
100日のお祝いからそんなに間も空いていない日曜日。
3月の中旬。
妻に病院から電話がかかる。
スピーカーにして2人が聴こえる様にしてくれて聴く。
ドクター「えー。先程2時間くらい前ですかね?呼吸が浅くなって脈が弱くなったりして心肺蘇生を行わせてもらって今は戻ってきて普通に過ごされてるんですけど、恐らく呼吸器を常に付けているから痰が詰まって起こったと思うんです。定期的にまたそして何かむせたりしたらすぐに、吸引をするようにはしているんですけど、より一層注意させて頂きます。今は普通に元通りになられてるので、安心してください。」との内容の電話だった。
普通ならとてつもなく肝を冷やすでしょう。
我が家は特別なんです。
夫婦して「ありゃー。びっくりしたー。でもそういうリスクは常にあるもんねぇ。」という感じ。
死にかけても生きていてくれたらいい。
もう医療に頼るしかないので。
電話が確か日曜日の買い物帰りにかかってきており、面会を翌日に控えていたから、「次の日頑張ったねーって褒めてあげんといけん」って話もしていた。
ドクターの電話の説明やトーンからして謎の安心感もあったからより一層不安があまり無かったのかもしれない。
でも改めて思わされる。
本当にリスクがついて回る事を。
そして、命が。生死が。常に隣り合わせなのだと。
より一層強く感じた。
誰だってそうなのだ。
眠って次の日目が覚める保証もないし、毎日事故に合わないなんて確証もない。
それでも、当たり前に目が覚めて、ご飯食べて、息をしてる。
この当たり前過ぎる生活を「生きている」と感じる人ももしかしたら少ないのかもしれない。
たくさんの当たり前はたくさんの奇跡で、私たちは「生かされている」のだなと感じる。
我が子を見ると本当に思う。
命は重く、尊く、儚く、そして強く、太い。
命ってなんなんですかね?
心臓が動いてるから命?
喋るから命?
きっとその人の存在を認知してそしてなんらかの思いを抱いて初めて「命」として成り立つのではないだろうか。
誰からも見られず知られずに消えた命があるとしよう。
今ここの一文だけを見ると「そんな事ないよ」とか「そんなの可哀想すぎるだろ」って思うけど、これは生き物として我々が勝手に認知や想像をしてるからそう感じると思う。
誰からも見られず知られずだとそれは認知できていない。
それこそ、道端にある小石のごとく誰も気にも止めないだろう。
生き物は不思議である。
色んなことを考えるようになったから、この育休期間で、私のIQはきっと跳ね上がっている事だろう。
そんなことは無い。
紡いでくれてる日常に感謝して、翌日も面会に行く。
いつまで…。と思うこともあったが、前向いていくしかない。
人間は向き不向きよりも前向きが絶対に良いから。
前向いてるといい事が起こると信じてるから、我が子の生命力に賭けるし信じる。
そう心に言い聞かせる。
本当に我が子に、幸あれ。
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