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ルティのブログ

ルティはイスラエル生まれのフランス人。みずからのルーツを見つめながら日本で暮らしている

野宿者たちの竪川闘争

2013-01-29 21:56:58 | 日記
2013年1月13日(日曜日)

野宿者たちの竪川闘争

私は去年の12月、2回に渡って
亀戸駅北口徒歩5分のところにある竪川河川敷
公園に出かけた。
去年の12月5日朝、江東区の職員・ガードマン
・業者約200名が動員された。
彼らはこの公園に高さ2メートル
を超える銅板を設置し、屋根のない人たち
の小屋やテントを囲い込んで、暴力的
にこれまでに利用できた公園の一部も封鎖して
しまった。小屋に行くには、30センチ程の幅しかない
とても狭い通路を通らなければならない。
しかも泥道のため足元も悪い。

その通路の右側はフェンスになっている。
段差も多く、
急な階段もあり、みんなが集まっているテントに
辿り着くまでに、私は何回も滑ってしまった。
電気もない道なので、とても危険。
水道も切られたため、顔を洗うことも、
お茶碗を洗うことも、歯を磨くことも、洗濯
もできない。トイレはフェンスの外にあるために、
もう一度入り口に戻るには、今の道を通るしかない。
とにかく危険だ。

幸いに支援者が集まっているテントだけ、電気が
ついて石油ストーブが2つあったが、それでも
テントの中は寒かった。

料理を作るには外から水を運ぶので、
毎日の暮らしはとても大変だ。
これは人権問題そのもの

なのに、区役所はいまの状態でも人権上
問題ないと言い張っている。公園に住む人の
人権を一切無視しているのに。
そこで、私たち支援者は12月22日(土)、竪川
でデモを行った。デモの人数より
機動隊(?)の方が多かったが、私たちは
太鼓を叩いたり、シュプレヒコールで「野宿者
連帯! 権力粉枠! みんなで野宿」
「どこでも野宿!」「だれでも野宿!」などのスローガン
を叫んだ。
またデモに出る前に、警備担当の警察官に
警察証明書を見せるようにと何回も要求したが、
見せてくれない。
彼らの方が法律違反なのではないか。
腹が立つばっかりだった。
1月12日の土曜日、一人の支援者が京都に戻るために、
仲間のYさんが送別会の知らせを教えてくれた。
私も参加して皆さんと再会ができた。Yさんは何人か
と一緒に泊まっているテントの前に、自分の黒旗を
翻らせている。



愛しのドリイ

2013-01-21 02:12:01 | 日記
愛しのドリイ
2013年1月20日(日曜日-- 8)

ねえ大杉、あなたは
リオンに発つ3月(1923年)なかば
まで、このバル・タバレン*
という踊り場のすぐそばにあるホテル
に滞在していたのよね。
そこであなたが追っかけま
わしていた女の中に、あなたが
最も惚れ込んだドリイという踊り子がいた。
彼女とあなたとの付き合いは、
あまり細かいことは書いていないのでよくわからない。
ただ、ドリイのことを気に入ってこう書いている。
「・・・そこの女の中のえりぬきなのだ」
でもあなたにとってパリは危険過ぎる所だったから、
彼女との別れを惜しみつつ
リオンへ逃げた。

パリやリオンでのあなたの女性との
出会いや付き合い方――フランス語では
アヴァンチュールアムルーズ
(aventures amoureuses)――にはいろんなことが
あったらしいけれど、
あなたは「ドリイ」の名前しか
挙げていないので、物足りなく、不満を感じる。

ベルリンでの国際無政府主義大会に参加するため、
あなたにはドイツのヴィザが必要だったけれど、
その前に出国許可をもらわないといけない。
そのため、あなたは
警察へ行くが、彼らは「あしたやる」という調子で
中々くれようとしない。
そのまま一か月が過ぎて、
「むしゃくしゃもする。メーデーも近づく」
と不満を漏らしている。
あなたはパリが懐かしくなって、
危険であると知りながらそこへ再び出かけた。
そしてドリイに会いに行こうと思ったら、捕まってしまった。

あなたは歌を作った。
「独房の
実はベッドのソファの上に
葉巻のけむり
バル・タバレンの踊り子ドリイ」

*バル・タバレンというキャバレーは
1904年に設立。

パリ9区のモンマルトルの足元にあった。
1923年、この施設は人種差別という
理由で一時的に閉まった。
そして、皮肉なことに、このキャバレー
はナチスドイツがフランスを占領したとき
の1940年~1944年まで
ドイツの将官がよく通ったところだったらしい。
今このキャバレーはなく、建物とスーパーに
なっている。
 住所:36, rue Victor-Massé
    dans le 9e. arrondissement.


パリの異邦人

2013-01-14 21:49:59 | 日記
パリの異邦人
2013年1月14日(月曜日ー7)

ねえ、大杉、
パリのとあるレストランに入ったあなたは、
こんなことを書いている。
「日本ではとても見られないような、毛唐と
野蛮人とのあいの子のようなけったいな女が・・・」
また喫茶店に入って、キャフェ
(コーヒー)が気にいったものだから
何杯も飲んでいたところ、
女の子たちに笑われて、
こう述べたりもしている。
「・・・色の浅黒い妙な
野蛮人がいるなと思って・・・」。
当時の日本国内の外国人というと、
アジア人を除いては、
白人や黒人のような「よそ者」が
日常生活の中で見かけられることは
おそらくなかったでしょう。
その点は理解している。
とはいえ、
初めてヨーロッパに出かけたあなたが、
自分にとって「可愛くない」女性を
「野蛮」という言葉で形容する。
それはなんなのか。
相手はあなたと同じ人間ではないのか。
そういう表現が、
無礼だと思わないのか。
言葉を選んで欲しかった。
あなたはやはりマッチョな男だ。

確かに、あなたの母国である日本に
私がやってきた
1970年の頃でさえ、
日本社会の中で暮らしている
ヨーロッパやアメリカ人はまだまだ
珍しかった。その人数が増え
始めたのは1980年頃からだ。
その当時をふり返って、
ある出来事を思い出した。
それはある日本人の
若者の話しで、
彼女は英語を習いたいと思って、
電話でしか話したことのない
先生の所に出かけた。
すると、その先生が黒人だったものだから、
その若者はびっくりして、すぐ帰ったという。
もちろん、このような事が起きるそもそも
の原因は、国家が外国人に対してとる
政策にある。この国は、外国人が増えた
としても、ヨーロッパのように
家族ぐるみで移住することを歓迎せず、
未だに閉鎖的な態度を撮り続けている。
それに、外国の人と結婚した日本人が
たくさんいるというだけで、
皆が日本に合わせた生活をし、
日本語が上手な外国人も多い。
それは当然だとしても、
私が言いたいのは、ヨーロッパの
ようにバラエティに富んだ言葉は
耳に入らないし、そういう人たちは
どう暮らして、何を食べて、
どんな習慣を持っているのか、
ということだ。
こうしたことに、人々はあまり
関心をもたない。
マルチ・カルチャーは
この国ではほとんど見つからない。
家族全体の文化は外国人のもの
ではないから。
だから影響が少なく、
飛行機の時代なのに、
いつまで経っても、日本は「島国」
と言われ続けている。
問題から逃げてばかりで、
いつになってもこの国からは、
「外人(ガイジン)」に対する
偏見が消えることはない。


大杉、一人の男としてのあなたへ

2013-01-13 14:17:00 | 日記
大杉、一人の男としてのあなたへ、
2013年1月13日(日曜日ー6)

1968年「パリの5月革命」というのは
私の青春だ。私たち女性は「私たちのお腹
は子供をつくる工場ではない」という
スローガンを叫んだのよ。
まだ古臭い社会だった当時、それに対して
私たち女は、特に男との「セックス」
つまり性的関係を、もはや生殖の方法として
だけ知覚することがなくなっていた。私たち
はセックスの喜びや楽しみ方に目覚めた
時代だった。
ねえ、大杉、あなたはパリにいる時に、
新聞が発表した人口統計に関する出産率の問題
を取り上げて、こう述べている。
「1920年~1922年までの3年の間のフランス
の結婚や出産率は年々減っている。」
面白いと思ったのは、新聞にいろいろな話題が
書かれているなかで、あなたは結婚や女性
の出産率に興味を持ったということ。
日本脱出記に、新聞の統計をわざわざ書き出している。
・・・「避妊は貧乏人にはちょっとむずかしい。
カプシュルは、一つ50フランするのだが、
それも長くは使えない・・・」「労働者には
かなり子供ができる。・・・5人、6人、または
7人、8人と子供をつくったのが、その多くは、
赤ん坊の間か、あるいはほんのまだ子供の
間に死ぬ」「堕胎はフランスでは重罪だ」

実はフランスでは、1975年1月17日から、
中絶が法律上罰則を課されなくなった。
それまで中絶したい女性は、お金を持った者、
または連帯組織を知っている者であれば、
手術のためにイギリスやスイスに渡っていた。
余裕のない労働者はあなたが書いたように、
ぞろぞろ子供を生んで、早く死ぬ赤ん坊
も多かった。

68年世代の私の年齢の若者は、大学生のとき、
編み物の針を使ってお互いに中絶をし合い、
そのために死んでしまった若者もいた。
私が大人になってから姉が私に話したこ
とを思い出した。私がまだ14歳だった年
(1963年)のある日、姉の家に預けられた
ことがある。
母は家に医者を呼んで、テーブルの上で
麻酔なしで子供を堕ろしたのだ。
当時のフランスでは、医者は中絶したことが
分かると医師免許を取り上げられるほどの
厳しい法律があった。患者が死んだら、
当然その事実が分かってしまう。そのため
麻酔はしなかった。これは女性にとって、
本当に残酷な時代だったよね。

あなたは、パリで子供の出産率の低さを伝える
調査記事を読んだ。

そしてあなたは、
それを大体次のように説明している。
フランス人の労働者や「売春」をしていた女性は
避妊する金も中絶(人口流産)
する金もなく、たくさんの
子供を生んでいた。
けれど彼女らは貧しかったため、
多くの子は早く死んでいくものだから、
結果的にフランスの子供は少なかったのだ、と。

またあなたは、パリの便所で自分の猿股
を捨てるのに困ってこう述べた。

「・・・フランスの便所は
赤んぼうの頭が流れ込むだけの大きさ
にちゃんとできているんだからね・・・
大きな穴や管の便所が必要になってくれる」

貧困や貧しさがもたらした残酷な「解決方法」
だったのでしょう。
かつての日本だってそうだった。
ろくにご飯を食べられない
人々は、生んだばっかりの自分の子の首を絞め
殺していたという。
『楢山節考』という日本の古い映画
には、高齢になった母を、息子が山に
捨てに行く話が描かれている。
貧しさが生む「アイデア」。
私は、民衆のそうせざるを得ない「始末」には
理解はしながらも、とてもショックだった。
けどね、大杉、あなたは避妊や中絶の知識を持っていて、
それでも伊藤野枝にほとんど毎年子供を作らせていたよね。
いったいどんな気持ちでそうしていたの?

あなたは日本脱出記の中で伊藤野枝との行為に
ほとんど触れていないから、どうしてそんなに
子供が欲しかったのかはよく分からないけれど、
そのことには驚くばかり。
あなたの経歴から、出産に関することだけ下に並べてみた。

ねえ、大杉、あなたの経歴を見て
驚いたのよ!
伊藤野枝とセックスしたつどに
彼女のお腹を「膨らませた」
のはどうして?
1916年、あなたは伊藤野枝と結ばれた。
さっそく1917年、長女の魔子が生まれる。
その2年後の1919年に二女幸子が生まれ、
さらに2年後の1921年2月に三女エマが生まれ、
そのさらに1年後の1922年6月に
四女ルイーズが生まれ、最後に、その1年後の
1923年8月に長男のネストルが生まれる。

ネストルが生まれて間もないある日、あなたと
伊藤野枝の命は突然に権力によって奪われた。
もしそういうことがなければどうなっていたか?
仮に40歳まで子供を作れるとしてみましょう。
あなたが伊藤野枝を妊娠させていた
スピードがそのまま続いていれば、
あなたの子供は6人に
増えていた可能性も考えられるでしょう?
あなたがフランスの新聞記事を見ていたのは
日本脱出記を読めばわかる。避妊のことを知っていた
はずのあなた、そして、労働者でないあなたが
あなたの分身であるたくさんの子供を望むのを見て、
「愛国主義者」かも?とも思うけど、
でもあなたはそれでもない。
もしかしてあなたは一人のマッチョな男
以外のなにものでもなかったのではないか。
そういう面のあなたを発見して、
私は意外だった。
そして、あなたにかなり失望してしまった。


野蛮なフランス人

2013-01-05 17:28:33 | 日記
野蛮なフランス人
2013年1月4日(金曜日-5)

ねえ、大杉、あなたは私たち
フランス人を野蛮人だと言っているね。
1か月か2か月に一度しかお風呂
に入らないと言っているようね。
でも私が子供の頃、お風呂なんか
ほとんどの家にはなかったのよ。
小さいときに母は台所の流しで
私たちを洗っていたのよ。
ちょっと大きくなってから、
私は三つ子の姉と週1回、銭湯に出かけたの。
お風呂といっても、シャワーだけ。
私と姉とはダブルシャワーのルーム、つまり
シャワーが二つついた部屋をいつも選んだ。
普通は夫婦が好むダブルシャワー。
それに30分だけ。25分になると
受付のマダムはドアの所を叩いて、
後5分ですよ、って感じだったのよ。
1か月か2か月はあなたの時代
のフランスだったかも知れない。
でもね、フランスは空気が乾いてるので、
そんなに入らなくても大丈夫なのよ。
でも今はほとんどの家にはすくなくとも
シャワーはあるの。だからおそらく毎日
シャワーを浴びるのよ。
習慣としては朝。私は今も朝にシャワー
をしている。日本の夏では、3回も4回も
シャワーを浴びるけど。
それに、私の知っている日本人の友達は、
お風呂なんか年2回しか入らないそうだよ!!
シャワーなんかしたことがない。
入らないのは友だちの間でも
有名な話だったらしい。
しかしほかの友だちにも聞いたことがあって、
ある一人の男性は、僕は1か月に1回しか
お風呂に入らないと言っていたので、この
日本にも「野蛮人」はいるみたいね!!(笑)。
話がまた戻るけど、私の子供のころ、
トイレだって廊下の奥にあって、共同だったのよ!
ある日、みんなで食事したら、突然姉が気絶したの。
ねずみが部屋を通ったのが見えたから。
私の子供の頃のパリは1923年のあなたが見て来た
「汚い」パリとそんなに違っていなかった。
子供の頃、ごみや紙は平気で通りに捨てていたの。
今思えば経済的には貧しい時代だけど、
テレビもなく、電気製品もまだないから
もうちょっと人間らしい付き合いがあった
気がする。
私たちは、地域の図書館とか公園でよく
走り回った記憶ある。男たちはビー玉をしたり、
女の子は縄跳びをしたり、マレール遊び
ーーチョークで床に大きな四角や長方形の
線を引いて、片足でその中で跳んだり
するーーをしたりして遊んだ。
通りでは、男たちが喧嘩しているのを見かけた。
子供なので親と違って貧しさなんか分からない。
親は私たちを暖かく包んでいて、子供にとって
いい時代だった気がする。