“全体像”を知る機会などありません。
昭和五十年代前半に私が出会った蔵の杜氏で最若手は四十歳代半ばで〆張鶴・宮尾酒造の杜氏になった藤井正継杜氏でしたし、最年長はその当時既に南部杜氏の長老の一人だった生もとを造り続けてきた伊藤勝次杜氏でした-------酒造りの各パートを経験し現場を知り尽くす杜氏になるには少なくても20年以上は必要な時代だったのです。
時代の変化により、残念ながら、農閑期の“農家の出稼ぎ”の蔵人(杜氏も含む)による徒弟制度に支えられて酒造りは存在はしていますが後継者難のためや酒蔵側の状況の変化で存続が難しい状況にあり、現在の中小の酒蔵においては蔵の後継者自らが蔵人や杜氏も兼ねるのとが多くなってきています。
酒蔵のご子息が東京農大の醸造科を卒業して東広島の独立行政法人酒類総合研究所を経て蔵に帰り醸造の責任者になるのはある意味で自然なのかも知れませんが、もともと外の世界に広い“接触面”を持っているとは思えないない“酒造りの世界”を、より狭い『限られた人たちの、外からの新しい血が入り難い世界』にしかねない側面もあるのではと私個人は感じています---------。

新潟清酒学校の存在はある意味で上記の蔵元兼蔵人(あるいは杜氏)のアンチテーゼかも知れません。
なぜなら入校資格が、新潟県内の酒造企業に通年雇用されており企業主が適任者として推薦している者であること・原則として、経営者の子弟は除くだからです。
昭和五十年代の終わりに、酒造りの後継者を育てなければ農閑期の“農家の出稼ぎ”の蔵人(杜氏も含む)の高齢化と後継者難により事実上地方銘酒としての酒造りが出来なくなる------強い危機感を背景にした新潟清酒学校の設立は新潟県の“酒造県としての実力とレベルの高さ”をある意味で象徴しています。
そのおかげで〆張鶴・宮尾酒造のように社内の人間だけで“遠い将来まで”高いレベルでの酒造りがまかなえ何の心配もない体制を取れている蔵が存在しているのですが、蔵元兼蔵人(あるいは杜氏)より広がりや広い適応範囲を持つとはいえ、(〆張鶴・宮尾酒造の社員である以上)何らかのかたちで村上という地域や〆張鶴・宮尾酒造に関わりのある人達のみに限定されて造られているため、他府県よりはるかに進んでいる新潟県といえどもまったく縁の無い“外側の世界から新しい血”を呼び込むのはきわめて難しいことなのです。

現在の鶴の友・樋木酒造も新潟清酒学校の存在に支えられているのは事実ですが、“外側の世界から新しい血”を呼び込んでいる“規格外の酒蔵”であることも事実なのです。
鶴の友について-2--NO8からの引用で述べたとうり樋口宗由杜氏ご自身が酒造りにも新潟県にもまったく縁の無い生まれで、エンドユーザーの一消費者として若いころの尾瀬の山小屋のアルバイト時代に日本酒(吟醸酒)に出会い強くその世界に惹きつけられた方です。
そして、いろいろな事情もあったと思われますが、自分が杜氏として醸造の責任者として鶴の友を造ることになったとき(廃業した内野にあった蔵から移ってきた一人を除いて)酒造りには素人の尾瀬の山小屋時代の仲間三人を蔵人として招聘し酒造りに挑戦し---------ある意味で無謀と言われかねない“常識外の酒造りへの挑戦”を試み、結果としての“創造的破壊”を行ったと私自身には思えてならないのです。

 


樋口宗由杜氏の“創造的破壊”は、今振り返ると、そこしかないという“絶妙なタイミング”に恵まれていたかも知れません。
風間前杜氏と超高齢軍団の“総引退”が数年早くても数年遅くても、現在の鶴の友・樋木酒造とはまったく違った“かたち”になっていただろうと私自身には感じられます。
数年早ければ鶴の友は造られない方向に間違いなく動いただろうし、数年遅ければ休廃業も含め違う判断を鶴の友・樋木尚一郎社長はされたように私には思えます。
平成14酒造年度(14BY)から平成15酒造年度(15BY)のこのタイミングでしか“常識外の酒造りへの挑戦”を試み、結果としての“創造的破壊”を行うことが出来なかった-----------そしてこの“絶妙なタイミング”に恵まれなければ、鶴の友は『飲んだ人の記憶の中にしか存在しない“本当の幻の酒”』になってしまう可能性が大きかったことを改めて痛感しているのです。

では樋口宗由杜氏の“創造的破壊”とは具体的にはどのようなことだったのでしょうか。
その内容自体は『特に変わったこと』ではありません。
一言で言えば、酒造りに強い意欲と情熱があれば酒造業界外の人間でも5~6年の鶴の友・樋木酒造でのOJTと3年の新潟清酒学校の講習で、徒弟制度で受け継いできた伝統の酒造りの“担い手の酒造技能士”に成れることを『証明』した------ということになります。

1 鶴の友・樋木酒造は800石以下の小さな蔵ですが、業界外の“素人”が酒造りに挑むにはその小ささが結果としてプラスに働く。

2 樋口宗由杜氏ご自身が業界外の“素人”が酒造りに挑んだ方であったため、どのようにしたら“素人”が分かりやすいか意欲と情熱を維持できるかを実体験で  肌の感覚で理解されていた。

3 小さな蔵のため蔵人全員で対処する“仕事”も多く、また短い期間で酒造りの工程を次々と担当していくため清酒学校を卒業するころには“実地・理論の両  面”で酒造りへの理解が進み酒造りの全体像が自分なりに把握出来る様になる。

4 3年が経過した(新潟清酒学校卒業後)以降は酒造りの“全体像”を自分なりに把握した上で、自分が任された“分野”をより深めていくことが可能になり『樋木酒造の内外の仲間とのコミ-ション』がより活発になり酒造りへの理解と情熱がより進むことになる。
5 樋口宗由杜氏ともうお一人以外はまったくの素人であったがもともと樋口宗由杜氏の古くからの仲間だったため、“徒弟制度の酒造り”とは違う『仲間意識』がスタートした時点から存在していた。
(樋口宗由杜氏にとってもリスクの多い賭けであったが、尾瀬から呼ばれてきた3人にとっても大きなリスクを伴う行動であったため強い仲間意識と信頼が無ければ踏み切れなかった行動だったためありがちな序列感覚など存在せず、困難に若い全員が一致して立ち向かうような“意識”が存在していた)


上記の結果鶴の友・樋木酒造には、平成15BYにまったく酒造業界に縁の無い若い方でも酒造りへの意欲と情熱さえあれば『その出自に関係なく仲間として受け入れて貰える蔵』となり平成という時代に“違和感の無い酒蔵”になったのですが、「時代の流れの中で変えてはいけないものを守るため変えざるを得ないものを変えた」---------言い換えればそう表現できます。
風間前杜氏と超高齢軍団の造る鶴の友は私自身も長く親しんだため愛着がありますが(今も私は数本秘蔵しています)、今振り返ると、平成14BYで全員が引退されなくても残念ながら数年後の引退は避けられなかったと思われます。
平成14BYと平成15BYとの間にはきわめて大きな違いがあります。
前者は伝統の徒弟制度で鍛えられた超高齢軍団が“巧みの技と阿吽の呼吸”を駆使し自分達が納得出来る単なる商品ではない“作品”を造った最後の年であり、後者は平均年齢30歳代前半の素人を含む平成育ちの若手が自分達に理解でき実行し続けることが出来る方法で“鶴の友という作品”を造ろうとした最初の年なのです。

どんなに愛着があり変えたくない“かたち”であっても時の流れという圧倒的力の前では逆らえないことが多いと思われます。
”かたちの変革”を時によって迫られたとき、『変えてはいけないものを守るためそれ以外はすべて変える』-------大きなリスクがあるのを承知した上で鶴の友・樋木尚一郎社長が決断し樋口宗由杜氏と4人の蔵人が実行した“創造的破壊”による“鶴の友の酒造りの成功”は業界全体に大きな良い影響を与えたと私は確信しています。
そして現在の鶴の友・樋木酒造は、古き良き時代の伝統を色濃く残し守りながらも“日本酒業界外の新しい血と言える若い人材”が違和感無く入り込み普通に活躍できる稀有の蔵となっているのです------------。




私が昭和五十年代半ばに出会った杜氏・蔵人の皆さんは、日産のシルビアのS13や180SXに乗っていることは無く想像すらできないことでした。
その当時の皆さんのほとんどが、農繁期はプロの農家であり農閑期には酒造りのプロという仕事のことを第一に考える“職人気質”の集団だったからです。
樋口宗由杜氏は現在の越後杜氏を代表する杜氏の一人であり新潟清酒学校の講師も務めている方ですが、同時にダイハツのコペンが愛車と伺ってもまったく違和感が無い方です。
生もと一筋だった南部杜氏の長老で長く大七酒造の杜氏を務められた故伊藤勝次杜氏の“年輪を感じさせる風貌”も私は大好きでしたが、私の息子が「若々しくて格好良い杜氏さんだね、本当に四十歳を越えているの?」との印象を強く感じた樋口宗由杜氏のような酒造りの“伝統の核心”を受け継ぎながらも、平成の時代に違和感の無い一人でも多くの『ニュータイプの杜氏や蔵人』に酒造りを担っていただくことがこれからの日本酒造りには一番必要なことであり日本酒の将来を左右しかねない大事なことなのだと私には思えてならないのです-------そしてその重大さは、鶴の友という銘柄の高い評価が地に落ちるリスクを甘受しても『ニュータイプの杜氏や蔵人』による酒造りに踏み切った、鶴の友・樋木尚一郎社長が一番理解し痛感されていられたのではないかと今の私にはそう思えてならないのです-----------。




あとがき

OCNブログ人が無くなりGOOブログに移ってきたのを契機に少し勤勉にブログを書こうかなと思ったのですが、相変わらず“短めの論文のような長さ”のため書くのに時間がかかってしまい5ヶ月以上記事をアップしていない“残念な”状況になってしまっています。
特に今回の記事は書くのには(5ヶ月という)時間もかかりいろいろな苦労もありました。
“行間を読んでもらうよな書き方”がこのブログには多いのですが、それが記事が長くなる原因でもありますし”勤勉さに欠ける”原因にもなっています。
もう少し踏み込んで書いても良いかなとの考えは有るのですが鶴の友や〆張鶴のようにありがたいことに現在も直接交流がある蔵には踏み込めても、仮に私の持つ体験や知識が貴重なものであったとしても、八海山や久保田や大七のように現在は交流のない蔵のことは書きずらい面があるのです。
いつになるか分かりませんが大七についてももう少し自分が体験してきたことを踏み込んで書くべきか-----実際に書くかどうかは分かりませんがそんな気持ちが少しずつ大きくなりつつあるのも事実なのです。
なぜなら昭和五十年代半ばの故伊藤勝次杜氏の生もと本醸造・純米への挑戦と発売の経緯をリアルタイムで直接体験した方が大七酒造自体にもう残っていない時代になってしまっているからです--------。










鶴の友について-4--NO4-2

2015-02-15 01:28:48 | 鶴の友について



〆張鶴・宮尾酒造を酒や酒蔵を私なりに判断する“基準”とするようにいつの間にかなっていったのですが、その“基準”が酒販店としての私の生き方を決定づけることになったのです-----------なぜそうであったかを今私が思い出せる範囲で以下に書いていきます(過去に何回も書いていることですが-----)。




私にとって私なりに酒や酒蔵を見ることは、何も分からない“素人”が書画骨董を見ことに似ていたかも知れません。
その書画骨董が“本物”であった場合も“素人”にはいつも見ているものによく似ている別の書画骨董を見ても『本物であるか偽物であるかの区別』はつきませんし分かりません。
いつも見ている書画骨董と比べて『何かが違うという”違和感”』の程度の大小と、『自分自身がその書画骨董が好ましいか好ましくないか』が分かるだけです。
新潟淡麗辛口のトップランナーだった〆張鶴・宮尾酒造が、酒や酒蔵を私なりに判断する“基準”になってしまった私は、結果として「違和感が小さく好ましい酒や酒蔵を見つけるという“楽ではなく狭い道”」を歩むことになってしまったのです。
〆張鶴・宮尾酒造が造り出す日本酒と同等の価格で、個性や魅力は違っても酒質レベルにおいて同じ水準にあり前進をし続ける意志のある酒や蔵を探すのは、昭和五十年代前半でも、きわめて難しい作業にならざるを得なかったのです。

最初の時期、私が扱っていたのは〆張鶴と八海山でした。
昭和五十年代前半の八海山は現在とは明らかに違う、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の強い指導のもと、高浜春男杜氏を中心に淡麗辛口のトップランナーを本気で目指していた蔵でしたが酒質の安定感、トップランナーとして現状に満足せず前進をし続ける“姿勢”は〆張鶴・宮尾酒造のほうが上回っていた印象が記憶に残っていますし、南雲浩さんが強く村上に行くことを勧めてくれたのもそれが“大きな理由”であったことも今の私には理解できます-----------今振り返ると私は新潟淡麗辛口と出会った最初の時点で八海山・八海醸造との比較の中で〆張鶴・宮尾酒造を“基準”に選んでいた-----------改めてそう思えるのです。
千代の光、南会津の國権、伊藤勝次杜氏の生もとと取引をさせて頂き、昭和の終わりの“嶋悌司先生の最後の仕事”である久保田(朝日酒造)が私にとって“最後の取引銘柄”になったのですが
〆張鶴・宮尾酒造が(蔵との直接取引をも含めて)“私自身の基準”だったため平成になっても私の店の銘柄は六つしかなかったのです。
六つという少ない銘柄だったため一銘柄あたりの販売数量が比較的多く、蔵とのコミニュケーションも良くとれていたと思われます。
この売り方を私が選んだのは大先輩の早福岩男・早福酒食品店会長の影響と〆張鶴・宮尾酒造を私なりの判断の基準にしたことの影響が大きかった-------今振り返るとそう痛感します。



〆張鶴・宮尾酒造は三十数年前から酒質向上のため蔵元が必要だと判断した設備投資を出来る範囲で着実にし続けてきました。
農閑期の“出稼ぎ”に頼った杜氏や蔵人による酒造りは将来限界を迎えることは、宮尾行男会長は早い段階で“予想”されていたし設備投資と同じように『酒を造り続けるための投資』にも早い時期から着実に手を打っていた--------私個人はそう思います。
〆張鶴・宮尾酒造にそれが出来たのはもちろん宮尾行男会長の“先を見据えた強い意志”が大きかったのですが、嶋悌司先生もその設立に関わられた新潟清酒学校(新潟県酒造組合の教育機関)が昭和五十九年に設立されたことで“実現への最初の一歩”を踏み出すことが可能になったのです。

新潟清酒学校のような教育機関を持つ酒造組合は新潟県にしかなく醸造試験場を持つ県は新潟県しかありません-------“環境に恵まれていた”からこそ宮尾行男会長が望まれた『社内の人間で三十年後も造り続けられる体制』を実現出来たと思われますが、環境に恵まれていたことは他の新潟の蔵も同じですが、〆張鶴・宮尾酒造ほど将来も含め“安定した造りの体制”を確立した蔵は無いと思われます。
〆張鶴・宮尾酒造はきれいでやわらかいその酒質のように穏やかで真面目な蔵だと私個人は感じてきましたが同時にその根底には梃子でも動かない”頑固さ”があるとも感じてもきました。
〆張鶴はきれいでやわらかい酒質ですがそのきれいさとやわらかさの奥にはきわめて強固なものが存在し支えています。
宮尾行男会長は本当に真面目で穏やかな方ですが、『それを失ったら〆張鶴ではないという根幹を守る』ことにおいてはきわめて“頑固な方”だとも私は感じてきました。
〆張鶴・純の根底にある種の強固な部分が昭和五十年代初めから現在に至るまで「〆張鶴・純の美味さは変わらない」というエンドユーザーの消費者の評価につながっている-------三十数年前も今も根幹が守られ維持され続けているゆえに〆張鶴・宮尾酒造は昔も今も私にとっては“基準の蔵”なのです----------。

業界を離れて四半世紀になりますが、ありがたいことに、今も宮尾行男会長とは人間関係が続いています。
年間数回FAXで(忙しい方なので)近況や“感想”などを送らせていただいておりますが、ときおり宮尾行男会長からもFAXを頂戴します。
嶋悌司先生の唯一の著書である『酒を語る』が出版されたときもいち早くご連絡をいただくなどありがたいお付き合いをさせていただいております。
昨年の暮れには久しぶりにFAXを頂戴したのですが、〆張鶴・宮尾酒造そして宮尾行男会長とのご縁が私自身にとっていかに幸運であったかを改めて実感しています。



上記の画像は二年前に(本当に久しぶりに)〆張鶴・宮尾酒造に行かせていただいたときに撮らしていただいた瓶詰めラインに隣接した冷蔵倉庫です。
内部は温度の違いで二つに区切られていて、より低温の奥のスペースにはレッテルの貼られていない酒が保存されていました-------そしてその中には『販売を予定していない酒』も大切に保管されていると私個人は想像しています。
昭和五十年代初めより〆張鶴・純という素晴らしい酒質の純米酒(現在は純米吟醸)を造り続けてきた〆張鶴・宮尾酒造が、純米大吟醸を造っていないことを不思議に思われる方も少なくないと思われますが、私個人はそのことが『新潟淡麗辛口という“規格の基準”』の〆張鶴・宮尾酒造の凄さの一面を物語るものだと感じてきました。

〆張鶴・宮尾酒造はかなり以前から純米大吟醸を造ってきた-------これについてはそのほうが自然だったということには私個人は確信があります。
ではなぜ発売されていないのか?

昭和五十年代前半の〆張鶴・純は、純米酒として、他の純米酒を圧倒するレベルにありました。
純米酒そのものがまだまだ少ない時代でしたが、同じ価格帯ではもちろんのこともっと上の価格帯の純米酒でも〆張鶴・純の水準に達していたものはあまりなかったと記憶しています。
三千円台前半(税込み)の価格で純米吟醸になった現在の〆張鶴・純のレベルも当然ながら高く、価格が2倍以上の純米大吟醸でも(好みの差がありますので一概にはいえませんが酒質のレベルでは)〆張鶴・純より酒質が明らかに上と言えるものはあまり多くないように私個人には思えます。
〆張鶴・宮尾酒造にとって、純は昔も今も〆張鶴を代表する酒ですがもし〆張鶴・純米大吟醸が発売されるとすると〆張鶴・大吟醸(金ラベル)と同じかそれ以上の価格にならざるを得ません---------つまり〆張鶴・純の3倍前後の価格になってしまうのです。
私はかなり以前から〆張鶴純米大吟醸は“試験的”に造られてきたと思っていますし、他の蔵の純米大吟醸の平均的な水準は越えているとも予想していますが〆張鶴・純の3倍の価格にならざるを得ない訳ですから要求される“水準”は、造る側にとっても飲む側から見てもきわめて高いであろうことは容易に想像できます。
純米大吟醸は毎年試験的に造られていると思われるのですが、〆張鶴・宮尾酒造そして宮尾行男会長の“発売する基準”に達していないため単体での発売が見送られ続けている-----私にはそう思えてならないのです。
純米大吟醸は他の蔵なら“良心的な純米大吟醸”として十分な評価を受けていると思われますが、純米吟醸の純を圧倒する『大の字が加わる〆張鶴・純米大吟醸のレッテルを貼る』にはまだやるべきことがある-------ある意味でそのような対応が『新潟淡麗辛口という“規格の基準”』の〆張鶴・宮尾酒造の“凄さ”を体現しているのかも知れないと私個人には強く感じられるのです。




私の中では〆張鶴・宮尾酒造は“規格の基準”と言うべき存在なのですが、では鶴の友・樋木酒造はどう言うべきなのでしょうか?

『規格外の凄さ』-------鶴の友・樋木酒造を語るのにはこの言葉以外にないと私には思えます。
もし私が“規格の基準”である〆張鶴・宮尾酒造を知らなかったら、たぶん、鶴の友・樋木酒造の『規格外の凄さ』に気づくことは不可能だったと思われます。
“規格の基準”であった〆張鶴・宮尾酒造を”肌の感覚”で知っていたからこそ鶴の友・樋木酒造の『規格外の凄さ』を、お粗末で能天気な私でも感じることが可能だったのだろうと思われるのです。
今振り返ると、当時の私がはたしてどこまで鶴の友・樋木酒造の『規格外の凄さの本質』を分かっていたのか自分のことながらかなり“疑わしい”のですが、“受けた衝撃の大きさ”は昨日のことのように記憶に残っています。

鶴の友・樋木酒造の存在は昭和五十年代前半に早福岩男・早福酒食品店会長のおかげで私自身も承知していました。
鶴の友という酒の凄さはお粗末で能天気な私にも十分に理解出来たのですが、“新潟市の地酒”に徹し県外はおろか新潟市近辺以外の新潟県内すら取扱店がないという事実と早福岩男会長や他の蔵元に聞かされた“鶴の友の逸話”に恐れをなし、早福酒食品店から三十分以内で行ける内野にある鶴の友・樋木酒造に容易に近づけなかったのです。
しかし不思議なことに私の故郷である北関東のH市には何故か新潟県の蔵元や嶋悌司先生や早福岩男会長の縁につながる方が住んでおられ、ありがたいことに、鶴の友・樋木酒造もその例外ではなかったのです。
偶然がいくつも重って“縁”を造ってくれたおかげで、昭和五十年代後半私は初めて鶴の友・樋木酒造を訪ねることになります。
三十年数年前のそのときを今から振り返ると、鶴の友・樋木尚一郎社長との現在のありがたい関係を造ってくれた“縁”に、いくら感謝しても感謝し足りないのかも知れません。

鶴の友・樋木酒造は元々取扱店だった地元以外の酒販店とは取引しない頑固な蔵元として知られており、それ以外の酒販店が取引を求めて訪れると、“容赦ない言葉”で断られると私もいろんな人から聞かされていました。
私自身も“容赦ない言葉”で取引は断られたのですが、それは上から目線の強圧的な態度ではなくなぜ新規取引が出来ないかをお粗末で能天気な私にも理解出来る説明でもあり、その当時ですら「減ることはあっても増えることはない」と言われている蔵に「地元に売っている分を減らして私に売らせて下さいという私の“身勝手さ”」を指摘されたものでもあったのです。
〆張鶴や八海山を売らせて貰って数年が経過し二十回以上新潟に来ていたその当時の私は、いくらお粗末で能天気でも鶴の友・樋木尚一郎社長の“説明と指摘”が自分にとって不都合であっても正しいと受け止められる水準にかろうじて届いていたように思われます------。
午後にお邪魔したのですが夕食をご馳走になり“夜食”もいただき、昨年で閉館した弓道場兼将棋道場に泊まらせてもらい翌日の午前中まで樋木尚一郎社長の『優しい姿勢の容赦ない言葉』を聞かせていただいていました。
“縁”があったからかも知れませんが、よくよく考えてみると、前日の午後から翌日の午前中まで『容赦ない言葉による説明と指摘』をし続けていただいたのは通常では有り得ない“親切”だったのではないか------そして簡単には聞き流せないことではないのかと強く感じたことを今でもよく覚えています。

当時の私は後に嶋悌司先生に『極楽トンボ』と言われるようなお粗末で能天気な人間で、私自身もそのことは自覚していました。
自覚していたからこそ造られる現場と造っている人を知らなければ何も分からない-------そう痛感して蔵を訪ねる経験を重ねてきたのです。
私にとって何も知らないことはむしろ“武器”と言えました--------何も知らないから誰にでも素直に知らないことを聞くことが出来たからです。
たぶんこの時も樋木尚一郎社長に、自分自身が分からないこと・理解出来ないことを素直に質問をしたと記憶してますし、それゆえに蔵にいた時間が長くなったとも思われます。
樋木尚一郎社長には、「売上を上げたい、販売量を増やしたい」という気持ちはまったくと言っていいほどありませんでした。
他の新潟淡麗辛口の蔵が販売量を拡大し続けていた時期ですら『鶴の友は減ることはあっても増えることはないという“事実”』がそのことを一番良く証明しています。
樋木尚一郎社長にとっては売上や販売量は執着の対象ではなく“違うものを大切に思っていた”ため、欲に捕らわれず冷静でなおかつ酒造・酒販の業界全体を俯瞰した“視点”で見られている------おぼろげながらもそう感じざるを得なかった私は、樋木尚一郎社長の“視点”からはどのように見えているのかをより知りたくて、新潟市を訪れたときには必ず内野の樋木酒造に行かせていただくようになったのです。

当時私達に見えていた景色は、一階の高窓から見た庭の景色のようなものでした。
美しく花が咲き誇る魅力的な光景でしたが、奥の生垣に視野を遮られその先の風景はまるで見えていなかったことが今はよく分かります。
鶴の友・樋木社長は、例えて言うと、私達とは違い三階のベランダから見ていたため、同じ風景を見てもまるで違った景色が見えていたのです。
高い位置から見ると、美しく花が咲き誇る庭も足元に雑草が蔓延っている様や裏側の汚れや枯れている様も見て取れると同時に、一階の高窓からは奥の生垣に遮られて見えない『そう遠くない将来に生垣の中にも訪れるであろう“外の荒廃”』も(鶴の友・樋木尚一郎社長の目には)はっきりと見えていたのだろうと思われるのです。
鶴の友・樋木尚一郎社長の、周囲(私も含まれます)の人達や蔵を訪れた酒販店の方達に対する『容赦ない言葉による説明と指摘』は、一階の高窓からしか庭の景色を見ようとしない人達に発した『親切心が根底にある“警告”』だったのですが、ほとんどの方は『容赦ない言葉と指摘の裏側にあった樋木尚一郎社長の“真意”』を受け止め切れなかったように記憶しています。
(私自身も平成三年に酒販店から離れ“業界外の人間”になっていなかったら、樋木尚一郎社長の“真意”は理解出来なかったと思われます)
昭和五十年代後半から“警告”を聞き続けてきた私には、現在の酒造・酒販業界の“風景”は鶴の友・樋木尚一郎社長の“警告が実体化したもの”としか思えないのです-----------。

 

この記事の冒頭で“規格の基準”である〆張鶴の造り方の方向と体制の“凄さ”を述べました。
では“規格外”の鶴の友・樋木酒造の造り方の方向と体制の“凄さ”はどのようなものなのでしょうか?

鶴の友は平成14年(平成14BY)まで風間前杜氏を含めた平均80歳の“超高齢軍団”が造りの中心に居ましたが、この年度の造りの終盤にある出来事があり、杜氏も含めたこの“超高齢軍団”が全員引退することになってしまったのです。
(樋口現杜氏も中越の蔵から鶴の友に唯一の若手として移籍して1~2年たったころでまだ三十歳前後のころです)
このとき鶴の友・樋木尚一郎社長は、“超高齢軍団”の引退とともに鶴の友の造りを終了されるつもりでした。
ある出来事がおきた直後に私が内野の蔵を訪ねたとき、その決意はきわめて固かったとの印象が強く残っています。
いつか鶴の友が飲めなくなる日が来ることは分かっていたはずなのに、その事態に直面したとき私はただ呆然とするだけでしたが、同時に何とか造りの継続を樋木社長に懇願している自分を発見していました。
樋木尚一郎社長と樋木家の方々にとって造りを止めたほうが絶対に良いことは十分に承知していたのですが、それでも私は鶴の友が無くなるという事態を受け止め切れなかったのです。

酒の神様が我々鶴の友のファンの願いを叶えていただけたのか、平成15年の初夏に鶴の友の造りが平成15BYも続くという朗報が内野の蔵から私にももたらされました。
樋口宗由現杜氏を中心に若手五人で(風間前杜氏と超高齢軍団が支えてきた)鶴の友の造りを受け継いでいくという嬉しい内容のご連絡だったのですが、それは大きな喜びときわめて大きな驚きが背中合わせの知らせだったのです----------それは“規格外”の鶴の友・樋木酒造以外では、樋木尚一郎社長以外では決断出来なかった(今でもこの決断は本当に凄いと思っています)驚きの『造り方の方向と体制』だったのです-----------。




この記事も長くなってしまいましたので、鶴の友・樋木酒造の驚きの『規格外の造り方の方向と体制』についての具体的な説明は、(次に書く予定の)鶴の友について-4--NO4-3でしたいと思います。







鶴の友について-4--NO4-1

2014-12-29 00:26:26 | 鶴の友について



2015年の1月に久しぶりに鶴の友の仕込みを見に行くつもりでしたが、諸般の事情により、残念ながら中止せざるを得ないことになりそうです。

過去に何回も書いていることですが、鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造の“対極と共通点”について述べたいと思います。
少し長いですが、以下の引用(國権について--NO4 2009年4月に書いた記事です)から書き始めます----------この引用を読んでもらえないと下の画像の下に書いた“私自身が感じてきた対極と共通点”を分かってもらえないのではないかと思えますので、申し訳ありませんが、読んで頂くようお願いいたします。


私個人は、地酒の蔵であり続けようとしている蔵は、”形のうえ”では鶴の友と〆張鶴の間にそのすべてが入っているような気がしています。
”企業”としての自然で当然の利益を毀損してまでも”地酒の蔵”であることを優先する鶴の友、”形のうえ”では酒蔵の中でも最も成功した”企業”のひとつでありながら状況が許す範囲で”拡大のスパイラル”に抵抗し、地酒の蔵であることの部分をできるだけ残そうとしている〆張鶴-------対極にあると思えるこの鶴の友と〆張鶴の間には、当然ながら”差異”もありますが似ていると言うか”共通”の部分もあるのです。

有名銘柄を含む新潟淡麗辛口は昭和五十年代前半と現在では、残念ながらその姿を変えています。蔵の大きさ、知名度だけではなくその酒質が昭和五十年代とまるで”別物”になってしまった蔵が少なくない中で、鶴の友と〆張鶴(千代の光もそうですが)はそのころの酒質を維持して30年以上に渡って変わらぬ酒質をエンドユーザーの消費者に提供し続けてくれています。

30年以上前の半分強にまで販売数量を落としながら、強い”信念”で地酒の蔵としてその酒質を守り続けた鶴の友は本当に稀有の蔵で、そのご苦労のごく一部しか知らない私ですら造り続けていだだいているのは、やや大袈裟に言うと”奇跡”だとしか思えないのです。

一方、30年前に比べ3倍前後の販売数量があり、”企業”としても成功を収めた〆張鶴が僅かに醸造石数の増大の影響を受けながらも、変わらぬ酒質を維持し提供し続けてくれていることも通常では”ありえない”ことだと私個人は感じてきました。
そしてそれが、他の超有名な新潟淡麗辛口の複数の銘醸蔵と〆張鶴との”違い”だとも感じてきたのです。

一万石級の製造石数とその抜群の知名度、ひとつの都道府県あたりの正規取扱店の数がきわめて少ないにせよほとんど全国をカバーしている販売網--------これらを知る業界関係者や日本酒のファンにとって、「〆張鶴は、村上市あるいは新潟県下越地方の地酒の蔵として存在している」と言われたら抵抗を感じたり異論を持つ方は少なくないと思われます。
しかし宮尾行男社長始め宮尾酒造の皆様の意識の中では、そのように感じておられるのではないかと私は長年に亘って想像してきました。

そう感じる私なりの理由は、
1.昭和五十年代前半より宮尾行男専務(現社長)、故宮尾隆吉社長の”考え方”を直接伺える機会に恵まれただけはなく、現在ほど有名ではなかった時期に正規取扱店の一人として、その”考え方”がどのように醸造の現場や販売方針に反映していたかを私自身の実体験の中で知る機会があったこと。
2.私が業界を離れた平成3年以降、〆張鶴も日本酒ブームの中で拡大し続けていきましたが、エンドユーザーの消費者の一人として現在まで(ありがたいことに)お付き合いさせていただいている私には、”企業”として自然で当然な成長を拒んではいないが同時に出来得る限り醸造方針も販売方針も変えないという”意志”も感じられたこと。
3.そして何より私の周囲にいる30年以上〆張鶴 純 を飲み続けている「吟醸会」の仲間達が、「〆張鶴は変わっていないし飲み飽きもしない」と言っていることです。
4.上記の3の事実は簡単のように思えて実はきわめて難しく稀なことであることを、私や「吟醸会」の仲間達は30年の時間の経過のおかげで実感しているからです。

かつて”業界”の人間だった私にとって、初めて出会った日本酒であり”本籍地”とも言える新潟淡麗辛口も30年もの時間が経過すると、その姿も認識も変わるほうが自然と言えます。
むしろ変わらないほうが”不自然”なのです。
変わらないためには”不自然さ”、言い換えれば”強い意志”が必要なのです。

3500石が一万石級に増えても僅かの変化はあるにしても”変わらない”ことは、鶴の友が”変わらない”ことと質や形は違うものの、実は稀で困難なことなのです。
〆張鶴の数量拡大は、4~5年ではなく、30年に亘って少しずつ慎重に計画され着実に実行されたものだ------私はそういう印象を持っています。
基本的に地元、県外を問わず〆張鶴の営業方針は「酒販小売店との直接取引」に限定されます。
新規取引には、私が取引をさせていただいた昭和五十年代前半からきわめて慎重で、
「取引する以上ただ扱っているということではなく、小売店にも蔵にもメリットのある数量でなければ取り扱いの意味がないのではないか」-------という”考え方”がその背景にあると私は感じてきました。
〆張鶴が”店の飾り”で良い場合以外は、酒販店側も、売れば売るほど数量の拡大が必要になってきます。
しかし急激な醸造数量の拡大は、酒質の向上とは”相性が悪い”ため、酒質の維持が可能な範囲での(設備の改善や設備の新規投入をして)数量拡大しかできず、その結果私が取引させていただいた最初の年から需要期(10月~3月)は割り当て、昭和五十年代後半には
「全体の醸造数量が昨年の110%になりますので、今年のNさんのお店の年間割り当て数量は同じく110%になります。月別に数を記入してありますが、月別の数量の変更はできるだけご要望にそえるようにします」-------という状況になっていました。
(事実、私の店の販売状況に合わせた頑なではない対応を、〆張鶴・宮尾酒造の皆様は可能な範囲でして下さいました)
しかし昭和六十年代に入ると、最初からこの状況を予測し「売る本数より投げる本数のほうが多くても実績を積み上げてきた」、エンドユーザーの消費者に”普通に販売していたため”店の規模の割にはかなり多いと言えた”実績”を持つ私の店でも、〆張鶴は”逼迫”するようになっていて、残念ながら新規のお客様に買っていただく1本を捻出するのに苦労する状態になっていました。

この時期私も他の酒販店の方々と同じように、〆張鶴や八海山の”需要と供給のギャップ”を埋めるため久保田の積極的販売に出ざるを得なかったのですが、この”状況”は私だけではなく、昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の販売を始めて先行していた酒販店のほとんどもこの”状況”に置かれていたことが、久保田の異例とも言える”大成功”の原因のひとつだと私は実感しています。
そしてこの久保田の”大成功”が、新潟淡麗辛口の先行した有名銘柄に大きな影響を与え大幅な数量拡大へと舵を切らせるのですが、〆張鶴・宮尾酒造はその方向には向かわず自分の”ペース”を守ったのです--------そしてそれが現在の新潟淡麗辛口の他の有名銘柄と、〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」となったのです。

毎年5%づつ製造する数量を増やすとすると、22年で約3倍の数量になります。
そう考えると、30年以上かかって3倍前後の石数になった〆張鶴・宮尾酒造は、拡大を自ら強い意欲を持って意図した”企業”とは、私自身は、とうてい思えません。
〆張鶴・宮尾酒造が”成功した企業”であり、地酒の蔵と言うには桁が違う販売数量を持っていることは私も十分に承知していますが、しかしその事実が必ずしも〆張鶴・宮尾酒造が「地酒であり続けることに強いこだわりを持つ蔵であること」を否定する証拠にはならない--------私はそう感じています。

〆張鶴・宮尾酒造に、批判的な見解を持つ人達の批評のすべてが間違っているとは私も思っていませんが、口の悪い人達に”新潟ナショナルブランド”と言われる他の新潟淡麗辛口の有名銘柄に対するのと”同じ観点での批評”は少し的外れのような気が私はしています。
社員の生活に責任を持つ”企業”である以上は、数量拡大による利益の拡大の追求は自然なことです-------しかしそれを最優先したとするなら、不可思議と言うか整合性に欠けると言うかそれとも矛盾とでも言うべき”非合理性、非効率”が〆張鶴・宮尾酒造に存在していると私は感じているからです。
その”非合理性、非効率”は〆張鶴の数量が増えれば増えるほど、まるでバランスを取るかのように印象が強くなってきたように思うのです。
言い換えれば”非合理性、非効率”は、宮尾行男社長始め宮尾酒造の方々が「〆張鶴がそれを失ったら自分達の〆張鶴ではなくなる」と思われている部分--------〆張鶴はファクトリーではなく”酒蔵である”ことへの強いこだわりだと私は思うのです。
〆張鶴・宮尾酒造はこの30年、その酒質の特徴と同じように、”企業”としての成功と酒蔵であり続けることのバランスを取ることに”苦心”し続けてきたように私には感じられます。

その”バランスを取ること”を支えた方法は特に珍しいものでも目新しいものではありませんでした。
1.〆張鶴の酒質向上、酒質維持を最優先する。
2.そのためには酒質を毀損しない範囲での慎重で計画的な増石しかできない。
3.そうすると必然的に販売も計画的販売方針を採らざるを得なくなる。
4.計画的販売方針を採るためには、〆張鶴の”考え方”を理解してくれる酒販店(小売店)との直接取引が必須になる。
5.具体的には、村上市を中心にした地元の従来の需要を大事にしながらも、昭和五十年代前半にすでに〆張鶴の”代名詞”になっていた〆張鶴 純 や特定名称酒を増石の中心にして、その時点でも〆張鶴 純 や特定名称酒に強い需要のあった関東を軸にした新潟県外の酒販店(100%直接取引で増石の範囲内で対応できる限られた軒数ですが)販売していくが、増石そのものに限界があるため「年間割り当て」にならざるを得なかった。

〆張鶴・宮尾酒造の採った方法は、上記のように、他の新潟淡麗辛口の有名銘柄とさして変わったものではありませんでした。
しかし〆張鶴・宮尾酒造はどんな局面でもこの”方法”から逸脱することなく、きわめて強い増産圧力にさらされた時期も守り続けてきたのです。
鶴の友・樋木酒造の”頑固さ”とは質的にもタイプ的にもその”違い”は大きいのですが、
〆張鶴の梃子でも動かない”頑固さ”も私は感じ続けてきたのです。

鶴の友らしさを守るため30年前の約半分強まで醸造石数を減らした、鶴の友・樋木酒造は「有り得ない”企業”」ですが、〆張鶴・宮尾酒造も酒造業界の中では「きわめて稀な”企業”」だと私個人は痛感しているのです。
そして日本酒業界にとって、ある意味で必然的と思える危機の中で「地酒らしい地酒」として生き残っていく酒蔵は、対極にあるように見えるが共通の部分をも持つ鶴の友・樋木酒造的な部分か、〆張鶴・宮尾酒造的部分を持つ必要がある--------鶴の友と〆張鶴の”考え方”の間に”考え方のベース”を置かないと生き残れないのではないか、と私個人には思われてならないのです。





1000石以下の多くの蔵では蔵の社長や専務が杜氏を兼ねているケースが目立つようになっています。
500石以下の蔵ではある意味自然な流れなのかも知れません。
その背景には現役の杜氏の高齢化、後継者不足、酒蔵の置かれている現実等の問題がありますので必ずしも悪いことではないと思われるのですが
“狭い世界”に日本酒を閉じ込めその発展を阻害しかねない面もあるのではないかと個人的には思われます。
個人的には、酒蔵の置かれている物心両面での厳しい現実も承知しているつもりですが、経営と造りに関わる人間が別であるのが好ましいのではないかとも感じています。
それは〆張鶴、鶴の友という大きさが違っても経営と造りが違う人間によって担われている酒蔵を三十数年以上見させていただいてきたからかも知れません------。

〆張鶴は昭和五十年代前半から藤井正継杜氏を擁し現在に至るまで「〆張鶴は飲み飽きすることが無いし変わらない」とエンドユーザーの消費者と言われる
〆張鶴の根幹の酒質を守り抜いています。
宮尾行男会長そして故宮尾隆吉元社長と一緒に“〆張鶴を造ってきた”藤井正継杜氏は、実は数年前に引退をされ宮尾酒造を離れているのですが、その“不在”を現在の〆張鶴の酒質から感じることはないのです。
なぜなら十数年前から新潟清酒学校に通いながら冬に藤井杜氏と一緒に〆張鶴を造った1級、2級の酒造技能士の正社員が宮尾酒造には数多く在籍し受け継いだ〆張鶴の酒質の前進を目指して今も造り続けているし、先輩社員が後輩社員を指導していく体制が整っているからです。
「30年後も〆張鶴は〆張鶴であり続ける」-------このように思うのは私だけではないと思われますが、宮尾行男会長から宮尾佳明社長へ藤井正継杜氏から宮尾酒造の造りの担当社員へと〆張鶴の伝統と本質を受け継ぎながらも“次世代への権限委譲”が一番進捗し現実化しているのが〆張鶴・宮尾酒造だからです。

昭和五十年代前半から〆張鶴・宮尾酒造は訪れるたびに蔵の中が少しずつであっても必ずと言っていいほど新しい設備が導入されたり更新されていました。
今もそれは変わっておらず、2013年の夏に久しぶりに訪れたときも蔵の中は「きわめて当たり前のように“変わって”」いました。
またこのときに、ありがたいことに、瓶詰めラインの隣に造られたきわめて広く高さもある“冷蔵倉庫”を宮尾行男会長のご案内で見学させていただいたのですが、中は温度で二つに区切られていて奥のより低温のスペースには、レッテルの貼られていない酒が眠りについていました-------発売が予定されている酒だけではなく、長年試験的に造られていても発売されることが無い酒も一緒に静かな眠りについているのに感慨を覚えたのですが、零度を下回るマイナスの温度の中ではそう長くいることは出来ませんでした。

上の左側の画像の〆張鶴・宮尾酒造の正面入口の画像は、四十年近く前私が初めて訪れたときの印象と同じ“景色”です。
入口から中に入った右側の事務室も左側の応接室もまったくと言っていいほど“変わって”いないのです。
しかし蔵の内部へと進むと、初めて来させていただいたときとは“別な蔵か”と思うほど大きく変化、あるいは進化しています-------しかし私自身には違和感はまったく無かったのです、“景色”は変わっていたとしても私自身が“〆張鶴そのもの”だと肌の感覚で感じていたものが変わってはいなかったからです。

何回も書いていますが、〆張鶴・宮尾酒造は京風の町屋の少なくない村上にあるため、間口は狭いが奥行きがきわめて深くそのすぐ脇を三面川の支流の門前川が流れているという立地に存在しています。
昭和五十年代前半に初めて訪れたときは、深い奥行きの中間に中庭があり故宮尾隆吉元社長が趣味の絵を書くアトリエとして使われていた小さなプレハブも建っていて、現在より余裕のある配置になっていたような記憶が私自身には残っています。
仕込みの時期の〆張鶴・宮尾酒造には、ある種の“張り詰めたような緊張感”が存在しているのですが、それは訪れた私のような部外者を“排除するような緊張感”ではなく私自身にも“心地良く感じられる緊張感”だったのです。
当時の私は『日本酒の“にの字”も酒蔵の“さの字”も分からない』自分でも呆れるほど能天気でお粗末だったのですが、日本酒の世界に強く惹きつけられていた気持ちだけで走っていたのです。

当時初めて行った酒蔵である八海山・八海醸造におられた南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)に強く勧められて紹介もして頂き〆張鶴・宮尾酒造と出会ったことは、きわめて大きな幸運だったと今でも感謝しています。
宮尾隆吉社長(当時)も宮尾行男専務(当時)もたぶん苦笑はされていたと思うのですが、能天気でお粗末であっても日本酒に対する気持ちに免じてくだったのか、いつもありがたい対応をしていただきました。
新潟の酒蔵に行き始めて最初の5~6年ぐらいは、多い年で5~6回少ない年でも3~4回は〆張鶴・宮尾酒造を訪ねていました。
行く度に宮尾社長、専務のお話を伺い、毎回少しずつ“前進という変化”をしている蔵を見せて貰ううちに私は『〆張鶴・宮尾酒造の“当たり前”は他のほとんどの酒蔵にとっては“当たり前ではない”』という“単純な事実”にようやく気がつき始めたのです。

「蔵の内部を空調しているのは灘・伏見の大手の蔵のように“四季醸造”のためではなく、冷却ジャケット式タンクや冷却ジャケットをタンクに巻いて醪の温度を0.5度単位で管理したとしても蔵の内部の温度が5度も6度も動いたら正確を期せないので、蔵の内部に一定で仕込みに最適と思われる温度環境を造り出すための空調設備なのです」

「私達が酒を造っていると言うよりも、私自身は、“酒自身が酒になるための手伝いを私達はしている”と言った方がより正確なような気がする。 特に吟醸酒は酒自身にとっても厳しい環境で造られるため『明日をも知れない重病人を私達が必死になって看病する』ようなもので、そんな気持ちが強ければ強いほど酒自身が応えてくれると感じてきたのです」

上の会話は、なぜ関東より温度が低いと思われる村上でしかも冬場の仕込みの時期に蔵の内部を空調をするのかという能天気でお粗末な私が発した質問への宮尾行男専務(当時)のお答えで、下の会話は、酒を造るとはどうゆうことなんでしょうか特に吟醸酒は、と大学の理学部の数学科の教授に算数の質問をしたような能天気でお粗末な私の質問への宮尾隆吉社長(当時)のお答えでした。
当時の私が、このような宮尾専務や宮尾社長の丁寧で真摯な説明をどこまで本当に理解出来ていたかには疑問の余地がありますが、能天気でお粗末な自分自身を“自覚せざるを得なかった私”にとってプレッシャーを感じることなく初歩の初歩から“知らないことを聞けた”〆張鶴・宮尾酒造はほんとうにありがたい蔵だったのです。
毎回お邪魔するごとにその時点で一番分からないことを質問し蔵の中を見せて頂くことを繰り返すうちに、少しずつですが“見えてくるもの”が増えてき始めたように記憶しています。

新潟に行き始めて数年、一番行った蔵は〆張鶴・宮尾酒造ですがもちろんその他の蔵にも足を運んでいますが、ある時期から酒蔵を見学させて頂くときに(無意識のうちに)〆張鶴・宮尾酒造と比べている自分に気がつきました。
その時点で〆張鶴・宮尾酒造と目の前の蔵を正確に比べることが出来るだけの“知識と能力”が私自身にあるはずもありません-------いつも見てきた〆張鶴・宮尾酒造の“当たり前”とその蔵の“当たり前”を比べているに過ぎなかったのですが、それは私にとって分水嶺になったのかも知れません。
新潟淡麗辛口は、協会10号酵母、新潟県産五百万石、鑑評会出品用の吟醸酒造りの手法を市販酒に応用した低温発酵を駆使して意図的に造りだされたもので、〆張鶴・宮尾酒造はその酒質を真面目に着実に毎年向上させ他の蔵より前を走る新潟淡麗辛口のトップランナーだったのです-----------そしてその事実を完全には理解できなくても“肌の感覚で感じてきた”〆張鶴・宮尾酒造を酒や酒蔵を私なりに判断する“基準”とするようにいつの間にかなっていったのですが、その“基準”が酒販店としての私の生き方を決定づけることになったのです。



このまま書き続けるとどこまで長くなるのかが私自身にも予想できず、いつ書き終わるかも分からないため、ここまでを鶴の友について-4--NO4-1として公開しこの続きは後日鶴の友について-4--NO4-2として書くことにします--------。

鶴の友について-4--NO3(gooブログへの引越し)

2014-11-26 21:24:57 | 鶴の友について



この日本酒エリアNは2005年よりOCNで書いてまいりましたが、OCNブログ人が11月30日で終了のためgooブログに引っ越してまいりました。
ブログ全体を引越しツールを使って移行したため若干の不都合もありますが少しづつ修正していくつまりでおります。
現在分かっている“不都合”は、生酛が“生�瞼”と表示されてしまうことですが、修正が出来ないと思われますのでそのままにしてあります。
また文字数オーバーのため、分割して再掲載した以前の記事が最新記事の上位にきていますが、“もっと見る”をクリックしていただければ鶴の友について-4-NO1やNO2が出てきます。

実は10月にも2泊3日で新潟市に出かけたのですが、デジカメを持っていくのを忘れてしまったりなどいろいろな事情により未だに記事は書けないでいます。
風間前杜氏やその以前の杜氏が培ってきた鶴の友の“かたち”を受け継ぎながら樋口杜氏らしさが、ここ数年、鶴の友の酒質に出てきているように思えます。
良い意味での“若さと風通しの良さ”と“鶴の友の受け継がれてきた伝統”が融合した「鶴の友が造られる“現場”」を久しぶりに直接見てみたいとの気持ちが強くなりつつありますので
来年の1月にまた行きたいと思っています。


gooブログに慣れましたら鶴の友について-4--NO4を書きたいと思っています。

*なお本日よりOCNのURLはこのgooブログに誘導されますのでよろしくお願いいたします。




鶴の友について-4--NO2(最後の吟醸会、そして---)

2014-07-27 15:02:13 | 鶴の友について

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前回の記事を書いて以来はや10ヶ月が過ぎてしまいました。
一部分とはいえ厚生年金をいただける年齢が見え始めてきている私には、
時の流れがとても速く感じられます。

三十数年前、「100回になったら止めよう」と“冗談9割本音1割”で言ってきた
吟醸会も5月21日で100回目を開催し終了を迎えてしまいました。

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実際には、吟醸会の名前の由来になった4人のみでの吟醸酒を楽しんだ“集まり”を入れると、すでに100回を超えています。

私はアルコールにきわめて弱い男で酒はほとんど飲めないのに、何故か、
昭和五十年代前半から“日本酒の世界”にどっぷりと浸かってしまい
新潟淡麗辛口のトップレベルの蔵の“最先端の仕事”や、南部杜氏の長老の一人だった伊藤勝次杜氏の生酛(本醸造・純米・純米大吟醸)が造られるのをつぶさに見られる機会を与えられてきました。
そのおかげで当時は、ほとんどと言って良いほど市販されていなかった
鑑評会に出品レベルの大吟醸を飲む機会が少なくなかったのですが
私自身には「酒質を自分なりに判断する量」しか“需要”がなく、鑑評会出品酒そのものできわめて少ない数量のみの販売であった〆張鶴大吟醸や千代の光大吟醸、完全非売品の八海山や鶴の友の大吟醸を同時に楽しめる“状況”を独り占めするのはあまりにもったいないと---------鮨店の店主のテルさんとS高・O川の二人の研究員と私の四人で「大吟醸を楽しむ集い」を始めたのが“吟醸会のルーツ”だったのです。

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その「大吟醸を楽しむ集い」を知った、高校生のころから“ちんとんしゃん系の遊び”に慣れ親しみ鍛えられてきた五来会長 の「面白そうで楽しそうなことは少人数でちまちまやるな、もっと大勢を巻き込んでやれ」の鶴の一声で「吟醸会」 は始まったのです。

私自身がつまらない人間のせいなのでしょうか、まるでそれを埋めあわせるかのようかのように、“ちんとんしゃん系の遊び”に慣れ親しみ鍛えられてきた魅力的な方々と私は縁を与えられてきました。
五来会長や早福岩男早福酒食品店会長、細井冷一國権酒造会長の過去のエピソードや失敗談は抱腹絶倒で本当に笑い転げるものだったのですが、一人になった帰り道に「面白いだけではなく何か大切なこと」を教え諭されたような気持になったのです。
二十歳代前半の私がこの方々とご縁を頂けたのは本当に幸運だったと、今更ながら痛感しています。
この方々も私も三十数年の歳月を重ね現在を迎えたのですが、吟醸会の終了は“自分達が遊びの主役の時代”が終わりを告げ、テルさんや私もS高・O川も
次の世代である自分達の子供の世代に「日本酒の面白さと楽しさ」を受け継いでもらい“裏方にまわる”時期にきている-------そう強く実感しているのです。

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朝日酒造・平沢亨氏のこと

5月の中旬に朝日酒造の社長・会長を歴任された平沢亨氏(71歳)がお亡くなりになられたことを、先日鶴の友・樋木尚一郎社長から伺いました。
平沢亨氏の存在がなければ、久保田も現在の隆盛につながる“朝日酒造第二の創業”も在り得なかったと思われます。
私自身は久保田の発売の半年前から、久保田を取り扱う前提で朝日酒造の関わるようになったのですがその関わりのほとんどは県外の販売店の担当だった東京出張所のA所長と工場長として招聘された嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)との接触でした。

平沢亨社長(当時)との直接の接触の機会はほとんどありませんでしたが、自分が蔵で直接目にしたことや耳にしたこと上記のお二人や早福岩男さんに伺ったお話で、平沢亨社長(当時)が「何をしようとして何をしたか」はおぼろげながらも私にも見えていたような気がしています。

昭和五十年代前半朝日酒造は、嶋悌司先生と早福岩男早福酒食品店社長(当時)を中心に集まった新潟五力(越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光の五つの新潟淡麗の蔵)の銘酒としての評価が高まれば高まるほど、“真綿で首を絞められる”ように、新潟県の販売量トップの酒蔵でありながら“その存在感と戦闘力”が少しずつ少しずつそぎ落とされる状況下にありました。

新潟淡麗辛口は、酒造好適米の五百万石、協会10号酵母、低温長期発酵(いわゆる吟醸造り)の組み合わせで「意図的に造り出された時代を先取りした日本酒」で、それまでの新潟清酒とはコンセプトも酒質もまるで違ったものだったのです。
新潟淡麗辛口の評価と需要が東京を中心に高まり関東に拡大しブーメランとして新潟県内に返ってくれば返ってくるほど、朝日酒造の酒質とコンセプトへの評価は低下し続けていた状況にあった---------そう感じていたのは私だけではなかったように思えます。
平沢亨社長(当時)が脅威に思うほどには状況が悪化していたとは私自身にも思えませんでしたが、10年後、20年後を考えたときかなりの危機感をお持ちだったことは私自身にも容易に想像できたことです。
その状況下で起きた“朝日酒造の戦術的危機”が、皮肉なことに、久保田の発売に収斂していく“朝日酒造の第二の創業”のきっかけとなったのです----------。

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その“朝日酒造の戦術的危機” とは、常務取締役工場長で酒造りの要であったM 先生が亡くなられたことで早急にその後任の経験豊かな酒造技術者を探す必要に迫られたことです。
この局面で平沢亨社長(当時)は、“乾坤一擲の賭け”に出ます。
大きな賭けではあるがある意味では無謀ではない、勝てれば「一石三鳥が期待できる大勝負」に出たのです。
定年まで一年半以上を残していた新潟県醸造試験場長だった嶋悌司先生の招聘に、蔵の内外の反対を押し切って平沢亨社長(当時)は動いたのです。

嶋悌司先生を招聘することで期待できた一石三鳥とは

  1. 酒造技術面だけではなく、あらゆる意味で新潟淡麗辛口の中核だった嶋悌司先生の存在で、朝日酒造は新潟県のナショナルブランド的酒蔵→新潟淡麗辛口の銘醸蔵へ羽ばたく“羽”を手に入れた。
  2. 急速に変化していく市場環境への素早い対応は朝日酒造の内部だけでは限界があり、内部の人間だけでは難しい改革を実行可能な嶋悌司先生とそのお仲間という”羽”を手に入れた。
  3. 自分達の酒を脅かす新潟五力(越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光の五つの新潟淡麗の蔵)の中核の嶋悌司先生を引き抜くことで新潟五力の結束の陰りに強い影響を与え、新潟五力VS朝日酒造ではなく
    新潟淡麗辛口の各蔵VS朝日酒造という有利な戦いに導く“羽”を手に入れた。

そしてその一石三鳥は、絶妙のタイミングと新潟五力の“弾不足”という強いフォローの風もあり、平沢亨社長(当時)が想定していた以上の大成功を、久保田の発売も“第二の創業”も納める結果となったのです。
久保田の発売の成功と“第二の創業”の成功は、新潟県の酒造業界の中の成功事例に留まらず、マーケティングの成功事例として経済マスコミや一般マスコミにも頻繁に取り上げられ、朝日酒造は強い光に包まれます--------しかし光は影と背中合わせの存在のように私自身には思われます。

私自身も久保田発売の半年以上前からその戦いの最前線にいましたしそれなりの実績も上げていました。
正直に言ってあらゆる面でA所長を介して得られるサポートで久保田の販売はやり易く、10年近くかけて積み上げた〆張鶴や八海山の販売量を、久保田は数年で超えてしまいました。
私は久保田の販売をスムーズに行うために、A所長を介して嶋悌司先生や朝日酒造の営業部にいろいろなお願いをしていたのですがそのほとんどを実現していただきました-------その会社のトップだった平沢亨社長(当時)には今でも感謝してますし蔵元としても魅力的な方だったと今でも思っていますが、久保田の尖兵として最前線に立ちながらも比較的早い時期から、「久保田と第二の創業の光が造り出す影の大きさ」をも知らざるを得ない“立場”に立ってしまっていたのです。

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このブログの記事に何回も書いていますが、久保田の尖兵の一人として最前線で戦っていた時期は、取引が無いのに新潟市を訪れたとき必ず内野の鶴の友・樋木酒造に行き樋木尚一郎社長のお話を伺い始めた時期と重なります。

規模を拡大し新たに全国の需要を取りに出ようとする蔵と、頑なに地元の地酒としての生き方にこだわる、対照的なふたつの蔵を同時に見ることが出来るという当時の私にとっては“けっこう辛い立場”に立っていました。

私の住む北関東では「太陽は海から昇り、山に沈みます」が新潟市では「太陽は山から登り、海に沈みます」-------同じものを見ても見ている立場によって正反対に目に映ります。
この例えのように、久保田の発売と第二の創業への見方は、朝日酒造の皆様と
鶴の友・樋木尚一郎社長とは真逆のものでした。
私は久保田を最前線で全力で販売しながらも、鶴の友・樋木尚一郎社長の判断・予言を含んだお話を、どうしても無視することが出来なかったのです。

私は鶴の友・樋木尚一郎社長の影響を強く受けている人間だと自覚していますが、約三十年がたった今それを抜きにして客観的見ても、鶴の友・樋木尚一郎社長の判断と予言は当たっていたと思わざるを得ません。
久保田の発売が越乃寒梅や八海山の増産意欲に火を点け、現在その三銘柄はおのおのナショナルブランド(NB)である剣菱を上回る販売数量を持ち、三銘柄合計の販売金額は月桂冠に迫っていると思われます。

三銘柄の現在の販売数量は、地酒あるいは地方銘醸蔵の枠をはるかに超えていてむしろ中位のNBをも上回る規模です。
一方、新潟県の酒蔵の数は三十年前の三分の二以下になっており今後休廃業する蔵はさらに増えてゆくと思われます。

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約三十年前、平沢亨社長(当時)が実現した「朝日酒造の第二の創業」は、長い間、平沢亨社長(当時)の造り上げた“見えない遺産”に包まれて順調に発展してきました。
十年ほど前ころからその“見えない遺産”が消え始め、むしろ“見えない負債”が目立ち始めたように私個人には思え始めました。
ここ数年は“見えない負債”に包まれているように私個人は感じてきました。

三十年前と違い、灘・伏見の大手NBは一定の品質の酒の量産性に優れているだけではなく酒質の向上にも努力を積み重ねてきておりかつての“清酒風アルコール飲料”とは別物になっており、純米や吟醸のみならず生酛純米や生酛吟醸まで造っているNBの酒質レベルは、地方銘醸蔵の平均的酒質レベルに引けをとらない水準にあると思われます。
酒質を向上させただけではなく元々全国を相手にした“販売戦争(量販を含む)”を得意としているNBと、販売量を争う“がっぷり四つに組んだ戦い”をすることは朝日酒造にとって単に不利なだけではなく「すべてを失いかねないアウェーの戦い」となってしまいますが-------このままでは蔵が望まなくてもそうなることが避けられないと私には思えてならないのです。

私の個人的見解に過ぎませんが、私は7~8年前から朝日酒造が今後30年も朝日酒造であるためには自分達の得意のフィールドでサポーターの応援を受けれるホームの戦いに“回帰”すべきだと感じてきました。
換言すれば次の三十年を見据えた「第三の創業」が必要になってきていると思えてならないのです。
「第三の創業」のキイワードは拡大でもなければ発展でもなく、“回帰と適正”にならざるを得ません。
(自分達のホーム-------それは新潟県という地方の地方銘醸蔵として“戦い方”です)

  • 回帰→→新潟県という地方の地方銘醸蔵という原点への回帰
  • 適正→→新潟県という地方の地方銘醸蔵としての“適正な規模”

上記の回帰と適正は私の個人的見解にすぎませんが、現状からの“規模の縮小”を含むため朝日酒造に限らず実行することがきわめて難しい方針です。
もしこの「第三の創業」を断行できる人がいるとしたら(「第二の創業」
を成功させた)平沢亨元社長しか在り得ない--------私はそう感じてきたのですが“回帰と適正”は、単なる私の“夢物語風”の個人的見解に終わりそうです。

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長々と故平沢亨元社長 のことを書き続けてしまいましたが、吟醸会の100回目と同じように 「自分達が全力で走ってきた“時代”」にある種の深い感慨があるからかも知れません。
たぶん久保田の発売前後の状況を実際に体験された社員の方は朝日酒造内部であってもきわめて少なくなっているのでは-------そう感じられます。

超名門企業として人気があり就職するのが超難関のアサヒビールの社員の方で、取引先の問屋や酒販店で「“夕日ビール”と揶揄されたり、帰れと怒鳴られ塩を撒かれた」--------というような苦杯を味わう体験を実際に経験した社員がまったくと言っていいほど居なくなったアサヒビールにとって、スーパードライ発売以前の“苦難の時代”は実感の持ちにくい“歴史”になっているように私には感じられます。
朝日酒造の“第二の創業”を体現している久保田の発売の時代は、その発売に至る経緯を含めてアサヒビール同様に、内部の人にとっても実感の持ちにくい“歴史”になりつつある---------平沢亨元社長が亡くなられたことがさらにそれを加速させると私には思えてならないのです。

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二十歳代前半という若い時期に新潟淡麗辛口がメインの“日本酒の世界”に入ったときから「対極にあるものを同時に見れる」という“運”に私は恵まれてきました。

「〆張鶴と八海山」、「新潟淡麗辛口と生酛」、「早福酒食品店・早福岩男さんと甲州屋酒店・児玉光久さん」、「鶴の友・樋木酒造と久保田(朝日山)・朝日酒造」-----------立場や考え方の違う人や“現場”を同時に知ることで私は早い時期から
「たとえおそまつで能天気であっても、自分自身の感じ方を自分の言葉で素直に話す訓練」をさせていただけたと感謝しています。

このブログの中のすべての記事に書いたことも、自分が体験したことや直接知りえたことがほとんどですが、“行間を読んでもらう”書き方しかできなかった部分も含め私なりに正直に素直に書いてきたつもりです--------そしてその原動力はある種の“違和感”です。

新潟淡麗辛口を批判するにせよ持ち上げるにせよはたして全体を見渡した偏りの無い視点でそう主張されているのか、新潟淡麗辛口の全盛期に消えかけていた生酛を昭和五十年代半ばから生酛本醸造・純米、生酛大吟醸を次々に世に送り出し生酛造りを甦らせた故伊藤勝次杜氏の“仕事”を知ったうえで“現在の生酛”は語られているのか、山廃と速醸はどちらも生酛の“簡易型であり改良型”でその登場時期(明治時代)が一年しか違わないことを理解されて山廃を語られているのか、“囲い込みと仕掛け”で自分達の日本酒のみを良しとする一部の蔵や一部の酒販店はごくふつうの庶民の酒飲み(大多数を占めるエンドユーザーの消費者)を幸せにしているのか、日本酒全体に良い影響をもたらしているのか---------私はこのような“違和感”を十数年感じてきたのです。

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昭和五十年代~昭和の終わりにかけて酒蔵と酒販店そしてエンドユーザーの消費者の“距離”は、現在と比べると、きわめて近かったような気がします。
日本酒を売ろうとする酒販店は、その売る酒を造ってくれる酒蔵とその酒を買ってくれるエンドユーザーの消費者が存在しなければ成立しない業態-------その単純な事実への“認識”が現在の酒販店には薄れているのではないかという危惧が私自身には強く存在しています。

「日本酒を売ろうとする酒販店は、酒蔵とエンドユーザーの消費者の間をつなぐインターフェイスのような存在」--------私は比較的早い時期からそう感じざるを得ない体験をしてきました。
「エンドユーザーの消費者の要望を酒蔵の方が“分かる言葉に翻訳”して伝え、酒蔵のやってきたこと・やろうとしていることをエンドユーザーの消費者が“分かる言葉に翻訳”して伝える------それが酒販店の役割だと私は感じてきたのです。
そしてその役割を果たすためには「日本酒の造り(酒販店の立場で必要な範囲での)勉強とエンドユーザーの消費者の視点を忘れない“環境”」が必要不可欠だったのです。

私は運が良く、上記の二つの不可欠な要素を早い時期から与えられてきました。
私は新潟の酒蔵の人が大好きで、酒を造る現場を見るのも話を伺うのも大好きで足しげく蔵を訪れて自分の分からないことを素直に聞ける状況にありましたし、地元ではある意味でボロクソと言えるほど辛らつで率直な評価を私に対してぶつけてくる“吟醸会の仲間”がいたからです。
そしてその二つの不可欠な要素が一番うまく機能したのが、伊藤勝次杜氏の生酛本醸造・純米の発売のときだったように思えます。

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伊藤勝次杜氏のいた蔵とは私の実家(酒販店)は取引がありましたが、新潟淡麗辛口 に出会うまでは、生酛一筋の伊藤勝次杜氏の凄さに私はまったく気づいてはいませんでした。
かなりの量の生酛を造りながら生酛単体の発売が無かったため数年に亘って蔵と「単体で出すべき」との激しい交渉の結果、ようやく発売する方向になったのですが私は“ある種の責任”を背負うことになったのです。
(このあたりの詳しい経緯は日本酒雑感シリーズの記事の中に書いてあります)
単純に言ってしまうと、「渋る蔵を説得して発売に漕ぎ着けた以上、出した生酛がエンドユーザーの消費者に評価してもらえるものにする」------------という“責任”だったのです。
私は当然ながら伊藤勝次杜氏の生酛の凄さを十分理解していましたが
飲んで貰えないことにはその凄さを理解して貰えないことも痛感していました。

新潟淡麗辛口全盛の昭和五十年代半ばにおいては、たとえ生酛だったとして
も「冷で飲んだとき淡麗辛口に近い“切れ”」が必須であることを、自分と同世代のエンドユーザーの消費者との“日常的な接触”の中で私は肌の感覚で感じていました。
おそまつで能天気で未熟な若造の私なりに「伊藤勝次杜氏に分かる言葉に
翻訳して」そのことを伝えることが必要になったのです。

伊藤勝次杜氏が「翻訳して伝えた内容」を実現した生酛を造れることに私は何の疑問も持っていなかったのですが、能天気で未熟な若造の“提案”を生酛一筋の南部杜氏の長老が受け入れてくれるかどうかが大きな心配だったの
ですが驚くべきことに伊藤勝次杜氏は、「伊藤勝次杜氏に分かる言葉に翻訳
した要望」のすべてを受け入れてくれたのです。
このときの伊藤勝次杜氏の様子を私は今でもよく覚えていますし感謝の気持ちも忘れられないでいるのです。

「重くてごつくて冷で飲むには厳しく、燗をしてようやく飲みやすくなる生酛」ではなく、「冷で飲んでも(新潟淡麗よりふくらみとまるみがあったとしても)くどさを感じない“切れ”があり、熱燗になっても生酛本来の“強さ”がふくらみとまるみを支える“分厚い基礎”となり本来の味が絶対に崩れない生酛」-----------それが平成8酒造年度(伊藤勝次杜氏が亡くなる)まで造り続けられた「伊藤勝次杜氏の生酛」なのです。
生酛で造られたという“頭で酒を飲む”人達も満足させながら、新潟淡麗辛口を飲んでる人達にも飲んで貰える“切れ”を持つ--------重さやくどさを嫌う若い人達にも飲んでもらえるように意図的に造り出された酒質--------それが伊藤勝次杜氏の生酛だったのです。

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最初の伊藤勝次杜氏の生酛は1500本の本醸造でした
伊藤勝次杜氏の“仕事への正当な評価”をしてもらうためには、福島県外に割り当てられた本数をどう使うべきか---------私はきわめて単純に考えていました、
伊藤勝次杜氏の生酛の“凄さが分かる人”に売ってもらえばいいと。

東京池袋の甲州屋酒店店主児玉光久さんは、私が八海山の南雲浩さんに紹介され店にお邪魔したときから“地酒屋”として有名な存在でしたが、後輩には優しく親切な方でした。
その児玉さんに一度だけ“手助け”をお願いをしたのが伊藤勝次杜氏の生酛の発売のときだったのです。
児玉さんのような酒に詳しい人ほど、生酛らしさを内在させながらも淡麗辛口や吟醸系の日本酒を飲んでいる人にも飲んで貰える(従来の生酛では考えられない)高い酒質と価格の安さ---------コストパフォーマンスの高さをすぐに理解して評価してもらえたからです。

1500本の生酛本醸造は(児玉さんの応援の効果もあり)想定していた以上の評価と反響を生み、本醸造の本数の拡大、純米、大吟醸の発売へと突き進むことになり、1500本を発売するまでの“数年間の激しい交渉”はいったい何だったのだろうと苦笑する結果となったのです--------------。

平成8年の晩秋にお亡くなりになるまで伊藤勝次杜氏(その以前に製造部長専任になり長年コンビを組んでいた金田一政吉氏が杜氏として後を就いていましたが平成9年に後を追うようにお亡くなりになりました)は、量を拡大させながらも生酛の酒質を前進させ続けていました。
現在伊藤勝次杜氏の生酛は、残念ながら、飲んだ人の記憶の中にしか存在しない“幻の酒”になっています----------生酛一筋に生きた“職人の年季の入った技”が造り上げた“芸術品のような生酛”は、本当に残念なことなのですが伊藤勝次杜氏以外には造れないのかも知れません。

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伊藤勝次杜氏が“芸術品”と言えるほどにその酒質を高めた、伊藤勝次杜氏の生酛はもっともっと評価されてしかるべき---------と私は長年に亘って感じ続けています。
やや大袈裟に言うと 、昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛が登場していなければ生酛の技術は“博物館”に入ってしまい 現在に引き継がれていなかった可能性が大きかったと思えるのです--------少なくてもNBの松竹梅が生酛を造り販売する状況にはならなかったと思えるのです。

長々と伊藤勝次杜氏の生酛の話を書いてきたのは、自分の功を誇るためでも伊藤勝次杜氏がいた酒蔵の現在を批判するためでもありません。
昭和五十年代~昭和の終わりにかけて酒蔵と酒販店そしてエンドユーザーの消費者の“距離”は、現在と比べると、きわめて近かったということを言いたいがためです。

おそまつで能天気な未熟な若造の、自分が長年心血を注いできた”仕事”を否定されたと受け取られかねない“提案”を真剣に受け止めてくれたところに、実は伊藤勝次杜氏の“本当の凄さ”があると今でも私は痛感していますが、当時は蔵や杜氏に(その酒や蔵に愛情があるのが前提でしたが)自由な意見をぶつけられる雰囲気がありました。
もちろん意見をぶつける側も“それなりの実際の酒の勉強”と意見の“客観的な裏づけ”が必須でしたが、酒蔵の側も酒販店からの視点でエンドユーザーの消費者の要望を汲み取っていこうという意識があったと思われるのです--------そしてそれを可能にした“人間関係”が当時は存在していたのですが、残念ながら現在はそんな関係は薄れているようです。
酒蔵や酒販店が“自分達の立場”をバラバラに整合性などまるで無い主張をお互いにぶつけ合っていて、プロダクトアウトのみの発想や“囲い込みや仕掛け”を背負った(大多数のエンドユーザーの消費者の存在を気にもしない)日本酒業界が、昭和五十年代~平成の初めに比べ大きく支持を減らしているのは当然過ぎるほど当然の結果だと私個人には思われてならないのです。

私自身の個人的見解に過ぎませんが、現在の日本酒を中心に売ろうとしている酒販店は昭和五十年代~昭和の終わりの時代の酒販店に比べ、日本酒に対する“愛情”が少ないように思えます--------自分達が売る酒を造ってくれる酒蔵に対する強い愛情があるとは思えないし、小遣いをやりくりして1本、2本と買ってくれるエンドユーザーの消費者(ごくふつうの酒飲み)を大切にしているとは思えないのです。

新潟淡麗辛口を中心とした地方銘酒の復権と拡大を支えてきたのは、私の年齢±5歳の世代だと思われます。
この世代は、たぶん、酒の飲み方・楽しみ方を兄貴分や叔父貴にあたる世代に直接教えてもらうことができた“最後の世代”です。
日本酒にとって“最大の分厚いサポーター”のこの世代も+5歳の方は完全に現役を離れているし、-5歳の方も定年が近づいているし健康診断で二次検診を言い渡されることが多くなる -----------少しずつ少しずつ日本酒を飲む機会と量が減ってきているのです。
減ったといってもこの世代の層が分厚いため“極端な数字の低下”にはつながっていないのですが、残念ながらこのままで推移すると7~8年後この世代の需要は極端に低下するだろと思われます--------そしてこの時期が日本酒にとって「博物館に入る方向へ向うかどうかの分水嶺」になるだろうとも思われるのです。

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私の息子は幼児のころから盆暮れに届く100本前後の日本酒と冬に届く大量の酒粕に慣れ親しんでおり、小学3年のとき鶴の友に一緒に行き鶴の友・樋木尚一郎社長に蔵の隅々まできちんと案内して頂いた貴重な経験もあるため、日本酒がある生活が自然であり「いろいろ飲んでもやはり日本酒が一番美味い」と言っていますが---------飲む機会の多い大学のサークルの仲間の中でも日本酒支持派は少数のようです。

日本酒の面白さや楽しさを知るためにはそれを知りごく自然に体験出来る“機会”が必要なのですが、学生はおろか20~30歳代の人達にも(残念ながら現在では)そんな機会はほとんどないのです。
日本酒の本当の面白さと楽しさは、生酛や速醸のような酛の違いや純米や大吟醸のような造られ方の違いのような“頭で飲むための知識の中”にはあまり無いと私個人は感じてきました。
日本酒の本当の魅力は和食とともにあるときに発揮されます-------日本酒の間口の広さと奥行きの深さは食べ物と一緒のときに実感されるのです。

日本酒の面白さと楽しさは、知識や能書きではなく、自分の実体験を自分の言葉で話すこと以外には他の人には伝わりません。
そして自分自身が面白い、楽しいと思ってなければ伝わらないのです。
そして現在は昭和五十年代~昭和の終わりの時代に比べ、日本酒はエンドユーザーの消費者にとって「分かりにくく親しみにくい存在」になりつつあり、“焼酎の敵失”に助けられてやや数字が上がったとしても、けして“長期低落傾向”が止まった訳ではないのです。
それゆえ酒蔵や酒販店が日本酒の面白さや楽しさを「地道にコツコツとしぶとく」エンドユーザーの消費者に伝えていく"作業”が絶対的に必要なのですが、蔵も酒販店も向いている方向も距離も、エンドユーザーの消費者から遠ざかっているとしか私には思えないのです。

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吟醸会が三十数年続き100回目をを迎えられたのは、単純に「面白くて楽しい」かったからです。
美味い料理を美味い日本酒で楽しむ-------目的はそれだけだったのですが、
より面白くより楽しくしようという"遊びに対する情熱”がここまで続いた理由なのかも知れません。
吟醸会が始まった頃(昭和五十年代半ば)は、新潟淡麗辛口を始め地方銘酒はエンドユーザーの消費者にとって、きわめて分かりやすく明快な存在でした。
大手NBの酒→→大量生産、低品質、清酒風アルコール飲料
地方銘酒→→手造り少量生産、高品質、伝統を受け継ぐ本来の日本酒
(多少乱暴なくくりですが、そんな感じに受け止められていました)
しかし現在は、当然ながら上記のような状況にはありません。

私の年齢±5歳の世代が酒飲みとしての現役を去る7~8年後までに、酒蔵も酒販店も「ご自分の年齢±5歳の世代」に何らかの方法・手段で「日本酒は面白くて楽しいもの」ということを伝えていかない限り、「博物館入りに一歩近づいてしまう」と私個人は危惧せざるを得ないのです。

「遊びは”無駄の塊”だ。だから”遊び”に効率や利害や損得は存在しない。でも、仕事や私生活では残念ながら皆んな利害や損得、効率に追われてまくっている。だから日常の中にほんの一部でいいから”無駄の塊”の遊びが欲しいと思っているんだ。ほんのひととき”無駄の塊”の遊びに熱中してほっとしたいんだ。Nよ、酒は庶民の楽しみの”遊び”のひとつだろう。お前の言うとうり、新潟淡麗辛口は本当に凄いものだとしてもお前の”つまらない講義”を聞いて飲みたいとは俺は思わない。今まで俺が飲んできた酒より新潟の酒が面白くて楽しいというなら、それを皆んなに見える形で見せてみろ。Nよ、お前がそれをやると言うなら俺もテルも手助けはするよ」------G来会長にこう言われた私は、どうしたら楽しいと思ってもらえるか、どうやったらより面白いかを考えながら「吟醸会」に参加していたのですが、いつの間にか、酒のことを”自分の言葉”で話すのが、酒の周囲(料理や器など)のことも”自分の好み”を話すのが、大好きになっている自分自身に気がついたのです。 そして専門用語をほとんど使わない私のほうが、専門用語の”羅列”しか語れなかった以前の私よりも、酒の面白さと楽しさを分かってもらえている事にも気がついたのです。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20080224

上記は、鶴の友について-2--番外編(吟醸会)からの引用で、私が二十歳代後半に、吟醸会・五来稔光会長に言われた言葉です。
「五来稔光会長流の“遊び”」が、私は現在でもエンドユーザーの消費者にとって
「日本酒の面白さと楽しさ」に親しんでファンになってもらえる“一番の近道”
だと思っているのですが、長い付き合いがある後輩の酒販店にさえなかなか
理解してもらえません。
きわめてうろんで即効性のない効率の悪い、酒販店の実情に合わない方法だと思われているのでしょうが、遠回りに見えても一番の近道だと私自身は確信しています。

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面白くて楽しいのが“遊びの本質”であるなら、日本酒単体だけではなく和食や器
そして日本酒が受け継がれてきた歴史をも入れ込んだ“遊び”のほうが、より面白くより楽しいはずです。
国公立の美術館や博物館に展示されているものだけが、私達が受け継いできた“文化”ではありません。
目立たないしささやかかも知れませんが、身近なところに受け継いだ“文化”は存在しています。
私自身は酒蔵、特に鶴の友・樋木酒造の中でごく普通の庶民によって受け継がれてきた「遊び心の塊りという意味での“文化”」の一端に触れさせていただきました。
その“文化”はけして堅苦しいものでも難解でもなく高踏的でもなくスノッブでもなく権威を誇るものでもなく、日本酒も器も和食もひとつになった“面白くて楽しい”飽きることのない興味深いものだったのです。
残念なことなのですが、この世界的にも稀なこの“文化”の魅力と貴重さを日本人より外国の人(たとえ一部の人であっても)のほうが高く評価しているという皮肉な現実があります。

日本酒を売っていこうとする酒販店にとって上記の“文化”は、他のアルコール飲料に対しての絶対的アドバンテージなのですが、日本酒にとっては幹や根に当たる“大切な文化”でなく枝葉のような部分に戦力を投入している--------私個人にはそう思えてならないのです。

その日本酒が美味いか不味いか、良いか良くないかを決めるのは最終的にお金を出して買うエンドユーザーの消費者だと、私自身は昭和五十年代前半からそう強く感じてきましたが、その“考え方”は自分達の造る酒をエンドユーザーの消費者に押し付けてきたNBに地方銘酒側が突きつけた“アンチテーゼ”だったのですが、三十数年を経った今ブーメランのようにエンドユーザーの消費者から地方銘酒側に突きつけられていると私個人は強い危惧を感じているのです。
むしろ三十数年前の“手痛い失敗”から学んだNBのほうが、まだしもふつうの庶民の酒飲みである(サイレントマジョリティの)エンドユーザーの消費者に顔を向けている思わざるを得ないのです-------------。


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もっと短く時間も掛けずに書こうと思って5月に書き始めたのですが、7月下旬になっても書き終わらない“長い記事”になってしまいました。
今回は吟醸会が100回目を迎えたことのみを書いて終わる予定だったのですが、平沢亨元朝日酒造社長の訃報を知り私なりの印象も書いてから記事をアップすることに予定を変更しました。
すると次から次に昭和五十年代前半~昭和の終わりの時期の出来事が甦りこの“長い記事”を書くことになってしまったのです。

過去の記事にも書いた内容がほとんどですが、区切りを迎えたためもあり以前の記事よりほんの少しですが“踏み込んだ内容”になっているかも知れません。
この記事で書いている私の“違和感”は、新潟淡麗辛口や地方銘酒にとって
黄金の日々(昭和五十年代前半~平成の初め)を実際に体験した感覚で平成十年代~現在の酒造・酒販の日本酒業界を見ているからかも知れません。

現在の日本酒業界の方から見ると私の感覚のほうが“異常”なのかも知れませんが、現在の酒造・酒販の日本酒業界が力を傾けている方向には「面白くて楽しいという日本酒本来の魅力」が乏しいように私自身には思えてならないのです。

周囲の人間からも言われるのですが、思い上がりかも知れませんが、私自身ももし現在の私が酒販店の店主に復帰したら以前の私より、比較にならないほどエンドユーザーの消費者にお役に立ち喜んでもらえる酒販店の店主になれるような気がしています。
現在の“会社員の趣味”の範囲であっても、「日本酒は面白くて楽しい」と思ってもらえる“薄からぬ層”の日本酒のファンが私の周囲には存在していますが、私自身の“時間の制約”もあり直接対応できるのは数十人が限界なのです。
しかしもし酒販店の店主に復帰した場合は、「日本酒は面白くて楽しい」と思ってもらえる日本酒のファンを数百人規模までは拡大できるのではないか--------そのような思いも私の中ではゼロではないのです。

たぶん業界に復帰したいという気持は私の中に常にあったと思われるのですが、妻と子供という家族のことを考えると現実的には難しいという判断も常にあったように思われます。
現在大学四年の息子は、来年の四月には新社会人として巣立ちます。
良い父親であったかどうかには自信はまるで持てませんが、父親としての最低限の責任は果たせたとその時に思えるような気がします。
そしてその時以後は、現実的に難しいとして“却下”せざるを得なかった方向の実現に向けての第一歩を私は踏み出すべきなのか----------そのような思いに揺れる今日この頃なのです----------------。