博物館
嶋悌司先生が、「酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」と言われたことがあります。
かつて日本酒という日本の文化を体現している伝統的な飲み物がありました。これはその貴重な現物ですので、手を触れないようにしてください-----このような ”説明文”付きで ”博物館”に展示してあるようになったら、それこそ ”お終い”ですが一部の蔵元や地酒専門店は ”博物館化”を志向しているように、私には思えてなりません。
”能”や”狂言”は日本の誇る伝統芸だし文化ですが、(”博物館”に入っているとは私も思っていませんが)残念ながら ”庶民”にとって日常的で身近とは言えない存在です。
「今週は五日見たから、今日は休む」と言うほど見ている人も周囲にはいないし、「テレビでたまに中継しているのは知っているけれど、難しそうだし興味も無いし自分にはどちらにしても関係ない」-----これが ”庶民”の平均的反応だと思われますが、活字マスコミやネット上で語られる ”日本酒”は ”庶民の酒飲み”にとってこれに近い存在になりつつあるような気がしてなりません。
活字マスコミの ”日本酒の蔵特集”を読むと、日本酒の特集じゃなくて ”家元や宗家”の特集ではないかと思うときがあります。
”大吟醸流純米派家元”、”大吟醸流生酛派宗家”や”健康流無添加派”の話ばかりで、”酒は庶民の楽しみ”的部分はいったいどこにいってしまったのか-----それが私の率直な感想です。
また、”健康流無添加派”のはずの記者がワインの特集のときに、日本酒のアルコ-ル添加の ”罪”が「軽犯罪法違反」なら、”極刑”にあたいする ”重大な罪”の酸化防止剤の添加に、なぜ一言も触れないのかが私にとって解明不能な ”疑問”です。(ちなみに私は、日本酒のアルコ-ル添加自体は ”罪”とは思っていません)
糖類を添加せざるを得ない大量のアルコ-ル添加は ”大罪”ですが、本醸造の規格内の適度なアルコ-ル添加は、むしろ酒質を向上させ酒質の保存という点でもきわめて高い効果があります) もちろん私も、吟醸酒の魅力と価値は十分に分かっています。
この28年間で、ありがたいことに、本当に素晴らしい吟醸を見せていただいてきました。 昭和50年代の関信局の鑑評会で、春、秋連続で 「首席第1位」に輝いた ”淡麗辛口の極致”と言える ”水の如くさわりなく飲める”吟醸酒”の味を、私はいまだに忘れられないでいます。
しかし、残念ながら、このレベルの吟醸酒はきわめて少ないのです。
前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。
吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。
「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。
私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRXSTIを普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。
ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが----------。
また、40年以上も生酛を人知れずに造り続けた(平成元年にはその生酛で仕込んだ量は、約4000石という気の遠くなる量に達していました)、平成8年に亡くなられた南部杜氏の長老 ”IK杜氏”の”遺言のような、平成元年に発売された、「純米生酛大吟醸生酒」も私は忘れることができません。
たしか、四合びんで150本ほどの発売で、1本1本にナンバ-が打たれていました。 私には6本が割り当てられたと記憶していますが、私は1本も販売しませんでした。
「吟醸会」の仲間達と飲んだり、店での試飲にそのすべてを費やしました。 この酒は私が独り占めしてはいけないと感じたからです-----そう感じざるを得ない事情がその以前にあったのです。
「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。
人知れず ”IK杜氏”は、速醸酛で造った酒に ”厚みと安定感”を与えるブレンド用として生酛を造り続け、伝統を受け継いできました。
その生酛があまりに惜しく、「生酛を単体の本醸造として出して欲しい」と蔵のT営業部長と ”激しい交渉”を2年越しで行いました。
ようやく1500本の生酛が出ることになったとき、そのスム-ズなデビュ-を促すため、最初で最後の1回限りの ”お願い”を池袋のK店主にしました。
「吟醸じゃないけどあれだけ美味くて、価格も安いから皆大歓迎だよ」と心良く引き受けてくれたK店主のおかげで、生酛は「M会」の主力メンバ-の店頭に並ぶことになったのですが、K店主達の好意を ”逆なで”するような ”状況”が生じ、私は困り果てました。 この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。
それは、「純米で生酛を造って欲しい。ス-パ-ドライを見て分かるように、残念ながら酒としていくら凄くても、”切れ”が悪ければ評価されず飲んでもらえない。純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。
その純米の生酛は素晴らしい酒でした。
純米で造った生酛の市販酒でこれほど ”凄い”ものは現在に至るまで見たことがありません。
”素養”に欠けた私でも、自分が受け継ぎ自分が改良を加え確立してきた ”生酛”にかなりの ”変更”を ”IK杜氏”が行ったことが感じとれました。
酛には一ヶ月以上かかるが醪は高温で短い造り方を見直し、醪を低温で長く引っ張り酒を造っていると言うより ”粕”を造っているという造りを前提に、その中で酵母がよく働くと同時に ”働き過ぎない”ように酛を変更する-----それは、蒸し、製麹の変更も含み、どうしても変えられないもの以外は ”ぶち壊した”ことを意味していました。
生酛が ”家元”でもなく、”宗家”でもなく、「博物館入り」していない、身近にある ”庶民の楽しみ”であることを ”IK杜氏”は証明してくれたのです。
「純米生酛大吟醸生酒」は、その延長上の ”究極の生酛”でした。 それゆえ、私は一人でも多くの人に味わってもらいたかったのです。(”IK杜氏”の生酛は、飲んだ人間の”記憶”の中だけにしか存在しない”本当の幻の酒”になってしまいました)
活字マスコミやネット上で、その”中味”が「博物館入り」しているかどうかではなく、まるで ”絶滅危惧種”の動物のように、”造り方”にのみ関心が集まる現状を見て、どのような”感想”を持ったのか、”天国にいるIK杜氏”にぜひ聞いてみたいと私は思っています。
上記は、私が2005年8月に書いた”日本酒エリアN”の最初の記事の、
「長いブログのスタートです」の一部です。
( http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html)
生酛や山廃の、生酛系の絞ったばかりの”ふなぐち”を、飲んだことがある人はあまりいないと思われます。
たぶん、その”ふなぐち”を飲まれたら、舌がしびれるような”ビリビリしたごつい味”に、
「かんべんしてよ----」と弱音を吐くか、二度と飲もうと思わなくなるのかの、どちらかなのではないでしょうか。
しかしその”同じ酒”が、熟成期間を経て秋になると、不思議なことにきわめて丸くやわらかくなります。
その”丸みややわらかさ”は、新潟淡麗辛口と対照的なものです。
ごつくて硬い長い岩を、やすりとサンドペーパーで長い時間をかけて削って磨いて造った”柱”が感じさせるような、滑らかで存在感のある”丸みとやわらかさ”なのです。
味の幅もあり、厚みもありますが、”切れが良い”ので重さやくどさはまるで感じず、ましてや荒さやごつさもまったく残っておらず、”丸くてやわらかい”としか言いようのない酒-------もちろんひやでも美味く、冷やしても美味く、熱めの燗にすると”丸みややわらかさ”に包まれていた”強いもの”が現れ、”丸みややわらかさ”を強固に支え崩さない-------それが私を強く引き付けた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なのです。
日本酒雑感--NO3の続き
私は、「生酛単体の発売」を目指して動き始めました。
伊藤勝次杜氏のいた蔵の営業で、私の店の担当だったS課長を通じて”要望”を蔵に出しました。
直接話しをしている時間も長く、國権の存在を教えてくれたS課長は、この”提案”に好意的だったように感じたのですが、S課長を介してもたらされた返事は、「慇懃ではあるが無礼ではない拒絶」でした。
「これで諦めるようなら”要望”など最初から出しません」------再度S課長に、なぜ”生酛”の単体での発売が必要かを、”慇懃丁寧”に、しかししぶとく説得し、蔵に伝えていただくよう依頼しました。
S課長が月に1~2度私の店に来店されるたびに、この”行事”は繰り返されたのです。
今思うと、S課長も私と会社(蔵)の”板ばさみ”の立場にあり、できることなら私の店には立ち寄りたくなかったのではないでしょうか。
S課長は最後まで”意図的に”立ち寄ることを”回避”することはありませんでした。
それが”仕事”だからだけではなく、自社の杜氏だからだけでもない、伊藤勝次杜氏の”仕事”へのリスペクトの思いが”回避”させなかった------今の私にはそう思われます。
S課長ご自身にとっても、蔵にとっても、私の店は長い付き合いがあるにせよ”販売数量”は多くなく、取引を失っても”痛くも痒くもない”程度の取引先でしかありませんでした。
しかしS課長は福島県外をも担当するという”営業職の特性”のため、この蔵の皆さんの”平均”より広い”視野”を持っておられました。
その”視野”が私に國権の存在を教えてくれたのですが、そのポテンシャルからすればまだまだ起こす”波紋”が小さかったため、東北の蔵の方々が「できるだけその影響を弱く見たい」と思われていた新潟淡麗辛口の”可能性の大きさ”をも、S課長の”視野”は捉えていました。
自他共に認める”苦戦”の中にありながら、新潟淡麗辛口の”将来”には何の疑問も待たない私の”動き”から、新潟淡麗辛口の潜在能力と影響力の”巨大さ”をも、S課長の”視野”は捉えていたはずです。
近い将来、S課長の蔵の”営業成績”に多大な影響を与えかねない新潟淡麗辛口の”攻勢”に、自らに残された有効に対処できる”武器”は、伊藤勝次杜氏の”生酛”しかないことも、S課長には見えていたはずです。
結果から振り返ると、この時期このような”視野”をS課長が持ちえたことは、伊藤勝次杜氏と蔵にとって大きなプラスでした。
もし”生酛”の発売が3~4年遅れていたら、久保田の発売が”起爆剤”となった新潟淡麗辛口の”大攻勢”の中で、生酛も純米生酛もその魅力を”市場”で発揮できずに埋没したと思われるからです。
このタイミングだったからこそ”大攻勢”に耐えうる基盤を”市場”に造り出す時間を、伊藤勝次杜氏の”生酛”は持つことができたのです。
会社員となって16年になる今の私には、当時は見えなかった、このときのS課長の”苦しみ”がよく分かります。
当時の私の店の”方向”からいって、”生酛”が発売されたとしてもプラスはあまり無く、”要望”を自分のために出し続けてるわけではないことは、S課長も十分に分かっておられました。
そして私の”要望”が、蔵ご自身の感じ方がどうであれ、”市場”から「手堅いが平凡な県内の量産メーカー」と思われていた”評価”を大きく変える可能性を持つ、蔵にとって「得はあっても損のまったく無い提案」であったことも、S課長は十分に理解されていました。
しかしそのS課長の”感覚”は、蔵の上層部の”理解”を得られないものでした。
上層部の”理解”の得れない”要望”を再三に亘って上げ続けることは、”組織の一員”としては大きな”リスク”を抱えることに他なりません。
最悪の場合、上層部の”不興を買って”それが自分の身に及ぶことを覚悟せざるを得ません。
S課長が、”リスクの分散”を計りながらも”要望”を上げ続けた最大の理由は、伊藤勝次杜氏のお人柄をも含めたその”仕事”への、S課長の親しみと尊敬の気持だったと私は思っています。
私もS課長も、置かれた立場も見えている状況もまったく違いましたが、伊藤勝次杜氏を始め蔵人の皆さんの”思いとご苦労”の詰まった”生酛”を、エンドユーザーの消費者に理解し評価してもらいたい-------その一点では一致していたと思えるのです。
私はS課長との”長い交渉”から、さらに前に自分自身が進まない限り”要望”の実現が難しいことを感じていました。
予想以上に硬い”上層部の壁”を、たとえ私が前にさらに前に進んだとしても”突破”できるとは私自身もとうてい思えませんでしたが、次のステップ(S課長のすぐ上の”上層部”)へ進まなければ”要望”の実現の可能性がゼロである以上、前に進まざるを得なかったのです。
日本酒雑感--NO5に続く