ふと意識を取り戻すと2日目の早朝になっていた。この日の出発は決して早い時間ではなかったが、眠気を残したまま寒地を出歩くのは怖い。朝風呂に浸かり、多めの朝食をとってから宿を出た。
五所川原の駅に戻ってきた。
こちらは津軽鉄道の津軽五所川原駅と、左側が津軽鉄道の社屋。ゆうべは暗い上に低温で何を見る余裕もなかったが、こうして建物を見ると、なかなかハイカラなものである。
津軽鉄道の改札を抜けてホームに出た。
JRの五所川原駅と津軽鉄道の津軽五所川原駅は駅舎と改札こそ個別になっているが、ホーム自体はつながっている。実際のところ、津軽鉄道の改札からはいったんJRのホームに出て、そこから跨線橋で移動することになる。
こちらはJR側のホームに展示された五所川原立佞武多像の一部。大きさが違う。これが全体になると、さぞ迫力があるのだろう。
さて、その津軽鉄道に乗って、いよいよ太宰を訪れる旅に出るのだが、その前に全線を乗り切ってしまうことにした。だいたい、先に金木を訪れたとして、この時間だからどこもまだ開いていないのだ。
津軽鉄道の名物、ストーブ列車を率いる機関車が奥で出番を待っている。
使用してきたレールが展示されている。が、この雪では何とも言いようがない。
かつて主力だった国鉄型の車両。現在はすでに廃車になっているが、いまも津軽五所川原に留め置かれている。
ホームの反対側では、廃車となった貨車にさまざまな掲示が出ている。
「津軽」の中でも知られている(と私は思っている)、芦野公園駅のエピソード。当時の上野の駅員もとんだ苦労だったが、自分で蒔いた種である以上仕方あるまい。
この一件を読んで以来、芦野公園駅の存在は気になっていた。もっとも、この旅では下車するつもりはなかったのだが、こうして掲示を見て、ふたたび関心が湧き上がってくるのを感じた。
とはいえ、まずは津軽中里までの縦断が先である。「走れメロス号」という、いかにもといえばいかにもな名前の気動車に乗り込むと、一路北へと向かった。
列車は五所川原を出た辺りこそ高校生で埋まっていたが、彼らが早々に降りると、あとは同好の士と思しき乗客ばかり。
それを察してか、アテンダントが車内を回り、観光地図をそれぞれに渡していく。私のところにも来たので、津軽中里と金木を回ると言うと、それぞれの地図をくれた。なお、会話は標準語である。
函館でも見かけた「鉄道むすめ」シリーズ。青森にも増えたものである……のだが、彼女らが乗務するはずの路線のうち、2つは廃線になっている。それどころか、うち1つは、登場時には既に廃止になった後だったのではなかろうか。
列車が金木に着いた。ここで上下列車が行き違うため、数分間停車する。
金木駅にもかつての貨車が留置されている。特に何に使っているということもなさそうだが。
やがて津軽五所川原行の列車が入線し、再び北を目指す。
金木から20分ほどで、終点の津軽中里に着いた。
北海道から私鉄(民鉄)が消滅した今、津軽鉄道は日本で最北の路線である。北にまっすぐ伸びるその路線の終端がここ、つまりは最北端である。
改札をくぐり抜けて駅舎へ。記念のスタンプを押そうとすると、どこで見ていたのか、アテンダントが台紙をくれた。
津軽中里の駅に掲げられていた、吉田松陰の探訪を記念するイラスト。こちらは義経とは違い、本当に訪れている。
ここから折り返しの列車が出るまでは時間がある。幸い昨夜ほどは寒くないので、外を歩いてみることにする。
駅の北側に来てみた。念のため断っておくと、レールはある。
津軽中里ではストーブ列車の機関車を付け替える必要があり、そのための線路が引かれている。奥に見えるのが車止め、ここが正真正銘の最北端となる。
駅舎はスーパーに併設されている、といいたいところだが、そのスーパーのあるべきところに、それらしい設備はない。
駅内に戻る。扉の向こうが、スーパーがあるはず、いやあったはずの場所だ。
しばらくすると、地元の人たちが中に入って店開きを始めた。現在は地場産品の市場になっているようだ。十和田市駅の惨状を見ているだけに、何とか地元で活用しようとする試みがあることに安堵を覚える。
ふと、こんなチラシを見つけた。津軽といえば三味線だが、スコップ……よく思いついた人がいるものだ。
そういえば、スーパーの扉には、津軽の伝統人形芝居のポスターも貼ってあった。
何がどう共通するのかと思われるかも知れないが、金太と豆蔵の掛け合いは笑劇、あるいは漫才なのだ。スコップを三味線に仕立てた感覚も含め、そこには「諧謔」という要素が存在している。
さらに言えば、この「諧謔」は一時期のIKZO、もとい吉幾三の歌もつながってくる。自らを曝け出し、自らを曝け出す自己を演出することでユーモアを生み出す姿は、これから訪れる太宰の特質そのものでもある。
そして、これらのすべてに「津軽」が通底しているのだ。
五所川原の駅に戻ってきた。
こちらは津軽鉄道の津軽五所川原駅と、左側が津軽鉄道の社屋。ゆうべは暗い上に低温で何を見る余裕もなかったが、こうして建物を見ると、なかなかハイカラなものである。
津軽鉄道の改札を抜けてホームに出た。
JRの五所川原駅と津軽鉄道の津軽五所川原駅は駅舎と改札こそ個別になっているが、ホーム自体はつながっている。実際のところ、津軽鉄道の改札からはいったんJRのホームに出て、そこから跨線橋で移動することになる。
こちらはJR側のホームに展示された五所川原立佞武多像の一部。大きさが違う。これが全体になると、さぞ迫力があるのだろう。
さて、その津軽鉄道に乗って、いよいよ太宰を訪れる旅に出るのだが、その前に全線を乗り切ってしまうことにした。だいたい、先に金木を訪れたとして、この時間だからどこもまだ開いていないのだ。
津軽鉄道の名物、ストーブ列車を率いる機関車が奥で出番を待っている。
使用してきたレールが展示されている。が、この雪では何とも言いようがない。
かつて主力だった国鉄型の車両。現在はすでに廃車になっているが、いまも津軽五所川原に留め置かれている。
ホームの反対側では、廃車となった貨車にさまざまな掲示が出ている。
「津軽」の中でも知られている(と私は思っている)、芦野公園駅のエピソード。当時の上野の駅員もとんだ苦労だったが、自分で蒔いた種である以上仕方あるまい。
この一件を読んで以来、芦野公園駅の存在は気になっていた。もっとも、この旅では下車するつもりはなかったのだが、こうして掲示を見て、ふたたび関心が湧き上がってくるのを感じた。
とはいえ、まずは津軽中里までの縦断が先である。「走れメロス号」という、いかにもといえばいかにもな名前の気動車に乗り込むと、一路北へと向かった。
列車は五所川原を出た辺りこそ高校生で埋まっていたが、彼らが早々に降りると、あとは同好の士と思しき乗客ばかり。
それを察してか、アテンダントが車内を回り、観光地図をそれぞれに渡していく。私のところにも来たので、津軽中里と金木を回ると言うと、それぞれの地図をくれた。なお、会話は標準語である。
函館でも見かけた「鉄道むすめ」シリーズ。青森にも増えたものである……のだが、彼女らが乗務するはずの路線のうち、2つは廃線になっている。それどころか、うち1つは、登場時には既に廃止になった後だったのではなかろうか。
列車が金木に着いた。ここで上下列車が行き違うため、数分間停車する。
金木駅にもかつての貨車が留置されている。特に何に使っているということもなさそうだが。
やがて津軽五所川原行の列車が入線し、再び北を目指す。
金木から20分ほどで、終点の津軽中里に着いた。
北海道から私鉄(民鉄)が消滅した今、津軽鉄道は日本で最北の路線である。北にまっすぐ伸びるその路線の終端がここ、つまりは最北端である。
改札をくぐり抜けて駅舎へ。記念のスタンプを押そうとすると、どこで見ていたのか、アテンダントが台紙をくれた。
津軽中里の駅に掲げられていた、吉田松陰の探訪を記念するイラスト。こちらは義経とは違い、本当に訪れている。
ここから折り返しの列車が出るまでは時間がある。幸い昨夜ほどは寒くないので、外を歩いてみることにする。
駅の北側に来てみた。念のため断っておくと、レールはある。
津軽中里ではストーブ列車の機関車を付け替える必要があり、そのための線路が引かれている。奥に見えるのが車止め、ここが正真正銘の最北端となる。
駅舎はスーパーに併設されている、といいたいところだが、そのスーパーのあるべきところに、それらしい設備はない。
駅内に戻る。扉の向こうが、スーパーがあるはず、いやあったはずの場所だ。
しばらくすると、地元の人たちが中に入って店開きを始めた。現在は地場産品の市場になっているようだ。十和田市駅の惨状を見ているだけに、何とか地元で活用しようとする試みがあることに安堵を覚える。
ふと、こんなチラシを見つけた。津軽といえば三味線だが、スコップ……よく思いついた人がいるものだ。
そういえば、スーパーの扉には、津軽の伝統人形芝居のポスターも貼ってあった。
何がどう共通するのかと思われるかも知れないが、金太と豆蔵の掛け合いは笑劇、あるいは漫才なのだ。スコップを三味線に仕立てた感覚も含め、そこには「諧謔」という要素が存在している。
さらに言えば、この「諧謔」は一時期のIKZO、もとい吉幾三の歌もつながってくる。自らを曝け出し、自らを曝け出す自己を演出することでユーモアを生み出す姿は、これから訪れる太宰の特質そのものでもある。
そして、これらのすべてに「津軽」が通底しているのだ。