「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

公開グループfacebook≪「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙≫

古からのつながり(4)日下宮王家のこと

2018-10-24 23:52:35 | 坂本氏

思うに、古事記の下巻になると策略や焼き殺されたり…と事件が多くなる。
それが現実に生きた王たちの世界だったのだろうか。

あの、奇想天外の架空の神様方の話はどこへ~~。

でも、下巻も今(その時)に向き合って、日本という国を作っていこうとする古代天皇の姿。
気を取り直して次に進もう!

以下は、坂本臣の「時代の状況把握」…である。

【謎の古代豪族 葛城氏】平林章仁
古からのつながり(1)の追記で、なんだかわからなかったのが「日下宮王家」
そこをもう少し調べてみた。
平林氏の文章を書きに記した。

葛城氏は南九州の大豪族とも(その前に吉備氏との連携が書かれていたので)連携していたことがわかる。
それは、ヤマト王権の執政官である葛城円大臣が、河内の日下(東大阪市日下)に本拠を置いた天皇家の有力一族である「日下宮王家」とともに滅ぼされた事件を究明することであきらかとなる。


「『紀』は安康天皇元年二月から雄略天皇の即位前にかけて、次のような出来事があったと記している。…」(と、また坂本臣の事件に言及している。重要なのだが、前と重なる為省略し、エッセンスを選んで書いていく。)

日下宮王家とは、具体的にどのような天皇家一族だったのか。父系は応神天皇や仁徳天皇であるが、注目されるのは母系である。
履中天皇のキサキである草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)の母は、日向長媛という南九州の日向出身の女性であった。律令制以前の日向は、現在の宮崎県に鹿児島県を含む広い地域であり、後の薩摩国に出水郡があったから、その地の縁の女性とみられている。

大草香皇子と草香幡梭皇女(履中天皇のキサキと同名だが別人)の母は、日向髪長媛であり、彼女も日向出身である。
・・・
その日下宮を拠り所とした眉輪王が、危機に際して葛城円大臣を頼ったことは何を意味しているのだろうか。おそらく葛城氏政権と日向諸県君氏らの間に親密な関係が結ばれていたのではないか。・・・ 

その事件の後に雄略天皇によって日下宮王家最後の王となってしまう「眉輪王」と「葛城円大臣」は殺害され、葛城氏と南九州・日向諸県君民の連携も遮断され、葛城氏の権力機構は崩壊し、ほどなく葛城氏そのものが衰退していったと思われる。円大臣は葛城氏最後の大臣であった。

そして、この事件には、紀氏との結合をも分断しようという天皇側の企図が存在したのである。

~~~*~~~

ここに一冊また別の本がある。
「古代天皇と前方後円墳の謎 諏訪大社と善光寺の謎」馬場範明著 文芸社
この中に、「日向は神武天皇の実家、大和は分家の関係」とある。

私は、北海道で生まれ育っているせいか「古墳」は身近ではないし、まだ近くで見たことがない。
今回知った「西都原古墳群」は「現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。」と、とてつもなく多くが密集している。

そして馬場氏は言っている。「なぜ西都原古墳と大和に前方後円墳が発生し、そしてその後何年もの間併存し続けたのか。」別に勢力争いではなく、「実家と分家の関係」と喝破していらっしゃる。

涼しいうちに古墳巡りに行ってみたいな!

http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/panorama.html

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古からのつながり(3)仁賢... | トップ | 上野三碑(こうずけさんぴ)  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

坂本氏」カテゴリの最新記事