総大将戦記

平成の織田信長こと鰻特殊部隊総大将のただの日記
鰻特殊部隊(USARMY)では家臣登用中

歴史ミステリー4

2007-06-30 09:25:21 | 戦国・歴史

 

昨夜見ました。

興味のあった内容について一言

所詮すこし戦国をかじった程度の知識の某の言う事なんで

戯言程度にお考え下さい。

 

 

①桶狭間の奇襲について

今川勢25000に対し織田勢3000

梁田政綱の進言により田楽狭間で休止している今川勢に

秀吉・小六正勝の計略によって本陣に酒を振舞い

雨を利用して奇襲を掛けた。

 

まあこんな話がよく聞く史実ですが

現在は桶狭間山・桶狭間・田楽狭間と今川勢が本陣を置いた

通説は沢山あります。

上洛ではなく領地の安定を理由に三河に進軍していたという説もあります。

 

テレビの話では今川勢の乱取時を利用した

正面突破といってましたがそれはまさに奇襲じゃあないんでしょうかね?

 

いずれにせよ昨夜の番組

秀吉が最終的に手を加えた真実味の無い・信長公記

江戸に補正されている・甲陽軍艦

等を資料にしていたので疑問は残る。

 

ただ単に鷲津砦等の枝城を攻め手薄になっていた本陣に

奇襲をかけたくらいが関の山じゃあないんでしょうか?

 

 

 

②秀吉の子について

 

南殿・・すなわち秀吉の侍女が秀勝を生んだのはしっていました。

事実秀吉の長男は秀勝であり秀勝が亡くなった後

信長にもらった養子にも秀勝と言う名をつけたと言うくらいですから

長男への寵愛ぶりが伺えます。

 

市が浅井長政に嫁いだのは22歳といっていたが16歳のはずだし

淀が信長と市の子だったとか言っていたがそれこそ

年齢がおかしい。

 

まあ22歳や16歳とあいまいな資料の基の推測なんでロマンがあります。

ここは対して興味のないところですが

 

 

100万の軍勢を指揮させてみたい

と秀吉に言わしめた大谷吉継

 

かれは東殿と秀吉の子供だった?

 

あほらしい。

大谷はらい病であり足も手も不自由で

関ヶ原では板ごしにのって刑部三人衆によって守られていた。

自分でも歩けない大谷がヒョコヒョコ歩くかっつ~の。

 

新事実とか言いきっているのがさすがテレビ。

子孫が見ていたら腹立たないんだろうか?

 

 


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4 コメント

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ん~・・・。 (nobo)
2007-06-30 16:47:19
興味深いですね。。。
桶狭間直前の尾張統一の話も背景として
話されていたのならとても見たかった番組です。
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そこまでの (総大将)
2007-06-30 19:41:41
お話は無かったです。いろんな通説があるので歴史は楽しいですね。永遠のテーマだと思います。
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歴史好き (パカ山)
2007-06-30 23:17:48
そんな番組があったんですか。見たかったです。
昔(昭和58年?)のNHK「歴史への招待」では「信長公記」と「桶狭間図」(徳川時代初期に桶狭間付近の合戦目撃者に聞き込み調査を行った記録図)を根本史料として桶狭間を再現してましたけど、湿田地帯に相手を誘いこんでの正面突破が結論でした。おいらのイメージもそれです。
戦国時代って史料が少ないのが逆にロマンだったりしますね。
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今は (総大将)
2007-07-01 21:08:50
桶狭間山に布陣していた今川勢5000に正面突破が有効な説みたいです。信長は相手が引けば撃て・・相手が打って出たら引け・・と命令していたようなのでドラマや映画のように勝利を確信した戦ではなかったのだと思います。
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