私の記憶と感性 そして 下書きのない日記 №52

多可が50 去れども半世紀の人生で この三百六十五段の湯けむり漂う
町に来てからの記憶と感性です

★想い        あの 燃え 尽きようとして 居た ・・・

2014-09-29 18:35:52 | 日記
十代が懐かしく想う今 私は多可が50去れども半世紀を感じて行く月日の流れを                                 知って行くのでしょうか
寛一朗の様に立派に生きられた私では有りませんが今は亡き彼女、愛棒の為に暴走族や愚連隊  そしてアンパン(シンナ-)を敵として喧嘩と乱闘、終いには個人プレ-で世の中のゴミ掃除だ位に奴らを叩きのめしていた時代が私には有りました
寛一朗などとは比べ物には成らない信念の様な狂った熱意で生きるしか出来ない私と仲間達でした・・
吉村寛一朗 天保11年(1840年)?~慶応4年1月(1868)本名 壽村権太郎とする史料が今年2014年に発見されている
浅田次郎の原作で壬生義士伝(みぶぎしでん)新撰組で一番強かった男として登場した南部藩武士(岩手県)でした
当時 岩手県の寒冷地ではまともに米も育たない土の痩せた場所で農民達が餓死をして行く様な時代で寛一郎はこの間々では我が家族までが死んでしまうと考え武芸に自身の有った彼は江戸に登りそして京に降り新撰組に入り金を稼ぎ国の子供や妻に送金をしますがあの時代に新撰組などと言う先の分からない集団に入る事などは藩士として南部藩を裏切り幼友達の殿様に刃向う事でした そして家族は藩から追われ迫害を受けますが殿様は幼友達の家族だと言う事で配慮(はいりょ)を加え何とか生かして遣れと影ながら側近の者を付けます一方寛一郎は何ヶ月も歩きまともには飯も食わずに京都は壬生に辿り着き新撰組に腕を買われ隊士監察役として速、幹部に成りあいつ吉村は金の為に人を殺すろくでも無い南部の乞食侍、鬼畜と呼ばれますが寛一郎の腕と恐ろしい家族愛には誰も刃は断たずに彼は薩長から恐れられて行き身なり態度、口振る舞いは身祖母らしくとも心は豊かに活き家族へ多額な送金をして行きますが戦の戦局は幕府の不利と成り数々の戦いで新撰組は活き絶え絶えに成り傷を負い大阪の南部藩武家屋敷に何とか辿り着いた寛一郎に舞っていた最後の決断は自決、切腹を幼友達の殿様から命じられますが寛一郎の刀は戦で刃がボロボロで曲がり腹など切れる日本刀では有りませんでした そこで殿様は自分の数百両もする名刀を差し出しますが寛一郎は自分のボロボロに成った愛剣で苦しみながら腹を割き自決します寛一郎が切腹した部屋には血のりで綴られた遺書には殿様から貰ったこの名刀は我が長男に渡して頂けませぬかそして持ち金を畳に並べて妻に送金をして頂きたいと寛一郎は最後まで自分の意見を伝える事無く亡くなり寛一郎の長男は北海道に渡り官軍と戦い戦死します寛一郎が自決したと聞いた妻は乳飲み子だった次男に寛一郎と名づけ愛する夫と我が子の冥福を祈り次男の寛一郎を立派に育て上げて寛一郎はこの南部の国岩手に育つ米が有ればいいのだがと亡き父が言っていた事を母から聞かされていて寛一郎は宮沢賢治らと共に米の改良に挑み寒冷地でも育つ米、吉村米を開発し今の岩手県に立派で旨い米が作られ始めたらしいです
私は彼女が19才の若さで自宅のマンションから飛び降り自殺をした時に両手首をリストカットして終い今が有りますが あの頃 私の絵美を17才で犯した暴走族20数名のアンパン小僧共が憎くゴミ扱いをして居た私達仲間は親の愛情は知らずに十代の地図を探し創る事に専念していました そして私の可愛い絵美は事件の時に左足付根を複雑骨折されて亡く成るまで足を引きずる事に成りました
寛一郎とは目的は違っていましたが私も常に戦って居ました

★この作品は 2016年1月に成り観覧人数が一位に成りました 有り難う御座います

s10683726@ybb.ne.jp

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