「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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坂本氏を探る(1) 小見の方(おみのかた)

2018-09-18 18:59:56 | 坂本氏

「もしも」の仮定の中で考えつつ進めてみようと思います。
( 素人考えです。)
まず、明智光秀の先祖は「土岐氏」といわれています。

その系図に注目していましたら「小見の方」という名前が書かれていました。(清和源氏家系図)
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/seiwa_genji/genji_seiwa11.html

その「小見の方」は光秀の伯母にあたります。逃げていく先としては、充分に考えられます。
が、その小見の方は濃姫(信長の妻)の母親で、しかも本能寺の変以前に亡くなっておりました。

小見の方は斎藤道三の妻ですが、幼い時分に斎藤道三に人質として出されていたのです。
(後に正室になっています。)

小見の方の父は明智光継で、小見の方の兄弟には光綱(光隆・光国とも云う)がおります。
小見の方の母は若狭武田氏の武田信豊の娘で、信豊の息には義統がおります。(義統については最後に少し書きました。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%B6%99

以上のことから土岐氏・明智氏と斎藤氏は関係が深かったということになります。斎藤利三は光秀の家臣となっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%96%B9

これは蛇足ですが、
また、武田勝頼の養育を行ったのも「小見の方」という女性で、諏訪御料人の生母で、諏訪頼重の妻であったとされています。







何故二人に「小見」を冠した名前が付いたのかが気になります。

小見氏というのはどのような一族なのかを調べてみますと、もう少し詳しい情報が書かれていました。(wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A6%8B%E6%B0%8F#%E6%BA%90%E5%A7%93%E9%BA%BB%E7%B8%BE%E6%B0%8F

これを読むと、
1.平姓の小見氏は千葉氏・東氏との関係もあるので土岐氏とつながることが判ります。(つまり明智光秀の伯母の小見)

2.源姓麻績氏は、「諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており」とあるため、諏訪御料人の生母で諏訪頼重の妻の小見の方となります。

3.最後の藤原姓の小見氏は「藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族である。戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まり。また、武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏とは同族である。」とあることから、平姓の小見氏と重なる部分もあるのではないかと思えるのですが、要確認です。

明智光秀の末裔や縁者が「坂本氏」となり小見の方の縁者を頼って行ったとなると、1と3の小見の方ということになりそうです。かくまってくれそうな人物が「小見」に居たのではないか‥‥

~~~*~~~

3.の佐野是綱という人物のいた現在の佐野市小見と埼玉県の行田市小見の位置関係を地図で見ると以下のようになります。



青が栃木、赤が埼玉の「小見」になります。

この佐野氏は元をたどると藤原秀郷流であり、藤原秀郷自身が「延長5年(927)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来のこの地に参られ唐沢山(佐野市)に城を築いて善政を施していた。」と佐野と縁の深い人物だったようです。
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index6.html

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明智光秀の子女に関しては、系図がいくつかあり、其々違っているようです。私がweb上で見た系図は以下のものでした。
https://books.google.co.jp/books?id=WrHQBQAAQBAJ&pg=PT15&dq=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%80%80%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%AE%B6%E8%87%A3&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwimiOPU3MTdAhWIFYgKHbA9BDsQ6wEINTAC#v=onepage&q=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%80%80%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%AE%B6%E8%87%A3&f=false


これが正しい、あれが正しい…は、私にはわかりません。が、生存者はいたと思うのです。
特に本能寺の変の時に、生まれてまだ6カ月の赤ん坊だった「内治麻呂」も生き延びていたと思います。

系図の中で気になったことをメモします。
明智光秀の父親は光隆といいます。(光綱・光国ともいいます。)
武田 義統の父は若狭武田氏の信豊で、母が六角佐々木 六角定頼の娘です。
妻は足利義晴の娘、京極佐々木野京極高吉の娘。
京極高吉の妻が浅井久政の娘=京極マリアです。

私の調べてきた九里ともいくつか関連します。

近江国蒲生郡の水茎岡山城(九里の居城)で生まれた「足利義晴」。
京極の分限帳=「京極高次」(高吉の息子)の家臣の中にいる「九里次郎兵衛」

想像ですが、織田信長にスパイ嫌疑をかけられた「九里三郎左衛門」は浅井とつながっていると嫌疑をかけられたのでは。
その後誅殺されていなければ、浅井氏のもとに逃げ込んだのではないだろうか?ということがあります。

坂本氏を調べていたら、九里氏とつながってきました。不思議です。
(坂橋氏を調べているはずなのに九里に近くなってきました。)











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