私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

出し得ない手紙    それは 何を 意味して 居たのでしょうか・・・

2015-08-17 23:03:22 | 日記

当時 戦地で戦っていた兵隊たちの気持ちは 当然 私などが軽い事は 言えませんが
私の父から数々の戦地の移動と残虐な肉弾戦などの話しから書きました 又 父は 元教員だった為に神田の古本屋外から   今では 日の当たらない真実の記録などを書かれた貴重な書物を私が子供の頃に買って来ては オイこれを読め目を通すだけでも良いのだからなと当時の中国共産党のプロパガンダ漫画や先人達がなにを考え今後 日本を存続させて行き欧米列強の植民地には  絶対に指せない度の様に大和民族の文化と伝統を残し日本人を守って行くかなどの書物を良く私は 読んでいました

ネットや報道機関などで日本軍が当時 可なりの残虐好意をしていたプロパガンダを目にしたり満州に居た関東軍は 開拓民や 一般人を捨てて逃げたとかの言葉を連発する様なドラマを売れ筋の俳優を使い戦後60週年記念だ70週年記念だと遣っていますが 日ソ不可侵条約を破りソ連軍が 満州に攻め入って来たときに関東軍は 殆んどが南方戦線に送られて満州には 殆んどの関東軍兵士は 居なかったのが事実です
でもソ連軍とモウコ兵に立ち向かい戦っていた関東軍、少年兵、民間の防衛隊の皆さんが居た事を知っていますかソ連軍の戦車に地雷と火炎瓶で突入して行った兵士達が沢山います
ソ連軍が戦車で日本の避難民をひき殺してい戦場に爆弾も無い機銃の弾丸も無い偵察機偵察機に夫婦で乗りソ連の戦車に突入して行った若き22歳の航空隊将校たちも居ました 又 満州の関東軍司令部に残り最後まで日本市民を守り抜く為に兵隊や下士官たちが戦っていたのも史実です
満州各地に取り残された婦女子や子供たちを救う為に軍の命令を破りソ連軍のど真ん中に突入して行った将校や部隊も
沢山いました  
優秀な兵隊、軍人は 何ですかより多くの敵兵を倒す殺す事なのです何所の国でもこんな事は 当り前だと言いますよ・・・
日本軍、関東軍は 殺し尽す、焼き尽くす、奪い尽す何て事を作戦にして居たなどと支那(今の中国)人や日本の左翼、何も事実を勉強していない日本人が言いますが日本軍の作戦は 三信作戦と言い無闇に殺すな、無闇に破壊するな、物を奪うなです
殺し尽す、焼き尽くす、奪い尽すこの言葉は 三光作戦と言い中国共産党の毛沢東や蒋介石が自分達の本国で大陸で同じ国民を この様にして来たのが本とです
蒋介石は 毛沢東に追われ台湾に逃げてからも同じ事を遣りました台湾市民や日本の教育を受けた人達を20万人も惨たらしい
手口で虐殺しました
又 ソ連軍も日露戦争の時に旅人港や二百三高知に兵を向ける時に中国の各地で遣っていました
日本人が日本の事を増して日本の為に死んで逝った英霊を良く言わない こんな国は 珍しい国だと海外の人達は 言います

s10683726@ybb.ne.jp

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