りゅーたろっく・ぶろぐ

ギタリストRYUTARO(葉狩 隆太郎)のblogデス!

不死鳥 TAIJIサンへ

2011年07月30日 23時42分36秒 | Weblog
泰司サン、お久し振りです。

亡くなられたとの報道などを耳にしてはや13日、まだ何が真実かも分からぬまま、きっと誤報でありアナタが生きているという望みも抱いて、ただアナタに想いを馳せる日々です。



最後にお会いしたのは結果的に“TAIJI with HEAVEN'S”最後のLIVEになってしまった10月8日の吉祥寺CLUB SEATAですね。
個人的に、あの日を境にしばらく距離を置くことになるだろうかなとは思ってはいましたが、まさかあの日が最後にお会いした日になろうとは・・・

TAIJIサンはあの日以降も何度も会おうとしてくださっていたのに・・・
本当に悔やんでいます。
沖縄のお土産も買ってきてくださってたんですよね。

TAIJIサンからは、特に去年の夏なんかにはメチャクチャに乱暴にもされて辛かった想い出も多いですが(笑)、その分たくさん気にかけてくださっていたことも知っていますから余計に悔やまれます。
本当に家族のような、基本的には悪い兄な存在でしたけど、時に親父のような大きな存在でもあって、近くで見ていたオレの嫁も「泰司サンは本当にりゅうちゃんが好きなんだね」って言ってまして、だから良くも悪くも衝突はありましたが、魂でぶつかり合えるお方でした。



TAIJIサンがもし本当に亡くなられていたとして・・・

み仏の世界に行かれたとするならば、そちらでの居心地はいかがですか?
先にそちらに行かれていた仲間の皆様とは楽しく過ごされてますか?

個人的にはスティーヴィー・レイヴォーンさんとセッションして盛り上がってるんじゃないかなぁと想いを巡らせております。
泰司サンとレイヴォーンさんなら最強のヘヴィブルーズが産まれるでしょうね。

樋口サンやHIDEサンともたくさん奏でられてますでしょうか?
UMEサンのお葬式での泰司サンの悲しげな様子もよく覚えてますけど、ちゃんと再会は出来ましたか?!

そちらでは現世で苦しんだ病気もないでしょうから、自由にのびのび、お酒もガンガン呑んで楽しめているんじゃないですか?!
笑顔のTAIJIサンが目に浮かびますよ!!



さて、少し昔話をさせてもらってもイイですか?

何度も直接お話ししたコトですけど、オレはアナタに憧れてROCKの道を歩み出したんですよ。

1994年だからもう17年も前。
オレが中学3年の春に“LOUDNESS”のライヴアルバム『ONCE AND FOR ALL』を聴いてノックアウトされ、ロクfの表紙を飾った“D.T.R”のデヴュー、6月末にリリースされた衝撃の1st album『DIRTY TRASH ROAD』、夏に行った新大阪メルパルクホールでのLIVE、写真集のインタビューに・・・
もう音楽性から、考え方から、ファッションから、完全にアナタに狂ったように影響受けまくっていました。
ビデオなんて毎日見てましたし!

これも話したコトありますが、その頃のオレはギターもベースも弾いてたんですけど、どちらかというとベースに重点を置いてたんですよね。
でも、「プロを目指すならどちらかに絞らなくては!」とかなり悩んだ中で、「オレがベース選んだら将来TAIJIサンと一緒にバンドやれないやん!!」と気付いてギタリストとしてプロを目指す道を選びました。
この話しをしたときに「オマエ大したヤツだなー」って笑って下さっていたのは今もよく覚えています。



それから、高校を一年の9月でスピード卒業し、家を独りで飛び出し、ROCKの道を体当たりで歩み出しました。

大阪でfazeってバンドで活動しだした2001年くらい21歳のときかなぁ?
先輩の紹介でD.T.R藤本泰司サンと知り合えまして、可愛がって頂くようになりました。
(今でも藤本泰司兄貴はオレの大切な兄貴です!)

そして2004年に、TAIJIサンが当時組まれていたバンド“音風”の新宿MARZでのLIVEに藤本サンがゲストで出られるときに手伝ってと藤本サンから呼んで頂いたので大阪から伺って、初めてアナタと至近距離でお会いしました。
あの頃のアナタは松葉杖がないと直立することもできず、雰囲気もとても暗かったですが、終演後に楽屋で間近でお会いできた感激は相当なものでしたよ。
握手して頂いたときに何も言葉が出なくて、当時うつ病を患っていたTAIJIサンに一番言ってはいけないと思っていた「頑張ってください」と言ってしまいましたが・・・
そのときに当時オレが大阪で頑張っていたfazeのCDをお渡しさせて頂いたんですよね。

次にお会いしたのが2005年に鹿鳴館でのD.T.R再集結のときでした。
ボクもfazeで東京に移り住んでいて、また藤本サンにお手伝いで呼んで頂いてました。
2004年の音風でお会いできたときに何も言葉が出なかったので、きちんと想いは手紙に書いて(笑)、fazeのCDもそれから2枚出てたので、それらを一緒に封筒に入れてお渡しさせてもらったんですよね。
じゃあ、fazeってバンド名はちゃんと覚えてくださっていてとても感激したんですよ!



その後は信じられないコトがたくさん起きました(笑)。

「fazeのCD聴いたけど気に入ったから会おうよ」とお電話を頂いたときは死ぬかと思いました(笑)。
そして2006年の頭頃からかな。
ご自宅に伺いセッションをさせて頂き(画像はそのときのものだと思います)、その後ちょくちょくお会いさせて頂いているうちにDAIサンとも一緒に会うことがあって、そのときに「KEEP THE FAITH」の原曲をオレが弾いたら即興でDAIサンがメロを歌って、それにTAIJIサンがピンと感じられたことから“TAIJI with HEAVEN'S”始動に至ったんですよね。

ただ、本格的始動になる2009年後半までには何度も何度も困難がありましたね。

作曲・リハーサル・レコーディングを重ねながらも、TAIJIサンの入院などでDAIサンと2人でずっと曲作り&レコーディング作業を進めていたり、他にもなんだかんだと色々ありまして、頑張っても頑張っても報われないんじゃないかってくらいトラブルが多かったです(笑)。

あの頃で一番嬉しかったことは、出会ってからずっとTAIJIサンは松葉杖無しでは自由に歩けませんでしたが、手術が成功して杖無しで歩いてられるのを見たことです。
丁度、HEAVEN'Sのリハ前にDAIサンんちに集まって徒歩で向かうときだったんですけど、アナタが「もうちゃんと歩けるんだよね。走れるんだよね!」なんて、ちょっとはしゃいで歩いてられた後姿を見たときはホントに涙が出ましたよ!

あの頃の地下作業時代はなんだかんだ言ってみんな楽しんでましたよね。
あの頃の地味でしんどかった時代がなんだかとっても懐かしいです。



はあ。
どうしてこんなコトになってしまったんでしょうか・・・

去年の夏に一度、大喧嘩しましたね。
お酒のせいで満足に演奏できないTAIJIサンにオレは幻滅して、なので思いっ切り怒りましたよね。
「情けないですよ」とまで言いました。アナタのコトが大好きだから、覚悟を決めて思いっ切り言わせて頂きました。
そのときはTAIJIサンも喧嘩腰でしたが、さすがに悔しかったようでお酒を断つ約束と努力をしてくれていましたよね。
「RYUTAROが言ってくれたから酒ずっと止めてるし感謝してるよ」って言ってくださったことも覚えています。
10/8のHEAVEN'SのLIVEも、打ち上げも、ちゃんとノンアルコールでしたもんね。

その後、もうちょっとオレがHEAVEN'Sの活動に対しての疑問を解決できるような動きをしていれば・・・
そうすれば3月の韓国公演もちゃんとやれて、今頃はTAIJI with HEAVEN'S 2nd album制作も進んでいたのではという無念は大きく残っています。

blogとか見て絶対おかしいと感じてましたけど、実際に連絡はできずにいました。
「RYUTAROがいねーとHEAVEN'S成り立たねーんだよ」って、お世辞かもですがずっと言って下さってのに。
でも、一回だけメールしたんですよ。
ちゃんと見てくれてましたか?

ただ、後悔先に立たずですから、この悔しさをバネにしてこれから先の人生を頑張っていかねばなりませんね!!

オレは自分の父親も仲違いしているまま事故死でしたし、TAIJIサンもまたこんな別れ方になってしまって、本当に生き方を悔い改めねばと痛感しております。
本当に心同士で通じ合っている人間とわだかまりを残したまま別れるのはもう嫌です。
本当に辛いです。



TAIJIサンは誰よりも繊細で、その人の良いところ・・・即ち“本質”を見抜き育むことのできる方でした。

TAIJIサンに影響を受けたってベーシストはたくさん知っていますが、TAIJIサンほどの音楽性の幅広さを懐の深さを持ったベーシストはオレの知る限りで誰もいません。
きっと今後も一生出会えないでしょう。

そして誰よりもオレのギターのことを高く評価してくださっていた方でした。
高崎師匠や、HIDEサンなど伝説のギタリストと共演してこられたアナタから認めて頂けたコトは一生の宝でございます。




アナタの音楽活動の最後の一年間のメインバンドであろう“TAIJI with HEAVEN'S”のギタリストとして共に歩ませて頂いた誇りを胸に刻み一生歩み続けます。



TAIJIサン、最後にご報告があります。
もう御存知かもしれませんけど、オレの子供が16日に産まれました!
なんと予定日より5~6日も早くだったんです。
そして、報道を信じるならば、その次の日である17日にアナタはあの世に旅立たれました。

不思議な運命を感じます。
きっと我が息子はアナタからの声を感じていたのではないでしょうか。

アナタの遺した名曲「First Small Song」、涙無しでは聴けませんでした。
息子にもずっと聴かせます。
そしてオレも名曲を創って息子に捧げますよ!

「First Small Song」と「Voiceless Screaming」はTAIJI 20周年のイヴェントでTAIJI&RYUTAROアレンジで演奏することができたことも大変光栄な想い出であります。



TAIJIサン。
もっともっと話したかったですよ。
もっともっと奏でたかったですよ。

でも、アナタは不器用だったけど最後までロックンロールなオトコでした。
オレはアナタに憧れていたけど絶対にアナタを越えられない。
だけど、アナタはオレに進むべき道を示してくれた。
心から感謝を捧げます。

あと50年ちょいしてオレがそっちに行っても覚えていてくださいよ。
一緒にたくさんギター弾いて遊んでくださいね!!



あー。
締め括るのがとても辛いです。
お別れなんてウソでしょう??

ま、だけどオレはまた泰司サンの気が向いたときに「リュウタロウ!オマエのギターは最高だよ!一緒にやろーぜ!!」って電話がかかってくる日を楽しみにしてギター道を弛むことなく歩み続けるだけですよ。
ブルーズをジャムって「お~。また腕を上げたなぁ!」って言わせますよ!!(笑)



さようなら。
今まで本当にありがとうございました。

心から追悼の意を表します。


親愛なる沢田 泰司様へ。



TAIJI with HEAVEN'S
GUITAR
RYUTAROより

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2 コメント

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RYUTAROさんへ (koji)
2011-07-31 15:01:42
泰司さんへの気持を伝えてくれてありがとう。

涙があふれそうです。

去年ヘブンスのライブには3回いきました。あなたがたは、最高でしたよ。本当に心からそう思います。

本文にもありましたが、ミニアルバムの続きを聴きたかった。ライブでkillerやthe virgin、freezeなど、聴いて、完成された音源をずっと心待ちしてたので、残念です。泰司さんのこの世に残した音源が残っているならば、聴きたいですね。。。すべて。

今後も人の気持ちに突き刺さるような、ギターをいっぱい弾いてくださいね。応援しています。

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正直な想い (TAIJIのファン)
2011-07-31 23:38:06
ryutaroさん、TAIJIさんへの思い出を語ってくれてありがとうございます。

X LOUDNESSと活躍された、日本一のベーシストは今何をしているのだろう?
こんな疑問からTAIJIさんを追っかけ始めました。

DTRは96年に活動中止しTAIJIさんはHIDEさんの葬式に出られたことくらいしか情報がありませんでした。

ロッキンFで表紙を飾り復活へ歩み始められるTAIJIさんを心から応援していました。


でも、、TAIJIさんは集まってはひとりになる、を繰り返しましたね。何もかも長く続けることができなかったですね。

正直DTR再始動もすぐに終わるんではないか?
一年間続いたらLIVEを見に行こうなんておもっていましたが、、やっぱり続かなかった。

時々聞えてくるファンに対する暴言も、???なぜこんな言い方するの??なんて戸惑いました。


TAIJIさんのもとを離れていくひとは、みんな理由を教えてくれませんでした。
日本一のベーシストの元を去る、、、それ自体が、、、なんと言ったらいいか、、非難されてしまうことだったのではないでしょうか?


RYUTAROさんが語ってくれたことは、TAIJIさんをみてきた者として、やっぱり、そうだったんだ。意外だと思うことではありませんでした。


いま、あなたのギターをバックに文を打っていますが、、、

TAIJIさんに死なれて悔しい、、
強く、強く、、
そして、わたしたちと一緒に生きてほしかった。

いつ、気持ちの整理がつくんだろう。


でも、あなたは僕が一番憧れるロックスターです。


そして最後にありがとうございました。
おつかれさまでした。


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