私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

イスラエルの希望#2     民族の 血を 消し去る・・・

2015-09-29 17:29:49 | 日記
 大虐殺、民族浄化作戦又は 戦略で実行される歴史は 繰り返されて居ます

 収容されたのは ユダヤ人(今のイスラエル)政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜
  聖職者さらには これらを匿った者などその出身国は28に及ぶドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や1941年を境にして
 顕著になった
 強引な労働力確保(強制連行ピーク時の1943年には アウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている
 たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり非常に過酷な労働を強いられた
 理由として
1.ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで厳しい
 労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは 前段階における解決の一手段として捉えられていたこと
2.領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は
 一切考慮されなかった
3.1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と戦災に見舞われた
 ドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など戦中と戦後を見越した需要に対し膨大な労働力を充てる
 必要があったことなどが挙げられる
 併せて 劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた
 他の収容所への移送の結果9割以上が命を落としたとされる
 生存は 1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた 者と解放間際に他の収容所に移送されるなどした
 者を合せても50,000人程度だったと言われている
 すべての強制収容所は ナチス親衛隊(SS)の全国指導者であった ハインリヒ・ヒムラーによってSSの下に集約されており 
 SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の
 労働力を積極的に活用 敗戦後は SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた

       s10683726@ybb.ne.jp

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