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日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

日本酒雑感--NO4

2008-08-27 17:33:22 | 日本酒雑感

博物館

20057_007_3

嶋悌司先生が、「酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」と言われたことがあります。
 かつて日本酒という日本の文化を体現している伝統的な飲み物がありました。これはその貴重な現物ですので、手を触れないようにしてください-----このような ”説明文”付きで ”博物館”に展示してあるようになったら、それこそ ”お終い”ですが一部の蔵元や地酒専門店は ”博物館化”を志向しているように、私には思えてなりません。
 ”能”や”狂言”は日本の誇る伝統芸だし文化ですが、(”博物館”に入っているとは私も思っていませんが)残念ながら ”庶民”にとって日常的で身近とは言えない存在です。
「今週は五日見たから、今日は休む」と言うほど見ている人も周囲にはいないし、「テレビでたまに中継しているのは知っているけれど、難しそうだし興味も無いし自分にはどちらにしても関係ない」-----これが ”庶民”の平均的反応だと思われますが、活字マスコミやネット上で語られる ”日本酒”は ”庶民の酒飲み”にとってこれに近い存在になりつつあるような気がしてなりません。

活字マスコミの ”日本酒の蔵特集”を読むと、日本酒の特集じゃなくて ”家元や宗家”の特集ではないかと思うときがあります。
”大吟醸流純米派家元”、”大吟醸流生酛派宗家”や”健康流無添加派”の話ばかりで、”酒は庶民の楽しみ”的部分はいったいどこにいってしまったのか-----それが私の率直な感想です。
また、”健康流無添加派”のはずの記者がワインの特集のときに、日本酒のアルコ-ル添加の ”罪”が「軽犯罪法違反」なら、”極刑”にあたいする ”重大な罪”の酸化防止剤の添加に、なぜ一言も触れないのかが私にとって解明不能な ”疑問”です。(ちなみに私は、日本酒のアルコ-ル添加自体は ”罪”とは思っていません)
糖類を添加せざるを得ない大量のアルコ-ル添加は ”大罪”ですが、本醸造の規格内の適度なアルコ-ル添加は、むしろ酒質を向上させ酒質の保存という点でもきわめて高い効果があります)  もちろん私も、吟醸酒の魅力と価値は十分に分かっています。
この28年間で、ありがたいことに、本当に素晴らしい吟醸を見せていただいてきました。 昭和50年代の関信局の鑑評会で、春、秋連続で 「首席第1位」に輝いた ”淡麗辛口の極致”と言える ”水の如くさわりなく飲める”吟醸酒”の味を、私はいまだに忘れられないでいます。
しかし、残念ながら、このレベルの吟醸酒はきわめて少ないのです。

前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。
吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。
「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。
私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRXSTIを普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。
ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが----------。  

また、40年以上も生酛を人知れずに造り続けた(平成元年にはその生酛で仕込んだ量は、約4000石という気の遠くなる量に達していました)、平成8年に亡くなられた南部杜氏の長老 ”IK杜氏”の”遺言のような、平成元年に発売された、「純米生酛大吟醸生酒」も私は忘れることができません。
たしか、四合びんで150本ほどの発売で、1本1本にナンバ-が打たれていました。 私には6本が割り当てられたと記憶していますが、私は1本も販売しませんでした。
「吟醸会」の仲間達と飲んだり、店での試飲にそのすべてを費やしました。 この酒は私が独り占めしてはいけないと感じたからです-----そう感じざるを得ない事情がその以前にあったのです。

「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。

人知れず ”IK杜氏”は、速醸酛で造った酒に ”厚みと安定感”を与えるブレンド用として生酛を造り続け、伝統を受け継いできました。
その生酛があまりに惜しく、「生酛を単体の本醸造として出して欲しい」と蔵のT営業部長と ”激しい交渉”を2年越しで行いました。
ようやく1500本の生酛が出ることになったとき、そのスム-ズなデビュ-を促すため、最初で最後の1回限りの ”お願い”を池袋のK店主にしました。
「吟醸じゃないけどあれだけ美味くて、価格も安いから皆大歓迎だよ」と心良く引き受けてくれたK店主のおかげで、生酛は「M会」の主力メンバ-の店頭に並ぶことになったのですが、K店主達の好意を ”逆なで”するような ”状況”が生じ、私は困り果てました。 この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。

それは、「純米で生酛を造って欲しい。ス-パ-ドライを見て分かるように、残念ながら酒としていくら凄くても、”切れ”が悪ければ評価されず飲んでもらえない。純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。

その純米の生酛は素晴らしい酒でした。
純米で造った生酛の市販酒でこれほど ”凄い”ものは現在に至るまで見たことがありません。
”素養”に欠けた私でも、自分が受け継ぎ自分が改良を加え確立してきた ”生酛”にかなりの ”変更”を ”IK杜氏”が行ったことが感じとれました。
酛には一ヶ月以上かかるが醪は高温で短い造り方を見直し、醪を低温で長く引っ張り酒を造っていると言うより ”粕”を造っているという造りを前提に、その中で酵母がよく働くと同時に ”働き過ぎない”ように酛を変更する-----それは、蒸し、製麹の変更も含み、どうしても変えられないもの以外は ”ぶち壊した”ことを意味していました。
生酛が ”家元”でもなく、”宗家”でもなく、「博物館入り」していない、身近にある ”庶民の楽しみ”であることを ”IK杜氏”は証明してくれたのです。
「純米生酛大吟醸生酒」は、その延長上の ”究極の生酛”でした。 それゆえ、私は一人でも多くの人に味わってもらいたかったのです。(”IK杜氏”の生酛は、飲んだ人間の”記憶”の中だけにしか存在しない”本当の幻の酒”になってしまいました)

活字マスコミやネット上で、その”中味”が「博物館入り」しているかどうかではなく、まるで ”絶滅危惧種”の動物のように、”造り方”にのみ関心が集まる現状を見て、どのような”感想”を持ったのか、”天国にいるIK杜氏”にぜひ聞いてみたいと私は思っています。

上記は、私が2005年8月に書いた”日本酒エリアN”の最初の記事の、
「長いブログのスタートです」の一部です。
( http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

生酛や山廃の、生酛系の絞ったばかりの”ふなぐち”を、飲んだことがある人はあまりいないと思われます。
たぶん、その”ふなぐち”を飲まれたら、舌がしびれるような”ビリビリしたごつい味”に、
「かんべんしてよ----」と弱音を吐くか、二度と飲もうと思わなくなるのかの、どちらかなのではないでしょうか。
しかしその”同じ酒”が、熟成期間を経て秋になると、不思議なことにきわめて丸くやわらかくなります。
その”丸みややわらかさ”は、新潟淡麗辛口と対照的なものです。
ごつくて硬い長い岩を、やすりとサンドペーパーで長い時間をかけて削って磨いて造った”柱”が感じさせるような、滑らかで存在感のある”丸みとやわらかさ”なのです。
味の幅もあり、厚みもありますが、”切れが良い”ので重さやくどさはまるで感じず、ましてや荒さやごつさもまったく残っておらず、”丸くてやわらかい”としか言いようのない酒-------もちろんひやでも美味く、冷やしても美味く、熱めの燗にすると”丸みややわらかさ”に包まれていた”強いもの”が現れ、”丸みややわらかさ”を強固に支え崩さない-------それが私を強く引き付けた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なのです。

日本酒雑感--NO3の続き

私は、「生酛単体の発売」を目指して動き始めました。
伊藤勝次杜氏のいた蔵の営業で、私の店の担当だったS課長を通じて”要望”を蔵に出しました。
直接話しをしている時間も長く、國権の存在を教えてくれたS課長は、この”提案”に好意的だったように感じたのですが、S課長を介してもたらされた返事は、「慇懃ではあるが無礼ではない拒絶」でした。
「これで諦めるようなら”要望”など最初から出しません」------再度S課長に、なぜ”生酛”の単体での発売が必要かを、”慇懃丁寧”に、しかししぶとく説得し、蔵に伝えていただくよう依頼しました。
S課長が月に1~2度私の店に来店されるたびに、この”行事”は繰り返されたのです。

今思うと、S課長も私と会社(蔵)の”板ばさみ”の立場にあり、できることなら私の店には立ち寄りたくなかったのではないでしょうか。
S課長は最後まで”意図的に”立ち寄ることを”回避”することはありませんでした。
それが”仕事”だからだけではなく、自社の杜氏だからだけでもない、伊藤勝次杜氏の”仕事”へのリスペクトの思いが”回避”させなかった------今の私にはそう思われます。

S課長ご自身にとっても、蔵にとっても、私の店は長い付き合いがあるにせよ”販売数量”は多くなく、取引を失っても”痛くも痒くもない”程度の取引先でしかありませんでした。
しかしS課長は福島県外をも担当するという”営業職の特性”のため、この蔵の皆さんの”平均”より広い”視野”を持っておられました。
その”視野”が私に國権の存在を教えてくれたのですが、そのポテンシャルからすればまだまだ起こす”波紋”が小さかったため、東北の蔵の方々が「できるだけその影響を弱く見たい」と思われていた新潟淡麗辛口の”可能性の大きさ”をも、S課長の”視野”は捉えていました。
自他共に認める”苦戦”の中にありながら、新潟淡麗辛口の”将来”には何の疑問も待たない私の”動き”から、新潟淡麗辛口の潜在能力と影響力の”巨大さ”をも、S課長の”視野”は捉えていたはずです。
近い将来、S課長の蔵の”営業成績”に多大な影響を与えかねない新潟淡麗辛口の”攻勢”に、自らに残された有効に対処できる”武器”は、伊藤勝次杜氏の”生酛”しかないことも、S課長には見えていたはずです。
結果から振り返ると、この時期このような”視野”をS課長が持ちえたことは、伊藤勝次杜氏と蔵にとって大きなプラスでした。
もし”生酛”の発売が3~4年遅れていたら、久保田の発売が”起爆剤”となった新潟淡麗辛口の”大攻勢”の中で、生酛も純米生酛もその魅力を”市場”で発揮できずに埋没したと思われるからです。
このタイミングだったからこそ”大攻勢”に耐えうる基盤を”市場”に造り出す時間を、伊藤勝次杜氏の”生酛”は持つことができたのです。

会社員となって16年になる今の私には、当時は見えなかった、このときのS課長の”苦しみ”がよく分かります。
当時の私の店の”方向”からいって、”生酛”が発売されたとしてもプラスはあまり無く、”要望”を自分のために出し続けてるわけではないことは、S課長も十分に分かっておられました。
そして私の”要望”が、蔵ご自身の感じ方がどうであれ、”市場”から「手堅いが平凡な県内の量産メーカー」と思われていた”評価”を大きく変える可能性を持つ、蔵にとって「得はあっても損のまったく無い提案」であったことも、S課長は十分に理解されていました。
しかしそのS課長の”感覚”は、蔵の上層部の”理解”を得られないものでした。
上層部の”理解”の得れない”要望”を再三に亘って上げ続けることは、”組織の一員”としては大きな”リスク”を抱えることに他なりません。
最悪の場合、上層部の”不興を買って”それが自分の身に及ぶことを覚悟せざるを得ません。
S課長が、”リスクの分散”を計りながらも”要望”を上げ続けた最大の理由は、伊藤勝次杜氏のお人柄をも含めたその”仕事”への、S課長の親しみと尊敬の気持だったと私は思っています。
私もS課長も、置かれた立場も見えている状況もまったく違いましたが、伊藤勝次杜氏を始め蔵人の皆さんの”思いとご苦労”の詰まった”生酛”を、エンドユーザーの消費者に理解し評価してもらいたい-------その一点では一致していたと思えるのです。

私はS課長との”長い交渉”から、さらに前に自分自身が進まない限り”要望”の実現が難しいことを感じていました。
予想以上に硬い”上層部の壁”を、たとえ私が前にさらに前に進んだとしても”突破”できるとは私自身もとうてい思えませんでしたが、次のステップ(S課長のすぐ上の”上層部”)へ進まなければ”要望”の実現の可能性がゼロである以上、前に進まざるを得なかったのです。

日本酒雑感--NO5に続く


日本酒雑感--NO3

2008-08-20 12:11:00 | 日本酒雑感

伊藤勝次杜氏の醸し出した”生酛”について、私は何回も書かせていただいています。
たぶん、生酛系の酒に詳しい方なら伊藤勝次杜氏のいた蔵の名前は特定されているのではないかと思われます。
それにもかかわらず私が蔵の名前を”書かない”のには、それなりの”理由”があるからなのです。

私が伊藤杜氏の”生酛”を初めて知った昭和50年代前半、
伊藤杜氏の”生酛”は、「存在はしていましたが、存在しているとは言いがたい状況」にありました------そしてそれは、伊藤杜氏のいた蔵の方針でもありました。
その時期”生酛”に、日本酒業界にもエンドユーザーの側にも関心も興味もまったくと言っていいほど無い状況で、”生酛”に関心があった私は、「博物館の展示物のようなものが好きな変わった人間」と、その時期日本酒業界の人達には思われていたようです。
そのときから30年近い月日が流れ、”生酛”や山廃の生酛系の酒は当時と比較にならないほど認知され評価されています。
ナショナルブランド(NB)の灘、伏見の酒の品揃えにさえ山廃がある現在では、庶民の酒飲みのとっても生酛系の酒は「珍しくない存在」になっています。
それは私にとっては、専用の競技場も”持てずに”おこなわれていたきわめて弱く人気もまるでなかった時代のサッカーの日本リーグを見ていた人間が、現在のJリーグの試合を見ているようなものなのです。
しかしそれは喜ばしいことであると同時に、私に、強い”違和感”をももたらしています。

私が初めて伊藤勝次杜氏の”生酛”を知ったころ、これは今思っても驚きなのですが、3000石(一升瓶換算で30万本)以上造られていましたが、”生酛単体”の販売された酒としては誰も飲むことはできなかったのです。
なぜなら当時福島県の量産メーカーとも言えた1万石に近い販売数量があった銘柄の酒質の根幹を支えるものとして、すべての”生酛”は通常の速醸酛で造られた酒とブレンドされていたからです。
とんでもない数量の、非常に手間がかかる”生酛”を造り続けていた伊藤勝次杜氏は、そのため杜氏としての”晩年”になるまで”大吟醸”を造ることができなかったのです--------。

伊藤勝次杜氏の”生酛”は、上記の理由から、エンドユーザーの消費者はおろか日本酒業界の関係者にさえほとんど知られていなかったのです。
私にしても、國権について--NO2に書かせていただいた大木幹夫杜氏のお話を聞いていなかったら、たぶん伊藤勝次杜氏の”生酛”に関わることは無かったと思われます。

私は大木杜氏のお話を伺ったあとで、伊藤杜氏の”生酛”がブレンドされた酒を飲んでみました。
当時明らかに日本酒の最先端を走っていた、〆張鶴、八海山、千代の光を売らせていただき、鶴の友も見させていただいていた私の目には、何の先進性も感じられない”古くさい”あまり魅力のない酒のように映りましたが、新潟淡麗辛口にはあまり無いと思われる”部分”も確かに存在していました。

スーパードライの大ヒットによって倒産の危機から救われたアサヒビールの例が示しているように、この時期は日本人の食生活が大きく「ライト&ドライ」へ動いていました。
新潟淡麗辛口は、市街地でも一般道でもシャープに走りワインデイングロードのコーナーを最小限のパワースライドで軽快に気持良くクリヤーしていく、ロードスターに代表される、FR(後輪駆動)のライトウェイトスポーツのような楽しく時代にマッチした先進性のある存在------私はそう感じていました。
それに対して”生酛”がブレンドされた酒は、従来の、手堅く造られてはいるが重厚で重たくエンジンのレスポンスも良くない、安定はしているが楽しさの欠けらもない鈍重なコーナーリングしかできない車のような印象を全体として感じたのですが、ロードスターにはない点も見つけていました。

けして楽しくもない鈍重なコーナリングですが、路面状況の変化(悪化)による影響はロードスターよりはるかに少なく、むしろ悪化するほどその”安定感”が際立ったのです。
しかしその”安定感”は、残念ながら、ごく僅かな人しか理解できないものでした。
その当時の私は”生酛”については何も知りませんでしたが、強く興味を引かれ”生酛造り”を実際に見せていただいたのです。
直接お会いした伊藤勝次杜氏は、どこにでもいる穏やかな”平凡なおじいさん”という印象でした。
麹室や酒母室を始め蔵の内部を丁寧に案内してもらったあとでお話を伺ったのですが、
淡々と当たり前のふつうのことのように話して下さったのですが、当たり前ではなく平凡でもない”話の内容”に私は驚きましたが、実際に目にした”生酛”の良さがこのままではエンドユーザーの消費者に伝わらないことも痛感していました。
そして、どうしたら伝わるかを、おそまつで能天気な私なりに、考え始めたのです。

路面状況の悪化に対しても”安定感”を発揮する”生酛の特徴”を、価値として理解してもらうためには、”安定感”そのものをさらに強化拡充するとともに、不必要な部分での重厚さや重さを極力排して軽量化を計り、ロードスターとは違う形であってもそれに近いシャープな操縦性を持つことができれば、”安定感”がアドバンテージとして受け入れてもらえるのではないか------”生酛”の最大の強みである”安定感”を最大限に際立たすためには、ロードスターではなく、レガシーのツーリングワゴンの方向ではないのか、そして伊藤勝次杜氏の”生酛”ならそれが可能ではないか、と思い始めたのです--------おそまつな私なりに”考えに考えた”末に出てきた私なりの”答え”は、当たり前と言えば当たり前の、”シンプル”なものでした。

「生酛を本醸造で造り、ブレンドしないで”生酛単体”で瓶詰めして販売する」

その当時もそして今も、”生酛”を3000石造ることは”とんでもない”大変困難な作業なのです。
その”とんでもないこと”を40年間続けてきたのに、伊藤杜氏は、酒販店としても”駆け出しの若造”の私に、偉ぶることなど微塵もない真摯な態度できちんと対応していただき、今でも忘れられない”話”を聞かせていただきました。
「一度連続蒸米機を使ったことがあるが蒸しがうまくいかず、無理を言って元の甑(こしき)に変えてもらった」-------この甑は一つではなく二つです。深夜の酛摺りも自動的に”二つ分”になってしまうのです。
「生酛の酛米、麹米には五百万石が一番良い。五百万石を使った酛は”失敗”がきわめて少ない」-------低温でも良く溶ける五百万石は、同じく低温発酵で使われる10号酵母とペアで、淡麗辛口の代名詞の越後杜氏が”主力にした”酒造好適米で、この時期、南部杜氏で使っていた杜氏は珍しかったはずです。
「やっぱり麹かなぁ-----」------それが、生酛造りで一番難しいのはという私の”質問”に対する、伊藤勝次杜氏の”返答”だったのです。

私が伊藤勝次杜氏がおられた蔵を訪ねたのは、”勉強あるいは興味”のためで、”主力”で売っていこうと思ったからではありません。
私の店に並んでいた”生酛をブレンドした酒”はそれなりに売れていましたが、〆張鶴や八海山、千代の光とは”戦うフィールド”が違い、これからを戦う”武器”になるとは思えなかったのです。
事実訪ねた蔵には、〆張鶴や千代の光で”感じたもの”はまるで無く、ましてや鶴の友のような”雰囲気”は皆無で、むしろ中堅のナショナルブランドの蔵に近い”印象”でした。
しかし、伊藤勝次杜氏からはまったく”違う印象”を受けたのです。
今思うと、その”違う印象”は、鶴の友の樋木尚一郎蔵元の「変えてはいけないものは変えない」という”意志”に近いものだったかも知れません。
伊藤勝次杜氏からは、生酛という”有形の伝統の手法自体”を守ろうとしているのではなく、飲む人に飲んで楽しんでもらうためには、自分達が慣れ親しんできた”生酛造り”がどれほど自分や蔵人に負担が及ぼうとも手は抜けない、見ることのない飲む人のためにさらに一歩でも二歩でも前へ進まなければならない--------そんなお気持が、淡々とごくふつうのように話される”話”の中から、私には伝わってきたと思えたのです。

そんな伊藤勝次杜氏を始めとする蔵人の皆さんの”思いとご苦労”は、残念ながらこの蔵の”発売している酒”を通じては、客観的に見ると、エンドユーザーの消費者にはまったくと言っていいほど伝わっていない状況にありました。
私は伊藤勝次杜氏の”お話”を伺っているうちに、この方々の”思いとご苦労”を一人でも多くの”庶民の酒飲み”に分かってもらいたい------との気持が強くなっていきました。
たぶん私の店の”営業的利益”にはプラスがあまり無く、”やり難い困難さ”のマイナスのほうが大きく”労多くして”に成りかねないことは、その時点でもある程度予想できていたのですが、
せめて自分の店に来店される”庶民の酒飲み”には分かって欲しい、理解し評価して欲しいとの”気持”がだんだん大きくなっていったのです。

そして私は、「生酛を本醸造で造り、ブレンドしないで”生酛単体”で瓶詰めして販売する」
という方向に一歩踏み出すことになったのです。
予想どうりその先には、鶴の友の樋木尚一郎蔵元や早福酒食品店早福岩男会長が後に
”同情”して下さった、”闘いと困難の日々”が待っていました。

日本酒雑感--NO4に続く


日本酒雑感--NO2

2008-08-09 15:04:29 | 日本酒雑感

20071026_010 鶴の友の樋木家は、日本酒の銘柄としての「米百俵」にはまったく関係はありませんが、小泉元首相が取り上げ有名になった「米百俵のエピソード」そのものには深い関わりがある------と、いろいろな方から聞く機会が私にはありました。
樋木家5代目当主の樋木尚一郎蔵元に”質問”をし、このことを直接伺ったことがあります。

以前にも何回も書いていますが、鶴の友の樋木酒造は蔵もその住まいも「文化財」に指定されており、たとえ酒造りや住むのに”不便”があっても勝手に手を入れられない状況にあります。
外観のたたずまいも、いつもお話しを伺う天井が高く囲炉裏が切られた客間も、最初に行かせていただいた30年近く前と、基本的には変わっていません。
その客間で、囲炉裏を間に挟んで樋木尚一郎蔵元と向き合いお話を伺うとき、日常的に感じている時間のスピードがきわめて”ゆっくりなもの”へ変化していくことを、いつも実感できます。

樋木尚一郎蔵元は、控えめに淡々とお話して下さったのですが、百数十年前の「エピソード」なのに伺っている私にはまるで”ちょっと昔のことの話”のようにしか思えず、「なるほど、そうだったんですか」と、あたかも樋木家の御先祖を知っているかのような”あいづち”が口から出てしまい、思わず苦笑してしまった記憶が私にはあります。
私にとって鶴の友と樋木尚一郎蔵元は、私が直接知ることのできない時代の「息吹、気分そして雰囲気」を感じ取れる”タイムカプセル”の役割も果たしていただいているのかも知れません。

樋木酒造の”たたずまい”と感じ取れる”雰囲気”は、鶴の友について-2--NO2にも引用させていただいた地元の内野育ちの”羊さん”の、

鶴の友 副題 羊の基準酒(http://blog.goo.ne.jp/merino_wool/e/f7aafb181b63cfbff5e888905327fa93
雪と鶴の友と梅(http://blog.goo.ne.jp/merino_wool/e/5be60a626868c164ae7d195de6b31418

ふたつの記事の達意の文章を読んでいただいたほうが、
私の”作文”よりはるかに良く分かります。

私の個人的な感想だけなのかも知れませんが、現在私達が普通に見かける日本の伝統的文化は、江戸時代に成立したか熟成して庶民の間に浸透していったものがほとんどのような気がしています。
もちろん明治以降の日本も現在まで続く優れた文化を造りだし、諸外国から”クールジャパン”と呼ばれ強い魅力を発散している現代の日本の文化の一翼を担っていることは、おそまつで能天気な私でも承知していますが、江戸時代に比べると”分が悪い”ように思えるのです。

かなり荒唐無稽な”仮定”ですが、もし、すでに”墓の中”入っている大正末生まれの私の父や明治生まれの祖父、曽祖父そして江戸時代中期までの”御先祖様”まで総動員して、「伝統、文化の継承」をテーマに”ディベート”を「N家限定」で開催したとしたら、曽祖父、祖父は”御先祖様”から立場が無いほど激しく突っ込まれ、父や私は”発言権が無く”肩身の狭い状態になっただけだと思われます。
私だけなのかも知れませんが、”御先祖様”がどのような人で、何を大事に思い何を残した人なのかは、私自身が直接接した祖父までしか私は分かりません。
祖父自身は、江戸時代末に生まれ育った自分自身の祖父と当然接触し話しも数多く聞いているはずですが、私はおろか父ですら何も知らず何も聞いてなかったようです。
そんな私や父に「伝統、文化の継承」がテーマの”ディベート”に発言権があるはずもありません。

江戸時代末に生まれ育った人達が、「外側の世界の変化がもたらした”内側へ変化の危機”」に対処するため、「自分達が受け継いできた変えてはいけないものを守るために、それ以外のものを徹底して変えた---------それが”明治維新の姿”ではないのかと、おそまつで能天気な私個人は感じています。
しかし仮にそうだとしても、”変えたもの”は十分伝わっていても、残念ながら”変えてはいけないもの”は私には本当に微かにしか伝わってないような気がしています。
しかし現代でも、たとえ当面の”損得、利益”を毀損しても、自分自身の”こだわりや信念”を優先し、自分自身が納得しない限り”仕事の終りが無い”職人や芸術の世界には、比較的濃く伝わっているようにも思えるのです。

物凄いスピードで状況が”変化”していく現代で、”変えてはいけないもの”を守っていく”作業”はきわめて困難な”作業”のように私には思えます。
鶴の友と樋木尚一郎社長の、”損得、利益”を毀損してでもその”困難な作業”を続ける姿を長い間見せていただく機会を与えられ、”変えてはいけないもの”の大切さ、貴重さを、おそまつで能天気な私も、ようやくほんの少し分かり始めたのです。

思いがけない”人の縁”から鶴の友に行かせていただくようになった私も、ほとんどの人と同じように、一番強く心引かれたものは、鶴の友の酒質という”有形”のものでした。
平成12年に国指定の登録有形文化財に登録されることになる樋木酒造の建物(酒蔵及び住宅)のたたずまいと雰囲気にも魅かれるものがあったと思えるのですが、最初のころの「鶴の友の酒質の不思議さ」という”有形”と、その鶴の友を自分の店の主力銘柄として「ぜひ売りたい」という”欲”に捕らわれていた私の目には、”映って”いても”見えて”はいませんでした。
新潟市内野にある樋木酒造に通う回数が増えてくると、売りたいという”欲”はそのたびに減っていきましたが、「鶴の友の酒質の不思議さ」という”有形”の秘密、本質を知りたいとの気持はますます強くなっていく一方でした。
そして、酒造技術の探求的な視点だけで”解明”しようとすることには”無理”がある、と感じるようになっていきました。
皮肉なことに、ある事情で実家の酒販店を出て”業界”を去ることになったとき、私がどうしても知りたかった”解明”が進むことになったのです。

「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」

何回も引用させていただいている、鶴の友に私が行く以前に、早福酒食品店早福岩男会長から伺った”言葉”ですが--------最初から”答え”は、私の前に”提示”されていたのです。
しかし私は、長い間そのことに気づかず、リンクさせていただいた”羊さん”のブログの2つの記事に書いてあったような、樋木尚一郎蔵元の、

「この樋木酒造さん、どうも造り酒屋というもの、
半公共的な性格を持つものというような考え方を
持っておられるようでありまして
詳しい事は書きませんが
世話になった人もさぞ多いでしょう。
どうやらノブレス・オブリージというもの、
この世に本当に存在していたらしい、
そう思える話があれやこれやと。
この家あって、あの酒があるのでございましょうなぁ」

半公共的でノブレス・オブリージと”羊さん”が表現された、

「羊が思うに、鶴の友というのは、
邸宅の門前に堂々とした花を咲かせるのではなく、
奥にある梅の古木より、飾らぬ門前に漂ってくる梅が香と
ちらりと覗く梅の花、
その梅の古木、根本まで見たらさぞ立派なものがあるのでしょうが、
あえて根本を露わにしたりはしない、
そういった味わいのお酒であるように思います」

押し付けがましくない”穏やかだが弱くはない持続的”な暖かさに包み込まれて、”悲壮な決意”をやんわり取り除いていただいた------という私自身の実体験がなければ、おそまつで能天気な私には、早福岩男さんの”言葉の意味”を、理解できることは無かったと思われます。

今の私は(おそまつな私個人の感想ですが)、鶴の友の本質は、江戸時代後期の樋木家の御先祖様から受け継いだ”変えてはいけないもの”を、できる限り”変えない”というところにあると思っています。
新潟淡麗辛口の最盛期に、新潟県はおろか全国の酒販店から強い取引の要望があったとしても、そしてその要望のほとんどすべてを断り樋木酒造の”営業上の利益”を大きく毀損することになっても長いお付き合いのある酒販店を最優先し、一番価格の安い鶴の友上白(表示はされていませんが本醸造で造られています)にすら、とんでもない高コストになっても酒造好適米の種類と質と精白にこだわり、”酒”に関係ないことでも”手助けすべき”だと思われればたとえ”損”でも全力投入され、事が成ってもご自分の”功績”はまったく語られないのです。
そのすべての根幹に、御先祖様から受け継いできた「変えてはいけないものは変えない」という樋木尚一郎蔵元の”強い意志”が働いている------そう思っているのは私だけではないことをを、早福岩男さんの”言葉”や”羊さん”の達意の文章が証明しています。

先日、鶴の友を長く造り続けてきた風間前杜氏が、おそらく最後の年に醸し出したと思われる大吟醸を飲ませていただく機会がありました。
私が、鶴の友に出会った昭和50年代後半、強い魅力を感じた「鶴の友の素晴らしく不思議な酒質」は樋木尚一郎蔵元の”強い意志”によって造られた今の世には在りえない”基盤の上”に、風間利男前杜氏が納得できるまで腕を振るった”芸術品”だったことを、私に改めて痛感させる素晴らしい”酒”でしたが、同時に風間前杜氏の”孫の世代”にあたる樋口現杜氏に鶴の友の”骨格”が伝わっていることも改めて実感させてくれたのです。

私は自分自身の”御先祖様”からは、まったくと言っていいほど伝わっていない江戸時代後期の方々が大切に受け継いできた「変えてはいけないもの」の一端を、鶴の友と樋木尚一郎蔵元という”窓”を通して見せていただいたことは、本当にありがたいことだったと感謝しています。
そしてそのおかげで、科学的に進歩した世界に開かれた”文明”としては現代よりはるかに劣った時代であったかも知れない江戸時代が、自分達も自然の一部であり川や山のような自然にはそれぞれに”神が宿り”、自然を敬い自然によって”生かされている”ことをごく当たり前のこととして生きていた(ある意味では大変にうらやましい)現代より自然体で生きれた時代ではなかったのか--------現代の日本人がより自然により日本人らしく生きるための重大な”ヒント”がこの時代にあるのではないか--------と、私は思い始めることができたのです。