私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

世代の教育         戦前 教えて 居た・・・

2015-09-02 07:52:58 | 日記
軍国主義教育は 勿論ですが一般科目の他に道徳心や伝統でした
それが 戦後からは 教員達の態度と言葉がアメリカ、アメリカの主義は 何ぞや それは アメリカ 
自由主義アメリカ 開けても暮れてもアメリカに代わって言った アメリカに染められた 教員達
戦争に行かない者は 非国民だと教えて居た教員達が手の平を返し脳無し教員が増えて行きました
軍国主義を切り捨てて今まで道理の教育をして新しい教育も良い物に関しては 子供達に教えるべきだと
日本人の精神と戦後の子供達の事を考えていた 教師達は 教育会から抹殺されて行きました
元 教員で有った 私の父は 今の様な脳足りんが子供達に何を教えられるのだと教員と言ふ言葉に
アレルギ-を感じて居ました

私は 築いた頃 自閉症と言語障害児で当時は 自閉症などと言う言葉、病名は 普及していませんでした
そこで 友達と一緒に居るのを親などに見つかると聞こえます何々ちゃん窺知外キチガイの子と遊ばないって行ったでしょ
もし 暴れたら如何するの先生に教わっていないの早く家に帰るわよ 又は 言語障害の私は 国語の本が文章が理解
出来ても言葉、口に上手く出てきませんすると先生は あ~失敗したよ字が読めないんだったけでハイ座って後ろの子
最初から読み直してと・・・
音楽も当然 歌えません口をパクパクで終わりで音楽会の時に背の小さかった 私は 最前列に決って居るはずなのに
ハイあんたは 後ろで良いからねと背の小さかった子供は 頭しか見えません・・・
図画の時間に風景を描きなさいと言われ緑の草原に小さい小屋を描き雲を黄色で表したら先生が何この黄色いのはと
聞かれ私の雲のイメイジは 黄色い雲と言葉に出来ない真間にウンと頷くと黄色い雲、僕の黄色い雲を先生は 水で
洗い流し雲は 白と灰色に決まっているのよと僕の絵を勝手に白と黒の絵の具を混ぜて塗り始めました
上手く説明と反抗の出来ない私は ただ佇タタズみ泣いていたらヤダこの子なにを泣いているの・・・
紙粘土でお城を創りなさいと言われ手先の器用だった私は 絵の具で確りと色分けをしてビシッと仕上げて学校へ
持って行くと先生は お城を作って来なさいと言ったのに何これは 神社でしょだいち誰に作って貰ったのと言われ
強張る自閉症と言語障害の私は 自分でえ~何を言つてるの嘘ばかり・・・
板を加工して魚を作りなさいと言われた時には 先生は 魚を作りなさいと言いましたよね誰が鯉のぼりを作れと言いました
私は 鯉のぼりは 魚ジャ無いのかと可笑しくなり微笑んで締ったら先生は 何を馬鹿にしているのチャンとに先生の言う
事を木賃と聞いて理解しなさい4年生にもなって・・・
お城イャ神社と魚で有るはずの鯉のぼりは 学年主任の老いた先生が展覧会に出す作品として体育館に陳列した所
二つの作品は 金賞で言葉が書かれていました 創る課題とは 少し違いますがこの作品は 観察力と根気が入ってる
緻密で手の込んだ作品でしたねとお母さんお父さん向けに書かれて居ました

話しは 大分飛んだ様に思えますが老いた学年主任の先生は 戦前の教師を知り戦後のアメリカ教育との違いをハッキリと
分けていた様な教員の中の神様と私の母は ボソッと言いあの年で学年主任なんて立派な先生だよと・・・
詰まり 教育界から抹殺されずに生き残り戦後の子供達に正しい道と信念を教えていかない限り今後の日本は 無く成ると
考えていた一人で満州で戦っていた 関東軍の元兵隊で生き残って帰って来た立派な人だょと 又 母は・・・

私は 2才から6才まで叔父や叔母の所で盥タライ回しの様に預けられて育ち寂しさと虐待の中に貧しくてチキンラ-メンを
かっぱらい真っ赤に焼けた炭ハシを振り上げ追いかけて来る駄菓子屋の爺さん 私が3才・・・
スイカ畑から小玉スイカをかっぱらい椎ノ木に縛られて耳元で猟銃をブッパ成され恐ろしさも分からず涙も流せずただ
口からは よだれが止まらずに大と小を漏らし不思議て変な幼児を見つめ笑っていた百姓のクソ親父 私が4才・・・
叔父の家の女の子を虐めたと言い掛かりを付け2月の風が吹く中で井戸に縛り付けられて井戸水を頭から掛けられて放置
しやがった 実の父の弟 私が4才・・・
叔母の家に飼われて居た シャム猫が私にチョかいばかりを出して私の顔と手は 猫の鋭い爪痕ばかりで私を敵の様に
攻撃して来る馬鹿猫が廊下の角で熟睡を扱いて居る時にプラスチックのバットで殴り飛ばし鼻の高いシャム猫がウギャ-と
漫画の様な泣き声を立てて1m位飛び上がった 瞬間を叔父に見られてバットを取り上げられてお前は 無抵抗な生き物を
こんな物で叩き虐めるのかと私の頭は バットの反撃で尚更と馬鹿に成りだいち無抵抗で黙っていたのは俺だしとでも
仕方なく私を殴り続けて居た叔父は 中学校の校長先生だったキリストあ~めんタンメン野朗だった 私が5才・・・

効した 中で気が付けば他人の家で可愛がられ飯を有り難く頂いていた 時も有りました 下手な肉親より赤の他人の方が
有り難く飯も旨いジャねえかと思う様な生意気な考えを身に吐けてしまった 小僧は 気が付くと自閉症と言語障害を
背負って居ましたイャ産まれた時からでしょうかね兎に角 不思議な事に私には 2才の時からの記憶が残っています
教師と肉親にわだかまりを持ち生活保護を受けていた 私は 貧乏の子、窺知外の子、オシ喋れない子として虐められる
条件を兼ね備え教師と言う存在を鋭く見つめて行きました
私が 小学校5年生の時にオイ貧乏の子貧乏人と何時もの言葉が聞こえた瞬間に私は トッサに振り向き相手の子を投げ飛ばし
その子供は 左腕を骨折してしまい大騒ぎの中に先生が飛んで来て賺さず私の襟首を掴み廊下の奥に連れて行かれてお前この
馬鹿こんな忙しい時に明日が運動会と知っているのかと大福ビンタの嵐でした
私は この時に何だ俺って喧嘩が出来るジャねえかと先生に殴られ続け突き飛ばされても私は 微笑む気持ちの悪い子でした
私は 後で分りました 実の亡くなった 親父が俺に力を入れて暮れたに違いないと考え土建業と任侠道で組長、親分を
遣って居た父の血を次ぐ私は この時から虐められ子から立場が変わり喧嘩の強い進吾には 手を出すなと言われる様に成り
育ての父の教えと精神も加わり こいつらフザケタ教師だアメリカ被れしやがって戦前にそんな事を口にしたら憲兵隊に
連れて行かれて殺されるぞ何て口ずさみ体育の教師と殴り合いに成った 中学時代でした

効した 幼児期と義務教育の中で生きてしまった 私は 教育と子供の事には 自分なりの考えを持ち20歳までの期間を
暴れて苦く悲惨な青春時代を過ごして行きました

最後に 何も分らない子供達に好い加減な名ばかりな教育を押し付けをするのは 絶対に間違っています
大体が 私は 俺は 仕事が無かったから教師に成った パパがママが教育委員会お偉いさんだから日教組の幹部だから
私 俺 馬鹿だからヘヘヘェ~教師に成りました え~日本てアメリカと戦争してたへェ~本とに・・・
俺が本とに~だよ!

s10683726@ybb.ne.jp







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